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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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17.陸からの願い


 息を切らしながらこの家の主人が帰って来たことなど、いつ以来か。


「シーラは?」


 玄関でイルハを迎えたリタは、自身の唇にそっと手を添えた。

 声を落として、囁くように言う。


「ぐっすり眠っていますよ。熱もかなり下がったから、安心してくださいな」


 ほっと溜息を洩らしたイルハの額が、汗ばんでいる。どれだけ急いで帰って来たのか。


「先に湯浴みをなさっては?食事も済ませてしまいましょう」


「シーラの顔を見てからに…」


「坊ちゃま。食事をしながら、少しお話し出来ませんか?」


 遮るように、リタが言葉を被せた。こんなことは珍しい。嫌でもイルハの脳裏に、悪い想像が浮かぶ。


「何か悪いことでもあったのですか?」


 シーラが寝ているうちに話したいことがあるのだろう。それなら今すぐに言ってくれと、イルハは思った。


「いえいえ、何もないですよ。大丈夫。ね、まずは湯を浴びて。病人がいるお部屋には、綺麗な体で行くものですよ」


 半ば強引に浴室に放り込まれ、湯浴みを終えれば、有無を言わさず食事の席に引っ張り出された。イルハは早くシーラの顔を見て安心したいというのに。こういうときのリタの強引さに、イルハは勝てない。


 イルハが食事の席に着くと、二人の使用人もその前の席に座った。

 神妙な面持ちの二人を前に、やはりシーラに何か悪いことがあったのではないかとイルハは不安になって来る。医者に悪い言葉でも掛けられたのではないか。


「リタ。オルヴェ。何か言いたいことがあるなら、はっきりと言いなさい」


 珍しくイルハが主人らしく言うも、リタは穏やかな表情でおっとりと語り出す。


「坊ちゃま。シーラちゃんを、私たちで引き取ることは出来ないかしら?」


「はい?」


 次に言ったのは、オルヴェだ。よく相談してあったのだろう。


「坊ちゃまは意気地がないから、今すぐ妻には出来ないのでしょう。ですから、まずは私たちの娘にしてはどうかと思いまして」


 イルハは変に息を吸い込んで、咽てしまった。


「まぁ、坊ちゃま。そんなに慌てて」


「二人とも、何を言っているのです?」


「何をって。ねぇ、あなた?」


「こちらこそ、今さら何をですよ、坊ちゃま」


「シーラは友人であると言ったでしょう」


「あんなに楽しみに待っておいて、ただの友人だなんて。ねぇ、あなた?」


「今日だって、ただの友人のために、あんなに何度も通信してくるかね。ねぇ、君」


「余計なことを勘ぐるのは辞めなさい」


「まぁ、余計なことだなんて」


「ご主人様は酷い言われようだ」


 まったく悪びれず使用人夫妻は言った。むしろ笑っている。


「坊ちゃまはシーラちゃんをこのまま放っておくつもりですの?」


「彼女の意志があることでしょう。本人が国を持たず自由に生きたいと言うのですから。余計な口出しをするものではありませんよ」


「本当にそうなのかしら?」


「何か聞いたのですか?」


 イルハの顔付きがほんのりと変わった。それは家らしくない仕事の顔だ。


「いえ、なんとなく。女の勘とでも言うのかしら。シーラちゃん、それほど一人が好きそうな感じもしなくて」


 イルハの顔はすぐに家らしく戻る。家らしいというより、シーラに合わせた顔だろうか。この場にシーラがいなくとも、家の中にシーラがいることで、イルハの顔付きは帰宅すると同時に変わっていた。

