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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第三章 警鐘

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4.馴染みの上客


 王宮前の広場に面した場所にその料理屋はある。


「いらっしゃい!今日はどうする?」


 イルハがシーラたちと共にこの店に通うようになってからというもの、はじめこそリリーは緊張してどうにもならなかったが、イルハが完全に妻に甘い男だと理解してからは気が楽になっていた。シーラに助けを求めたら、何とかなりそうだと思ったのである。

 言っておくが、リリーは別に法を犯すようなことはしていない。法を順守しているからこそ、この王宮前の広場で料理屋を開くことが出来たのだ。悪いことを考えていたら、王宮から遠く離れた場所で、ひっそりと店を営んでいたのではないか。

 そんな真面目なリリーにも恐怖されるに足る噂話に事欠かないことこそが、イルハの問題である。とは言え、元凶はその噂話に加担した方の者たちにあるのだが。とにかくイルハは、街で商売を営むものから恐れられていた。


 そんなわけで、リリーはイルハを認識していたが、王子のことは適当な理解で済ませていた。

 イルハの同僚か、あるいはシーラが街のどこかで見付けて気に入った若い男で、特に害のない存在だと思っている。

 さらに今日は人が増えて、新しい若い男が加わったが、リリーは同じように理解していた。服装から、トニーヨはイルハの同僚だろうと勝手に想像している。ある意味、間違ってはいないのだが。

 警備省の上官など、庶民はお目にかかる機会もない。イルハの顔が知られているのは、もっと若い頃から法務省の一士官として店の取り締まりなどをしていたせいであるし、上官になってからは検分などに出向く機会も減っていたのだが、皆の記憶の中に恐ろしい男として存在を残してしまった。


 そのイルハが、シーラの夫で、シーラに甘いのであれば。リリーにとっては、上客の一人に変わっている。


「いいコチが入ったから、スープにしたんだよ。それによく合う貝のパスタなんてどうだい?」


「わぁ、素敵!それをお願い!」


「俺もそれがいい!」


「イルハもトニーヨもそれでいいな?今日は五人分頼むぜ」


「はいよ!デザートも期待しておきな」


「わぁ、楽しみ!今日は何だろうね、テン」


 いつも来ると、座る席も固定されていく。窓辺のその席に、シーラとテンはいつも並び座るようになった。奥に座るのはテンで、今日は窓の外をじっと眺めている。おしゃべりを先導するのは、いつもシーラだ。前よりテンも話すが、それでもやはり無表情で大人しい時間が長かった。これもタークォンにあるせいなのか。

 テーブルを挟み、テンの正面には王子、そしてシーラの前にイルハが座った。

 王子としては男と二人で並びたくはないのだが、シーラがテンを横に置きたがるからいつもこの並びだ。

 さらに今日はトニーヨまで加わったので、テーブルの片側だけが窮屈に感じられた。大人の男が三人も座ることのできる、幅のあるテーブル席ではあるが。王子はもっと優雅に過ごしたい。


「さっきまでレインポートの話をしていたんだよ。トニーヨはミカンって知っている?」


「お酒を頂いたことがありますよ」


「トニーヨも知っているんだ!それでね、そのレインポートの王様がとても面白いの」


 先に王子の執務室でしていた話を、シーラは繰り返している。

 イルハはもう何度も聞いたことがあったから、ただただ愛しい妻を見詰めていた。王子がたまに横目でイルハを見やり、うんざりした顔を見せたが、イルハは気にも留めないのである。


 ここにあると、全員がタークォンの人間に見える。シーラもテンも、リタの用意した服を着ていたからだ。長く空いた時間に、リタは沢山の衣服を用意しておいた。仕立てたものもあったが、リタが手縫いした服の方が多い。これからはシーラとテンがこの国に住んでくれることを願って、リタが心を込めて縫ったのだ。

 同じことを形を変えてオルヴェもしていた。二人が住みやすいように、家の手入れをしながら、二人の帰りを待ったのだ。レンスター邸宅には、すでにテンのための部屋まで出来ている。テンがこの国で学校に通えるように、その部屋には机と椅子もあったし、子ども向けの本も並んでいた。


