02
「ねえ、この子私にくださらない?」
「……は?」
お姫様の突然の申し出に見張りの兵士とノアはぽかんと呆けた声を出したが、彼女はそんなことは意に介さず、酷く楽しそうに口許を綻ばせた。
「気に入ったわ」
細められた桜の瞳が緩やかに笑む。その仕草がまるでミルクを舐めた猫みたいだなと、場違いにもそんなことを思った。
「ねえあなた、私に仕える気はなくて? もちろん自由などありませんけど、その枷は外してあげられますわよ」
彼女の細い指先が示すのは、ノアを繋ぐ忌々しい鎖。
「お姫様、僕をここから出してくれるの?」
「出してあげましょう。私の近衛騎士として、生涯をかけて私に忠誠を誓えるのなら」
鉄格子の隙間にするりと手を入れ、彼女はシルクの手袋越しに僕の頬にそっと触れた。騎士が「姫様、」と咎める声にも耳を貸さず、桜の瞳が試すように僕を射抜く。彼女の真意は知らないが、このカードを利用しない手はなかった。
世間知らずなこのお姫様を利用するだけ利用して、従順な振りをして逃げてしまえば良い。王女がこうして城の外に出ることが頻繁にあるのなら、逃げ出す機会などいくらでもあるだろう。
「分かった、誓うよ。今この瞬間から、僕は君のものだ」
頬を撫でていた手を掴まえて、小さなその手にそっと口づけを落とした。
「ふふ、決まりね。――ガゼル、すぐに手続きをしてちょうだい」
そう言ってお姫様は嬉しそうに微笑んだが、慌てたのはガゼルと呼ばれた騎士だ。
「しかし姫様、それは……!」
「なあに? 私の命令が聞けないの?」
自身を諌めようとしたガゼルを、彼女は微笑みひとつで黙らせた。途端、空気が氷のように冷たくなる。
笑っているのに、その横顔にぞくりとした。これが王族の威厳だろうか。これまで幾多の高貴な人間を手玉にとってきたノアでさえも気圧された。そしてそれはガゼルも同じだろう。その証拠にガゼルは忌々し気にノアを睨み付けたあと、諦めたように王女へ敬礼した。
「……仰せのままに致します」
「そう。それで良いのよ」
彼女が満足げに瞳を細めた途端、空気がふっと軽くなった。
ぼけっと突っ立っていた兵士にガゼルが視線だけで促すと、兵士は慌てて鍵束を取り出しノアの牢を開けた。続いて、ノアの両手を戒めていた鎖を外す。手首が軽くなる感触に、ノアは内心でほくそ笑んだ。
「ありがとう。釈放の許可に必要なものは明日中には手配するわ」
彼女が満足そうに口許を綻ばせるその背後で、ガゼルは諦めたように溜め息を吐いていた。
あまり詳しくは知らないが、確かアシリアでは罪人の釈放に王の直筆の署名が必要だった筈だ。もちろん釈放などそう頻繁に行われることはないが、恩赦が発生したり、万が一冤罪だった場合がそれに該当する。
しかし当然、今回は事情が違う。王は今でも健在であるし、ノアは残念ながら冤罪ではない。それを独断で用意すると断言できるとは、彼女は王家の中でもそれなりの立場にいるらしい。
「そうだわ、あなた名前は?」
「ノア」
お姫様からの問いに短く答える。ノアの名を復唱し、満足気に微笑んでいるお姫様を横目で見据えた。
彼女が王家でどのような立ち位置にいようが関係ない。罪人を犬か猫のように拾う女に忠誠など誓うものか。
せいぜい呑気に笑っていれば良い。しばらくは従順な振りをして、いずれ隙を見て逃げてやる。