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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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26.魔術師の失敗


 それからもシーラは王宮にある王子の執務室に通い続けた。意外にもシーラは真面目に働いてくれるので、王子も喜んでいる。


「お前、最近よく来るな」


 日に何度も執務室に現れるイルハに、半ば呆れ王子は言った。


「仕事ですが?」


「回数が増えていないか?」


「変わりません」


 王子の後方を見れば、シーラが夢中で仕事をしていた。

 分厚く重たい書類であるのに、軽々と浮かび上がったそれは、次々と棚に収まっていく。書類は宙を踊っているようで、イルハはないはずの音楽を聴いた。シーラの内側で音が奏でられ、その拍子に合わせてシーラは魔術を使っている気がする。

 そのシーラは真剣で、イルハにも気付かない。


「休憩するか?」


「遠慮しておきますよ」


「そろそろ休ませるところだぜ?」


「いえ。私も忙しいので」


 邪魔をせぬよう、去ろうとしたときだった。

 バサバサバサという音の後に、ガンという鈍い音が鳴る。奥の部屋からだ。


「大丈夫ですか、シーラ」


「何やってんだ、大丈夫か?」


 イルハと王子の言葉は、ほとんど同時に発せられた。


 シーラはすぐに返答せずに立ちすくみ、俯いていた。すべての書類が床に落ちている。

 イルハと王子が顔を見合わせたときに、ようやくシーラは言った。


「どうしよう、王子」


「どうした?」


「書類を汚しちゃった」


 顔を上げたシーラが額を押さえている。その指の隙間から、手の甲に血が流れた。


 イルハはすでに王子を超えて走り出していた。王子は通信機を手に取り、医者を呼んでいる。いつもならイルハが通信していたはずだ。


「あれ、イルハ?」


「動かないで。見せなさい」


 額が指の間接一つ分ほど、ぱっくりと割れていた。書類の角で切ってしまったか。

 傷の深さからは酷いものとは言えないが、頭を打ったことの方がイルハには恐怖だった。どの高さから書類を落としたか分からない。

 

 部屋を移動して座らせようと思ったが、シーラは拒否するような仕草を見せる。


「動けませんか?」


「イルハの服が汚れちゃうから」


「気になりません」


 イルハはそのままシーラを抱え上げて、部屋を移動した。これまで数え切れぬほど王子の執務室に顔を出して来たが、隣の部屋が遠過ぎることに苛立ちを覚えたのは初めてである。


 イルハはソファーにシーラを座らせて、再度傷を確認する。


「イルハの服が汚れちゃった。あぁ、こっちも」


 突然シーラの瞳からボロボロと涙が溢れた。

 シーラの涙は大袈裟だと感じながら、イルハは驚きを飲み込んで、シーラの傷口を布で押さえた。


 通信を終えて、駈け寄った王子は息を呑む。


「泣くほど痛いか?」


「ごめんなさい。二人の大事なものを汚しちゃった」


 冷静に見せているイルハも、シーラの涙を見たのは初めてだ。


「大事じゃねぇぞ。俺にとっちゃゴミみてぇなもんだ。気にするな」


「シーラ、殿下もこう言っていますし、私も服などを気にする浅はかさを持ち得ていません。そのようなことで泣かなくても平気ですよ」


 酷い言い方を訂正する余裕もない。お互いに。


「イルハ、この汚れは落とせるかな?」


「服なんて、汚れたらまた買えばいいんですよ」


「お母さんの服でしょう?もう変わりのないものなのに。もっと気を付ければ良かった」


「捨てようとしていたと言ったでしょう。私には生身のあなたほど大事なものは、ひとつもありませんよ」


 普段の王子なら、間違いなく冷やかす言葉を、イルハは平然と言った。

 王子はまた違う意味で、息を呑む。驚いてばかりだ。


 それから三人はしばらく黙った。


 その沈黙はシーラに破られる。


「どうしよう、イルハ」


「もう何も気にしなくていいんですよ。すぐに医者が来てくれますから、心配も要りません」


「おでこが痛いよ。凄く痛いの」


 王子がすぐに医者を急かす通信を入れていた。

 まったく騒がしい娘である。



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