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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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21.乾杯の音


 遅くに帰宅したイルハは、主人の許可なく人を招き入れただけでなく、その招いた者らと楽しい時を過ごす使用人たちを忌々しいとさえ感じた。そんな心の狭い主人らしき想いを抱いたことは、初めてである。


 外に楽しそうな声が漏れ聞こえていたから、イルハはなかなか自宅の扉を開けることが出来なかった。しばしの間、玄関の外に佇んでしまったくらいだ。


 心して扉を開けるとすぐに、リタが迎えに現れる。その後ろを、シーラが様子を窺うように続いて来た。


 イルハはシーラの様子に、とてつもなく強い苛立ちを感じているはずだった。


 それなのになお、白い綿のワンピースが、彼女にとてもよく似合うことを実感している。

 サイズもピッタリで、最初から彼女のために用意されたもののようだった。もちろんリタが、そのように縫い直していたのだが。

 袖から覗く両手には、不思議と晒しが巻いていない。結局あれは何だったのか。

 湯を浴びたばかりなのか、髪が少し濡れていて、やはり前より少しだけ大人びている。背丈は変わらないが、少女らしさが薄まり、若い女性特有の艶が滲み始めていた。


 苛立ちながら、どうしてこのように観察してしまうのか。嫌な気分になるくらいなら、見ないようにすればいい。そう思っていても、イルハはそれを辞められない。


「お帰りなさいませ、坊ちゃま。すぐにお食事のご用意を」


「仕事があるので、部屋に運んでください」


 それだけ言って、部屋に向かおうとするイルハの後を、シーラが追い掛けて、懸命に話し掛けていく。


「ごめんなさい、イルハ。急に来たら困るよね。イルハに聞いてからじゃないと駄目だったね。もう宿に移るから、ゆっくりリタたちとご飯を食べてよ」


「誰も困るとは言っていません。仕事が残っているだけです」


「忙しいときに急に来てごめんね。すぐに宿に移るから、仕事の邪魔はしないよ」


「こんな時間に未成年を外に出すわけにはいきませんよ。どうぞ泊ってください」


 足を早めて自室に入ると、戸を強く締めてしまった。

 子どものようなことをした自分を恥じたが、イルハはどうしてもシーラに優しく出来ない。

 シーラに悪いところなどないと知っている。これが自分の問題であることをよく理解していても、感情が収まらないことがあると、イルハは初めて理解した。


 廊下に取り残されたシーラの背中に、リタがそっと手を添える。


「大丈夫よ。ねぇ、シーラちゃん、坊ちゃまにお食事を届けて貰えるかしら?」


「凄く怒っていたよ?私じゃない方がいいんじゃない?」


「平気だと言ったでしょう。私を信じて。シーラちゃんのお夜食も用意するから、一緒に運んでちょうだい」


 イルハが机に向かい、悶々と鎮まらぬ自分の心と向き合っていると、トントンと戸をノックする小さな音が届いた。

 

 返答に迷うイルハが答える前に、扉が開く。


「イルハ?入っていい?」


 扉の隙間から、不安そうな顔が覗いた。

 イルハは一瞬振り返ったが、机に視線を戻し、シーラには背を向けた。


「どうしました?」


「ご飯を持って来たの。リタが一緒に食べたらどうかって、私の分まで夜食を作ってくれたんだけど、忙しかったら私は別に食べるから言って」


 苛立ちの中に混じる、大きな喜び。

 それでもまだイルハは素直になれない。


「入ったらどうです?」


 仕事のときの冷たい声で、淡々と言っていた。


「いいの?」


 かつてのように部屋に飛び込んで来ない様子がまた、イルハに苛立ちを募らせる。


 以前のように、何故出来ないのだろう。お互いに。


 余所余所しく歩み寄って来て、机に盆を置くと、その盆から小さなお皿を取って、シーラはすぐに後ろに下がった。お皿を抱えて座ったのは、絨毯の上だ。


 こんなに近くにあるのに、姿が見えなかったときよりも離れて感じるのは、何故だろう?


