5.近くて遠いもの
楽しい食事の後に始まった美しい音楽は、レンスター邸宅の敷地の外へも漏れていた。警備兵が過剰なほどに邸宅周りを警備しているのは、王子がお忍びで遊んでいるせいだけではない。
多少のことには驚かなくなってきていたトニーヨも、今宵はまた驚かされた。イルハがルードを奏で歌っていたからだ。
シーラの奏でるオルファリオンとイルハの奏でるルードはどちらも弦楽器であるが、重なると深みのあるいい音になる。そこにシーラとイルハが高低差を取って合わせた歌声がまた美しく共鳴するのだ。
トニーヨは目の前で織りなされる音楽に深く感銘し聞き入った。隣の王子も目を閉じて、美しい音楽を堪能している。
ところで、この場にはテンがいない。音楽に興味がない少年は、湯浴みをしてくると言って音楽が始まる前に消えてしまった。音楽にはどうしても惹かれないらしい。
「どうだ、トニーヨ。来て良かっただろう」
王子が小さな声で聴いたとき、トニーヨは頷いた。
本当は直前まで迷っていたのだ。仕事のせいにして断った方がいいだろうか。しかし主君からの誘いでもあるし、これを断るのは失礼かもしれない。いやいや、それでも妻殿と直接話すことも失礼な状態で、個人の邸宅に招かれ、この妻殿と夜を共にするというのはどうなのだ。夫婦のときを邪魔することにもなるのではないか。
トニーヨが賢明に考えていたというのに、王子がわざわざ警備省に顔を出したせいで、それも空しく、トニーヨは半ば拉致される形で、レンスター邸宅に招かれることとなった。
トニーヨはレンスター邸宅に着いてから驚かされてばかりだ。
レンスター邸宅の二人の使用人が、何の動揺も示さずにトニーヨを受け入れてくれたことに、まずは驚いた。トニーヨの方が何度も頭を下げてしまったくらいだ。
その彼らが王子に対しても慣れた対応をしていることに、また驚いた。トニーヨの家に王子がやって来るようなことがあれば、それはもう大騒ぎで、見ていられないだろう。
さらに驚いたことには、その使用人二人と同じテーブルを囲んだことだ。自分に対して無礼と言いたいわけではない。王子がいるのに、同じテーブルで食事を共にするなど、今までのトニーヨには考えられないことだった。
旅を経験したおかげで、今日の昼食も戸惑わずに済んだようなもので、今まで王子と共に食事を取ることが許されると思ったことはない。王子がお忍びで街のあちこちの料理屋に顔を出していることは知っていたが、それはお忍びであって、付き合うものではないと考えていた。
この驚くべき状態がイルハの家で起きているというのも、トニーヨにとっては驚きである。
イルハの家らしくないとトニーヨは最初感じたが、美しい音色に耳を澄ませているうちに、むしろイルハの家らしいのかもしれないと思い始めた。
ここにあるときのイルハこそ、本当の彼なのではないか。
それはシーラといるときに、さらに強まっているように感じる。
シーラといると、イルハもよく笑った。シーラのように口を大きく開けて、大笑いするようなことはないが、微笑するときが増えている。
トニーヨは思う。この彼の方がずっといいと。
いつも難しい顔で、難しいことしか考えない男といるより、トニーヨも楽だったし、これから打ち解けられるんじゃないかという淡い期待を持ち始めていた。
いずれ王子が王となったとき。自分たちは側近として、もっと上の立場に回される。そのとき、警備省と法務省の不仲など忘れるくらいに、協力して国をまとめていけたなら。それくらいのことは、トニーヨも考えていた。
自分には恐れ多い生まれだと思い続けて苦しんでもいたが、それでも逃げ出せないのだから。王家のため、国のため、出来ることはしたいのだ。少しは頑張らないと、叱られる相手もある。
音楽に身を委ね、考えていると、だんだんと面白くなってきた。
同じような立場の家だと思っていたのに、イルハの家がこうも違うとは。
異国の違いに圧倒されてきたばかりだ。けれども違いなど、どこにでも溢れている。トニーヨは思い、この国でも十分に面白いものが見付けられると悟った。この世は知らないことだらけだったのだ。分かった気になるのは辞めようと、そんなことを思ったのもトニーヨには初めてのことである。
曲が終わる。余韻に浸り見つめ合う若い夫婦に、トニーヨはうっすらと頬を赤らめた。やはり邪魔だったのではないかと思えてくる。
けれどもシーラの視線はすぐにイルハから外された。
「次はタークォンの曲にしようよ、イルハ。王子も歌って!トニーヨもどう?」
「是非ともご一緒したく」
「どれ、わしらも加わるかい。ねぇ、君」
「いいですわね」
全員が歌い出し、愉快な音楽が生まれる。
テンは挨拶もせずに、湯浴みを終えると、与えられた部屋に入っていった。
おかげで大人たちは時間を忘れて楽しい時を過ごすことになる。酒と料理と音楽は、楽しい時間をいつまでも続けさせる力があった。
あとでトニーヨは遅くまで居座ってしまったことを反省したくらいだ。
このように帰宅が遅くなることの滅多にないトニーヨだったから、家の者たちは何事かと訝しがって、責めるように何をしてきたのかとトニーヨに問うた。
そこでトニーヨがイルハの家に招待されていた旨を伝えると、誰もが目が飛び出るほどに驚いたのである。イルハの家に呼ばれただけでこれだから、王子も一緒だったなどと言ったら大変なことになっていただろう。
ほとんどの者が目的を勘違いしていて、トニーヨが何か失敗をして、呼び出されて説教を受けたのではないかと心配する者まであったくらいだ。トニーヨはこれを適当に笑って誤魔化した。色々と説明がしにくかったのだ。
けれどもその日、家の者たちの心配を余所に、トニーヨはぐっすりと眠ることが出来た。
このような夜がこれから何度も経験出来たらいいと、トニーヨは確かに願い、幸せな眠りにあっという間に落ちていった。勝手に想像して、あれこれと悩んでいた家の者たちは、まさかトニーヨが何の悩みも持たず幸せな眠りの淵にあるとは思わなかっただろう。




