札の術師 四
一瞬、空気が圧迫されたような、息のつまるような奇妙な感覚に襲われた。
圧倒的な『気配』。それは周りの空気が針になって刺さるのを見ているような恐怖だ。
「――――うっ……!」
コウリンが少し呻いたのでそちらの方に目をやると、何かが彼女の背後に立ち、腕を首に回している。
全身真っ黒な出で立ちの…………たぶん男。
コウリンを羽交い締めにするような形で後ろに立ち、彼女の首に鉄の杭のような、太い釘のようなものを充てがっている。
それはそこにいるはずなのに、人としての存在が無いかのように、ぼんやりと見える気がした。
この人は…………まさに『影』だ。
もしかして……?
ルゥクが座ったまま、コウリンとその後ろを一瞥する。
「ホムラ……もういい。放してやって。この子には攻撃の手段も意思も無いよ」
「へい、分かりやした……」
男……ホムラはコウリンの首から杭と腕を退かして、五歩くらいに後ろに下がって地面に膝を突く。
「うっ……ごほっ! ごほごほっ!」
盛大に咳き込みながら、コウリンはその場にしりもちを突く。それと同時に持っていた三枚の札が、地面に散らばった。
「……大丈夫か?」
「うぅ……ごほっ……く、ごめ……大丈夫……こほっ」
わたしは思わず駆け寄り背中をさすってやる。コウリンはゆっくり息を整えているが、かなり息が苦しそうだった。
水筒を手に取り差し出すと、コウリンは苦笑いをしながら少し口に含んで大きく息を吐いた。
「ふぁ~! あー、はぁ……死ぬかと思ったわー! 今の本気で来られたら、アタシ叫ぶ前に喉潰されて刺されてたんじゃないの!?」
……うん、きっとその通りだ。
今、一瞬だけ感じたのは『殺気』だ。しかも、その殺気はホムラでも、ましてやコウリンでもない。
たぶん、ルゥクのものだ。
ホムラはコウリンを『敵』とみなし攻撃したのだろう。しかし、ルゥクは彼女を殺す対象にしなかった。
もし、ルゥクが威嚇のための殺気を放たなければ、ホムラは本気で殺しに掛かったのではないだろうか。
ほとんど気配の無いホムラの動きをすぐに読んで、殺気を出すことで押さえ付けたルゥク。
そのルゥクの殺気をすぐに読み取り、すんでのところで攻撃を止めたホムラ。
この二人のやり取りが、言葉もなく瞬時に行われたのである。
これが『影』である。
つくづく、わたしは自分が普通の人間でしかないと、思い知らされてしまう。
ため息をつくわたしの横で、ルゥクはあらためてコウリンと話をすることにしたようだ。落ちていた札を拾って渡している。
「ねぇ、コウリン。君は札の術師だと言ったけど、本業は医者か薬師じゃないの?」
「よく解ったわね。そうよ、アタシは医者でもあり薬師……まぁ、まだ駆け出しだけどね」
「君の持っていたこの札、三枚とも傷の回復や熱冷ましのものだったから」
「そう……そうなんだ…………」
コウリンは古い札を見つめてから、そっと木箱の中に札を入れて蓋を閉じた。その時の彼女の顔はどことなく寂しそうに見える。
「アタシの家系は代々“術医師”をしているの。でも、両親はアタシが小さい時に、王都に行く途中で賊に襲われて死んじゃってね。そこから、祖父と二人で旅をしていたんだけどさ……」
術医師というのは書いて字のまま、術を使う医者のことだ。大抵は札の術師が多いらしい。
コウリンはすぅっと大きく息を吸い、静かに吐き出すように言葉を続けた。
「…………その祖父も、ここから少し行った町で肺炎にかかって死んだわ。それが十日前。お祖父ちゃんは薬師が主だったから、アタシも薬草とかの調合をしたものを売ってここまで来たのよ」
そういえば、この大きな箱の荷物は薬売りが持ち歩く物に似ている気がする。
「で? 僕の話はどこで聞いたの?」
「旅をしているとね、あちこちの医者仲間から珍しい薬草や、珍しい病気の症例やらが聞こえてくるのよ」
「珍しい症例……まさか、ルゥクの事も……?」
「だって、珍しいでしょ? 不死の体なんて。でも、アタシはそっちよりも札の術に興味があったの。それは本当だからね!」
コウリンは苦笑いをする。
“術医師”は彼女にとって最大の目標で使命なのだという。
さっきの札は、彼女の祖父がそのまた祖父から受け取り、今日まで札の意味も解らなかったそうだ。
しかし、確かにルゥクは優秀だと思うが、人に教えるという点ではどうなのか?
