3.家という概念
王子の執務室にシーラとテンが通うこと。それがタークォンの王宮の通常の光景になりつつある。
二人は今日も元気に執務室の奥の三方を棚に囲まれた部屋で、書類を片付けていた。王子たちが長くタークォンを空けていた間に溜まった仕事を、どの省も必死に片付けていたおかげで、次々と書類がやって来て、シーラたちを飽きさせない。
だから王子も忙しいはずなのだが、机に向かわず、椅子の向きを反転させて、熱心に奥にいるシーラたちに話し掛けていた。
「レインポートは本当に面白いんだよ」
「確か、モンセントの姫がこの国のあとに行くと言っていたな」
レインポートはタークォンと同じ白の大海に面している国で、タークォンからは北東に位置する小国だ。冬が北西から下りてくることもあって、冬もあるが比較的穏やかな気候の国である。
「王子も次の機会には行ってみるといいよ。あの国は本当に面白いからね」
「どう面白いんだ?」
「ミカンって知っている?国全体がミカン畑なんだ」
テンが番号を伝えながら渡した分厚い書類は、シーラの手に渡るも、すぐに離れて、宙を浮かんだ。ふわふわ浮かんだそれは、目当ての棚にそっと仕舞われていく。
この魔術は、シーラ曰く簡単なもので、おしゃべりを楽しむ余裕があった。テンも話を聞きながら作業をしている。
「柑橘系の果物だったな?」
「知っているんだ。凄いね、王子」
「そこの王家から、酒を貰ったことがある」
「レインポートの王様を知っているの!」
「会ったことはねぇが、書簡のやり取りだけはあるんだ。お前はどうだ?」
「知っているよ。ねぇ、テン!」
隠さなくなったのか?と一瞬期待した王子だったが、すぐに自らその考えを打ち消した。甘い考えを持っていては、こいつらの再教育は無理だと気を引き締める。
「あのおじさん、面白いよね」
テンがおじさんと呼ぶのだから、余程親しみやすい王なのか。王子は興味をそそられた。
「どんな男だ?」
「とても王には見えない王様なんだ」
「俺にもそんなことを言っていなかったか?」
シーラは楽しそうに笑い、また書類を浮かべた。不思議な光景であるが、用があって執務室に入って来る者たちもこれに慣れている。それどころか、王子の執務室付きの従者たちは、王子の友人、それから法務省長官の妻と捉え、シーラとテンを王子の来賓として大切に扱うようになっていた。
「王子も王子らしくないけど。もっと王らしくない王なんだ」
「どう王らしくない?」
「いつ行っても、ミカン畑で働いているの」
「働いている?畑仕事をしているのか?」
「そうなんだよ。それもね、ミカン畑の中の小さな木の家に住んでいるんだ」
「そりゃ、王には見えねぇな」
王子も愉快気に笑っている。シーラたちがタークォンに戻ってから、至極機嫌がいい。旅のことを忘れてはいないが、自国にあると気が楽になるし、揺るがない立場があるからこそ余裕を持ってシーラたちと付き合えた。
あの旅であらゆる衝撃を受けた王子だったが、それも旅の間、一国の王子であることを忘れることに徹したせいもある。と、まさか王子はそんなことには気付いていないが、国にある者は元の落ち着く場所でこそ輝くというものだ。
これがシーラとの違いである。
「ここに来る前に少し寄って、ミカンのお酒もたくさん買ってきたんだ。イルハの家に飲みに来て!」
それでなかなか戻ってこなかったのか。と思ったが、王子は別のことを指摘した。
「イルハの家は、もうお前の家でもあるだろう?」
「え!どうして?」
王子が不敵に笑ったとき、ちょうど執務室の重たい扉が開いた。これはいいと、王子は椅子を回して、やって来たイルハに笑い掛ける。
その笑みを見て、イルハは眉間に皺を寄せるのだから。なんと失礼な家臣なのだろう。
「夫婦になれば、家は共有財産だったな?」
「そうですが?」
「シーラがお前の家だと言ったが、あれはシーラの家でもあるな」
「法の上ではそのようになりますね」
「法がなくても、同じ家に住む夫婦だろうが。あの家はもう夫婦のものだな?」
王子を越えて、シーラを見やる。シーラは熱心に書類を整理していて、イルハを見ることはなかった。気付いているだろうにと思うが、妻の頑張りようにイルハもまた自分の仕事を思い出す。
「殿下。それよりも書類のご説明をしたいのですが……」
「そろそろ昼時だ。外に行くぞ」
「仕事がありますので、遠慮させていただきます」
「いいから行くぞ。おい、シーラ。テン。昼飯だ!」
「わぁ、ちょうどよかった!お腹が空いていたの」
「俺もお腹がペコペコだよ」
「イルハも一緒に行くよね!」
妻に言われると断れなくなるイルハであった。王子は分かって、楽しんでいたのだが。
「殿下。出る前に、この二つだけはご確認を」
「お前なぁ」
「急ぎの書類です。お願いします」
淡々と書類の説明を始めるイルハを前に、王子はもう外に逃げ出したい気持ちになっている。まったく仕事が詰まらない。
その僅かな時間が別の男も捕まえた。
「殿下、昼食時に失礼しますが、急ぎの書類が出まして……」
「トニーヨは、お昼を食べた?」
トニーヨも慣れていて、突然の若い娘の声にも驚かない。
「これからですが」
「私たちも今からなの。みんなで行こう!」
困惑せずに「ご一緒させていただきます」と返したトニーヨが、前より頻繁に王子の執務室にやって来ていることには、王子もイルハも気付いていた。おそらくトニーヨには自覚がない。
周りがすぐに分かることでも、自分では気付かないことが多々あるものだ。それはどの者にも例外なく当てはまっていた。シーラもだ。




