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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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30.変化のとき


 リタが出ていくと、静かな時が戻る。シーラはリタと共に部屋に戻らなかった。


「腕にも怪我をしたんですか?」


 毛布に包まるシーラが首を傾げた。


「腕を見せて頂いても?」


 袖をまくり、差し出された右腕を、イルハはじっと眺めた。


 傷跡はひとつではない。いつも服で隠れていて、多くの時に晒しを巻いているのだから、気が付けるわけもないのだが、今まで何も知らなかった自分をイルハはこれでもかと責めていた。


 そういえば今日も晒しがない。このように堂々と見せるのだから、晒しで傷痕を隠しているわけでもなさそうだ。


「どうしていつも晒しを?」


「怪我をしないようにだよ」


 確かに必要そうだと、イルハは思う。それでもその晒しを超えて、怪我をしているというわけか。


「今日のようなときは、船ではどうしているんです?」


「凪のときは、そのまま漂うよ。嵐のときは、頑張って抜けるかな」


「もしかして顎も?」


「ちょうど嵐のときで、高波が来てね。いつもだったら、上手く波に乗れるんだけど、そのときは少し失敗して、船を大きく揺らしちゃって」


 転んで前に倒れた状態で、体が横滑りしたという。嵐で濡れた甲板は良く滑ったのだろう。その時に床の釘が顎を引っ掻いたのだと、シーラは話した。


 一歩間違えれば、大惨事ではないか。もし釘がもっと出ていて喉を…。

 イルハの胸に、底の知れない不安が増幅していく。


「顎も見ていいですか?」


 シーラがこれでもかと顔を上げると、確かに顎には、太い傷跡が残っていた。


「痛かったでしょう」


「治ったら忘れちゃったよ」


 シーラはさらに「何もしなくても治ったからね」と力強く続けた。


「医者の言うことは聞いてください」


 シーラが落ち込んだように、俯いてしまう。

 イルハは優しい気持ちになって、問い掛けた。


「テンには説明しているのですか?」


「それは無理だね」


「運航を続けているんですか?」


「テンに怪我をさせないように、よく気を付けているよ」


「あなたが怪我をしているではありませんか」


「怪我なんてしていないよ?」


 腕の怪我は忘れたか。

 これ以上言っても仕方がないと思い、イルハは黙った。今は優しくしたい。


 シーラも同じように優しくされたいと願っていたのか。


「ちょっと寄り掛かってもいい?」


「また痛くなってきましたか?」


「うぅん。眠くなって来たの」


「部屋に戻りましょうか?」


「もう少しここに居たいな」


 これでイルハの心が飛び跳ねるようなことはなく、もうずっと温かいもので満ちていた。

 今までとはまた違う、穏やかな気持ちが、イルハの心と体を満たしている。


「眠ったら運んであげますよ」


「ありがとう」


 肩に顔を寄せられて、伝わる温もりが自分の体温で一層高まっていくように感じた。

 イルハは何度か相反する考えを巡らせた後、後ろから腕を伸ばしてシーラの体を支えた。それからその手で、彼女の頭を撫でる。


「気持ちいいね」


「そうですか」


「うん。落ち着く。ありがとう」


 どれくらい経っただろう。トントンと扉を叩く音がして、リタが部屋に入って来た。

 イルハは慌てることがなかった。というより、動けなかったし、動きたくなかったのである。


「少し遅かったわねぇ」


「どうしました?」


「お夜食に甘いものをと思ったんですよ。坊ちゃま、甘いものも心が落ち着きますから、こういうときにいいですよ」


 すぐに出て行くと思ったリタは、何故かイルハの前に腰を下ろした。


「少し食べます?しばらく動けないでしょう?」


 食べないからと言っても、出ては行かないのだ。

 イルハは知っているから、「頂きます」と言って、リタの用意したマドレーヌを味わった。昼間に焼いたものだろう。いつも通りの優しい味がする。


「すっかり坊ちゃまに懐いているわねぇ。なんだか悔しいわ」


「リタにも懐いているではありませんか」


「こういう話まで、坊ちゃまに先を越されるとは思いませんでしたわよ?」


「それは私も同意します」


 イルハとすれば、小さな娘の父親にでもなった気分だ。

 そのような立場は望んでいないのだけれど。


「一人で沢山怖いこともあったでしょうに。どれだけ大変だったのかしら?」


 リタが何を言いたいか、分かっている。それでも、それをイルハからは言わない。


「ねぇ、坊ちゃま。やっぱり私たちでシーラちゃんを引き取らせて頂けないかしら?出来れば、テンちゃんも一緒に」


 イルハはシーラに視線を落としてから言った。


「シーラ次第ですよ。テンにもよく話を聞いてください」


「頑張りますね」


 はじめて承諾の言葉を受けて、リタはとても穏やかに微笑んだ。

 それから、しばらくイルハの子供時代の懐かしい話をしていたのだけれど。


「坊ちゃま。大変ですわ」


 腕が熱く感じるのは、自分の気持ちの問題かと思っていたら、見ればシーラが顔を真っ赤に染めている。


「頭を打ったせいかもしれません。すぐに医者を」


 大慌てでシーラを客間のベッドに運び入れ、昼間診せた医者に来て貰ったのだが、医者の見立ては拍子抜けするようなものだった。


「傷も綺麗だし、頭の具合も悪そうではないし、ぐっすり気持ちよく眠っておるようですね。疲れが出たのではありませんかな?知恵熱のようなものですぞ」


 知恵熱と言われて、イルハもリタも納得した。長く騒いだ後に、話しにくいことを一生懸命説明して、限界だったのだろう。


「熱が引かなかったり、気分が優れなくなったりしたら、ご連絡を頂けますかな。すぐに伺いましょう」


 医者はさらに続けた。それは本音である。


「しかし、眠っていると静かですなぁ」


「昼間はご迷惑をお掛けしました。夜分にも呼び出して申し訳ない」


「いえいえ、仕事ですから構いませんがね。抜糸のときは大変そうですわ。眠り薬でも使ってしまいましょうかねぇ」


 医者は笑いながら、邸宅を後にした。


「坊ちゃまもお眠りになってくださいな。あとは私が見ますわ」


「いえ、もう少しここにいます。私がいたいので」


 イルハはベッド脇の木の椅子に深く腰掛けて、その場所を譲る意志を見せなかった。

 そしてシーラの熱い手を取ると、静かな声で言った。


「先ほどの話ですが」


 気を遣って部屋を出ようとしたリタは、足を止める。


「結論を急いでは、かえって反発して出て行ってしまうでしょう。彼女には一国に留まりたくない特別な理由があります。私からも長く滞在するよう働きかけますので、その間にゆっくりと説得してください」


 リタはとても喜んで、部屋を出て行った。


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