札の術師 三
翌朝。いや、まだ未明か。
空はまだ薄い紫色の雲がなびき、夜明け前の独特の色合いを称えている。
「兵の心得……その百にじゅー…………」
ぶつぶつと周りに聞こえない程度の小声で呟く。
その内容は兵法書の暗唱。
わたしは宿の受付の前のふかふかの椅子に座り、ルゥクが部屋から出てくるのを待っていた。
出発の時間まではだいぶある。
昨夜、兵法書を読み始めたら、何となく不安になって三回も読み返していた。しかしこれで、士官学校の復習は完璧である。
でも、世の中、実体験に勝るものはないな。
何故か妙な気分になっている。
昨日から心の中がざわついて落ち着かない。
それはたぶん、わたしが兵士の役割りを果たせていないという、焦燥感からきているのだと思う。
わたしの任務はルゥクの護送だ。なのに、何かことあるごとに、わたしの方がルゥクに助けられてしまっている。
ルゥクがわたしに構うのは、おそらく十年前の子供の頃を引きずっていて、保護の対象にしているせいだろう。
これは由々しき事態だ。本来ならあってはならない。
これではまるで、保護者同伴で任務に就いているようではないか。
わたしはもう子供ではないし、人を護る立場にもなった。だから、わたしだって……ルゥクを護りたい。
椅子の背もたれに寄り掛かって、そんなことを沸々と考えていると、目蓋が重くなり少しだけ目を閉じる。
そう、少しだけ…………………………。
………………。
「……おーい、ケイラン。出発するよー」
「う……ん…………」
急にルゥクの声がした。
一瞬だけ目を閉じたつもりだったのに、どうやら眠ってしまったらしい。ふかふかの椅子のせいである。
眠い……異様に眠い。
すまないが、もう少しだけ…………
「ケ~イラ~ン。起きないなら…………僕の好きにしちゃうけど…………いいの?」
「ふおぉっう!?」
耳元でぞわっと温かい息がかかり、艶のある呟きが聞こえた。
変な叫びと共に、わたしは弾かれるように立ち上がる。
わわわわわわわわわっっ!?
ごしごしごしごしごしごしっ!!
おもいっきり服の袖で耳を擦っていた。
くすぐったさと恥ずかしさで、わたしは大慌てである。
その様子を椅子の背もたれにアゴを乗せながら、ルゥクが愉快そうに眺めていた。
「おまっ……今、耳! い、息!?」
「あ~あ~、起きちゃったか。何通りか悪戯考えたんだけどなぁ~」
心底……ではなく、心のごく浅瀬で残念がっているのが解る。
ふざけんなぁぁっ!!
背中全体に寒気が走ったぞ!!!!
「ちょ…………普通に声を掛けろ!!」
「最初は普通だったけど、なかなか起きないから…………でも、こんなところで何で寝てるのさ?」
「それは…………」
部屋でのんびりしているのが落ち着かなかった…………とは、何か言いたくない。
「ほら、やっぱり朝日を浴びて出発ってのが一番…………」
「…………ちゃんと眠れたの?」
「ね……眠ったよ。何も問題はない!」
ふぅん? と、ルゥクは小首を傾げたが、それ以上は何も聞いてこなかった。
今日は曇り空だ。たぶん夜になる前に一雨くるのかもしれない。
わたしたちは宿屋を出た後、次の町へ向けて森の街道を進んでいく。途中、ルゥクを狙った刺客が来ていたらしいが、わたしが見たときには、数人の男たちが蔦のようなもので全身ぐるぐる巻きになって転がされていた。
「今日はホムラがその辺にいるんだ。たぶん簡単な露払いはしててくれるから、今日は楽に進めると思うよ」
「相変わらず気配が分からないな……」
何となく、後ろから誰かがついてきている気がするけど、それがホムラかな?
後ろを振り向きながら歩いていたら、ちょっとつまずいてルゥクに支えられてしまう。危ないから気にしなくていいよ、と、ルゥクに言われて進むことに集中することにした。
これまで特に戦闘にもならずに進んでいく。
この辺りは植物が生い茂っていて、妖獣や盗賊の心配はあるが、適度な木陰や小川もあり水や休憩には困らない。
「え~と……この先、もう少しいくと岩ばかりの山や崖が続くから、一度ここで休憩入れてから行こうか?」
「何か、あまり進んだ気がしないが……」
「そんなに急ぐ旅でもないだろ? あっ、そっちに川があるから、そこで火を起こそうか」
「…………?」
夜明けごろ出発したとはいえ、まだ昼の前である。
いつもなら、もう少し進んで森の終わりくらいに休憩しても良さそうなんだけど……?
