表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第三章 警鐘

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

115/136

11.夫婦の時間


 妻を自由にさせていたイルハにも、ちょっと違う問題が起きていた。


 レンスター邸宅の夕食が、これほどあっさりと終わることはいつ以来か。それがシーラとテンが二人だけで出掛けた日から続いている。

 夜のシーラは言葉数も少なく、急いでリタの用意した料理を食べ終えると、イルハの部屋に籠った。湯浴みなども、あっという間に終えてしまう。

 それでイルハも、妻を追うように早急に食事を終えて、湯浴みを済ませると、もう部屋から出て来なくなった。


 何故二人がイルハの部屋に戻るのかと言えば、オルヴェは夫婦の部屋を作ろうとしたが、イルハがそれを断ったからだ。

 イルハが旅立つ前にオルヴェはこの長い休暇のようなときを掛けて、夫婦の部屋を作っておくと提案したが、イルハはこの提案を受け入れなかった。妻が望むならば、イルハはいくらでも素晴らしい部屋を用意しただろうが、イルハの妻は広く豪華な部屋など必要としていない。

 それでイルハの自室がそのまま夫婦の部屋になり、ベッドも変えず、一人用のベッドを共に使っている。

 とは言っても、イルハのベッドは十分に広いのだけれど。誰が何と言おうと、イルハはここタークォンでは高貴な身の上にあり、家も家具も調度品も衣服も、何もかもが贅沢な仕様となっていた。もちろん、王子のところとは比較するにも及ばない。あの場所はまた別格だ。


 リタとオルヴェは、これ幸いと、夕食後にテンとよく話すようになった。それでテンが少し困っていることなど、二人は思ってもみないことである。顔に感情を示さなかった少年のせいなのだけれど、まさかテンを養子とする希望が遠のいているなんて、リタたちは考えもしていなかった。



 イルハが自室に戻ると、今夜のシーラはベッドに横向きに寝転がり、本を読んでいた。小柄なシーラには、過ぎるほどに広いベッドだ。


「読めそうですか?」


 ベッドに腰掛けながら、イルハは問うた。読書中に話し掛けることに躊躇がないのは、毎夜この通りだったからである。


「うーん。難しいね。字体が違うだけで、ノーナイトやカコエサインあたりと似ているのかと思ったんだけど、まったく違うんだ。これは時間が掛かりそうで、面白いよ」


 読めない本を面白いと言う。不思議な娘を妻にしたものだと、イルハは思った。こういうところが自慢の妻でもある。


「今日のこと、聞いてはいけませんか?」


「読みながらでもいい?」


「もちろん構いません」


 イルハもベッドに横になった。二人で毛布に包まるには、少し暑い夜である。

 ユメリエンなどを知ってしまうと、タークォンの夏は涼しく感じるが、寝苦しい夜もあった。今夜は少々蒸し暑い。それでもイルハはシーラのお腹に腕を回し、体を寄せた。


「お昼はね、ラジーが教えてくれたパン屋さんに行って、パンを沢山買って、それを外で食べたんだ」


「街の北側に行かれたんですよね」


「そうなんだ。パン屋さんの近くに広い花畑があってね、とても綺麗なお花が咲いていたから、そこで食べたんだよ。これが最高だったの」


「北の公区ですね」


「公区?」


「王宮で管理している花畑なんですよ」


「入って大丈夫だった?」


「皆に解放されている場所ですから、問題ありません。お昼を食べている者もたくさんいたでしょう」


 シーラはイルハに背を向け、横になったまま頷く。


「それでそこにいた人たちが飲み物やスープを分けてくれたんだけど、パンに使うジャムも分けてくれて。それが近くのジャム屋さんのものだったから、食べた後はそこに行ってきたの。今日買ってきたのはそこのジャムなんだよ」


