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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第三章 警鐘

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18.秘密の匂い


 蔵に入ったときには強烈な匂いを感じるが、少し経てばそれも分からなくなる。嗅覚の環境適応力は素晴らしい。

 部屋から倉まで移動する間、二人は手を繋いで歩いた。シーラの手には何もなく、直接肌が触れ合っている。

 そして今、共に本が並ぶ棚を見上げていた。強い香りは、この棚の木材から香っている。


「ラジーの店で本を読んで来たんですね」


「うん。とても楽しかったんだ。クランベールの本もあってね。今度、クランベールのパンやデザートを作ってくれるって言ってくれたの」


「それを食べるときには、私もご一緒したいですね」


 シーラが思わせぶりにイルハを見上げたから、イルハはそうではないと知っていても、体を屈めてキスをした。離れてから、シーラが笑う。


「もう!」


「いけませんか?」


「うぅん。嬉しい」


 繋いだままの手から、お互いに指を絡め合った。もうどちらが先ということもない。


「ララエールの本もあってね。一緒にララエールのお菓子も作ってくれると言うの」


「テンが喜びそうですね」


「そうなんだ。連れて行って良かったよ」


 またシーラが顔を上げて、イルハを見詰めた。イルハが体を傾けると、シーラは空いた方の手でイルハの口を押さえてしまう。


「聞きたいことがあるの」


 イルハはふっと息を吐きながら笑うと、そのまま体を戻した。シーラは楽しそうに笑っている。


「タークォンでお店を営んでいる人の中に、イルハを知らない人はどれくらいいるの?」


 イルハの目にほんの少しだけ、冷たさが宿った。仕事のときに見せる目付きだが、やはり妻の前だから、すぐに温かい眼差しに変わる。


「あなたも気になっていましたか」


「何故か私たちまで有名だもの。石鹸屋さんがあったでしょう?お礼をしようと思って立ち寄ったら、お姉さんの態度が前と変わっていたの」


「そうだったんですか?」


「うん。あとからイルハの妻だって聞いたみたいだね。凄く心配されちゃった」


「それは申し訳ありません。私の妻であると過ごしにくいこともありましたね」


「それはないし、謝らなくていいよ!だけどイルハって有名人なんだねぇ」


「私は別に有名になった覚えはないんですけどね」


 タークォンで商いをする者たちへ噂が広がるうちに、どんどん大きなことになっていく。

 それでイルハは、店の経営者たちから恐れられるようになった。情け容赦なく法で裁く男だから気を付けろという伝聞が回っている。イルハからすると大変失礼な話で、法に基づき裁いただけで悪く言われる筋合いはない。前述してきたように、そもそも悪いのは、法を犯した経営者たちなのだ。往々にして、そのような者たちは往生際が悪く、知らなかったとか、家族が病気でとか、身勝手な言い訳をして恩赦を求め、これを認めないイルハを悪人に仕立て上げた。まったく失礼な話だ。


「イルハは優しいと言っておいたからね」


「それは嬉しいですが、彼らには届かないでしょうね」


「そうかなぁ?石鹸屋のお姉さんは、それは良かったと言っていたよ」


「それならいいのですが」


「あのデザートのお店の人たちも知らなかったね?」


「私の顔を知らない可能性はありますよ。ただ……」


「私たちが珍しくて目立つから、噂に聞いちゃうよね?」


「えぇ。私の顔を知る者があなたといるところを見ているでしょうし、あなたとテンは少々目立ちますから、特定は容易かと。人の噂話に興味を持たない者もいるでしょうが、両者知らないというのは考えるところがありますね」


「あのお店はラジーに関わりがあるよね?」


「えぇ。彼の従姉妹が始めた店です」


「やっぱり身内だったんだ」


「聞いていましたか?」


「うぅん。ちょっと気になることがあってね」


 シーラは少しのとき、イルハをじっと見つめていたが、やがてにこりと微笑んだ。


「ねぇ、イルハ。海のあの人はなんて?」


 イルハは目を逸らすことなく微笑した。驚きも焦りもない。会いに来たのは、向こうだ。


「気付いていたのですね」


「わざと分かるようにしていたもの。テンにもちょっかいを出して。会ったら怒ろうと思っていたのに!」


 分からないように出来たのに、シーラに伝えたということか。どのように伝えているのだろう。イルハは気になったが、やはりそれについては聞かなかった。


「会わなかったのですか?」


「そうなの。あとでお詫びをしてもらわないといけないね!」


 尖らせたシーラの唇に、今度こそとイルハはキスをした。シーラの空いた手がイルハの腕をぎゅっと掴む。イルハもまた、シーラの背中に手を添えた。


「タークォンでも何かしていますね、シーラ?」


「酷いなぁ。()()何もしていないよ」


「何かする者があるのですね」


 少し体を離したシーラは首を傾げ、微笑んで見せるが、イルハには十分な回答である。


「ねぇ、イルハ。シャランソの本なんて、どうやってこの国に入って来たんだろうね」


「やはりシャランソの本は手に入らないものですね?」


「万年冬の国だもの。どの国の本屋さんにも顔を出すし、本を扱う貿易商をしている海のものがあるんだけど、その人に出会ったら、本を見せて貰うんだ。それでも私は今までに一度も見たことがなかったし、その人も手に入らないと言っていてね。冬の海を渡るフリントンでも、買って来てくれないの。いくらでも出すと言ったのにね」


