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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第三章 警鐘

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28.大人たちの時間


 陽が落ちてからも、シーラは王宮に留まった。

 とは言っても、場所は王子の執務室ではない。

 執務室を出たシーラは、王子たちに導かれるまま螺旋階段を上り、そこからさらに長い廊下を進んだ先にある、特別な部屋に招かれた。

 シーラは部屋に入るなり、隅々まで調度品を見て廻ると、「ここも素敵なソファーだね」と言いながら平然と細部まで刺繍が施された高貴なソファーに腰を下ろした。

 こういうところは、王女らしさの名残と言えるのだろうか。あるいは、これが海らしさなのか。妻と共に移動してきたイルハは、考えながら当然の如く、シーラの隣に腰を下ろした。しかしイルハが座ったのは、王子がシーラの向かいのソファーに腰を下ろしてからである。


 トニーヨは少し遅れて現れた。兵士たちから今日の調査報告を受けていたからだ。

 慣れない部屋に戸惑ったトニーヨは、王子の隣に座ることになった。船旅の経験がなければ、主君の隣に座ることなど丁重に辞退していただろう。トニーヨも変わっている。

 トニーヨは恐縮しながらも、王子の隣に浅く腰を下ろした。


 テンは早い時間にレンスター邸宅へと帰されている。馬なし馬車に乗せられ、間違いなく帰宅したことは、イルハが通信機でリタと話し確認済みだ。

 つまりシーラはあえて王宮に残った。いや、違う。王子によって、一人残された。


 四人が揃うとすぐに、王宮で給仕係として働く者たちが顔を見せる。彼らは豪華なテーブルの上に、これまた高級そうな料理を、実際に高級な器に乗せて並べていった。酒とグラスも存分に用意され、そこにはシーラが気に入るタークォンで酒造されるサチベリーの酒も揃っている。


「飲んでいいの!」


 ちょうど給仕係の者たちが頭を下げて部屋を辞したときである。シーラは叫ぶように嬉々として言うと、王子を期待いっぱいの眼差しで見つめた。一応、この国の法を理解して、彼らが去るまで言葉にするのを待っていたのだろう。


「あぁ。俺がいるから問題はない。ただし語れよ」


「うーん。そういうことかぁ。どうしようかなぁ?」


 シーラは目の前の料理と酒に、いや、主に酒に瞳を輝かせて、しばらく悩んでいたが、「まぁいいか」と言って、「このお酒は何?」と知らぬラベルの貼られた瓶を指さした。


「コーレンスのお酒ですよ」


 イルハがさらりと言うと、シーラはとても楽しそうに笑うのだ。


「面白いことをするねぇ」


「あいつらはコーレンスの人間か?」


「それを突き止めるのは、私じゃないよ」


「お前の予測でいい。コーレンスだな?」


「さぁ、どうかな?」


 シーラがはっきりと言わないから、王子は瓶を取り上げて、さらに聞いた。


「それくらい言ってもいいだろう。ただのお前の予測を聞いているんだ。それを聞いてどうするかは、俺たちが決める」


「分かった。分かったから、それを飲ませて!どういうお酒なの?」


「薬用酒ですよ。コーレンスは薬草を漬け込んだお酒を飲むんです」


「え?薬なの?」


「薬と聞くと嫌な気分になるが、これが美味いんだ」


 王子に言われて、シーラはなお一層目を輝かせた。


「美味しい薬のお酒だなんて!コーレンスってなんて素敵な国なの!」


 王子は何か心に引っ掛かるものを感じた。多くの者は自国が一番素晴らしいと思っているものだが、他国を称賛されてすぐにムッとしてしまうのは、王子がタークォンを自分の所有する国であると特別に認識しているからではないか。

 これを救うように、イルハは言った。


「コーレンスは我が国よりも冬が長いので、より健康を気遣う必要があったのではないでしょうか?良い味の酒を薬としなければ、民たちが体を大事に出来ない気質でもあるのかもしれません」


「ふむ。確かにあいつらは、神経質そうで、顔色も悪く、体が弱そうな奴らだったな」


「王子はコーレンスとも付き合いがあるんだね」


「最も近い国だからな」


「しかし冬がありますので、付き合いとしての距離が近いとは言えません。コーレンスとは、互いが夏の間に両国間を貿易船が行き来する交流だけで、特別な親交はないんです」


 イルハが補い説明する間、シーラは隣の夫にうっとりと熱のこもった視線を注いでいた。王子はうんざりして夫婦から顔を背け、手に持っていた酒のラベルでも眺めることにしたのだが、シーラに話しかけられて顔を上げた。