「明日の朝が楽しみですね」


 サチベリーだけでなく、数種のジャムをシーラたちは買ってきた。それは同じく二人が買ってきたパンと共に、明日の朝食に味わう予定である。


 会話が途切れると、シーラは本の文字を指でなぞった。イルハもシーラの肩越しに、同じ本を眺める。確かにこれは難しそうで、イルハも見たことのない字体であった。それも筆で書かれたような字が連なっていて、どこまでで一文字で、どこで文章が途切れているのか、それも分からない。


「ねぇ、イルハ。コーレンスの文字は読める?」


 イルハが黙って本を見ていたら、シーラが突然言った。


「コーレンスなら、発音のし方まで分かりますよ」


「わぁ、凄い。あとで買って来た本を読んでくれる?」


「えぇ、もちろん」


「それでね、イルハ。シャランソとコーレンスの本を見比べてみたんだけどね。なんとなく似た感じがあって、コーレンスの言葉を理解したら、シャランソの言葉も理解出来そうな気がするんだ」


 シーラはこう言うが、二国の文字は似ていない。イルハの知っているコーレンスの字と、シーラが読んでいる本の字は、とても重なるようには見えなかった。シーラは知らぬ言葉をどのように解読していくのか、イルハそこにこそ興味がある。


「似ていますか?」


「なんとなくね。同じではないよ」


「距離的にはあちらの方がシャランソに近いので、何かしらの影響があったと考えられなくもないですね」


「コーレンスもほとんど海が凍っているんだものね」


「えぇ。シャランソほどでないにしても。わずか三ヶ月の間しか、他国と通じることは出来ませんから」


「それなら冬の海を渡っているのかもしれないよ。それで交流があるのかも!」


「……あなたは渡れるのですか?」


 そんなはずはないと知って、聞いている。ここまで偽られていたら、イルハでもショックを受けよう。


「まさか!渡れたら、こんなに考えないよ」


「そうですよね。では、渡れる人間を知っていると」


「フリントンみたいなおかしな人は、冬の海を渡るよ」


 冬の海も渡るのか。あの男、底が知れなさ過ぎて、恐怖を感じない。これは良くないと、イルハは気を引き締める。ここで引き締めたところで、妻の前だから、イルハは自然と気を緩めてしまうのだけれど。

 何故か分からないが、シーラの夫である限り、フリントンは自分を追い詰めない。それだけは確信出来た。信用に足る男とは思っていないが、それでもあの男がシーラを特別に大事に想っていることは、疑えないでいる。夫として悔しくも、変に信頼を寄せてしまうのだ。


「そうだ、イルハ。今度のお休みは、ラジーのお店で食事をしよう!とても美味しかったから、イルハを誘いたかったの」


「ラジーは確か、ピザ屋の主人でしたね?」


 シーラは近頃沢山の店の者の名を口にしていた。イルハはこれをすべて覚えているのだろうか。


「凄い!よく覚えているね」


「記憶に残っていたんですよ。確か新しい店でしょう?」


「新しかったんだ?」


「出店の申請書を見た覚えがあります。そこにラジー・ハーラルという名があったかと」


「イルハってそんなことまで覚えているの!」


「すべてではありませんよ。タークォンは古くから続く店が多いので、新しい店の申請は少ないんです。それで印象に残っていました」


「そうだったの。じゃあ、ほとんどは古くからあるお店だったんだ。あの石鹸屋さんは?」


「あの店も古くから存在していますよ。今は若い女性が経営されていますが、その方のおばあさまの代には、すでに石鹸屋を営んでいたはずです」


「そんな前からあったんだ!いい石鹸だよね」


「えぇ。今日も使わせていただきました。あなたも使いましたね?」


「うん。とっても気に入っちゃった!」


 石鹸の残り香はちょうどよく薄まって、最近の二人はいつも同じ優しい香りに包まれていた。石鹸屋の女性が言うには、これは疲れが取れる香りなのだとか。いつも忙しいイルハに、シーラからの贈りものである。