もしかして、ルゥクの奴……疲れているのか?
そうだよな。昨日あれだけ暴れて、事実上町を牛耳っていたゴロツキ集団を潰したのだから。平気そうに見えて、本当は一晩くらいじゃ疲労回復にはならなかったんじゃないのか。
よし、それなら何か身体に良さそうな飯でも作ろう!
ルゥクが薪を拾っている間に、腰の入れ物から荷物を収納している札を探し、まず火起こしの道具を漁る。
「えっと……これとこれ…………」
「ねぇ、最初に水を汲んできた方がいいんじゃない? 汲んでくるから、鍋ってどこにあるの?」
「ああ、それならこっちの札に…………」
「これどうやって使うの?」
「え? それはこう…………」
……………………んんっ!?
くるりと横を向くと、わたしの隣にしゃがんで、しげしげと札を眺めているコウリンがいた。
「なっ……!?」
「ふぅん、これに荷物のほとんどを仕舞っているのか。便利な術もあるものねぇ……」
コウリンはふぅ~んと息をついて、心底感心した様子でこちらの方を向いた。
「何でいる!?」
「普通に後ろついてきたのよ。気付かなかった?」
「………………」
ホムラかと思っていたけど、コウリンだったのか!?
よく考えると、ホムラって近くにいてもまったく気配がないもんな……。『影』ってそういうものだよな。
わたしが驚愕の表情で固まっていると、そこへ小枝を大量に抱えたルゥクが戻ってきた。
隣に座るコウリンに視線を向け、驚きもせずに呆れたような様子でため息をつく。
「…………まったく……こんな森の中まで付いてくるなんて」
「ルゥクは気付いてたのか!?」
「うん。この子、町からずっと付いてきていた。途中で音を上げると思ったけど……」
ルゥクは素早く焚き火の準備をしながら、呆れたようにコウリンを見ている。
「甘いわね。アタシだって、これまで旅して歩いているのよ。街道をのんびり歩いてる、アンタ達の後を追うなんて簡単なんだから」
「の……のんびり…………」
ゴォオオオーン…………と、頭の中で寺の鐘が響いた。
ルゥクの“術喰い”の呪いを解く目的があって、わざと急がないつもりではいたのだが、それでもわたしやルゥクは、日頃から鍛えてはいる。一般人よりは足の速さや体力は多いと思っていた。
なのに、若い女性に追い付かれるほど、ゆっくり進んでいたなんて…………。
「ねぇ、どうしたの? 大丈夫? もしかして落ち込んじゃった?」
「違う…………大丈夫……」
図星だ…………そりゃ、落ち込むだろう。
内心、立ち直ろうとしている自分にトドメを刺すように、コウリンは「よいしょっ!」と掛け声を出す。
その手には子供一人くらいが入りそうな、大きな木の箱が引きずられていた。よく見ると、箱には背負うための紐が取り付けてある。
「まさか……それ背負って…………」
「ええ、そうよ。だってアタシはアンタ達と違って、荷物は全部持ってなきゃいけないもの」
箱は見るからに重そうなうえ、固くてとても背負い難そうだ。
わー……力持ちぃ……。
ますます落ち込むぞ。
わたしは兵士として大丈夫なのかと。
地面に手をついて項垂れ、二回目の鐘の音を頭の中に響かせる。兵士としても術師としても、これってどうなのよ?
「ルゥクもケイランも、食べ物の好き嫌いないわね? 適当に作るからね」
「…………それ、うちの鍋なんだけど」
「あ、そうだ忘れてた。ねぇ、ルゥク、アタシのこと弟子にして!」
「………………駄目。ついでで言わないでくれる?」
ケチぃ~と、口を尖らせたコウリンは、わたし達が手を出す暇なく、あっという間に食事を作っていく。
…………というか、気が付けばわたし達のこと、名前で呼んでいるのだが……。
彼女と会うのは三回目なのだが、最初の緊張感などはもう何処にもない。コウリンの口調も、完全に敬語や丁寧語を忘れている。
これは……ほら、済し崩しになる感じ。
チラリとルゥクを見ると、珍しく遠くを見ながら、何かを悟った猫のような顔をしていた。
もしかして、ルゥクはいちいち断るのを諦めてきているのではないだろうか?