「王子!早くそれを飲ませてよ!」


 王子は待っていたという顔で口角を上げ、にやりと笑う。


「ならば言え。お前は奴らをコーレンスの者だと思っているのか?」


「どうして私がそう思っていると思うの?」


「お前がここ最近コーレンスに興味を持っていたと、イルハから聞いたからだ」


 シーラはくすっと笑うと、隣の夫に視線を向ける。イルハは特別に言い訳をしなかった。


「コーレンスと断定したいわけではありません。あなたの読みを確認したいだけです」


「私の読みもなにも、私はコーレンスの人たちを知らないからねぇ。絶対にそうだとは言い切れないよ」


「それでいいぞ。どういう判断でコーレンスを疑っている?」


 シーラは観念したように一度短いため息を漏らした。そのため息に、自分がよくする他人への呆れた感覚を受け取ったけれど、王子はこれをなかったことにする。


「音が気になったの」


「音だぁ?あいつらの演奏する音楽でも聴いたのか?」


「違うよ、王子。言葉の音の話だ」


「なんだ、言葉の音とは?」


「発音の違いで、国が分かるということですか?」


 大人しくしていたトニーヨに問われても、シーラは驚きもせず、当然だという顔で頷いた。王子の方がちょっとムッとした顔になっているが、トニーヨもまた、これに気付かない振りをしている。


「どこの国にもその国らしい言葉の音があってね。同じく共通語を使っていても、少しずつ違っているんだ。それも近い国だから似ているというわけでもなくてね。共通点を探るのがとても面白いんだけど。最近、北の方はこういう感じ、南の方はこういう感じというようにね、方位的に漠然と似通ったものを感じていて。音域の幅というのかなぁ。音には季節的な影響があるのか、それとも気温で音の質が変わるせいか、それより人の喉の質が変わるのか。色々と検討を付けているんだけど、まだ分からなくて」


 後半は何を言っているのか分からなかったが、王子にはそれは大事なことではなかった。


「よく分からねぇが、それがコーレンスに結び付いたんだな?」


「そうとは言い切れないんだってば。私の話をちゃんと聞いて?」


 王子は叱られた気分になって顔を歪める。慣れたことではない。


「コーレンスと読んだんだよな?」


「近い国から来たとなれば、コーレンスは最も怪しいところなんだけれど。まだ知らない国は他にも沢山あるかねぇ」


「結局確かなことは分からないということか」


「確かなことなら、お兄さんたちに聞くのが一番。ねぇ、王子。もう飲んでいいでしょう?」


 王子は大袈裟なため息を漏らすと、シーラの前に置かれたグラスに並々と酒を注いでやった。シーラは嬉しそうにグラスを持つと、軽く匂いを嗅いだあとに口を付け、グラスを思い切り傾けた。

 トニーヨはまだ慣れずぎょっとする。最初は味わった方がいいのではないかと、要らぬ気遣いをもって、豪快に酒を煽るシーラを見ていた。

 シーラがグラスから口を離したときには、すでにグラスの酒は最初の半分まで減っていて、王子も呆れた顔を向けていた。イルハが驚かないのは、もう慣れているのだろう。ということは、この夫婦は二人で沢山飲んできたということになるが、誰もそれについては触れなかった。


「わぁ。スーッとするのに甘いんだね。とっても不思議!」


「使っている薬草がそのスーッとする味になっているそうです。それだけでは飲みにくいので、蜜を足すようになったのでしょう」


「確かに甘くて飲みやすいね。うん。美味しいや。それで体にいいなんて。これって飲むほどに、体にいいということ?」


 トニーヨは苦笑してしまった。まだ二十歳にもならないと聞いているのに、どうしてこれほど酒に強いのか。小さな体でよく耐えられるものだと、トニーヨは感心する。


「いくら薬用酒であっても、飲み過ぎてはかえって健康に害となるものですよ」


 イルハが淡々と注意したのに、シーラはグラスに残った酒をごくごくと飲み切ってしまった。グラスを二口で空けるというのはどういうことかと王子は呆れ、トニーヨはある種の尊敬の念を持ってシーラを見ている。どうしてもトニーヨには、あの青い空の下、白い帆を掲げた船が猛スピードで海を渡る映像が、シーラに重なって脳内で再現されるのであった。

 だから海らしい酒の飲み方に、憧れと敬意の念を抱いてしまうのだ。

 トニーヨは自分も酒を飲もうと別の瓶を手に取った。というのも、王子は勝手に自分のグラスに酒を注いで楽しんでいたからだ。シーラの空いたグラスには、イルハが別の瓶から酒を注いでいる。コーレンスの酒の瓶は幾本も用意されていた。これはコーレンスの酒だけではない。あらゆる種類の酒が何本も揃い、広いテーブルの端から並んでいる。他の者たちを部屋に入れないために、王子は料理も酒も先に十分に用意させていた。

