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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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38.シーラの思い出


 王子とキリム、イルハとシーラが並んで座り、それぞれにテーブル越しに向かい合った。

 運ばれたパンケーキの皿の前で、シーラはまず手を合わせた。キリムが珍しそうにそれを見ている。すでにキリムは顔面の布を解いていた。

 王子をこっそり警備している兵士たちも、店の外にしかいないからだ。


「美味しいよ、イルハ!これは凄く美味しいね」


 ナイフとフォークで美しくパンケーキを切り分けて、一口頬張ったシーラは、それは喜んだ。


「麦粉ってこんなにふわふわに焼けるんだ」


「他の国にはありませんか?」


 シーラは首を傾げる。


「どうかな?行ったことがある国だって、食べていない料理も沢山あるからね」 


 同じ国にいても、その国のすべての料理を食べられるわけではない。そういう当たり前のことに気付かせてくれるのも、この国にない存在なのか。イルハは面白いことにまた気付いた気がしている。


「綺麗に食べるのねぇ、シーラ」


 キリムが言うと、シーラはまた首を傾げた。


「そう?」


「どこかの国の方に、美しい食べ方を教えて貰ったのかしら?」


「うーん。育ててくれた人かな?」


「どんな方でした?」


 キリムの質問が止まらなかったのは、隣で王子が「もっと聞け」とシーラに聞こえぬように囁いたからだ。

 本来は初対面でこのように私的なことを聞き出すような女性ではない。


「厳しい人だったね。毎日叱られてばかりだった」


 まさか幼少時に虐待でも受けていたのでは?と一同は少々不安になった。

 それで一人、海に逃げ出したのでは?と思う者はこの場にはいなかったが、何かのきっかけになっているところはあったかもしれない。


「もしかして、酷い目に合ったのかしら?」


「それはないね」


 何か思い出したようで、シーラは突然笑った。そこに寂しさが含まれていることに、三人は気付いてしまう。


「どうしました?」


「そういえば昔、井戸に落ちたことがあったなぁって思い出して」


 普段シーラは、過去について語らない。

 だからどうしてこのようなことを言ったのか、イルハはもっとよく考えなければならなかったのだが。

 イルハはそれどころではなくなった。井戸に落ちるなど、どうしてこの娘は危険なことばかり経験してきたのか。


 青ざめるイルハの代わりに、王子が問い掛ける。


「どうしたら井戸に落ちる?」


「井戸の中がどんな風になっているか気になって、覗いていたんだよ」


「それで落ちるか?」


「まだ小さくてね。しばらくしてから、引き上げて貰ったんだけど。いつも怖いその人が、わんわんと泣いて謝るから。私も幼いなりに、困ってしまったんだ」


「お前のために泣いたんだな?」


「それは違う気がするね」


 違うとは何だろうか。

 イルハもすでに冷静になっていて、これを問う。


「誰のために泣いたと思ったんです?」


「理由は本人にしか分からないことだよ」


「あなたが感じたことを知りたいんですよ」


「当時は私のためかと思ったね」


「今は違うのですね?」


「今は自分のために泣いたんだろうなと思っているね」


「その人のためですか?」


「人が泣くのはそういうものでしょう?」


 今日のシーラがいつもと違うのは何故か。イルハは理由を探ろうとしたが、容易に思い至らない。


「その方は?」


 聞いたのは、キリムである。


「もういないね」


 シーラは特別な感情も入れずに、そう言った。ただの事実として言っている。

 それでもキリムは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「ごめんなさいね。悲しいことを思い出させてしまったかしら?」


「そんなことはないよ。おかげで面白いことを思い出せたんだ。むしろ聞いてくれて良かったよ。ありがとう、キリム」


 気遣いで言っているのか、本心で言っているのか、読みにくいとイルハは思う。


 難しい顔をしていた王子は、眉間に皺を寄せたまま、シーラに問うた。


「なぁ、井戸ってことは。お前、どこかの国で育ったんだな?」


 シーラは落ち着いていた。瞳も揺れない。


「井戸なんてどの国にもあるよ」


 立ち寄った港で、井戸を覗き込み、落ちてしまったと言いたいのだろうか。

 シーラはそれ以上説明しない。


 シーラの足りないものを補うように、イルハが言葉を足した。


「海にあれば、井戸は珍しいものですよね。覗きたくなるのも分かります」


「それもそうだな」


 王子もこれ以上探ることを諦めて、同意した。

 王子とイルハが自然と目を合わせているが、シーラはそれを気にもせずに、一口ずつ切り分けたパンケーキを頬張っていく。

 それもとても幸せそうに。


「シーラはいつも夫の手伝いをなさっているのでしょう?」


 店の中で、キリムが殿下と呼ぶことはなかった。

 イルハも気を遣い、王子とキリムの名を呼ぶようなことはしない。


「書類の整理をしているよ」


「良かったら私の部屋にも遊びに来てくれないかしら?」


「キリムの部屋って?」


「私もお手伝いを頼みたいわ。もちろん代金も支払うわよ」


「キリムも仕事をくれるの!」


 シーラは嬉しそうにしているし、提案した相手がキリムであれば、イルハはこれを止められない。

 王家の妃が揃う後宮などに連れ込まれると、イルハには何の手も出せなくなるから、辞めて欲しいと望んでいたが、言えるわけもない。


「いいですよね?」


 キリムは王子に向かい、とても綺麗な顔で微笑んだ。

 その美しさに見惚れるのが、何故かシーラなのである。王子はすでに見飽きているかもしれない。イルハはまず、他の女性に興味がなかった。


「俺の手伝いに忙しくて、あまり暇はないぞ」


「少しでいいんですわ。イルハ殿、少しくらい構いませんわね?」


「お気に召すままに」


 イルハが意見出来ないと知っていて問うのだから。まったく困った夫婦であると、イルハは失礼なことをひっそりと思っていた。

 隣のシーラをよく観察しながら。


 シーラをどのように見ても、悲しみも、苦しさも、感じられない。ただパンケーキが美味しくて、それでシーラが満たされているということだけは分かる。

 すべてを隠して、一人で生きてきたのだろうか。

 イルハの胸がぎゅっと詰まった。


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