 イルハはここで、シーラが毎度店員の名前を聞いているわけでもないと気付いた。シーラが店員の名を知るのは、料理屋だとか、試食、試飲の出来る食材店が多い。

 何度も通う場所では、名を確認するのかもしれない。店員と親密になって、より良いサービスを受ける意図もあるのだろうか。


「イルハのために買ったのに、私まで使って良かった?」


「夫婦ですから、そういう区別はいらないのでは?」


「ふふ。それもそうだね」


 この石鹸の香りには、さらに効能があった。心が落ち着く効果があって、それで夫婦仲が良くなると言う。だからシーラはこの石鹸を選んだのだ。お互いを探り合う、良くない時間が減りますようにという願いを込めていたことまではイルハには伝えていないが、イルハも気付いているのではないか。シーラを探る言葉が、以前よりは減っている。


「テンはどれを使ったんだろうね?」


 それぞれに合う石鹸を買ってきたのだけれど、リタはそれをすぐに使えるようにと、全ての石鹸を浴室に並べてしまった。おかげで浴室にはすべての匂いが重なる混沌とした香りが充満することになって、オルヴェなどはいつまでも慣れず、浴室の扉を開けるたびに咽ている。


「分かりませんが、私たち夫婦用と書かれていましたので、同じものは使っていないのでは?」


「皆も使っていいのにね」


「私は嫌ですね」


「嫌なの?」


「二人だけの香りというのは、特別で素晴らしいものでしょう」


「石鹸は沢山売っていたんだから、同じ石鹸を使っている人もいるよ?」


 シーラがきゃっきゃっと笑ったのは、回されたイルハの手がくすぐったかったからだ。イルハは同じ香りをまとう妻を抱き締め直そうとしただけである。そのついでに、直接触れたくなって、寝間着の中に手を入れたせいもあるが、イルハはシーラが笑っても手を引かなかった。


「それでもあなたと同じ石鹸を使い、同じ香りを特別に思いたいんです」


「もう。イルハって面白いんだから」


 シーラの笑い方が、くすくすとした落ち着いたものに変わる。イルハの手は、シーラの肌の上に落ち着いた。


「リタとオルヴェも同じ香りの方が良かったかな」


「それぞれに違う香りもまた楽しいでしょう」


「そうだといいけど」


「今度は一緒に買いに行きませんか?次はまた違う香りを選んでも楽しいでしょう」


「それもいいね」


「ところでブランデーですが」


「……まだ怒っているの?」


「いえ。売った方が悪いので」


「え!エイムが捕まっちゃうの!」


 エイムというのは、ブランデー屋の店主の男のことである。高齢の男で、ゆくゆくは息子のエイメンに店を譲ろうとしていた。エイメンは配達中でシーラには会っていない。

 このエイムから、シーラは二度もブランデーを購入した。一度目のときにオルヴェは大層喜んだから、シーラは別のものも買いたくなったのだ。けれども二回目のブランデーを渡したときには、オルヴェも心配になって、もうブランデーは買わなくていいと伝えている。


「冗談ですよ。あなたも二十歳を越えているように見えたのでしょう。ですが、気を付けてくださいね」


「良かった。私のせいで、エイムがどうにかなったらどうしようかと思ったよ」


「エイムを裁くなら、まず私は自身を裁かなければなりません」


 シーラはよく笑った。確かにそうだ。もうこの家では、堂々と酒を飲んでいる。イルハの部屋だけの話ではない。今夜も夕食のときに、サチベリーのお酒を飲んでいた。リタもオルヴェも、当然のようにシーラにグラスを渡す。これにイルハも異を唱えない。


「あなたはブランデーを好みませんよね?」


「そんなに好きではないかもね」


「選ぶのは大変ではありませんでしたか?」


「そうなんだ。それで沢山試飲をさせて貰ったら、中には私にも美味しく感じるものが……」


「聞かなかったことにしておきます」


 イルハのこれは冗談だから、シーラも笑っている。

 シーラはすっかり気を楽にしていた。今日のイルハは、深いところまで追求しない。


「今度一緒に行ってくれる?」


「いいですね。私もあなたの気に入ったブランデーを知りたいです」


「イルハもきっと好きだと思うんだけど。イルハのためにも買ってきたら、怒られちゃうかなぁと思って」


 シーラはくすくすと笑いながら言った。こちらも本気では言っていない。


「まだ本を読みますか?」


「そろそろ寝ようかな」


「もう寝てしまいます?」


「この香り、本当に眠くなるよね」


 本を閉じたシーラの首筋に、イルハはキスをした。イルハはずっと待っていたのだ。このために邪魔をしていると言っても過言ではない。イルハの手はシーラの滑らかな肌を滑る。時折傷らしい凹凸に触れるが、イルハは全部知っているから、それも大切に撫でるだけである。

