46.それぞれの海へ
まだ外は明るいが、陽が落ち始めている。
薄い雲は空を隠すも、夕陽はまぶしいほどに雲の隙間から漏れて、薄い雲の下にうねりながら描かれた細く長い雲を輝かせていた。雲の層が織り成す光の印影は、何かの明暗を示しているようだ。
「まだ斯様な男と付き合っておられたのですね」
「君の方こそ、僕の大切なフィアンセに何の用かな?」
「おかしなことを言いますねぇ。すでにご結婚されたとお聞きしたのですが?」
「結婚相手は一人とは限らない」
フリントンは、シーラの肩を抱いていた。相変わらず、王子より王子らしい、貴公子のような見目の男だ。
シーラはこれを嫌がらず、じっと目の前の男を見ていた。珍しいことに、笑顔がない。
「先の彼らの中に、タークォンの王子殿がおられましたね。夫となられた方もご一緒でしたか?」
「そうだとしたら?」
シーラが静かに問えば、髪の長い男はうっすらと笑みを浮かべた。わずかに歪んだ唇と、動かぬ眉と漆黒の瞳のせいで、不気味さの塊のような笑顔だ。
「私があなた様の御心に反するようなことはありません」
「あなたではない人はすると言いたいの?」
「深読みのし過ぎではありませんか?」
「そうするように教えたのは、誰だったかな?」
「私ではないでしょう。他の者の所業の責を私に擦り付けないでください」
シーラも表情が薄く、男の笑みも薄気味悪く、とても楽しそうな会話ではないが、男の美しい声は踊っているような陽気さを含み始めた。それがまた表情との違和を誘い、気味の悪い男だと感じさせている。ここにトニーヨなどがいたら、男を見ているだけで震えていたのではないか。
突然場違いな明るい笑い声がした。フリントンだ。いつものように歌うような笑い方で空気を変えた。
「僕はね、二人の時を楽しみたいんだよ。そろそろ気を遣ってくれないかな?」
「…………ここで何をしました?」
「聞いて、答えが返ってくるとでも思っているのかい?」
男の漆黒の瞳から、光が消えた。先までの薄気味悪い笑みも消えている。
「もう一度言うよ。僕は二人の時を楽しみたいんだ。邪魔する者は誰も許さない」
男はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「今日のところは、これまでといたしましょう。次の機会には、二人でゆっくりとお話をさせていただきますので、そのおつもりで」
「遠慮しておくよ」
「そうだとも。僕の大事なフィアンセと二人きりだなんて、僕が許さない」
「許されぬ理由は受け入れません。近いうちにまた会いに参ります。それまでどうかご無事で」
目の前の男が消えた。
どうやって消えたのか、分からないほど瞬間的に、男が存在しなくなった。二人の瞳に残像さえ残さない。
「助かったよ。ユメリエンを先に壊すところだったね」
シーラはあっけらかんと言うのだ。いつもの笑顔がそこにある。
しかしフリントンは笑わなかった。
「無茶をし過ぎではないかな?」
珍しく真顔で言ったフリントンは、シーラの頬に手を添えた。
どこからともなく現れ、再び開いた傘が、二人の顔を隠す。と言っても、元から誰も二人、いや、三人に注目はしていなかったが。周りには兵士が溢れているというのに、傘が開いても、やはり見る者はいなかった。
「頼むから、これ以上傷を増やさないでおくれ。これは少しの足しに」
長く沈黙があった。傘に隠れた二人は密着したまま、しばらく動かない。
あるところで、傘がフリントンの手を離れ、浮かび上がった。その傘は空中で閉じたかと思えば、やはり消えてしまう。あのような大きな傘が、いったいどこに消えたのか。
二人はどちらからともなく歩き出す。
「どうなったの?」
「もちろん、君の言う通りに」
「楽しめた?」
「楽しくなるのは、これからだろう」
「それもそうだね」
重なる歌うような笑い声が広がるも、誰の耳にも届いていないようだ。街にはもう、異国人の姿がなく、二人は目立つ存在だが、それでも誰も二人を見ていない。
「あちらもすべて上手くいっていると思っていよう」
「分からなくなったよ」
「それも考えていただろう?」
「それはもちろん。だけどそれをあちらも考えている」
「だから楽しいというものだよ」
フリントンもシーラもよく笑った。先の男のことなど、すでになかったことになっているかと思えば、そうでもない。
「ねぇ、フリントン」
「なんだい?」
「あの首は私のものだからね」
フリントンはにっこりとほほ笑んで、シーラの頭を撫でた。
「分かっているとも。それは今じゃない。そうだったね?」
「分かっているならいいの」
「分かっていても、僕が気に入らなくなるときもあろうね」
「それは私も分かっているよ。そのときは仕方がない」
「だからって急がないでおくれ。僕と君との勝負ではないのだから」
「フリントンこそ、急いで終わらせないでよ」
「僕がそんなことをすると思うかい?」
「思うから言っているの」
「シーラは酷いなぁ。もっと僕を信じて。愛しいシーラ。また会おう」
ふ頭に付いたときには、フリントンの姿はなかった。停泊中の船がほとんどなく、シーラはまっすぐに自分の船を目指す。船縁から身を乗り出すように、テンが顔を見せていた。シーラが手を上げると、テンのほっとした表情が見て取れる。
白い帆を掲げた船がユメリエンを出航したのは、直後のことだった。




