希望に向かう者 二
ピシャン……。
自分の耳に雫が落ちる音が響いた。
普段なら気にもしない音だが、意識を取り戻しかけている自分の五感には十分な刺激になる。
ピシャン……。
周りは静かなのだろう。空間も狭いはずだ。
頬に冷たい石の感触がある。自分が横になっている床のせいで、身体中が冷えていることに気付く。
ピシャン……。
私は目を覚ました。
「…………ここは……?」
私がいた場所は牢屋だった。
分かりやすく石をはめて作った部屋で、大きさはだいたい布団が二つ敷けるくらいだろうか。格子がはめてある窓はかなり上にあり、私の身長では届かない。
牢屋に入れられているだけで、手足は縛られもせずに自由に動かせた。少し頭の後ろに痛みを感じるのは、意識を失う前に男にこん棒で殴られたせいだろう。痛んだところに手を伸ばすと、被っていた頭巾が取られていて銀の髪の毛が露になっていた。たいした怪我はしていないようだ。
カサリ。
顔に違和感を感じ触ると、私の左頬に紙が張り付けてある。ちょうど頬のアザを覆うように。
「何だ、この紙…………あれ? 取れない……」
紙は触ることができるのだが、剥がそうとすると肌にぴったり付いている。指先で引っ掻いても少しもめくれない。
まさか……これって……。
思い当たる節があり、私は頬に手を当てて頬に『気』を流そうとしてみた。しかし、手のひらにピリピリとした感触があるだけで、頬には何も伝わらない。
今度は霊影を出そうとしてみたが、足元からは何も這い出してはこない。
「“術封じ”か……」
アザのある術師が敵に捕まった場合、まず術を使えなくするために“封印”をアザに施す。たぶん、私の頬に張り付いている薄い紙は術師の札だろう。
だとすれば、ここでじたばたするのは悪手だ。今の私はこの場の状況も分からず、術も何もできないのだから。
まず落ち着こうと周りをよく見ると、目の前の鉄格子にも薄い紙が巻き付いていた。ずいぶん用心深く私を捕らえているものだが、手足を縛っていないところを見ると、傷つけずに穏便に人質に……というところだろうか?
格子に貼ってある札を指先で撫でてみた。
これに気術が施されていなければ、この紙は物理的な力で簡単に破けるものだろう。
私は格子の前に座り込み、その札をまじまじと眺めた。
ルゥクの札とはだいぶ違うな……。
そこにあるのはぺらっとした薄い紙に墨で文字が書かれたものだ。実はこれが一般的な“札”だと最近になって知った。
ルゥクの使っている札は、薄くて硬い手のひらほどの大きさの何かの板に、綺麗な模様が絵のように書かれている。おそらくすぐ取り出したり、投げたりするのに都合がいい。つまり、攻撃に特化しているのだ。
私はハッとして、胸元に入れていた御守りを探す。
腰に差していた短刀は取られていたが、どうやらここまでは調べなかったようだ。御守りと兵士の証の金属板はちゃんとあった。
ホッと胸を撫で下ろし、御守りを手にとってじっと見つめる。
「やっぱり……ルゥクの札と同じだ……」
模様は術の違いで全部異なるそうだが、札の造りはほぼ同じと言っていい。これまでルゥクが札を使うのを何度も見てきて、これと同じものだと確信した。
私がこれをルゥクに見せたとき、あいつは特に驚かなかった。実はあの反応は、一般の札の術師にはあまりないのだ。
これまで恩人の手掛かりが欲しくて、色々な札の術師にこの札を見せたが、皆一様に驚いていた。
この板のような札はかなり昔に使われ、札を作る難しさから、この門派はすでに絶えたと言われていたからだ。
現在はこの札自体が骨董のような代物だと教えられ、何人かはこの札に大金を積み、ぜひ売って欲しいとまで言ってきた。
