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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第三章 警鐘

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6.真夜中の蔵


 湯浴みを終えたイルハは、さらりとした綿の寝間着を羽織り、部屋に戻った。ところが先に湯を浴びたはずの妻がいない。

 毛布を持って自室を出たイルハは、長い廊下を渡る。

 廊下の終わりを告げる重たい石の扉をゆっくりと押し開くと、いつもの強烈な香りが鼻に届いた。中に灯りがついている。


 蔵の中は相変わらず本でいっぱいだった。本を収める木製の棚からは、独特の香りが溢れている。

 その蔵の床に敷かれた小さな絨毯の上に膝を立てて座り、シーラは本を読んでいた。そう広くない蔵だが、ポツンと座っているシーラの姿は、いつもより小さく見えた。


「湯冷めしますよ。羽織ってください」


 妻に毛布を掛けたイルハは、隣に座った。


「ここにも椅子を置きましょうか?」


「うぅん。この絨毯、気持ちいいよ」


 タークォンは靴を脱ぐ習慣があるし、家が石造りで冷えやすいから、敷物を使う家が多い。イルハの家も、あちこちに絨毯が敷かれている。


「本を増やした?」


「あなたが居ない間に、私が本を買って読んでいただけですよ」


「私のためじゃない?」


「本当に私が読んだ本が増えているだけです」


 シーラがほっとした顔を見せる。何が嫌か、イルハには分かっている。

 近頃イルハは、モンセントの姫君のことをよく思い出した。一度会っただけだが、あの姫はきっとシーラを引き留めるようにいつも頑張っていたはずだ。それはシーラにとって逆効果であっただろう。今までの自分も同じことをしてきたけれど、これからは少し考えを改めなければならない。

 幸いなことに、自分はあの姫のように幼くもないし、関係も変えられた。夫婦なのだから、考えようはいくらでもある。


「イルハも冷えたら困るよ。入って」


 イルハは一度シーラに掛けた毛布を取ると、自分の肩に毛布を掛け直し、後ろからシーラを抱き締め、毛布で包んだ。シーラもイルハの胸に背中を預け、回された腕に左手を置いた。右手はまだ本を持っている。


「部屋で読んでいいですよ」


「もう少しだけ。イルハは先に寝ていいよ」


「そんなに困らせていますか?」


 シーラが答えないから、イルハはさらに言葉を重ねた。


「追い詰めるつもりはありません。もっと話しましょう」


 顔を上げながら振り返ったシーラに、引かれるようにキスをする。離れたときに見えるシーラの優しい顔は、イルハをほっと安堵させた。


「やっぱりタークォンが冬の間は海に出ようと思うの」


「まだ先ですから、もう少し考えてみませんか?」


「だって海が凍るんだよ?」


 とても恐ろしいことのようにシーラは言う。それは夜が怖いと泣く子どもの顔に見えた。


「冬のタークォンは楽しいことが沢山あるんですよ」


「楽しいことはどこにでもあるんだよ。私は海の民だから、やっぱり海にある方が自然で」


「どこにあっても海の民ではないのですか?」


「そうだけど。ねぇ、イルハ。やっぱり私は……」


 ぎゅっと抱き締め、イルハはシーラ以外に聞かせたことのない優しい声でささやく。


「私はあなたといたいです」


「私だってイルハといたいんだよ。だけどね」


「もう少し考えてみませんか?」


「考えているうちに海が凍ったら?」


「いずれにせよ、まだ先の話ですよ。その前に収穫祭もあります」


「また船に穴が開いても困るよ?」


「あれは本当に失敗だったのですね?」


 シーラがびっくりした顔をして、イルハを見上げた。その驚きに、イルハは笑みを零す。


「イルハも考え過ぎだよ!私だって、大事な船に穴を開けたくないんだから」


「私もとはなんです?」


「テンも考え過ぎちゃうんだ」


 イルハはシーラの前髪を上げて、痛々しい傷痕にキスをした。


「これも考え過ぎですか?」


「テンと同じことを言うの?」


「あなたらしくはないと思いましたよ」


「わざと痛い想いなんてしないよ」


「だけど何か意味はありましたよね?」


「意味はないけど……」


「理由はあった?」


 シーラが子どものように口を尖らせる。


「…………イルハは何もかも分かって聞いているのでしょう?」


「分からないことだから聞いているんですよ」


「本当かなぁ?」


「私が嘘を付くと思いますか?」


「私は付くみたいに言わないで」


「そう聞こえたなら、謝ります」


「もう!イルハって面白くて、狡い!」


 イルハはいつも不思議な気持ちになる。

 二人になると、シーラはとても幼く感じられて、守らなければと思うのだ。けれども実際は、まだ自分が守られる側にある。何かあったとき、おそらく助けるのはシーラで、自分が出来ることなど限られていた。

 自分の力量を実際よりも高く見積もれないくらいに、イルハは賢い男である。

 今のまま守られる立場にいたいとは思っていない。だからと言って、早急に強くなれるわけもなく。イルハも格闘中だ。


「怪我なんていつもしたくないんだけど」


「月のものの影響があったことは、間違いないですよね?」


「嘘は付いていないってば!」


「隠すことはしますよね?」


「……今日はまだ聞くの?」


「今夜はこの辺にしておきましょうか」


 優しく笑ったあと、イルハは二度、三度と、シーラの額に残る傷痕にキスをした。シーラの潤んだ瞳がイルハを見上げれば、今度は唇を重ねる。柔らかく、甘く、互いの湯上りの匂いが香り、すでにこの蔵に充満する木の香りの存在を二人は忘れていた。

 熱く見詰め合っているというのに。シーラはいつも唐突に甘い雰囲気に合わないことを言う。


「ねぇ、イルハ。テンと二人でタークォンを見てきてもいい?」


「私がいるとまずいのですか?」


「イルハはお仕事があるでしょう?」


「それならリタに案内役をお願いしましょう」


「案内役なんて要らないよ」


「リタは一緒に出掛けられて喜ぶと思いますよ?」


「リタとも出掛けるけど、テンと二人でも出掛けたいの」


 妻に可愛い顔でお願いされたら、イルハは断れない。わざと甘やかしてしまうときに言い出したと分かっていても、許してしまうのだ。


「……いいでしょう。その代わり法を順守してくださいね」


「いいの!」


「法を守ることですよ。出来ますね?」


「もちろん!」


 それからシーラはさらに甘えた声で言った。


「だけどね、もしも、もし、ちょっと間違えちゃって、そんなつもりがなく捕まっちゃったら…」


「私の権限をいくらでも利用して、あなたを助けます。安心してください」


「わぁ、良かった!」


「もうひとつだけ。これも約束してください」


「なぁに?」


「私に知らせることなく、タークォンを出ていくことだけはしないでくださいね」


「分かっているよ。出るときは知らせるからね」


「それならいいです」


 イルハが何度もキスをするうち、シーラの体はイルハの腕に支えられている。


「お部屋に戻る?」


「そうですね。戻りましょうか」


 戻ると言っているのに、二人は毛布の中で抱き合った。この場所に誰も来ないことは、イルハがよく知っている。

 シーラを抱きながら、この腕を離すものかと、イルハは思う。何度も後悔してきたのだから。これ以上は自分が許せない。


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