 おかげでトニーヨは、主君にどのタイミングで酒を注ぐかという緊張感を持たずに、自分だけで酒を味わうことが出来る。しかし一口含んで、とてもシーラのようには飲めないことに気付かされてしまった。トニーヨは酒にそれほど強くない。


「コーレンスかどうか、それは可能性の段階だというのは分かった。あいつらの目的は結局なんだ?」


「お兄さんたちに聞いたらいいのに」


「口を割らねぇんだよ。そうだな、トニーヨ」


「申し訳ありません。何も語りたがらず……」


 これから拷問に掛けて口を割らせることになるだろう。が、それをこの場では口に出来ないトニーヨだった。シーラが普通の娘ではないにしても、トニーヨとしては女性の前で触れたくない話題である。


「明日までに聞き出せよ、いいな?」


「分かっています。すでに先から……」


 トニーヨがせっかく先を濁したのに。


「タークォンがどれくらいするのか、見ものだね。せっかくだから見せて貰いたいところだけど、今はお酒が美味しいからなぁ」


 とシーラは物騒なことを言うのである。しかもまだ思わせぶりな言葉を続けた。


「だけどまだ残っているから、気を付けた方がいいよ。するときにはね、される方も考えないと」


 言った直後にシーラはまたグラスを空けた。今宵はどれだけ飲む気か。王子が許可したことで、歯止めが利かなくなっていそうだ。


「残っているだと?」


「まだ仲間がいるよ。少なくともあと二人。予想ではあと三人はいるけどね」


「どうして分かる?」


「あの場に気配があった魔術師は、あと一人。これは確実だけど、あのお兄さんたちの仲間とは限らない」


「待てよ。仲間でないなら、あの場で何をしていたんだ?」


 それ以前に、タークォンに不穏な輩が侵入していることを問題視しなければならないのだが。王子も気分良く酔い始めていて、シーラとの会話を素直に楽しむようになっていた。

 それでイルハは、頭の中でこれからの対策を練っている。王子を含め、自分たちの今の立場は酷くやりにくい。これが違っていたら、今頃このように語り合う間もなく、イルハが対応を取っていただろう。今はそれが容易に出来ない。

 外部から何をされるかに関係なく、タークォンにはタークォンの問題があった。


「あのお兄さんが本を取り戻したがっていたことは聞いたよね?」


「それもよく分からねぇ。お前は本を買っただけだよな?」


「それがお兄さんたちには誤算だったんだよ」


「そんなに大事な本をどうして書店に売った?本を売ったのはあいつらではなかったと?」


「違うんだよ、王子。本自体に興味があるわけではなかったの」


 シーラは服の中から紙片を取り出した。それをテーブルの空いたスペースに並べていく。小さな紙は五枚あって、すべてに記号のようなものが並んでいた。これが何を意味するのか、王子には分からないし、身を乗り出して覗き込んだトニーヨにもさっぱりだった。どこかの国固有の言葉だろうか。


「これはコーレンスの字ではないですよね?」


 トニーヨが訪ねると、イルハが「その通りです」と答えながら、シーラの空いたグラスに酒を注ぐ。


「ではどうして彼らがコーレンスの人間だと思われたのです?」


 コーレンスではないか、という話は、イルハが言い出したことである。シーラがコーレンスに興味を持ったというのは、イルハの予想を支える一つの理由でしかなかった。


「私もコーレンスで間違いないとは言いません。今は彼らの出身国がどこかという不確かな問題よりも、確実に現物がここにあるこの紙片の意味を考えましょう。これはシャランソの本にそれぞれ一枚ずつ挟まれていました。そうですね、シーラ?」


「その通り。面白いことをするよねぇ」


「お前にはこの記号の意味が分かるのか?」


「まさか。さすがにこれだけで解読するのは厳しいよ」


「殿下、おそらくこれは暗号で、彼らは書店を通して連絡を取り合っていたのではないかと」


「……なるほどな」


「この国では売れない本を書店に置いて貰い、それで連絡を取っていたということですね?つまり最低でもあと二人と言うのは、それぞれの本にそれぞれに向けた連絡を挟んでいたと」


「えぇ、シャランソの本は五冊あったそうですが、どれも書店の店主が最初に置いた場所ではない、店の奥の棚に移動されていたようですね。人目に付かない場所です。本が五名に対する連絡版の役割を果たしていたとすると、もしかするとさらに一名、連絡係なる人物がいる可能性もあります」