 それをイルハ自身は気付いていないのだけれど。本人としては、いつも変わらない顔をしていると思っている。


「誰と居ても楽しそうで、人が好きそうに見えるねぇ」


「確かにそうかもしれませんが」


 問題はそういうところにないことを、イルハは理解していた。

 一人で海に出る重みは、軽々しく他人が背負えるものではないだろう。


「坊ちゃまは宜しいんですか?シーラちゃんが他の港の、どこぞの知らない男性と仲良くしていても」


「私はとやかく言う立場にありません」


「その立場になってしまえばいいでしょう」


「そのような浅はかな…」


 後ろでガタンと音がしたとき、イルハは椅子から飛び上がっていた。


「シーラ、大丈夫ですか?」


 駆け出す主人の背中を見て、使用人夫妻は穏やかに顔を合わせる。


 イルハが駆け寄ったとき、シーラは部屋の扉から体を半分出していたところだった。


「起き上がって平気ですか?」


「ごめんね。お迎え出来なかったね。お帰りなさい」


「そんなことは構いません。どこか痛かったり、辛かったりしませんか?」


「もう大丈夫。随分楽になったよ」


 イルハはほっと胸を撫で下ろす。シーラの顔色は良く、かつて見た母の顔色と重なるところはない。


「ずっと寝ていたのでしょう。お腹が空きませんか?」


「うん、少しお腹が空いたね」


「リタ、何か食べるそうです。食べやすいものをお願いします」


「はいはい」


 イルハはシーラの片手を取り、空いた手は後ろから回して脇腹を支えてやった。無意識のうちにそうしていたのは、昨夜倒れたときに支えたことで、触れることへの抵抗感が消えていたせいだろう。


 このときにイルハはようやく気付く。

 晒しの巻かれていない手を見るのは初めてだと。特に怪我をしている様子はない。船での作業のために巻くようになったのかもしれない。


 直に肌が触れ合う感覚。

 熱を帯びた手から伝わる温度が、イルハの胸まで温めた。


「大丈夫だよ」


「また倒れたら困るでしょう」


 まだ少し体は熱かったが、確かにそれほどのものではなかった。快方に向かっている。


 食事の席に座ると、シーラは皆が望まぬことを言い出した。


「もう明日にはすっかり良くなっていると思うよ。ありがとうね、みんな。今回は迷惑ばかり掛けて申し訳ないんだけど、お礼をする時間がなさそうなんだ。明日は買い出しをするから、そのときに何か…」


 リタが急ぎキッチンから戻って来る。


「シーラちゃん、無理はしないで。すっかり良くなるまで、この家に居ていいのよ」


「そうだよ。船の上で倒れたら大変だから、この家でのんびりしておくといい」


 リタもオルヴェも必死だ。


「有難いけどね、そうゆっくりもしていられないんだ。冬が来て海が凍ったら船が出せなくなるから、なるべく早く動かないと」


 三人がこっそりと目を見合せていた。

 イルハにもリタとオルヴェが何を考えているか、分かってしまう。分かるのは、イルハもそうしたいと願う気持ちを持ったからだ。

 そんな自分がとても嫌な人間に思えて、イルハは口の中に苦々しさが広がっていくような新しい感覚を知った。苦いものを食べたわけでもないのに、口内が気持ち悪い。


「次の予定でもあるの?」


「そういうわけでもないけど」


「じゃあ、冬の間、ここに居たらいいじゃない」


「それは出来ないよ」


 シーラはさらに「引き留めてくれて、ありがとう」と言って微笑んだが、三名にはそれが泣きそうな顔に見えてしまった。三人の中に生じている欲のせいで、歪んで見えたところもあろうが、確かにシーラの笑い方はいつもと違った。


「リタ、無理を言って困らせてはいけませんよ」


 イルハの微笑みにも、寂しさが浮かんでいる。


「それにしても、とにかく明日はゆっくり出来ませんか?船出をするにしても、元気になってからの方が良いでしょう」


「だけど冬が来たら困るから、明日出ないにしても、明日中には準備を済ませておこうと思うんだ」


「そうだわ、あなた。シーラちゃんの必要な物を、私たちで買っておいてあげたらどうかしら?」


「それはいいね。いい運動になりそうだ。シーラちゃんはその間、家でゆっくり休んでおくといい」


「そんなこと頼めないよ」


「まぁ、どうして?私たち、シーラちゃんにゆっくりして欲しいのよ」


「少しは動かないと老いる一方でね。やることがあると嬉しいものだ」


「こう言っているのですから、二人に任せていいですよ、シーラ」


 シーラは困った顔をしたまま、渋々と頷いた。本当は明日にも船を出すつもりだったのだ。

 海のものにとって、冬というものがどれだけ恐ろしいものであるか、三人は気付けない。



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