01
花に囲まれた華やかな街に、重く厳かな鐘の音が響く。時計という高価なものを持たない人々に、時間を知らせるための鐘だ。そしてその鐘の音は、王都の北に位置する王城にも届いていた。
此処は花の国と呼ばれるアシリア王国。稀少な染料がとれる花が多く咲いていて、この国は花の恩恵で成り立っていると言っても過言ではない。季節に関係なく国中に花が咲き乱れ、枯れることを知らない国。
花に愛されたその国の中で、唯一何の花も咲いていないのが、王城内にある地下牢だ。
鉄の壁や扉で覆われ、外の華やかな世界とは完全に謝絶されたこの世界。
ここはもはや此の世ではなく、此の世と彼の世の境目なのではないか。そんな疑問すら浮かんでくる程、この空間は異質なものだった。
「……まるで地獄だねえ」
監獄を眺め、ノアは口の端をあげて嗤った。
依頼された対象者を殺して逃げる際にしくじって捕らえられ、ノアがこの牢へ入れられたのは三日程前の話だ。己のとんだ醜態に、苛立ちを通り越して笑ってしまう。今まで殺し屋として生きてきて、仕事でミスをしたことなど一度もなかった。それがプロの仕事だと誇りに思っていたのに、傲っていたらこの様だ。
アシリアを含めた周辺の国々の闇を牛耳っている犯罪組織。三日前までは、ノアは確かにその組織に所属する殺し屋だった。
殺し屋として接触するのは主に、政に顔のきく貴族や爵位はなくとも裕福な豪商、そして時に王族だ。華やかな表の世界とは裏腹に、高貴な人間たちが醜い欲のぶつけ合いをしている様を、ノアは組織の幹部として嫌と言うほど眺めてきた。
所詮、今となっては過去の話だ。闇の世界の人間は、一度失敗すれば命はない。かろうじて対象を始末したとは言え、期日までに戻れなかった時点で組織からも見限られているだろう。それが当たり前の世界で生きてきた。
「さて、どうやって逃げようかな」
見張りの兵士に見つからないようぽつりと呟く。帰る場所がなくとも、このまま処刑を待つつもりなど毛頭なかった。しかし両手を少しでも動かせば、ちゃり、と鎖の音が鳴る。自分が今、自由の身ではないのだと実感する。
らしくもなくひとつ舌打ちをすると、ふとこの牢へと続く階段を下る音が聞こえた。この空間は水を打ったように静かだから、外の音はよく響くのだ。カツカツと響くこの音は、いつも聞く兵士の足音ではない。もっとヒールの高い靴だ。足音の主が階段を下り終えた途端、空間はわっと騒がしくなった。
「姫様! なりません、このような場所においでになっては……!」
――姫様?
兵士の悲鳴のような声に振り向くと、そこにはなるほど、“姫様”と呼ばれるに相応しい風貌の女が立っていた。レースがたっぷりあしらわれた華やかなドレスに、美しく手入れされた金色の髪。歳は……17か18くらいだろうか。そのすぐ背後には、黒髪の精悍な騎士を従えている。
自身を止めようとする兵士を微笑みひとつで制し、女は地下牢へ足を踏み入れる。薄い菫色のドレスを纏って佇む彼女は、無機質なこの場所に咲き誇る一輪の花のようだった。
簡易なベッドに腰かけたままのんびりと騒ぎを見つめていたノアを、桜色の瞳が捉えた。
「あら、新入りさん?」
ひと目見てノアが新入りだと分かるとは、どうやら結構な頻度でこんなところへ通っているらしい。止ん事無いお方が地下牢へ通うだなんて、なかなか面白い神経をしている。
「はじめましてお姫様。可愛い顔に似合わず獄中をお散歩ですか? いい趣味をしてるね」
興味本意で立ち上がり、鉄格子のすぐ傍で王女に向かい合って膝をついた。邪魔な鉄格子さえなければ、そのままお姫様の手をとって口づけのひとつでもくれてやったのだけれど。
王女への無礼な物言いに騎士は目に見えて殺気立ったが、当の彼女はさして気にした様子もなく、花のような微笑のままでノアをなぞるように見つめた。
「そうね。無様に牢へと追い込まれた、愚かな罪人を眺めるのはとても楽しいわ」
一国のお姫様とは思えない、ずけずけとした物言いに思わず吹き出してしまう。
「あはっは、言うねえ。アシリアの王族は血に飢えてるの?」
アシリアの王族はこの国で女神と讃えられている花の神レティの血を受け継ぐ、誇り高き一族だと聞いたことがある。その血を侮辱されたなら、先程のノアの無礼に顔色ひとつ変えなかったこのお姫様でも、目の色を変えて激昂するに決まっている。
そう思って敢えて口に出したのに、彼女はノアの予想に反し、瞳を細めただけだった。そしてその数秒後、彼女は爆弾を落とすのだ。
「ねえ、この子私にくださらない?」
「……は?」