「それでシーラ殿はあと三名の仲間がいると」


「あくまでこの連絡手段でやり取りしていた人物らの話であって、さらに仲間がいる可能性も否定できません」


 トニーヨとイルハが珍しく語っていたとき、王子はいよいよ大事なことに気が付いた。


「なんだ、それは。待て、待て。何が起きている」


 トニーヨはイルハと視線を合わせ、それから主君を見やった。イルハから意味ありげな視線を感じた王子は、早く言えとイルハを睨む。

 しかしイルハは、妻に問うのだ。


「シーラ、間違いなく異国の魔術師が入っていますね?」


 イルハに問われたとき、シーラは何も隠そうとしなかった。


「うん。入っているね。それで思ったんだけど……」


 シーラはまたゴクゴクと喉を鳴らしてグラスに残っていたコーレンスの酒を飲み切ると、王子を見てにこりと笑った。


「海にある私が自由にあるのはいいとしてもね」


 いや、良くねぇぞ。と、声に出さず、王子は心の中で呟くに留めた。今は先が聞きたい。


「どこかの国の魔術師を自由にさせておくなんて。タークォンはどうなっているの?」


「……おい、イルハ。トニーヨもだ」


「分かっております。我が国は平和に甘んじ過ぎていたようですね」


「どうにかなるか?」


「魔術師を育てられるのであれば。あるいは……」


 イルハの視線が妻に向いた。同時に王子もトニーヨもシーラを見ている。今度のシーラはにこりとも笑わなかった。あえてイルハは、シーラの空いたグラスに酒を注がない。

 シーラの口がゆっくりと開いた後の言葉は、いつも以上にはっきりと聞き取れた。


「私はタークォンのためには動かない。だけど、別の道はあるかもね」


 遠回しに言うシーラを、本当は睨み付けるつもりだったのに、王子は何故か笑っていた。


「金なら積むぜ」


「国のために流れある仕事はしないとも言っておくよ」


「流れがなければいいんだな?」


「ひとつずつの単発の仕事なら請け負わないこともないね。だけど高いよ?」


「金の心配は要らん。そいつらを捕らえられるな?」


「お安い御用なんだけど……」


 シーラが顔をぐいっと上げたかと思えば、立ち上がって、窓辺に移動した。その素早い動きには、夫であるイルハも驚いたくらいだ。シーラは窓を勢い開け放った。


「これはいけない」


「どうした?」


 王子が慌てて聞いたのに、シーラは「すぐに戻るから、飲んでいて!」と叫び、窓の縁に手を掛けた。


「待て、待て。ここは……」


 五階だぞ。と言う前に、シーラの体が消えていた。窓から飛び降りたのではない。窓の縁に手を置いたところまでは見たが、そのあとは言葉通り、シーラの体が消えていた。


 王子が慌てて立ち上がり、空いた窓から身を乗り出して外を眺めたが、そこには闇と静寂が広がるばかりだ。すでに外は暗く、下に人間がいるかどうかも見えないが、少なくとも嫌な音は聞こえなかった。

 王子が振り返ったとき、イルハは座ったまま額を押さえていたし、トニーヨは青ざめて固まっていた。


「いいのか、おい!」


「すぐ戻るといいましたから、待ちましょう」


「それでいいのか?」


「良くなかったと反省したところで、妻は戻りません。それより殿下。もし可能であれば」


「分かっている。話は通す」


「魔術省ですか?」


 トニーヨは思わず尋ねた。


「あぁ。あいつは嫌がらねぇだろうが」


「厄介なのは、彼らの方ですね」


 イルハが一段と冷たい声で言うと、トニーヨは急に恐ろしくなった。ここではまだ何も起きていない、いや、今日は凄いことが起きていて、その処理の途中であるし、娘が一人、五階にある部屋の窓辺から突然消えたのだが。それでもとにかくトニーヨはこの部屋で身の安全を確保された状態で座っているだけであるのに、何かとても恐ろしいことが起こるのではないかという予感に襲われた。


「厄介なことなどさせん。俺の命に従わせる」


 トニーヨは何も言えなくなった。

 王子とイルハも言葉を発さず、視線だけで何か会話をしている感じはあったが、シーラが戻るまではこのまま静かな時間が流れそうである。

 それでトニーヨは、せっかくだから酒と料理を味わわせて頂こうかなどと考えていたのだが。

 シーラがなかなか戻らなかったせいで、王子とイルハが小難しい話を始めてしまった。それでトニーヨもこれに加わることになる。

 美味しいものが美味しくなくなる話であったが、しかし何故か、恐ろしさの影に楽しさを感じているトニーヨだった。これが何か、トニーヨは知らないが、酒のせいだろうと適当に検討を付けて、グラスに残る酒を流し込む。スーッとして甘い、不思議な味だ。


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