刺客と死角
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視点移動あり。
前半ケイラン
ざぶざぶざぶざぶ…………
湖に入って歩くこと、だいたい四半刻。
思ったよりも時間は掛かったが、やっと目的の『湖の小島』まで辿り着いた。
湖は深くても腰くらいの水位で、わたしでも充分歩いて渡れる。
ざばっ。
岩が続いている所を足場にして、一気に小島に上がった。島は思っていたよりもしっかりしている。
足元には洞窟の入り口にあった、ふかふかした苔が生えていた。太陽の光が当たらないので、湖の光だけで育ったのだろう。
例え苔でも、ある程度の陽の光は必要だと思うのだが…………
視線を前から上へと交互に流して、わたしは『それ』をじっと見詰めた。
まっすぐに伸びた太い幹。
遠くから見ていたから気にしなかったが、意外に大きく、わたしの背丈の十倍以上はある。
いくら『気力』が満ちているとはいえ、森に生えているような木がこんな陽の射さない洞窟に?
こんな洞窟にある小島に、“普通の木”が堂々と立っているのが何とも不思議だ。
「………………普通……?」
いいや、きっと普通ではない。
なんといっても、あの師匠がわたしを送り込んできた場所だぞ?
道着の水を搾りながら、わたしは木から目を離さずにそっと近付いてみる。
木、だ……形からしてトチノキ? いや、クルミか?
付いている葉の形が知っているものなので、ますます奇妙な気分になっていく。こんな所に生えているなら、全然知らない未知のものでもおかしくないと思いたかった。
でも、何でこんなところに……?
木の傍まで来てそっと幹に触れようとした時、
カサッ…………
微かな葉擦れが耳に入る。
「っ……!?」
その瞬間、わたしの身体が考えるよりも先に思い切り後ろへ飛び退いた。
その行動はほぼ無意識に近く、動いた後に自分が驚いたくらいだ。
ヒュンッ!
バチンッ!
わたしが立っていた場所に、突如として鞭のようなものが振り下ろされた。
「なっ……!?」
しゅるしゅる…………
わたしを取り逃したものが、するすると移動していく。それは真っ黒な蛇のようだが、動きは引き摺られる縄だ。
「…………影……」
あれだけ素早く攻撃してきた割には、回収される速度が極端に遅い。引き摺っている主を見ようと、その影の行く先を見るために顔を上げた。
影の先はクルミの木の上だった。
そこに、わたしが気付かぬ間に人が立っている。
あぁ、三戦目はあいつか。でも…………
「次はルゥクだと思っていたのだが…………」
たぶん、戦力外のコウリンは除外したとして。
スルガ、ゲンセンと仲間の“影”が続けて来たら、次もそうだと勝手に仲間内の人間を、戦う影にされると予想していた。
だから、次は満を持して『影ルゥク』が来るものだと…………
クルミの木の上。
太い枝に佇んでいたのは、明らかにルゥクとは違った背格好の影だった。
真っ黒な輪郭から判る、体つきはどう見ても『女性』だ。なんと言っても出てるとこが出てる。
毛先を見るに髪の毛は短く整っていた。
痩せっぽちな印象は無いが、明らかに子供のように背が低いために小柄で――――
「………………あ゛?」
その存在を確信した途端、思わず濁った声が出た。
「あ、あの…………」
『……………………』
シュピンッ!!
木の上に回収された影の鞭が、私のど真ん中へと向かってくる。
ズガンッ!!
すぐに避けた場所に容赦なく打ち込まれる攻撃は、いつも自分が見慣れている光景だった。
あの影は――――
「あの、悪趣味師匠ぉぉぉーーーっ!!」
――――『わたし』じゃないかっっっ!!
ヒュッ!!
ズドドドドドドドドドッ!!!!
今度は次々と『影の私』の攻撃が槍のように降ってきた。一応これも『霊影』の術で、戦い方が自分と重なる。
「いくらなんでも『自分』と戦うなんてっ!!」
今までとは勝手が違う。
自分のことは自分が分かる。
しかしそれと同時に、自分では見えない欠点があるものだ。
――――それを探せってことか!?
