16.海の子ども
夜のうちにシーラの熱がぐんぐん上がった。やはり無理をしていたのだ。
翌朝、ベッドに横たわるシーラは、真っ赤な顔でイルハに言う。
「ごめんね、イルハ。お見送りが出来なくて」
「いいから寝ていてください。リタ、くれぐれも頼みますよ」
収穫祭の後は、仕事がたっぷりと溜まっている。イルハにとっては、収穫祭が始まって数日間の午後に、仕事が出来なかったことが、忌々しく感じられた。けれども祭りの最後の二日間に、午後に仕事があったとしたら、もっと強く忌々しさを感じていただろうことも知っている。
そうしてこの忌々しさをどれだけ感じようと、何の意味もないこともよく理解していた。
イルハは後ろ髪を引かれる思いで、家を離れ、職場である王宮に向かう。
「無理をしたねぇ、お嬢さん。昨日より強い薬を煎じよう。胃を悪くせんように、何か食べてから飲むんだよ」
医者が来たのは、イルハが出掛けた後だった。医者の指示通り、リタが細やかにシーラの世話を焼き続ける。
「どうしよう、リタ。お腹が空かないよ。薬が飲めないね」
「大丈夫よ、シーラちゃん。ゼリーなら食べられるわ。頑張ってお口に入れてみましょうね」
リタはいつもの数倍も優しい声色で、ゆったりと語り掛けた。シーラは子どものように素直に言うことを聞いている。だからリタも、幼子に話し掛けるような口調となった。
シーラが少し寝て目覚めると、まだリタはシーラの側に居た。椅子に座って、老眼鏡を掛け、編み物をしている。
「寝てばかりでごめんね、リタ」
リタは手を止め、眼鏡を膝に置いて、シーラの額を撫でた。熱が下がってきたおかげで、額が濡れている。着替えを用意しなければと、リタは思った。
「いいのよ。お世話をする人がいるのも嬉しいものだわ。薬が効いてきたわね」
「うん、少し楽になったよ」
「お腹は空くかしら?」
「うーん、まだあんまり」
リリリンと鐘の音が鳴り響いた。
「あらあら、またねぇ」
オルヴェは買い出し中で、外に出ている。リタは仕方なく、ゆっくりと立ち上がった。相手が分かっているから、慌てることもない。
「誰か来ているの?リタも忙しいなら、構わないで大丈夫だよ」
「あれは通信機なの。坊ちゃまったら、心配で堪らないのねぇ」
「通信機って?船の無線機みたいなもの?」
「同じようなものかしら?」
聞かれたリタには、船の無線機がどのようなものか分からない。
シーラはある提案をした。すぐにリタが廊下の棚に置かれた小さな箱型の通信機を持って、ケーブルを引き延ばしながら、シーラの部屋に戻って来る。それからリタは元居た場所に座ると、受話器をシーラに渡して、通信ボタンを押した。
「私です。なかなか出ませんでしたが、何かあったのですか?」
「イルハ」
一瞬間があった。
「シーラですか!起きて大丈夫です?」
「大丈夫だよ。薬が良く効いてね。だから、お仕事頑張って」
いつもよりおっとりとした口調だが、イルハを安堵させるのに十分なしっかりとした声だった。通信機を通した声は、いつもより少女らしくて、イルハの耳がくすぐったい。
「熱はどうです?」
「少し下がって、楽になったよ」
イルハの言葉も自然とシーラに合わせて、ゆったりとしたものになる。
王宮でこのような口調で話した経験など、イルハにはない。シーラと出会ってから僅かな時しか過ごしていないのに、初めて経験することが増えていると、イルハは思う。
「何か食べたいものはありますか?買って帰りますよ」
「うぅん、何もいらないけど」
その後の言葉が続かない。シーラも少し迷ったようだ。
それでイルハが先に聞いた。
「何かして欲しいことがありますか?何でも言っていいですよ」
「うん。早く帰って来て欲しいな」
その後通信が遮断されるまで、うんうん、大丈夫だよ、寝ているからね、イルハも頑張って、とシーラは三度も繰り返した。
「イルハにも迷惑を掛けちゃったね。仕事の邪魔になっていないかな?」
「坊ちゃまは大丈夫よ。大変なのは、坊ちゃまの部下の皆さまだわ」
「何か余計なことを言った?」
リタは「いいのよ」と言って、嬉しそうに笑った。
「坊ちゃまは、お母様をご病気で亡くされているの。それで病人にはちょっと心配し過ぎてしまうところがあってね。またすぐに通信があるかもしれないけど、許してあげてくれるかしら?」
「うぅん、嬉しいよ。心配してくれるのは嬉しい」
「あら、私も心配よ?」
「ありがとう、リタ。でも、ちょっと困るね」
「困ることがあったかしら?」
「だって、こんなにして貰ったら、今度一人で具合が悪くなった時に、耐えられなくなっちゃいそうだよ」
リタは胸が苦しくなったが、それを振り払い優しい笑顔で言った。
「さぁ、もう少し眠りましょうね」
こくりと頷いたシーラは、幼い少女にしか見えない。リタの胸が一層強くぎゅっと詰まった。