 しばらく無言の時が続いた。


 シーラが持つ皿の上には、焼き菓子が数個乗っている。これは夜食というほどでもない。リタからは、たっぷりと食事を振る舞われたのだろう。夜食が口実であることくらい、イルハにも分かっている。


 シーラもまた、その菓子を食べるでもなく、イルハの背中を見詰めながら、どうしたものかと思案し続けていた。彼女がこれほどまでに発する言葉に迷う姿など、イルハは知らない。


 イルハは記憶を辿った。シーラが側にあることで、自然とかつて共に過ごした時間が思い出される。

 共に過ごした時間など、ほんの僅かな時であったというのに。今回だって、どれだけの時間があるか分からない。


 こんなことをしていて、いいのだろうか。

 自分はどうして、このように冷たい態度を示してしまったのだろう。


 イルハに少しずつ冷静さが戻った。沈黙を破ろうと決意する。


「あの赤毛の子は?」


「ごめん。挨拶させていないね。疲れて寝ちゃったから、明日改めて挨拶して貰うよ」


「そうではなくて。あの子は戦争孤児ですか?」


 イルハがようやく振り返ったとき、シーラは目を丸くしていた。


「登録用紙に書いていたでしょう。祖国はララエール王国と」


 シーラはとても重大なことであるかのように、深く頷いた。


「放っておけませんよね。あなたなら」


 シーラがほっと安堵した顔を見せたとき、イルハの心の騒めきも鎮まりを見せた。


「イルハはまだ仕事をするの?」


「いいえ、もう終わりました」


 本当は家に持ち帰った仕事などない。そもそも王宮外に持ち出せる仕事ではないのだから。


 イルハが立ち上がり、シーラの側に移動しようとしたのに、シーラは勢いよく立ち上がって言った。


「ちょっと待っていて!」


 避けられた感じはないが、イルハは少々の淋しさを感じてしまう。せっかく意を決して、かつてのように側に座ろうと思ったのに。


 そのシーラは、扉を閉めることもなく出て行ったかと思えば、バタバタと廊下を走り、すぐに戻って来た。麻の袋を両手で持って、胸に抱えて。


「これは?」


「うん、説明する。でも少し待って。ねぇ、イルハ。ちょっとだけ魔術を使っちゃ駄目かな?」


 麻の袋を絨毯の上に置きながら、シーラは言った。とても重そうである。


「何に使うんです?」


「重くて運ぶのが大変でね」


「手伝いますよ」


「ありがとう。お願い出来る?」


 二人で廊下を往復して、複数の麻袋を運んだ。


「これを全て一人で船から運んだんですか?」


「オルヴェとテンが手伝ってくれたんだよ」


「それを聞いて安心しました」


「大丈夫だよ。魔術は使っていないからね」


「そういう意味ではありませんよ」


 二人の何気ない言葉は、二年半前と変わらず、廊下に重なって響く。広い屋敷の一室では、リタとオルヴェが耳を澄ませて微笑んでいた。


「それじゃあ、ひとつずつ説明するね」


 麻袋の紐を解くと、シーラは嬉しそうに中身を取り出した。


「これはね、北東にあるとても小さな国のお酒なんだ」


 シーラは得意気に瓶を持ち上げて、それは嬉しそうに笑った。


「ミカンって知っている?とても甘酸っぱくて美味しい果物なんだけど。そのお酒なの。きっとイルハは好きだと思うんだ。それでね」


 シーラはまた別の瓶を取り出して、笑う。


「こっちは葡萄酒なの。これも東の小さな国の葡萄酒なんだけど、この国の葡萄酒はね、作った時期で味が違うんだよ。お店には色んな時期の葡萄酒がずらっと並んでいて、凄いんだ。それをたっぷり味見させて貰って、イルハの好きそうなのを選んで来たからね」


 これは、これは、と説明していくうち、イルハの心はすっかり癒されていた。


「最後のこれは、お花のお酒。私の大好きなお酒なの!イルハにも飲んでみて欲しくて!」


 シーラの周りに、満開の花が咲いているような気がした。

 正気になろうと、イルハは一度、瞼を力いっぱい閉じた。それを開いたときには、心から笑っていた。


「飲み比べを楽しめる量ですね」


「口に合わなかったら言って!私が飲むから!」


 この二年半の間、少しも忘れていなかった。

 何度も思い出してくれた。

 それがイルハにとって、どれだけ嬉しいことか。きっとシーラは分かっていない。


「シーラ、いくつになりましたか?」


「二十歳を過ぎたかな」


「嘘ですね。まだ足りない」


 覚えていないわけがなかった。今年は、十九歳になる年。


「ですが…」


 イルハはわざとらしく少し間を空けて、微笑んだ。


「一人で飲むのも詰まらないので、少し付き合いますか?」


 シーラが目を丸くして驚いている。


「飲んでいいの?」


「口外してはいけませんよ」


「もちろん!」


 用意された二つのグラスは、すぐに重なった。

 美しい高い音が鳴り響く。

 はじめて重ねたグラスの音は、長く離れた二人の時を埋め、以前と同じところに戻してくれた。

 

 いや、すでに以前とは違っていたかもしれない。


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