 それは意外だった。

 イルハは、フリントンがシーラにどこまでも甘い男だと思っていたからである。

 シーラのどんな願いも叶えているわけではなかったか。


「シャランソはね、本に限らず、情報を外に出したがらない国らしいんだ。フリントンはそれこそが美しい国だから、むやみに本を流出させたくないと言うの。それは私にも分かるんだけれど、どうしても読んでみたくて。読み終わったら返すということでどうかなと言ってみたんだけど、これも駄目だった」


「彼は色々とこだわりが強そうですね」


「そうだよ。頑固なの!イルハとは大違いなんだから!」


 イルハは少し笑った。嬉しかったからだ。

 自分も堅物だと言われてきたし、頑固で柔軟性がないと揶揄されることも多いが、妻は違うと言う。それもあの男とは大きく違うと言ってくれたから、嬉しさと共に安心感も得ていた。仲が良くとも、本当に恋愛対象にはなさそうだ。


「シャランソの本がどこから入ったか、調べてはみたのですが」


「誰も覚えていなかったでしょう?」


「魔術師で間違いないですね?」


 シーラは答えず、別のことを問う。それが答えだから、イルハは同じことを問わない。

 この夫婦の会話を聞く者があったら、噛み合わない会話に、二人の仲を心配しそうだ。しかしこの二人は、これこそが仲の良い証である。


「なるべくこの国では魔術を使わないようにしていたんだけれど。いいかな、イルハ?」


「何をするつもりです?」


()()するんじゃないの」


「もっと詳しく話して頂けるなら、考えられますよ?」


「それで面白いの?」


「面白さより今は心配が勝ります」


 シーラはくすっと笑うと、棚に視線を戻した。


「コーレンスの本はどこにあるの?」


「最上段に並んでいます。今、取ってあげますよ」


 手と体が離れる。イルハは何冊かまとめて本を抜き取ると、「部屋で読みましょうか」と提案した。ところがシーラは首を振る。


「この蔵はいいね、イルハ。話すなら、ここで話そう」


「やはり気付いていましたね」


「私は海の魔術師だよ?」


「あなたに分からないという考えが愚かでしたね」


 シーラは海でするように歌うように笑った。愛しい妻のこの笑い声を聴くと、どうしてもあの男の顔がイルハの脳裏にちらついた。せっかくの美しい笑い声なのに、イルハはこれが惜しくてしかたがない。


「愚かとは思わないけれど。どうなっているのかには興味があるよ。聞いてもいい?」


「それはあなたがすっかり魔術を語ったときに」


「今は教えてくれないの?」


「それで面白いですか?」


 シーラがイルハの首に飛びついたが、イルハは本を抱えていてどうにもならない。けれどもシーラの体から重みを感じることもなく、イルハが支えなくてもシーラの両足は宙に浮いていた。イルハが感じるのは、首に巻き付いたシーラの腕の温もりと、耳に届くシーラの息遣いだけである。


「イルハってやっぱり面白くて、大好き!」


「それはどうも。座りませんか」


 抱き締めたくて冷静に提案したら、シーラは楽しそうに笑った。それでイルハは絨毯の上に腰を落として、改めてシーラを抱き締める。本など最早、床に積んでしまった。

 シーラはイルハが座るときにも首に抱き着いたまま浮いていて、イルハが座ると、イルハの膝に腰を落ち着けたのに、イルハは今度も重みを感じていない。


「重くないので、いいですよ」


「本当?」


「えぇ。そのままに」


 急に膝に重みを感じたが、その方がイルハには嬉しく感じる。ここに確かにあるシーラの存在を実感出来た。


「これに似た場所は、あちこちにあってね。似ているだけでそれぞれに感じが違うから、どうなっているのかなぁといつも気になっていて。だけど分からないの」


「あなたは国に立ち寄って、そういう場所で魔力を補っているのですね?」


「うーん。補うというか、楽だからね」


「海にあるときは、どうなんです?」


「知りたいの?」


「確かに面白くないかもしれませんが、私には長く分からなそうなので」


 ふふっと笑ったシーラから、イルハの頬にキスをした。イルハはこのまま妻を絨毯に押し倒したい気持ちになったが、これをぐっと堪える。


「私()()は海にあった方がいいことは確かだね」


「それは海が凍っても、変わりませんよね?」


「どういうこと?」


「冬だろうと海にあれるようにすれば、あなたは安心出来ますか?」


「海が凍るのに?」


「凍るから海に行けるんですよ」


 シーラが首を捻ると、イルハは今までになく笑っていた。

 顔の筋肉が自然に動くほど、笑顔に慣れたのはいつからか。初めの頃など、笑うときには違和を感じ、笑ったあとも顔が痛く感じていたものだ。イルハ自身、痛みには何事かと思ったが、普段使っていない筋肉を動かしたことで筋肉痛になっていたのだ。それが今は消え、自然に笑えている。