修行の主旨がそれなら、応戦しながら対策を…………
そう考えたが甘かった。木の上からわたし目掛けて繰り出される攻撃は、さっきよりも早くて的確になってきたのだ。
これは、気力を惜しみなく使っている時の自分だ。最初の攻撃は様子見で打ってきたのかもしれない。
「くっ!! あっちが有利じゃないか!」
わたしの気力はかなり削られているが、攻撃の具合いから見て『影の私』は気力体力共に万全のようだ。
スルガほど素早くはないし、ゲンセンほど重い攻撃ではない。
だが『霊影』の動きが不規則で、他人から見た自分の術の怖さをひしひしと思い知らされる。
長期戦に持ち込めば確実に負けるし、短期で叩き伏せられるかというと無理だ。
――――このっ…………うぅ、正直にツラ…………
どうすればいい? と弱気な考えが過ぎった時、続いた攻撃がピタリと止んだ。スルスルと縄状の影は引っ込んでいく。
霊影が見えなくなってから、木の上に居た『影の私』がストンッと静かに地面に降り立った。
そして二、三歩近付いてこちらを見ている(真っ黒なので、そんな感じに見える)のだ。
――――何……?
『…………ツラいなら……カわろうか?』
「えっ…………?」
喋った!? あ…………いや、この声と言葉は…………
真っ黒な影から発せられた若い女性の声。
これは、いつか熱にうなされた時に聞いた声と同じものだった。
++++++++++++++++++++
音を立ててドカドカと板の間を歩く。いつもなら足音などほとんど立てないが、そんなことをしなくても奴は僕の訪問に気付くはずだ。
だから、足音は完全な威嚇と抗議。
だんっ!!
道場の引き戸を思い切り開けてやった。
僕の訪問など屋敷に入る前にお見通しだろうから、入室でお伺いを立てる必要などない。
「よぉ。随分とおかんむりみてぇだなぁ?」
開けた瞬間に、真正面の壁にいたザガンと目が合う。
「お前に会いに来る時に、僕が上機嫌だったことあったっけ?」
「無いなぁ!! ひゃははははははっ!!」
「無理して笑わないでくれる?」
「あ? お前が怒ってんなら、おれは笑う。その方が世の中が釣り合うってもんだ」
「…………なんか、怒る気が失せてくる」
こいつの理屈は僕にも理解できない。
愉しそうに笑う割には、ザガンの目の奥は冷え切っているように見えた。
僕は視線を奴から離さずに、五歩くらい離れた場所に腰を下ろす。
「んで? おれが言う前に、お前から訪問理由を言ってくれや」
「ったく…………今さら説明するの面倒だなぁ……」
いつもは勝手に人の心を読むザガンが、何もせずに僕の言葉を待っていた。これはたまに見せる、奴なりの僕への礼節なのだ。
「今朝、ケイランだけでなく、コウリンの気まで移動していた。なんで彼女も修行に参加させたの?」
「なんだ、その事か。あぁそうだ。あの三つ編みの嬢ちゃんも送り込んだ。おみやげを付けてな」
「珍しいね。僕はてっきり、ケイランだけを鍛えるのかと思った」
「いや、最初はおれもそのつもりだったが…………でも予定変更だ」
ニヤニヤしていたザガンが、一瞬で真顔になった。
「このままケイランだけを鍛えたところで、他の奴を巻き込んだりしたら意味が無い」
しゅるっ。
ザガンの脇腹から、一本の影が伸びて廊下の向こうから酒瓶を持って戻ってくる。それの栓を開け、ガブガブと一気に酒を煽った。
「……また、酒の量増えたみたいだね?」
「いいや。昔よりは少なくなったなぁ。おれも歳を取ったもんだ」
「年を取る…………ね」
今の僕には縁遠い話。
「でも、酔いつぶれるにはまだまだな顔してるな」
「まぁ、くっそ…………昨日からあの女の顔がチラついて、何呑んでも酔える気分じゃなくなったんだ……」
「あの女って…………轟羅のこと」
「あいつしかいねぇだろ? 酒を不味くするのは…………」
「それが、コウリンまで修行に参加させた理由?」
「コウリンだけじゃねぇよ。今、裏庭じゃあ、剣術と柔術の取っ組み合いをさせてる。うちの弟子たちだって、お前の仲間以上に仕上げているからな」
「………………で? くどい言い方なしで、お前なりの結論は何?」
「…………………………」
ピタリと酒を呑むのを止め、ザガンは真っ直ぐに僕の顔を見る。
「お前ら、あの女がやってることに気付いたんだろ?」
「そうだね……」
素っ気ない返事をして、ザガンの顔を直視せずに酒瓶に意識を向ける。