もちろん、売るつもりは全くないが、これで私の恩人とルゥクが同じ系統の札の術師だと判明した。
そしてもう一つ、ルゥクが『影』だと聞いた時に、私は気付いてしまったことがあった。
『君の恩人を探すのは、止めた方がいい。彼が影なら、もう、生きている保証はない』
私の恩人を“彼”と言った。
私は一言も恩人が男だとは言っていない。もしかしたら、『影』には男しかいないとか、そういうことで言ったのかもしれない。
でも、その時にすぐには気付かなかったくらいに、迷いもなくすんなり言ったのだ。
やはり、ルゥクは恩人を知っている。親しいかどうかは別として、少なくとも人物の特定はできるかもしれない。
うん。少しやる気が出てきた。早くここを出よう。
「ここを出たらルゥクと合流しないと…………」
しかしそう呟いた時、私は気を失う直前のことを思い出して血の気が引いていった。
ちぎれた腕。肘まで長い、指ぬきの黒い手袋。
あれは……間違いない。ルゥクの腕だ。
まさか…………死…………。
最悪の答えが頭を過った。
カツン……カツン……。
急に近くから足音が響いた。階段を降りてくる音だ。私は御守りを胸元にしまい、その音の主たちを待つ。
「あぁ、起きていたのか……」
「ほほぅ! これは、なかなかいい!」
鉄格子のところに太った中年の男と、筋肉質の若い男が歩いてきた。
中年の方は脂ぎった髪の毛の薄い頭、上質の着物を着て身体中にこれでもかと装飾品を着けていた。どうやら、成金の商人と思われる。鼻息を荒げて私を舐めるように見ている様は、まるで食事を目の前にした豚のようだ。
「なんと見事な『銀寿』の娘ではないか! 容姿も悪くないな。これで兵士をしているとは、なんとも勿体ない……」
「あんたは何だ……?」
「わしはこの辺りに住む者だ。どうだ娘、兵士など辞めて一緒に来る気はないか? わしの側で思うままに贅沢をさせてやるぞ!」
背中にゾクッと寒気がした。
こういう輩は金にものを言わせて、他人の人生など塵のようにしか思っていない。
「…………断る。金持ちのお飾りになる気はない。ルゥクに会わせてくれ。私はあいつを護送する任務を遂行しなければならない」
「お嬢さん、あんた随分と仕事熱心だな。だが、その任務はそろそろ終了だ。ルゥクは直に俺たちが捕まえてくる」
成金男の横に立っていた若い男は、私の言葉に鼻で嗤って答えた。男はいかにも戦士という風貌で、短い黒髪に日焼けした顔である。背はおそらくルゥクより頭ひとつ高いだろうか。
今のこの男の言葉で、少なくともルゥクはまだ捕まっていないと分かった。
私は床に座ったまま、男を睨み付けた。
「おっと……そんなに睨まないでくれ。あんたにも悪い話じゃないんだ。あんたが望めば何事も無かったように、兵士にも戻してやれるし、この旦那のところで何不自由なく暮らすことも可能だって言ってんだ」
「……………………」
男は首をすくめながら座っている私を見下ろす。不愉快だが、少しコイツらに話をさせて状況を探ろうと試みた。
ルゥクは……どうなったのだろう?
「王都に帰る? 簡単には帰れない、私は任務を失敗しているのだから」
「国はあんたの失敗なんて何とも思わないさ。それどころか、階級も上がるはずだ。今まで隊の『お荷物』扱いだったのなら、他の奴らも見返せるぞ?」
「……見返したいと思うほど、他の兵士から冷遇はされてはいないが……」
『お荷物』という言葉に、私は内心どきりとした。はっきりと虐められているわけではないが、女ということもあり、術のことでも陰口は叩かれているのは知っている。
「あんた知らないんだな。残念だけど、あんたは厄介者の新人兵士さ。だから、ルゥクを護送する任務を与えられたんだ」
「……何……?」
一瞬、理解が追い付かない。
私が……厄介者?