 夫婦になってから外側も内側も変えているのは、イルハだけではないのではないか。シーラは本気で迷う姿など、他の誰にも見せたことはない。もちろん、幼い日々を除いての話だ。

 イルハを見上げたシーラの表情に、冬への不安がはっきりと見て取れた。

 

「この謎は、冬の楽しみに取っておきましょう」


 途端にシーラの声が小さくなる。


「イルハ。私はね……」


「大丈夫です。今すぐ結論は求めませんよ。ただ、冬にもタークォンにいながら海にあれることを覚えておいてくださいね」


 少しの期待が、シーラの瞳に踊る。


「本当にそんなことが出来るの?」


「私だって考えていますよ、シーラ。あなたが冬の間この国に留まるときには、あなたが何の不安も心配も感じずに、ただ楽しく、海にあるよう過ごせるように整えてみせますから」


 シーラがイルハの胸にぐりぐりと顔を押し付けた。その仕草が愛おしくて、イルハはシーラの頭を優しく撫でる。胸が詰まっていたのは、イルハだけではない。


「この蔵のこと、王子は知っているの?」


「まさか」


「知らないの?」


「殿下は魔術について詳しくありません」


 シーラはイルハの胸に顔を押し付けたままくすっと笑い、「興味はありそうだけど」と言った。


「それは当然。使えるようにと望んでおられます」


「教えてあげないの?」


「私がすることではありません」


「シュウレンかぁ」


「本来ならば、それも違いますね」


 イルハは含みある言い方を返したが、シーラはうんうんと頷いた。理解出来ているのだろうか。

 しかしイルハは、別のことを伝える。


「あなたに隠したくないので、先に聞きます。テンに魔術を教えるようなことを彼は言っていました」


「もう。お節介なんだから!」


 イルハの妻は、イルハの胸に顔を押し付けたまま、とても迷惑そうに言うのだ。イルハはまだシーラの髪を撫でている。


「テンにはどうして教えないんです?」


「私を見たら分かるでしょう?早いうちから魔術を知ってしまったら、せっかくのテンのいいところがなくなってしまう!」


「手先の器用さですね」


「それもあるし、テンはこれからあちこち成長していくんだから。魔術を使ってしまったら、とても勿体ないと思うの」


「魔術を教えながら、魔術に頼らないように育てることも可能ですよね?」


「そんなことが出来るの?」


「普段は決して使わぬようにと言っておけば、テンならばそのようにするでしょう」


 祖国ララエールの決まりごとを頑なに守っている少年だ。

 シーラが言えば、必ずその通りにしよう。


「そうかなぁ?」


「あなたはそうではなかったんですね」


「だって魔術を使った方が楽なんだもの!」


 それでよく怪我をしているのかと、イルハは理解した。魔術が不安定になったとき、日常生活に支障が出るほどに、シーラは魔術を使い生きてきたのだ。

 だからタークォンでも……。


「今日はどこも怪我していませんか?」


「嫌だなぁ。そんなに怪我をしないよ!」


 タークォンで魔術を押さえているせいなのか、シーラはたまに怪我をして帰って来る。何があったのかとイルハは焦るが、シーラも覚えていないと言うのだ。

 それであとでテンに聞けば、そういえば店の扉にぶつけていたよ、石畳で躓いていたからじゃない、といった具合で、怪我の原因となった行動はすぐに見付かった。テンは記憶力もいい。賢い少年だから、シーラにも成長への期待があるのだろう。


「魔術を使えば、怪我をせずにいられますか?」


「たぶんしないよ!」


「たぶんではなく、お願いですから怪我をしないように気を付けてください」


「怪我というほどの怪我はないでしょう?」


 イルハはシーラの額を撫でる。痕になってしまったことが、イルハには悔しい。


「もう平気だよ?」


「このような怪我は二度とさせたくありません」


 イルハはシーラの顎の傷痕も撫でた。今の体勢の角度からは見えないが、こちらの方がずっと痛々しいことをイルハは知っている。


「魔術を許してくれたら、私はこの国の人たちに怪我をさせないようにするよ」


「あなたに怪我をさせたくないと言っているのですよ」


「イルハはこの国の人たちも大事でしょう?」


 イルハはシーラの両頬に手を添えて、瞳を見詰めた。顔が近く、互いの瞳に吸い込まれそうな距離である。シーラもまたイルハの瞳から視線を逸らさない。


「詳しく説明を」


 イルハが真剣な顔で言うと、シーラは優しく笑った。

 難しい話をしていたはずが、途中で甘い話に変わったのは言うまでもない。


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