 シーラが身をよじって、言った。


「イルハは疲れないの?」


「私が元気だとすれば、疲れが取れる石鹸のおかげでしょう」


「そんなに効いたの?」


「それはもう。あなたが私のために買ってくれたと思えば、効果も高まります」


 くすくすと笑うシーラの耳にもキスをする。すぐに笑いは収まり、シーラから甘い吐息が漏れた。


「知っていましたか?明日は休みなんですよ」


「明日だったの!」


 シーラに曜日感覚が備わらない。こういう部分では、どうしても海にあるらしい。その違いも今や悲しくはなかった。妻が休日を覚えられないならば、イルハが毎回伝えればいい話だ。


「えぇ、ですから明日は時間を忘れて眠ることが出来ます」


「そう言って、イルハは早起きするよね?」


「明日は分かりませんよ」


「えー?本当かなぁ?」


「早く起きたら、ラジーの店に行きましょうか?」


「それもいいね!テンも一緒にいい?」


「もちろんですよ。リタたちも連れて行きましょうか?」


「わぁ、それは楽しいね」


「せっかくの休日なので、二人でも出掛けたいと言っても構いませんか?」


 また首にイルハの唇が触れると、シーラからため息が漏れた。

 シーラの声の質が変わっている。


「テンは淋しくないかな?」


「食事の後に、リタとオルヴェがどこかいい場所に連れて行ってくれるでしょう」


「いい場所なら、私も一緒に行きたいな」


「私も特別ないい場所にあなたを連れて行くと約束しますよ」


「特別ないい場所があるの?」


「えぇ。特別なあなただけを、とっておきの場所に」


 おしゃべりは続いていたが、少しずつ言葉が減った。

 ところがそれがまた増えていく。今度は甘い言葉の羅列だ。それに吐息が加わって、甘美なため息が漏れ、気が付けばイルハの部屋には静寂だけがあった。

 香りの効果は間違いなかったようで、少々長めの甘い時間のあとには、同じ香りが夫婦を深い眠りの淵へと導いた。


 二人の眠りは深く、珍しいことに二人とも正午近くまで起きなかったのだ。タークォンにあるときのイルハが休日にゆったりと目覚めるようになりつつあるのは、妻の影響だろう。


 目覚めてもイルハはシーラを腕から離そうとしない。愛する妻をベッドに留めて、もうしばし夫婦のときを楽しむことも、休日の朝に組み込まれた幸せな予定である。

 ところがこの日はそうできなかった。迷惑な客が現れたのだ。

 イルハは寝たふりでもしていようと思ったが、何度も扉を叩くリタに起こされて、渋々と妻と一緒に体を起こした。不満気なイルハをシーラが諭し、また少し甘い時間が流れて、それで結局客人を待たせることにはなったのだけれど。


 休日の意味を一から説明した方がいいだろうかとイルハが無礼なことを呟けば、シーラは起きたばかりだというのにお腹を抱えて笑った。


「イルハって面白くて大好き!」


 今日も妻が喜んでくれて嬉しくなったイルハは、シーラをベッドに引き戻す。このようなことだから、二人はなかなか部屋を出られない。

 イルハも妻のためなら、面白い男になれた。しかし主君のために、そのような男になるつもりが微塵もない。それにイルハの主君が求めている面白さは、妻が望むそれとはまったく違っているだろう。

 このままのイルハを、シーラは楽しんでくれるのだから。そのイルハを主君が気に入らないなら、それまでだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