 これが二人を困らせていることに、イルハは気付いている。前と違って、レンスター邸宅にある時の二人は、何かぎこちない。

 テンは嬉しそうにも見えるが、どこかで線を引きたがっている様子も見て取れた。ここは祖国ではないという主張は、幼い少年が隠しているつもりでも、見え隠れしている。

 同じものをシーラからも感じ取り、イルハは胸にざわりとした嫌なものを広げるのだ。


 急いではならない。とにかくゆっくりと。それでいて確実に。

 だから王宮で王子が余計なことを言ったときも、イルハは深く反応しなかった。それが妻も同じだから、イルハも慎重になっている。


 これでもかとレインポートの良さを語ったシーラは、料理を食べ始めると今度はリリーと料理の話で盛り上がった。さらには手品、もとい魔法の話に移り、流れるようにトニーヨと新しい魔法の話を始めている。

 まったく元気な娘だと王子などは思っているが、イルハは考えることがあり過ぎて忙しい。どうしても妻の態度を深読みしてしまうのだ。


「リリー、今日のデザートは何があるの?」


「今日も最高さ。珈琲と一緒に持って来よう!」


 店内にうっとりするほどの珈琲の芳醇な香りが充満したあとに、リリーが皿にのせて持ってきたのは、チョコレートが詰まった手のひらサイズの丸いパイだった。


「今日はチョコレートなの!」


「そうさ。うちは運が良かったんだよ」


「運がいいって?」


「最近、カカオが高騰して、手に入りにくくなっているんだ。それでうちは、そうなる前にカカオを十分に仕入れておいてね。いつも冬になる前には大量に買っておくんだけど、いい時に買ったものだと我ながら運の良さを褒めたたえていたところなんだ」


 シーラはとてもよく笑った。


「もう高くなっているんだ。それは良かった」


「良かったってなんだい?」


「うぅん。こっちのこと。リリーはとても運がいいんだね」


「そうだろう。もっと褒めてくれてもいいよ」


 シーラはさらに楽しそうに笑う。


「このチョコレートのパイ、とても美味しいよ。リリーは天才だね!」


「仕方ないな。パイと珈琲のお替りをサービスしよう!」


 毎日のように現れ、昼食後には珈琲とデザートまで堪能していく。リリーにとって彼らは上客で、だからこそサービスも旺盛だった。


「わぁ!嬉しい!イルハ、お替りはサービスだって」


 シーラがイルハに声を掛けたとき、王子とイルハはちょうど視線を合わせていた。

 シーラの横では、テンが黙々とチョコレートのパイを食べている。美味しかったのだ。トニーヨはこの少年に向けて、あとでどの手品、もとい魔法を見せようか考えながら、珈琲を味わっていた。リリーの淹れた珈琲は美味しく、心をほっと落ち着かせる味である。


 夏の真っただ中にあれど、冬は刻々と近付いている。この時間の流れが、イルハに期待と失望を同時に誘った。

 冬になった瞬間に期待が勝るのか、失望を覚えるのか。それは自分次第であると分かっている。


 美味しそうにパイを頬張るシーラは、何も考えていないように見えていただろう。しかしイルハにだけは、そうは見えない。


 冬の半年。愛しい妻をこの国に留めるために。

 そうして、妻と共にこの国を変えていくために。


 本当はイルハとて、目の前の仕事など放り投げて、したいことが山積みなのだ。けれども仕事を放り出したところで、溜まっていくばかりで、余計に身動きが出来なくなる。だから王子にもいつもよりずっと厳しく接していた。どちらが主君か分からなくなるほどに、王子を働かせているのはイルハだ。


「ねぇ、トニーヨ!トニーヨもミカンのお酒を飲みに、イルハのお家に遊びに来て」


「イルハ殿のご自宅にですか」


「俺はいつも顔を出しているぞ。今宵はトニーヨもどうだ?」


「はい?」


 イルハでなく、主君から誘われていることはおかしいと、トニーヨは思う。噂には聞いたことがあるけれど、いつも顔を出しているとは。


「都合が悪いのか?」


「いえ、何もありませんが」


「なら決まりだな。美味い酒に料理、それから音楽が楽しめるぜ」


「トニーヨの魔法も見たい!イルハのお家で見せてくれる?」


 仕事終わりの予定が勝手に決まっていく。 

 誰の家かという問題は、王子がもう一度触れることはなかった。それでも思わせぶりな顔で、イルハを見やる。王子のその視線を、イルハはただ受け流した。特別な反応は返さない。


 イルハが国王の従者から声を掛けられたのは、長い昼食のあとで王宮に戻ってからだった。


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