ルゥクの使う札はほぼ攻撃の術ばかりだ。
防御の術くらいなら見たことはあるから、それなら回復の術も使えるのだろうか。
「……何度も言うけど、僕は弟子を取る気はない。不死の事はもちろん教えられないし、君が医師になるために得になる術は、僕の門派以外でも身に付くものだ。僕から学ぶものはあまりないと思うよ」
「不死は別にいいわ。でも…………ふーん、やっぱり貴方は回復とかできないの?」
「いや……そういう訳じゃないけど…………」
「うん、ねぇ、ちょっといい? あ、ゴメン。ちょっとケイランは離れてて」
コウリンはそう言うと、ぐぃっとルゥクを掴んで引き寄せ、何やらこそこそと耳打ちを始めた。
わたしは焚き火を挟んで向かい側のちょっと離れた場所に座る。
「………………」
「………………」
時折、身振りなどを加え、二人だけで話を進めていた。
…………内緒話……か。
わたしが聞いたらまずい事なのか?
始めは難しい顔をしていたルゥクだが、少し驚いた顔のあと、頷きながら話を聞いているように思えた。
ルゥク、ついに弟子を取る。
そう思ったら、何となく腹が立った。
でも、これは口出しできないのだ。
わたしはルゥクの護送のためについてきている。しかし、旅の決定権はほぼルゥクにあると言っていい。
そうだよ。ルゥクにとって、わたしはただの『通行書』にすぎない。しかも足を引っ張っていることが多い。
じぃん……と、鼻の奥が痛んできた。
これは…………別に泣きたいとかじゃない!
そう、何か面白くないだけで…………
「旦那もひでェですね。嬢ちゃんを茅の外にするなんて」
「へ? わぁっ!?」
急に真横からした声に振り向くと、さっきまで別の場所に控えていたホムラが、わたしの隣にぴったりとくっついて座っていた。
「ほ、ほ、ホムラ?」
「へえ。独りで黙ってんのもつまんねぇんで……」
だからって、急に隣に来るな! びっくりする…………って、ホムラ、背がでかいなぁ。
座っているので正確な身長は判らないが、たぶんルゥクよりもだいぶ高い。手足も長く、体格も服のせいで細く見えるがかなりがっしりしている。
ルゥクとはだいぶ雰囲気の違う『影』だ。
全身真っ黒で気配もなく近付いてくるので、こっちとしては心臓に悪い。よく見たら、口元の布を下げているので、今は鼻からアゴまでは肌が出ていた。しかし、頭の頭巾と顔の半分を隠す保護眼鏡のせいで、顔立ちはほぼ判らない。
ホムラは口をニヤリと大きく吊り上げて、少し先のルゥクとコウリンを眺めている。
「弟子…………取るんすかねぇ?」
「さぁ……」
「嬢ちゃん、反対しねェんで?」
「私は…………別に。ルゥクが弟子を取るのは、命令書の禁止事項に書かれてはいない事だ」
「そうでさね。命令違反なら、あっしはおりやせんからね」
「そうか……」
極度の人嫌いだと聞いていたのだが、ホムラは普通に話掛けてくる。独特のしゃべり方ではあるが、話している気配はどこにでもいるような人間だ。
見えている口元から察するに年も若そうだし、もしかしたら、その人に慣れたら懐っこい性格なのかもしれない。
そんなことを考えていると、ホムラはさらにニヤァと歯を見せて笑いながら、わたしの肩をつついてきた。
「どうやら、話、終わったようでさぁね」
「うん?」
わたしがそちらを向くと、上機嫌で何かを紙に書いているコウリンと、隣で不機嫌そうにこちらを見ているルゥクの姿が目に入った。
ルゥクは目が合うと笑顔になり、こちらへずんずんと歩いて来るのだが…………やだ、何? 何かその笑顔が怖いぞ……?
