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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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12.王子とイルハ


 昼下がり。王子の執務室にイルハが現れた。書類の束を抱えて。


「昨日は楽しかったぞ。礼を言う」


「えぇ。それではこの書類をご確認頂き、問題なければご承認をお願いいたします。こちらは先日協議しました教育法に関する書類で…」


 イルハの言葉と共に、王子の机上にいくつもの分厚い書類が重ねられていく。王子はあからさまに嫌な顔を見せた。


「お前が承認してもいいんだぜ」


「いいえ。殿下のお立場になければ、承認出来ない書類です」


「とっとと宰相にでもなって、俺を楽にしてくれ」


 イルハは特に答えなかった。すぐに部屋を辞そうとする。彼はとても忙しいのだ。そしてまた、早く仕事を終えたい理由があった。


「待て、待て。少し話し相手になっていけよ」


「彼らに頼めば宜しいのでは?」


 王子の後ろには、別の大きな部屋がある。開かれた扉からは、書類の山と格闘する役人たちの姿が見えた。入口側ではない部屋の三方の壁面には、高い天井まで棚が設置されていた。彼らは梯子を使って、その棚へと書類を収めている。書類を棚に収める、それだけの仕事だが、書類の数が多過ぎて大変な重労働となっていた。とても一人では行えない仕事で、三人もこれに従事している。


「仕事の邪魔になるだろう」


「私も就業中ですが?」


「少しくらい付き合えよ。珈琲でも飲んでいけ」


「仕事が溜まっておりますので、遠慮させて頂きます。殿下もお時間があるなら、早くご承認を」


「いいじゃねぇか。休憩くらい」


 イルハはため息を漏らすと、渋々と王子の後に続いた。


 執務室から間続きとなっている入口から見て右隣の部屋は、よく陽射しが入る明るい部屋だ。王子が寛ぐためだけの部屋で、いくつかのソファーと立派なテーブルが置かれていた。


「ほら、座れよ。おい、珈琲を二つだ」


 イルハが促されて座った場所からは、窓の向こうによく街が見渡せた。あの中のどこかに、まだシーラが居るのだろう。今日もきっと、リタと共に街を巡っているのではないか。

 イルハが帰宅すれば、リタの作った美味しい夕食を堪能しながら、今日の出来事を楽しく報告してくれるはずである。


「シーラはいつまで居るんだ?」


「もう数日で発つそうですよ」


「引き留めねぇのか?」


「何故、私が」


 運び込まれた珈琲を堪能しながら、イルハは少しの苛立ちを飲み込んだ。


「引き留めりゃあ、喜んで居座りそうだがなぁ。お前に懐いているように見えるぜ?」


「彼女は少しばかりこの地に立ち寄った旅人ですよ。この国に残る理由はありませんし、次の予定も決まっています」


「だから何だ?それを引き留めりゃあ、いいじゃねぇか」


「人の自由を奪うものではないでしょう」


「そうやって、物分かりのいい振りをしていたら、手に入るものも入らなくなるぜ」


「元より手に入るようなものではありません」


 王子は不敵な笑みを浮かべて、しばしイルハを眺めた。


「どうされました?」


「手に入れたいと思ったんだな?」


 イルハは笑いもしなかった。


「素晴らしい発想力に感服致しますよ」


「ほぅ。では、見合い話を受けるか?警備省長官のアルバーンの娘だ」


 イルハは珈琲の器を丁寧にテーブルに置くと、まっすぐに王子を見返した。


「殿下、未熟者の私がそのお話を受けるわけには参りません」


「宰相となるには、またとない話ではないか?警備省は厄介だぞ」


「そろそろ業務に戻ります。お気遣いに御礼申し上げます」


 イルハは立ち上がり、頭を下げて、部屋を辞した。

 王子が「やれやれ」と零したのは、イルハが去って、重たい扉が閉まってからである。


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