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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第三章 警鐘

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12.高貴な夫婦


「おはよう、キリム。今日はどうしたの?」


「シーラが会いに来てくれないものだから、遊びに来てしまいましたわ」


 王子の正室の登場には、普段王子に慣れているオルヴェとリタも戸惑うことになった。そうでなければ、イルハの部屋に何度も声を掛けるようなことはなかっただろう。王子一人なら待たせても平気というのはあまりに無礼だが、その通りだった。


 王子の正室は、庶民に姿を見せていい存在ではない。ところでタークォンでは王子も気軽に姿を見せてはいけない存在なのだけれど、それは置いておこう。

 王子に限った話ではなく、高貴な身分の者は妻の顔を隠し、他の男には見せないようにする。本来ならイルハの妻となったシーラも、顔を隠して出歩くところだ。誰もシーラにそれを強要しないのは、特例中の特例だった。


 キリムがレンスター邸宅に入るなり、堂々と顔を晒してしまったので、少しのことでは動じないオルヴェも目のやり場に困り、二人を通したリビングには入らないようにしていた。一人で接客することになったリタも、高貴な女性を前に少々の緊張を感じている。


 そんな異質な空気も、シーラがリビングに顔を見せたところから変わった。シーラがいつもと変わらぬ様子でキリムに話し掛けるから、リタもオルヴェも楽になれたのだ。


「おはよう、リタ!沢山寝たから、お腹が空いちゃったよ!昨日のパンとジャムを食べていい?キリムも食べる?」


「ご馳走になっていいのかしら?」


「もちろんだよ。昨日テンと一緒にパンとジャムを沢山買ってきたんだ。凄く美味しいから、楽しみにしていて」


 とても遅い朝食が用意された頃、イルハが遅れてリビングにやって来る。リビングにはオルヴェの淹れた珈琲のいい香りが漂っていた。


「ゆっくり寝ていやがるじゃねぇか」


「休日ですからね」


 含みたっぷりにイルハが返せば、王子は苦笑するも、キリムは可憐に笑った。


「休日に押しかけて、申し訳ありませんわ。殿下のお顔も見たくない日でしたわね」


「滅相も御座いません。臣下に休暇などあってないようなものです」


 淡々と言うわりに、不服そうな顔である。シーラまで良く笑った。


 それで何故か、皆でパンとジャムを共に食べることになった。

 リタやオルヴェ、それからテンが同席しなかったのは、三人ともすでに朝食を終えていたからだ。それで四人をリビングに残して、それぞれに好きなように過ごしている。リタとオルヴェも緊張は解けていたが遠慮はあったし、イルハもまた、同席せずに下がっていいと伝えていた。使用人を区別したのではなく、リタたちに気を遣ってのことだ。


「美味しいパンね」


「でしょう!とっても美味しいから、また買いに行こうと思っているんだ」


「どちらのパン屋さんかしら?」


「ルックとサリーのパン屋さんだよ。二人は夫婦でパンを作って売っているんだ」


「お店はどの辺りにあるの?」


「北の方だよ!」


「北の公区の近くです。このジャム屋も同じ区域にあります」


 イルハが補うと、シーラはきらきらした瞳でイルハを見詰めるのだ。イルハがとても凄いことを言ったような顔をしているが、そんなことはない。


「ジャムも素晴らしい味ね。殿下、今度このパンとジャムを仕入れて、後宮の者たちに配ってくださるかしら?」


「後宮の料理人に頼んだらどうだ?お前が言えば、パンもジャムも好きなように作ってくれるぜ」


「こちらのパンとジャムを食べたいんですの」


 王子は渋々と同意した。食べに行けばいいじゃねぇか。と思うが、確かに北の公区まで距離がある。一人ならまだしも、キリムを連れて移動するのは面倒だった。


「お前ら、よくそんなところまで歩いたな。馬車を使ってもいいんだぜ?」


「歩くから楽しいんだよ。途中のお店や景色も見られるでしょう!」


「そうかぁ?」


 王子は自由で羨ましいと思いながら、丸いパンを頬張った。昨日買ったと聞いたのに、翌日までふんわりとした状態を保っていて、いいパンだと思う。それから王子は杏子のジャムが気に入った。この甘酸っぱいジャムと、ほんのりと甘いパンがよく合うのだ。