「二人で何の話してたの?」
にっこりと笑っているが、おそらく本音はさっきの不機嫌そうな顔だろう。よほど恐ろしく面白くないことがあったのか、笑顔がいつもの三割増しである。
そんな笑顔が降り注ぐ中、ホムラは全く気にしていない様に、足を組み頬杖を突いてニヤニヤとルゥクを見上げていた。
わたしはちょうど、二人に挟まれる形で座っている。
「旦那、それはこっちの台詞でさぁ。随分そっちのお嬢と仲よろしいんでやすね」
「別にそんなのじゃない…………それより、ホムラは今日で人嫌いを卒業するつもりかな。それなら、いきなり人との距離感を間違えているから、もう少し勉強してもらおうか?」
「卒業するつもりはありやせんが、嬢ちゃんがほっとかれてたんで、暇潰しにしてもらおうと話をしてただけでさぁ。どこか、旦那の気に触ることでもありやしたか?」
ニコニコ、ニヤニヤ。
顔だけは親しげに話しているのだが、よくよく気配を探ってしまうと、とてつもない険悪な雰囲気が渦巻いている。
こ……怖っ……!!
何がって、まるでわたしが原因みたいな言い方してることとかがっ!!
えーと、この二人って師弟の間柄じゃなかったか?
やめろ。『影』の師弟で静かに殺気飛ばしながらケンカするな。間にいるわたしのことも少しは考えてくれ!
わたしが心の中で男二人に文句を言い始めた時、コウリンが立ち上がって駆け寄ってきた。
「これでいいんでしょ? 書いたわよ。これでアタシに札を教えてちょうだい!」
「……はい、どれどれ」
コウリンはルゥクに数枚の紙を手渡す。それには箇条書きで、みっしりと何かの文章があった。
「え……何それ…………」
「契約書。僕は術で弟子は取らないって言っている。だから、師弟じゃなくて対等の立場でいるための約束事だね」
「そう、弟子じゃないのよ。でも、お互いに必要なものがあったから、それを補おうってこと。利害関係の一致ね」
「…………でも、教えるのは札の術だけだ。それも全ては教えられない」
「十分十分。アタシは必要なものだけ欲しいの。その分、アタシはルゥクやケイランに協力するわ」
満足そうなコウリンを見て確信した。
…………これは、ルゥクが折れたんだ……と。
どうやら、コウリンに根負けしたようだ。
珍しい。想像だが、ルゥクは口でも負けない印象がある。こいつは何を言われても飄々としているからだ。
……あ、女と間違われた時は荒れるな。
それには触れないでおこう。
「これからよろしくね。アタシ、同じくらいの女の子と旅するの初めてなのよ!」
「え? あ、あぁ、よろしく…………?」
がっちりとコウリンに両手を握られ、困惑しつつも受け入れることになった。
そんなわたしたちの後ろでは、ルゥクが大きなため息をつき、ホムラがニヤニヤとして座っている。
ちょっと…………不安なんだが……。
わたしがコウリンとじゃれている時、ルゥクとホムラは静かに言葉を交わしていた。
「……ねぇ、ホムラ。お前が用も無いのに留まっているの、珍しいと思っていたのだけど…………この先、何かあったのか?」
「さすが旦那。もちろんありやしたよ。ロクでもねぇのが」
ホムラの言葉にルゥクは少しだけ眉を動かすが、前を見つめる表情は無だ。
「この先、森を抜けた直後に検問がしかれてやした。たぶん、旦那のことを探してやすね。迂回しやすか?」
ホムラの報告にルゥクは少し考える。
「…………いや、通ってみるか。今後のために」
ルゥクは眉間にシワを寄せながら天を仰いだ。
頭上は昼間だというのに真っ黒な雲で覆われている。
後々、これが足元をすくう大雨になるかもしれないと、一握りの不安くらいは心に残しておくことにした。