ごとん……と置かれた酒瓶は、するすると巻き付いた影によって床を滑るように、最初に来た方向へと消えていく。知らない人間が見たら、勝手に酒瓶が動く怪異にしか思えない。
傍から見ると便利そうだけど、実は『霊影』は操作が緻密で難しい。
ケイランがザガンと同じことができるようになるには、相当な時間か、もしくは相当な才能が要るだろう。
「…………………………」
コロコロ、コロコロ…………
ザガンを無視して、僕は必死に酒瓶がコロコロと動く様子を頭の中で反芻していた。
「ちっ……くだらないこと考えて、落ち着くための尺を稼ごうとすんじゃねぇよ。少しは動揺しろ!! みっともなく嫌悪感丸出しになりやがれ!!」
おや、珍しくザガンの方が焦ってるなぁ。
そう感じたが心では思わない。こいつに読まれないようにするためには、胸の中で思わずに頭で『考える』だけにしておくのが鉄則だ。
イライラとしているのが判るザガンに、僕は用意していた疑問を口に出して問う。
「なんで、仲間たちまで鍛えようと思ったの?」
「はぁ…………じゃあ、結論から言うぞ。お前の仲間から死人が出たら、あの女は迷うことなくケイランにそれをぶつけてくると思ったんだ。お前だって、その予想がついてただろ?」
「…………うん。それが一番厄介だね」
「フブキの奴が考えそうなことだからな」
ゴウラの右腕であり、奴に心酔しているようなところのある男……『フブキ』。
何かと掴めない性格をしていて、はっきり言ってしまえば『厄介な変態』である。
「あぁ、変態なのは合ってるな。むしろ、それしか思えねぇ」
「あー、うん」
しまった。思わず思ってしまっ………………うん、ややこしいな。
「…………ややこしいなら、素直に口にやがれ」
「お前と話すのほんと、めんどくさい……」
心の底から言ってやる。
「話が逸れてるが……とにかく、解ってるだろうがケイランはお前にとっての弱点だ。その弱点のさらに弱点、とことん弱い部分から漬け込むのが奴らの……特にフブキのやり方だ。だから、弱みの源流まで戻って鍛えてやりたいと思った」
「…………弱点……」
そう、きっと今の僕はケイランを盾になど取られたら弱い。それは自覚している。
そして、ケイランのような馬鹿正直のお人好しは、一度親しくなった仲間を盾に取られたらあっさり負けるだろう。
「前回、お前たちが奴らと戦った時の話を聞いて、正直言うと運が良かっただけだと思ったな。奴らが張った罠は『対ルゥク』だけならかなり有効だった。だが、ケイランやその時いたコウリン、ゲンセンが味方にいたのを計算に入れてないのが、奴ら最大の誤算だった訳だ」
「……そうかな?」
「そうだ。“考えた”のがフブキ、“実行した”のがゴウラ。たまたま、新しく入った人間を計算しておらず、面白い人間には執着するゴウラの遊びが隙を生んだ。フブキが直前までお前の周囲を見張ったり、ゴウラがいつもの付き添いの兵士と同じように、無関心にケイランを殺していれば作戦は成功していたはずだ」
「……そうだね。兵士を殺せば僕の足止めに成功するし、僕も『魂喰い』を使った後は危なかったしねぇ」
コウリンやゲンセン、ユエと知り合ったのも偶然だったけど、あの出会いがなければ僕とケイランは簡単にやられていたと思うと感慨深い。
つい考えてしまっていると、ザガンが複雑そうな笑みを浮かべて僕の顔を見ていた。
「お前、人間らしくなったなぁ」
「元々……人間なんだけど」
「いや、すまん。人間に戻ってきたなぁ」
「褒め言葉として受け取るよ」
そして、僕はザガンを見つめ返す。
「お前は戻ってないのか?」
「……あぁ。まだ、いくつか戻ってないねぇ」
一瞬、ザガンの瞳の奥が死人のように仄暗くなる。しかし、すぐに小さな灯火を宿したように前を向く。
「心の底から戻りたいから、おれは今のお前らに期待しているんだ」
「今の僕ら……?」
「はははっ……」
ザガンは笑いながら、左手で着物の上から右の脇腹の辺りをぎゅっと握る。腕を失くしている左肩が強ばっていくのがわかった。
「今度こそゴウラを屠ってくれ。うちのバカ兄貴…………フブキと一緒に…………」
「言われなくても、粉微塵にしてやるつもりだよ」
「ひゃはははははっ!! そりゃ頼もしぃなぁ!!」
「……………………」
また一段と、乾いた笑い声をあげる。
いつもフブキの話をする時だけ、ザガンが内心では泣きそうになっているのが丸わかりだった。