6.真夜中の蔵
湯浴みを終えたイルハは、さらりとした綿の寝間着を羽織り、部屋に戻った。ところが先に湯を浴びたはずの妻がいない。
毛布を持って自室を出たイルハは、長い廊下を渡る。
廊下の終わりを告げる重たい石の扉をゆっくりと押し開くと、いつもの強烈な香りが鼻に届いた。中に灯りがついている。
蔵の中は相変わらず本でいっぱいだった。本を収める木製の棚からは、独特の香りが溢れている。
その蔵の床に敷かれた小さな絨毯の上に膝を立てて座り、シーラは本を読んでいた。そう広くない蔵だが、ポツンと座っているシーラの姿は、いつもより小さく見えた。
「湯冷めしますよ。羽織ってください」
妻に毛布を掛けたイルハは、隣に座った。
「ここにも椅子を置きましょうか?」
「うぅん。この絨毯、気持ちいいよ」
タークォンは靴を脱ぐ習慣があるし、家が石造りで冷えやすいから、敷物を使う家が多い。イルハの家も、あちこちに絨毯が敷かれている。
「本を増やした?」
「あなたが居ない間に、私が本を買って読んでいただけですよ」
「私のためじゃない?」
「本当に私が読んだ本が増えているだけです」
シーラがほっとした顔を見せる。何が嫌か、イルハには分かっている。
近頃イルハは、モンセントの姫君のことをよく思い出した。一度会っただけだが、あの姫はきっとシーラを引き留めるようにいつも頑張っていたはずだ。それはシーラにとって逆効果であっただろう。今までの自分も同じことをしてきたけれど、これからは少し考えを改めなければならない。
幸いなことに、自分はあの姫のように幼くもないし、関係も変えられた。夫婦なのだから、考えようはいくらでもある。
「イルハも冷えたら困るよ。入って」
イルハは一度シーラに掛けた毛布を取ると、自分の肩に毛布を掛け直し、後ろからシーラを抱き締め、毛布で包んだ。シーラもイルハの胸に背中を預け、回された腕に左手を置いた。右手はまだ本を持っている。
「部屋で読んでいいですよ」
「もう少しだけ。イルハは先に寝ていいよ」
「そんなに困らせていますか?」
シーラが答えないから、イルハはさらに言葉を重ねた。
「追い詰めるつもりはありません。もっと話しましょう」
顔を上げながら振り返ったシーラに、引かれるようにキスをする。離れたときに見えるシーラの優しい顔は、イルハをほっと安堵させた。
「やっぱりタークォンが冬の間は海に出ようと思うの」
「まだ先ですから、もう少し考えてみませんか?」
「だって海が凍るんだよ?」
とても恐ろしいことのようにシーラは言う。それは夜が怖いと泣く子どもの顔に見えた。
「冬のタークォンは楽しいことが沢山あるんですよ」
「楽しいことはどこにでもあるんだよ。私は海の民だから、やっぱり海にある方が自然で」
「どこにあっても海の民ではないのですか?」
「そうだけど。ねぇ、イルハ。やっぱり私は……」
ぎゅっと抱き締め、イルハはシーラ以外に聞かせたことのない優しい声でささやく。
「私はあなたといたいです」
「私だってイルハといたいんだよ。だけどね」
「もう少し考えてみませんか?」
「考えているうちに海が凍ったら?」
「いずれにせよ、まだ先の話ですよ。その前に収穫祭もあります」
「また船に穴が開いても困るよ?」
「あれは本当に失敗だったのですね?」
シーラがびっくりした顔をして、イルハを見上げた。その驚きに、イルハは笑みを零す。
「イルハも考え過ぎだよ!私だって、大事な船に穴を開けたくないんだから」
「私もとはなんです?」
「テンも考え過ぎちゃうんだ」
イルハはシーラの前髪を上げて、痛々しい傷痕にキスをした。
「これも考え過ぎですか?」
「テンと同じことを言うの?」
「あなたらしくはないと思いましたよ」
「わざと痛い想いなんてしないよ」
「だけど何か意味はありましたよね?」
「意味はないけど……」
「理由はあった?」
シーラが子どものように口を尖らせる。
「…………イルハは何もかも分かって聞いているのでしょう?」
「分からないことだから聞いているんですよ」
「本当かなぁ?」
「私が嘘を付くと思いますか?」
「私は付くみたいに言わないで」
「そう聞こえたなら、謝ります」
「もう!イルハって面白くて、狡い!」
イルハはいつも不思議な気持ちになる。
二人になると、シーラはとても幼く感じられて、守らなければと思うのだ。けれども実際は、まだ自分が守られる側にある。何かあったとき、おそらく助けるのはシーラで、自分が出来ることなど限られていた。
自分の力量を実際よりも高く見積もれないくらいに、イルハは賢い男である。
今のまま守られる立場にいたいとは思っていない。だからと言って、早急に強くなれるわけもなく。イルハも格闘中だ。
「怪我なんていつもしたくないんだけど」
「月のものの影響があったことは、間違いないですよね?」
「嘘は付いていないってば!」
「隠すことはしますよね?」
「……今日はまだ聞くの?」
「今夜はこの辺にしておきましょうか」
優しく笑ったあと、イルハは二度、三度と、シーラの額に残る傷痕にキスをした。シーラの潤んだ瞳がイルハを見上げれば、今度は唇を重ねる。柔らかく、甘く、互いの湯上りの匂いが香り、すでにこの蔵に充満する木の香りの存在を二人は忘れていた。
熱く見詰め合っているというのに。シーラはいつも唐突に甘い雰囲気に合わないことを言う。
「ねぇ、イルハ。テンと二人でタークォンを見てきてもいい?」
「私がいるとまずいのですか?」
「イルハはお仕事があるでしょう?」
「それならリタに案内役をお願いしましょう」
「案内役なんて要らないよ」
「リタは一緒に出掛けられて喜ぶと思いますよ?」
「リタとも出掛けるけど、テンと二人でも出掛けたいの」
妻に可愛い顔でお願いされたら、イルハは断れない。わざと甘やかしてしまうときに言い出したと分かっていても、許してしまうのだ。
「……いいでしょう。その代わり法を順守してくださいね」
「いいの!」
「法を守ることですよ。出来ますね?」
「もちろん!」
それからシーラはさらに甘えた声で言った。
「だけどね、もしも、もし、ちょっと間違えちゃって、そんなつもりがなく捕まっちゃったら…」
「私の権限をいくらでも利用して、あなたを助けます。安心してください」
「わぁ、良かった!」
「もうひとつだけ。これも約束してください」
「なぁに?」
「私に知らせることなく、タークォンを出ていくことだけはしないでくださいね」
「分かっているよ。出るときは知らせるからね」
「それならいいです」
イルハが何度もキスをするうち、シーラの体はイルハの腕に支えられている。
「お部屋に戻る?」
「そうですね。戻りましょうか」
戻ると言っているのに、二人は毛布の中で抱き合った。この場所に誰も来ないことは、イルハがよく知っている。
シーラを抱きながら、この腕を離すものかと、イルハは思う。何度も後悔してきたのだから。これ以上は自分が許せない。




