11.タークォンの王子
新しい風が吹いたのは、その夜だった。
「お帰りなさい、イルハ!」
廊下から玄関に飛び出して来たシーラは、目を丸くした。イルハの隣に、見知らぬ男性の姿があったからだ。
それでも物怖じはしない性格のようで。
「お兄さんもこんばんは!イルハの友人なの?」
「ほぅ、これはまた。面白そうな娘だな」
「面白い?ありがとう!」
男性はまじまじとシーラを見詰めて、片方の肘でイルハを突いた。
「民から恐れられている男が、綺麗な花を抱えたお嬢さんを連れて歩いていたなんて噂を聞いたからには、どんな娘かと思えば。お前はこういう娘が良かったのか?」
「その花は彼女が自分で購入したものですよ」
「一緒に歩いていたのは事実だろうよ。偉く楽しそうにしていたと聞いたぜ?」
「それは人の主観ですが、そのようなことを誰が言っていたのでしょう?」
イルハは顔色も変えずに淡々と言う。
「ったく。おい、娘っ子。こんなつまらねぇ男といて疲れないか?」
「イルハといると楽しいよ?」
「楽しいかぁ?」
「うん、イルハは面白いんだ。それに優しい!」
「殿下、もう確認出来たでしょう。どうぞお帰りください」
イルハはこの状況を終わらせようと試みた。しかし、それも無駄なこと。イルハ自身がそれをよく分かっていて、彼も少しの抵抗を示しただけだ。
「いいや。俺は音楽を楽しみに来たんだ。連日この家から、美しい音色が聞こえてくるそうじゃねぇか」
「もしかして、苦情があった?」
不安そうにイルハを見やるシーラの姿を、男性は再びまじまじと観察する。
普通の若い娘に見えるが、よく知る隣の堅物は、これのどこを気に入ったのか。
「いいや、逆だな」
「逆って?」
「噂のはじまりは警備兵だそうだが、夜間勤務中の奴らがやたらとこの辺りを往復しているらしい」
「それは困りましたね。私から警備省にきつく言い聞かせておきましょう」
「ほら、聞いたか?怖い男だぜ?」
「別に怖くないよ?」
「そうかね?」
「何で怖いの?」
「こいつは他の者を叱ってばかりなんだぜ?」
「イルハが叱るのは、その人が悪いことをしたときだけでしょう?」
「それもそうだ」
「それに、お兄さんもイルハを怖がっていないよ」
「当然ですよ、シーラ。この方は…」
イルハは男が頷くことを確認してから、続きを言った。
「我が国の第一王子殿下です。次期国王になられるお立場の御方ですよ」
「へぇー、王子かぁ。見えないね」
シーラは驚くこともなく、これを敬うこともなく、ただの感想を漏らした。
呆気に取られたのは、周りの方で。王子はひとつ間を置いてから、大きな声で笑い出す。
「申し訳ありません、殿下。この国にない旅人の戯言として、どうかお許しください」
「いや、いい。むしろ愉快だ」
「あ!ごめんね。王子様って言わないといけなかった?それとも、えぇと…」
王子の笑い声が止まらない。
「様なんていらねぇな。俺を敬う奴らは、この国の者だけで十分だ」
「そう?じゃあ、王子って呼んでいい?それとも別の呼び方がいい?」
「好きに呼べよ」
「じゃあ、王子でいいや。よろしくね、王子」
「いいやって、投げやりだな」
「ごめん。失礼だったら言って。失礼のないように頑張るから」
「頑張っても変わらなそうだな」
「そりゃあ、変わらないね」
王子の笑い声が一層大きくなった。
幼い頃の王子を知っているリタとオルヴェであっても、シーラの態度には困惑していた。礼儀を知らずとも、一国の王子を相手にすれば、それなりの礼儀を示すものではないか。
国を持たない旅人にとって、身分など無意味だということか。
「それで、お前の名は?」
「シーラだよ。シーラ・アーヴィン。シーラと呼んで」
「おう、シーラ。噂の歌を聞かせて貰えるか?」
「もちろん」
「その前に腹が減ったな」
「リタ、殿下にもお食事を」
「はいはい。かしこまりました。殿下、どうぞ、こちらに」
