14.魔法の少年
「美味しかったよ、リタ。ありがとう」
リタの焼いた焼き菓子と温めたミルクを貰ったテンは、すぐに席から立ち上がる。
テンは十二歳ながら苦い珈琲も飲めたが、テンだけになるとリタはいつも温めたミルクを用意した。十二歳の少年に珈琲はやや早いと考えていたからだ。
「テンちゃん。退屈していないかしら。どこか出掛けてもいいわよ?」
「今日はいいや。魔法の練習をしたいから、部屋にいるね」
「新しい道具はそんなに面白いかい?」
「まぁね。部屋にいていい?」
「もちろんよ。ゆっくりしていらして」
リタとオルヴェの温かい眼差しもさっと受け流し、テンは与えられた自室に戻った。
扉を閉めて、本来ならそこにいるはずのない男に視線を向ける。貴公子のような身なりの良い男が、椅子に腰掛け、足を組んでいた。
「焼き菓子だけど、食べる?」
テンは懐から紙に包んだ焼き菓子を取り出した。テンが焼き菓子を失敬したことなど、リタたちは気付いていないが、テンが部屋でも食べたいと言えば、リタは沢山の焼き菓子を持たせてくれただろうに。少年は考えがまだ幼かった。
「これは有難いね」
「お茶なら、そこにあるから勝手に飲んでいいよ」
テンはベッドに腰掛けた。ベッドには魔法に使う小道具が散乱している。
「シーラはすぐに帰って来ないと思うけど」
フリントンが現れたのは、リタが焼き菓子を食べないかと聞きに来る直前だった。だからまだ何の話も出来ていない。フリントンが「食べておいで。君の部屋で待とう」と言ったから、テンも素直に従い、甘い菓子を堪能してきた。今頃シーラは何を食べているのだろうかと想像しながら、シーラはこれも食べたいだろうから、食べ過ぎないようにしてあげようなどと考えていた。優しい少年である。
テンがこの家に残ったのは、この男のためではない。
「君と話してみたくてね」
テンの顔付きが変わる。明らかに不快さが滲んでいた。
「シーラは気付くよ?」
「僕の愛しいシーラなら当然さ。今頃怒っていようね」
「怒られる前に帰ったら?」
「君と話したいと言ったね。話すだけだから、手を出すといい」
いつの間にか、テンの右手は懐に仕舞われていた。
「念のためだよ」
「それが僕には何の意味をなさないと知っているね」
「それでも念のためだ」
「君はもっと安心するといい。いつもシーラが守っているのだから、君には何も起こらない」
「自分の身くらい自分でなんとかしないといけないでしょ」
「出来ると思うのかい?」
テンが真剣な顔でフリントンを見詰めるも、フリントンは笑った。歌うような、例の笑い方で。
この笑い声は、何故かリタにもオルヴェにも届かない。
「君の今の状態は、シーラにとって重荷でしかないと知っているかな?」
「え?」
十二歳の少年らしい顔が垣間見え、フリントンは美しく微笑する。優しさなど欠片も感じないが、襲う気はなさそうだと思い、テンも少し気を緩めた。いい機会だから、どうせなら聞きたいことを聞いてみようと考える。それでも右手は懐に仕舞ったままだ。
「俺はシーラの重荷になっているの?」
「今の君の状態ならそうだね。この意味が分かるかな?」
「シーラのものになれば変わる?」
「さすがに賢い子だね。シーラが船に乗せるだけのことはある」
喜びを示さないようテンはよく気を付けたが、フリントンは少年の僅かな機微も見逃さない。また美しく微笑すると、先より少し優しい声で少年に尋ねた。
「君はずっとシーラの船に乗り続ける気かな?」
「そうだけど」
「それなら早いところものになることだ。そうすれば君はシーラの助けに変わる」
「シーラを助けられるの?」
「そうだとも。けれどもそれはシーラにしか出来ない。君がいくら願ってもものになれることはないね」
「もしかして説得してくれるの?」
期待した後に、はっとしてテンはフリントンから顔を背ける。急に恥ずかしくなったのだ。
「僕に協力するなら、説得してあげてもいいね」
「それならいいよ。自分でなんとかするから」
テンの答えは早かった。フリントンが歌うように笑えば、テンはここが海であるかのように錯覚する。
この人のいるところすべてが海みたいだ。シーラも海らしいけれど、この人はもっと海らしい。テンはそのように感じた。
「シーラの見込んだ子だね。僕の船に乗せてもいいくらいだ」
「あんたの船には乗りたくないよ」
「それは残念だ。僕の船にはシーラの船に乗りたがっている者がいるから、交換することも考えられたのだけれど」
「え!」
「君は誰だか分かるね?」
「もしかして……」
「君だけじゃないということを知っておくといい。いずれシーラは君以外も乗せるようになるだろうからね」
「シーラは他の誰も乗せないよ!」
「君だけが特別だと思えるのかい?」
テンは黙った。その答えは分からない。
けれども今までにないくらいに焦っている。他の誰かをものにして、船に乗せるくらいなら、自分を選んで欲しい。
「ところで君はまだ魔術を覚えないのかな?」
「シーラがまだ早いって……」
「重荷であり、魔術も使えない君を、シーラが選ぶだろうか」
テンは真っ直ぐにフリントンを見据えた。少年の顔には曇りがない。
「魔術ってどうしたら覚えられる?」
「僕が人に魔術を教えると思うかい?」
「思わない。だけど、覚え方ならどう?」
フリントンはご機嫌だった。いつもご機嫌な男であるが、シーラ以外の前で、ここまでご機嫌なことも珍しい。このまま一人で歌い出しそうな顔である。
「この家に長くいるといい。冬を越えて。その間に教えて貰えるだろう」
「どういうこと?」
「魔術を使える者は、海のものだけではないからね」
「あ!」
テンの脳裏には、あの老人の姿が浮かんだ。ところがフリントンは奇妙なことを言う。
「この家で学ぶことだ。彼にももう少し成長して貰わないといけないからね。教えることは、いい学びになろう」
「彼?」
「愛しいシーラを預けたのだから。それなりの責を負ってもらうさ」
「もしかして……」
窓が開く。夏の生温い風が吹き込んできた。瞬間、フリントンの姿が消えている。
テンは窓に近付き、外を見やった。誰も存在していない。同時に気になる気配も消えていたから、フリントンが何かしたのかもしれないと考えた。
「あの人、何なんだろう?」
あとでシーラにどのように伝えるか。テンは考えながら、ベッドの上に散らばる魔法の小道具をひとつ手に取った。
シーラは魔術を教えてくれない。それなら他の人に教わればいい。
おじいちゃんに教わればいいのかと思ったけれど、もしかしてもっと身近なあの人が?
どうお願いしたらいいのだろう。シーラは嫌がるのではないか。先にシーラに伝えて許可を得るべきか。そもそも本当にあの人なのか。
テンは考えながら、新しい魔法を習得していく。魔術ではない、ただの手先の器用さがなせる魔法だ。