 確かにこれは仕入れてもいいなと、考え始める。


「シーラ、今日の予定はどうなっているかしら?」


「予定は決まっていないよ。ねぇ、イルハ」


 決まっていたのではなかったか。と思ったけれど、イルハは黙って頷いた。確かに約束したわけではないし、休日は明日もある。が、不満は、不満だ。シーラに対する不満はないが、不忠者と言われようと、休暇に会いたい人らではない。


「それならいいな。美味いもんでも食いに行かねぇか」


「わぁ、素敵!どこに行くの?」


「街の南側にまた新しいお店が出来たそうなんですの。珍しいデザートが食べられるそうだわ」


「南側なんだね?じゃあ、ラジーのお店でピザも食べようよ。デザートが先がいいかな?それともピザ?ねぇ、イルハ。どちらがいい?」


 これで昨夜二人が考えた予定も水の泡だ。


「すでに昼時で、パンも食べていますから、先にデザートを食べて、夕食にピザ屋でどうです?」


「わぁ、素敵!テンも誘わないとね。テン!起きている?ちょっと来て!」


 シーラが大きな声で叫ぶと、テンはすぐにリビングに顔を出して、シーラの隣に立った。そこが定位置であるかのように、人数が多くても足取りに迷いがない。

 早く起きていたテンは、早朝からオルヴェと共に庭いじりをしていたが、暑くなってきた頃に家に入った。それで暇を持て余して、与えられた自室で手品、もとい魔法の練習をしていたところである。

 テンとキリムは初対面だ。


「まぁ、可愛らしいわ。あなたがテンね」


 キリムが美しく微笑むと、テンは無表情のままに頭を下げた。


「テンって言うの。ほら、テン。キリムだよ」


「……どうも」


「仲良くしてくださるかしら?」


 テンは何も返さなかったが、シーラは座ったまま手を伸ばして、テンの赤毛を撫で回した。テンはいつも通り、視線を外に向けて大人しくシーラの手が止まり、離れるときを待っている。


「テンは照れ屋さんなんだ」


「照れていないよ」


「それでね、テン。今日はキリムたちと美味しいものを食べに行くことになったんだけど、一緒に行こう!」


「俺はいいや」


 断られたシーラが、目を丸くする。


「美味しいデザートのお店に行くんだよ。それからラジーのお店でピザも食べようかと思っていて」


「今度シーラが連れて行ってよ」


「それもいいけど。一緒に行かなくていいの?」


「今日は行かない」


 テンはくるりと体の向きを変えて、リビングから出て行ってしまう。シーラが「えー」と叫んでいるのに、振り返りもしない。


「どうした?喧嘩中か?それとも反抗期か?」


 王子が言えば、シーラは冗談でも言われたようによく笑った。


「キリムがとっても綺麗だから、照れていたのかも!」


「あいつにもそんなところがあったのか?」


「冗談だよ、王子。本気にしないで」


「お前の冗談は分かりにくいな」


「王子の冗談だって分かりにくいよ」


 シーラが乾いた笑い声をあげると、イルハも薄い笑みを浮かべた。キリムがこれを面白そうに観察している。


「テンはどうする気だ?」


「テンは一人でも遊べるから、置いて行っても大丈夫だよ。今、パンをいっぱい食べたけど、どうするの?もう少し休んでから、出掛ける?」


「シーラの言うように、歩いて街を見たいわ。歩いているうちに、お腹も空きましょう」


「そんなに歩けるのか?」


「嫌なら殿下はお帰りになってよろしいですわ」


「嫌とは言っていねぇぞ。俺はお前を心配して言ったんだ」


「まぁ、お優しいこと」


「ったく。思ってもいないような顔で言いやがって」


 目を丸くして二人を見ていたシーラは、横を向くと、隣に座るイルハと目を合わせた。二人は優しく笑いながら、視線だけで会話をしている。


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