ルゥク、弟子をとる…………いや、駄目だろ。
ルゥクが根負けしないように、わたしは必死で弟子入りを阻止する方法を考えていた。
やはり旅なれているのか、コウリンは手際よく、自前の保存食などを、千切ったり削ったりして鍋に放り込んでいく。
しばらくして、ちょっと不思議な色をした粥が出来上がった。街道近くの河原で、転がっている倒木に腰掛けてそのまま休憩になる。
水辺が近いせいか少し肌寒く思っていると、ルゥクが料理が終わったあとの焚き火に木を焚べて強くしてくれた。
その横で、コウリンは人数分の器を用意している。自分の器は自分の荷物から出していたようだ。
「はい、どうぞ! 熱いから気をつけなさいよ」
「……あ……ありがとう……」
粥をよそってニコニコと手渡してくれた。
わたしもルゥクも、たぶんこのままじゃこの人に丸め込まれるな。何とかしないと…………。
「別にアタシは丸め込もうとしてるわけじゃないわよ。でも弟子にしてくれると嬉しいのだけど。どうかしら? 最初は雑用だけってことで」
「「………………」」
にっこり。と、まるで考えを読んでますよ、と言わんばかりの微笑みを向けられた。
コウリンはルゥクの隣に座り、笑顔でルゥクに器や飲み物を手渡している。
雑用って……世話もすることなのか?
ルゥクから術を与えられたため、わたしは特定の師匠は持たなかった。父か家庭教師、もしくは士官学校の教師くらいにしか、術の扱いを聞き訓練しただけである。
術師の師弟関係というものは、ルゥクとその師の話を聞いたものが、わたしの中では基準になっていた。
もし、コウリンが弟子になったら……始終ルゥクと一緒にいて、旅の合間に術を教えてもらったりするのか?
二人が並んで座っているのをみると、何故か胸にもやもやとした不安のような気分が湧き上がってきた。
ルゥクは「断る」と言ってはいたが、その言葉は絶対ではない。もしかしたら、旅のほんの一時くらいなら教えてもいいとなるのではないか。
わたしは口を出さずに見守る。
コウリンはキラキラと目を輝かせているが、それが甘ったるい目線ではないと分かるくらい真っ直ぐにルゥクを見ていた。
意外に、ルゥクは本音に弱い気がする。
わたしが必死に生きるように説得したら、少しずつ考えてくれるようになったのだから。
きっと、ルゥクも正直な対応を好んでいるのだな。
でも…………何だろう。なんか、面白くない。
「……君は僕から何を学びたいの?」
ルゥクは顔を向けずにコウリンに聞く。
「もちろん、札の術よ。それ以外に何かあるの?」
「何のために? 札の術なら、他の術師でも習えるだろう?」
「そうね…………でも」
コウリンは自分の腰に巻き付けている袋から、手の平くらいの大きさの箱を取り出し蓋を開ける。そこから取り出したものに、わたしとルゥクは目を見開いた。
「あ…………!」
「…………これは」
箱から出てきたのは、古い……板状の札だった。
札が三枚、コウリンの両手で扇のように広げられる。
「貴方、コレと同じの使っていたでしょ? 今は滅びた札の術師の門派……」
「……………………」
一気に周りの空気が凍り付いた。
ルゥクは目を少し細めていたが、殺気などは出さずに黙って見ている。
「アタシはこれでも札の術師よ。興味があるのは、この札の使い方と作り方。それと…………」
コウリンはその場に立ち上がって、黙って顔を焚き火の方に向き直るルゥクを見下ろした。
「“不死”と云われている、貴方の身体かな」
「なっ……!?」
「………………」
やっぱり、ルゥクの不死が狙いか!?
わたしは霊影を足下に準備して構えたが、ルゥクは特に構える気配もなく、焚き火を見ながらため息をつく。
「僕が“不死”だと知って近付いたのなら、それなりの覚悟は持ってきたとみなすけど…………いいのかな?」
「もちろんよ……!」
コウリンが力強く答えた瞬間。
焚き火の炎が風も無いのに大きく揺れた。