私の動揺が顔に出たのだろう。男はニヤリと含み笑いをして、成金男よりも前に、鉄格子越しに私の近くへやって来た。
「教えてやるよ。ルゥクの護送は毎回失敗するようになってる。その際に、比較的使えない、落ちこぼれや反抗的な新人の兵士を充てがっておくんだ。適度にルゥクの足を引っ張ってくれるし、死んでも特に困らないからな」
あまりの事に視界が歪み、次の言葉が出なかった。
私は…………。
「あんたも、そんな軍に戻るよりも、富豪の愛人の方が幸せじゃないか? 少なくとも命はなくさずに済む」
「そうだぞ娘。生きていれば楽しいこともあるぞ」
“生きる”こと。
それはルゥクが放棄しようとしているものだ。私はこのことをルゥクに説こうとした。しかし、今の状況で私はルゥクに『生きることの素晴しさ』を伝えられる自信がない。
「……ルゥクはお前らから逃げて、死にたかったんだな」
「んん? あいつが“死ぬ”とは、面白いな!」
「傑作だな、ハハッ!!」
私がぽつりと呟くと、何故か目の前の男たちは声をあげて笑い始めた。
「何が……可笑しい……?」
「ハハ……だってよ、“不死のルゥク”が……」
「ルゥクが死ねないのは、お前のような奴らのせいだろう? お前らが何度もルゥクの邪魔をしているから……」
その時、若い男がすぅっと目を細めて眉間にシワを寄せた。嘲笑する顔がより深く歪んだ気がする。
「……珍しいな。あんたは何も知らされてなかったのか? そういえばいつもなら、護送の兵士が逃げ出すか、俺たちに直ぐに懐柔されていたからな。どうやらあんたは、あいつにとっては『特別』みたいだな……。そうか……隠していたのか…………ははは……こりゃあいいな……」
「ふん、あの化け物が気を遣うとは……。あやつを捕らえるのに、この娘が使えるかもしれんなぁ……」
何かおかしいとは思った。話の初めから、微妙に話が食い違っていたからだ。
ルゥクは私に隠していることが有る。きっとそれが最重要だということも、私は分かってきていた。
「…………改めて聞こう。何でお前たちはルゥクを狙っている?」
『金持ちに執着された』
『死体でも持って行かれる』
そして、国がルゥクを手放す気がない。
「あいつが“不死”と言われるのは何故だ?」
まさかとは思った。しかし…………。
「あやつはな…………『不老不死』なのだよ。あやつを手に入れれば、あやつの血肉から妙薬が作れる」
――――――不老不死。“不死のルゥク”
お伽噺だと思う。しかし、二人の目が一瞬、狂気に揺らめいた。本気でルゥクを不老不死だと思っている。
「…………………………馬鹿な、ことを……」
「案外それが、嘘じゃねぇんだよ。あいつを知っている元兵士の老人が言っていたんだ。『ルゥクは五十年経っても歳をとっていない』ってな」
「わしも最初は半信半疑だった。しかし、調べれば調べるほど、あやつの疑惑は確信になった。あやつが刑場を目指し始めた、この十年………………奴は何も変わっていないのだ!!」
不老不死…………こいつらは本気でルゥクを狙っている。
こいつらのギラギラした目をまともに見ていると目眩がした。
もし、この事が嘘だとしても、こいつらはルゥクを捕らえて試すのだろう。
血肉から薬を…………。
「人間が……人間を食うのか…………そんな、馬鹿げた話のために…………」
「まぁ、そんなことはたいした問題ではない。にわかには信じられない話ではあるが、他にもあやつを狙っている者が多くいるのも事実だ」
そんなこと…………?
ルゥクがこいつらに殺されて…………。同じ人間なのに、どうしてそんなことを考えられるのだろう……?
「俺はさっき見たけどよ。あいつは腕をちぎられて、胴体を貫かれたのに、まだ動いていた。俺はあんたを拐ってくる役目だったから途中で退却したが、あいつを殺す担当だった奴らがまだ戻ってこない。…………これでもあの男を普通の人間だと呼べるか?」
まるで『人間ではない、化け物なんだ』と言っている。
だから、殺せるのか。
「私から見れば、化け物はあんたらだ」
今、術が使えるなら、こいつらをありったけの力で叩き伏せてやりたい。
「そうかい。ま、あんたは必要な時までここでゆっくりしてな。これからどうすれば良いか、考えておくことをお勧めするぜ」
「後で食事を持ってこさせよう。お前は大事にしてやるからな、安心して待っているがよい」
二人は笑いながら牢から出ていった。
私はあいつらへの嫌悪感で吐き気がした。
私が悠長に気絶している間に、ルゥクはどんな目に合ったのだろう。私は部屋の壁にもたれてため息を吐いた。じんわりと目頭が熱くなって、目からぼろぼろと涙が溢れた。
ルゥクに会ってからこんなことが多くなった。
「ルゥク…………あいつ……また会ったら、隠し事は全部吐いてもらわないと……」
――――――だから、生きていてくれ。
本当に不老不死なら、あんなくだらない奴らにくれてやる命は無いだろう?
私は生きているお前に会いたい。