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海の神々へ捧ぐ音(なろう版)  作者: 春風由実
第一章 はじまりの歌

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1.シーラとイルハ


 塩気と湿り気を帯びた夏の空気が肌にじっとりとまとわりつく。ついこの間冬だったから、まだ体が慣れない。


「こんな時間に?」


 疲れているのかと思いつつ、イルハは耳を澄ました。波の音に紛れて、どこからか聞き慣れぬ楽器の音色と若い女性の歌声が流れて来る。イルハは声を辿りながら、歩みを進めた。

 ふ頭に並ぶ沢山の船と、石積みの倉庫に挟まれた道の真ん中に、人だかりが出来ている。



 シャラシャラと遠くまでよく響く音色と、美しく続くソプラノの歌声。


 体で感じる波音と潮風。


 同時になぜか思い出される、大切な記憶。懐かしい情景。


 どこまでも続く星空に向かって、奏でる音が調和して舞い上がる。


 すべてがそこに存在しているようで、何もないような、不思議な感覚。



 確かにひととき、イルハは歩みを止めて音楽に聞き入った。

 そんな自分を恥じながら、さらに近付いて言う。


「ここで何をしているのですか?」


 すぐに音が止んだ。そのせいか、急に波音が大きく感じられる。とても勿体ないことをしたように感じていても、イルハはそうせざるを得ないのだ。


 振り返った男たちは、慌てて背筋を伸ばし、敬礼をした。あろうことか、集まっていたのは警備兵である。月明かりは弱く、ふ頭は街頭も少ないために、近付かなければ容易に顔は確認出来なかったが、その堅い声色で誰がいるかすぐに分かったのだろう。


「わ、我々は、警備中に通りかかりまして…。この者を、たった今、注意しようとしていたところであります!」


 彼らのうちの一人が、震えるようなか細い声で話し出し、最後はなかば叫ぶように大きな声で言った。イルハは彼らをきつく睨み付けてから、少しのため息を漏らす。


「私が対応しましょう。あなたたちは仕事に戻りなさい」


「は!」


 頭を下げてから、警備兵たちは逃げるように去っていった。


 残されたのは、珍しい弦楽器を抱えて座る、女が一人。異国の娘であろうことは、近付けばすぐに分かった。西の大国タークォン王国では、あまり見ない服を着ている。着古したような長袖の上着に、長ズボンを履いていた。髪は後ろで束ねているようだ。


「あなたは旅人ですね?」


「そうだよ」


 歌声からすると、意外なほど幼い声である。


「我が国の法を知っていますか?」


「知らないなぁ。はじめて来たんだ」


「守り人から、説明を受けなかったのですか?」


「もりびとって?」


「ふ頭の管理をしている者です。船が到着した際に、すぐに駆け寄り声を掛けているはずですが」


「あぁ、その人なら会ったよ。なんだか難しくてよく分からない紙を貰ったような…」


 ズボンのポケットを探りながら、「これかな?」と言って取り出した紙は、ぐちゃぐちゃに折りたたまれていた。


 イルハは明日、守り人への指導を行うことになりそうだ。初回の来訪者には口頭でよくよく説明する規則がある。


「その様子では、まだ来訪登録もしていないようですね」


「登録が必要なんだ?」


 まったく話にならない。


「登録は必要ですが、この時間には受付所も閉鎖しています。朝一番に王宮に行っていただけますか?それからこの国は、路上で何かの商売をすることは禁じられていますし、夜間に外で演奏することも禁止です。覚えておいてください。また、あなたは未成年に見えますが、未成年が夜十時以降に出歩くことも禁じられていますよ。急いで宿に入ってください」


「それは困ったなぁ」


 楽器を抱えたままぴょんと跳ねるように立ち上がると、娘の小柄さが際立った。娘は頬に手を当てて、しばし黙る。まるで話を聞いてくれとでもいうように。その手にはぐるぐると晒しが巻いてあった。怪我でもしているのだろうか。