リタがこのように慣れているのも、この王子がしばしばお忍びでレンスター邸宅に現れるからだ。自由過ぎるこの王子は、イルハがまだ幼い頃から、イルハ含むレンスター邸宅の者たちを翻弄して来たものである。
だから王子と言っても、その存在は親しみを感じるところにあった。
そんな彼らも、今日ほどまでにこの王子に親しみを感じたのは初めてだったのではないか。それはもしかしたら、王子との付き合いの長いイルハでさえも、そうだったのかもしれない。
シーラがこの国にないおかげで、国に置いた身分が薄らいでいる。
しばし食事を堪能しながら、王子は積極的にシーラに話し掛けた。
「数日滞在して、この国はどう映った?」
「優しい国だね」
「法の多いこの国が優しいか?」
「それは私も不思議なんだ。法が多くても、優しい国は出来るんだね」
「俺の前だからって、そう褒めなくていいんだぜ?」
「王子の前だからじゃないけど、一つ残念なこともあるよ!」
「なんだ?」
「お酒が飲めない!私にとって、これほど残念なことはないね」
王子の笑い声が飛ぶのは、もう幾度目だろう。レンスター邸宅は、ますます賑やかになっていく。
「せめて収穫祭の時に来れば良かったな」
「収穫祭でも飲めませんよ、殿下。嘘を教えないでください」
「収穫祭って?お祭り?」
「えぇ、夏の実りを祝い、感謝するお祭りですよ。『恩赦のとき』とも言われていまして、この祭りの期間だけは、この国の法が少しだけ緩むんです」
「お酒は?」
「その法は緩みませんよ。未成年の飲酒は、如何なるときも禁止です」
「えー!酷いよ!」
「収穫祭は酒が飲めなくても楽しいぜ?屋台は出るし、朝までいくらでも飲んで、食べて、騒げるからな」
「そうだわ、シーラちゃん。収穫祭の頃にまた来たらいいわよ」
「収穫祭って、いつなの?」
「冬の直前だな」
「冬の前かぁ」
「予定が合わないか?」
うーんと考えてから、シーラはしばし腕を組んで考えた。
「この辺りは急に冬になるんだよね?」
「そうだな。祭りが終わって、十日もすれば突然冬になる」
「十日か。ぎりぎり大丈夫かな。また来てもいい?」
リタとオルヴェの顔が分かりやすいほどにぱぁっと明るくなった。イルハもまた、僅かながら口元を緩めている。それを見て王子がにやにやと笑っているが、イルハは気にも留めない。
それから王子は、シーラの奏でる音楽をたっぷりと堪能し、上機嫌でレンスター邸宅から去っていった。
「王子って面白い人だね」
「あなたも凄い人ですね」
シーラが突然ハッとしたかと思えば、青ざめた顔でイルハを見上げる。
「もしかして、イルハが叱られる?」
「大丈夫ですよ。あの方はそういうことをしませんから」
泣きそうな顔にも見えたシーラの顔が、笑顔に変わった。
手を伸ばし掛けていたイルハは、慌ててその手を引いて、最初からそのつもりであったように反対側の二の腕に添えた。自然と腕を組む形を取る。
「イルハは、王子付きなの?」
「かつてはそのようなときもありました」
「かつて?外されちゃった?」
「そうではありませんよ」
イルハはとても穏やかに微笑んでいた。
「幼いときの話です。今は仕事がありますからね」
「仕事のために、付き人じゃなくなったの?」
「元からそういう予定だったのですよ。それに今も仕事において関わりがありますし、立場上の関係はかつてとあまり変わりません」
「仕事でも関わるの?」
「あの方は、私のいる法務省を含む、複数の省を管理するお立場にあります」
「へぇ。王子も仕事をするんだ」
「王になるための、準備のようなものなのでしょう」
「じゃあ王子って、イルハの上司なの?」
「仕事では、そうなりますね」
「上司がいい人で良かったね、イルハ」
「なんとも返答がしにくいですねぇ」
「いい人じゃないの?」
「もっと返答出来なくなりました」
シーラはとても楽しそうに笑った。それでイルハも気が付いたら笑っていた。