 イルハは立場上、知らぬ振りも出来ない。


「まだ宿を取っていないのなら、ご案内しますが」


「そうじゃなくてね」


 困っているようには感じられない、とても陽気な声である。


「宿は船に戻るからいいけど、お腹がペコペコなんだ」


「宿に泊まれば、食事も出ますよ」


「その宿に泊まるお金がなくてね。前の港で使い切っちゃって」


 何がおかしいのか、娘は乾いた笑い声を上げた。


「まぁ、何とかするよ。あぁ、登録ってやつは、よく分からないから、しておいて貰えないかな。私はシーラ。シーラ・アーヴィン」


 イルハは深いため息を漏らした。どうやら今夜は、この娘の対応から逃れられないようだ。


「ついて来てください」


「どこに?」


「今日はもう遅いので、食事と部屋を提供しましょう」


 シーラが僅かに首を傾げたので、イルハは慌てて補足した。


「安心してください。と言っても無理な話でしょうけれど。私はこの国で法務省の副長官をしているイルハ・レンスターという者です。自宅には使用人もいるし、あなたの身の安全は保障します」


「お金がないよ?」


「だからついて来るように言っているのですよ」


「ただで恵んで貰うのは良くない」


「私の立場上、あなたをここに置いておくわけにはいきません。その方がかえって困ることになるのです」


 シーラは少し考えていたが、頷いて笑った。


「それは悪いことをしたね。じゃあ、イルハ。お願いします」


 不意に名前を呼ばれて、驚いた。物怖じしない娘である。


「ところでお酒も出る?」


「お酒も成人してからです」


「この国の成人はいくつなの?」


 異国人との差を感じる瞬間だ。国内に留まり生きていると、成人年齢が世界共通の常識だという認識を身勝手にも育ててしまう。


「二十歳です。あなたは十代でしょう」


「二十歳かぁ。遅いね。二十歳まで飲めないなんて可哀想だ」


 その口ぶりは、酒の味をよく知っている風だ。


「この国の成人年齢は遅いものですか?」


「私がたまたま十五や十八で成人となる国を知っているから、遅いと感じただけだよ。世界的に遅いかどうかはよく分からないな。成人という考えがない国もあるし、今まで行った中で一番若く成人する国は十歳だった!」


 聞いたことのない軽い返答が、不思議とイルハには心地良く感じられた。何故かこの娘が話すときには、無礼さを感じない。イルハの国における立場がシーラには関係ないにしても、それなりの年齢差があるのだから、彼女の振る舞いは失礼だと言えた。それでもどうしてか、不快さを感じなかったのである。いっそ清々しいくらいだ。


「十歳なんて、まだまだ子どもではないですか。その国は成長が早いとでも?」


「イルハってとても面白いね!」


 シーラはひととき笑ってから言った。歌声と同じく、よく通る笑い声だ。


 これまで生きて来て面白いなどと言われたことがあっただろうか。イルハは納得出来ず、訝し気にシーラの横顔を見やった。


「見た目は子どもだよ。十歳からは大人と同じ一人前の扱いをするよってことらしいんだ。それが子どもを成長させるんだって」


「それは面白い考え方ですね」


「でしょう!」


 シーラの声は嬉しそうに踊る。


 道中イルハは無言で済ませたかったのだが、シーラが次々とこの国について質問し、イルハを黙らせてはくれなかった。おかげで街に立つ警備兵からじろじろと見られることになる。


「兵士さんがいっぱいいるんだね」


「警備兵ですよ。法を犯さない限りは何もしませんので、安心してください」


「法を知らなくても捕まることはある?」


「当然、法を犯せば捕らえられます。そうならないように、後でじっくりとこの国の法について説明させていただきますね」


「うーん。遠慮するよ。難しい話は苦手なんだ」


「遠慮する、しないの問題ではありませんよ。この国にある以上、この国の法を守って頂きます」


「それは分かっているよ。大丈夫!」


「それなら、法を理解してくださいね」


「うーん。どうかな。ねぇ、イルハ、あれは何?」


「どれです?」


「ほら、向こうの……」


 イルハは短時間のうちにとても疲れたが、嫌な疲れ方ではないとも感じていた。

 こういう不思議な疲れ方を、イルハは知らない。


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