魂の還る場所
夢の中の僕は、夢の中では現実で…確かに存在していた。
君と出逢ったあの日、僕は確かに生きていた。
君と僕の夢の中で…。
僕は真っ暗な道に佇んでいた。
ポツンと一つだけある街灯は光の量が少ないのか辺りは薄暗い。
目を凝らしてみても道の先に何があるのかまったく見えない。
暗がりに少し目が慣れてくると道の端に側溝があることに気づいた。
幅は、そう広くはないが高さがあるのか水かさが増している。
水は静かにゆっくり流れている。
僕は、しばらくぼんやり水の流れを見ていた。
すると何かがぶつかるような音が聞こえてきた。コツ…コツと…。
何だろう。
側溝から聞こえてくる音の正体を僕は待った。
流れてきたのは小さな瓶。
よくキャンディやクッキーが入っているような蓋のついた小さな瓶だ。
僕は近づいて手を伸ばしてみた。
その瓶を拾い上げて中を見ると何かいる。
虫か?いや違う。
とても小さいがそれは人間の形をしていた。
それが君と僕との初めての出会いだった。
君は、瓶の中で膝を抱えるようにうずくまっていたね。
僕は、じっと眺めていたけど微動だにしない君が生きてるのか死んでるのかわからない。
少し瓶を傾けてみた。
君は、瓶の中をスーッと移動したけどしっかり膝を抱え込んでまるで動かない。
今度は少し揺すってみた。
君の体がスーッと動きガラスの壁に軽くぶつかる。
僕は、ゆっくりそれを繰り返してみた。
小さい君を傷つけないようにゆっくりと…。
少し動いたように見えた。
僕は、そのままで君が動くのを待った。
しばらくすると君は僕の顔をゆっくり見上げた。
暗がりのせいでどうも君の顔がよく見えない。
僕は、瓶を持ってる両手をそのまま自分の目線まで上げてみる。
暗くてやっぱり見えない。
少しでも明るい場所は街灯の下しかない。
足元は暗くて見えないので気をつけてゆっくり移動した。
淡いぼんやりした光だったけどどうにか君を見ることができた。
人間の形をした小さな君はブルーのチェックのパジャマを着てギュッと膝を抱えていた。
そして、君は…泣いていた。
いつからか…どれだけ泣き続けたのか…腫れぼったい瞼と赤い目。
いくつもの涙の跡。
きっと長い間、泣き続けていたんだろう。
こんなに傷ついてる小さな君をこれ以上傷つけてはいけないと思って僕は、そっと視線を外す。
君が僕をじっと見ているのを感じてたけど僕はどうやって君を瓶から出してあげればいいのかを考えていた。
回りを見渡すと街灯の横にベンチを見つけた。
僕は暗がりの中、灯りを頼りにそのベンチまで歩いていきゆっくり瓶を傾けて横向きに置いてみる。
君が自分の意思でいつでも出てこれるように…。
何か話そう。
自分のことを話そう。
話すことは苦手なはずなのになぜかそう思った。
人見知りが激しくて人との関わり方がわからない僕に楽しい思い出など大してない。
悲しい記憶を誰かに話すことは蓋をした傷を見せること。
記憶を辿りながら話しをしているとその時に感じた痛みが強烈に蘇ってくる。
蓋をした傷は何年経った今も治ることはなくその時のまま残っていた。
悲しい記憶は痛みと共に湧き上がり止めどなく溢れ出てくる。
僕は、いつの間にか泣いていた。
小さな傷が増えると知らないうちに心に壁が出来てしまっていたこと。
孤独の中が自分を守る唯一の居場所だったこと。
その居場所にいつも傷つけられていたこと。
そして…ずっとそんな自分が嫌いだったこと。
自分なんて消えてしまえばいいのに…と心から願っていたこと。
僕は、休むことなく話し続けた。
ここに時間が存在するとしたらそれはきっと長い時間だったに違いない。
すっかり悲しい記憶に押し潰されてしまった僕はそれからしばらく黙っていた。
なんだかすごく疲れて眠りたいと思った。
瓶を抱いて横になろうとした時、君が瓶の中から出てきた。
それからベンチの上に置いてた僕の手をゆっくり撫でた。
小さな君の手は確かにあたたかくてその温もりは僕の心を優しく包んだ。
僕の心に寄り添うように…痛みに優しく触れるその手はまるで魔法のように傷を癒した。
僕は、久しぶりに深い眠りに落ちた。
君の温もりを指に感じながら深い深い眠りに…。
どれくらい眠ったのだろう。
目が覚めてもまだ暗いままだった。
まだ夢の中か…。
でも起きているのになぜか目を開けることができない。
閉じた瞼に少し光を感じていた。
「起きてるかな〜?おはよう。今日もいい天気だよ!」
ドアの開く音と共に元気のいい声が響いた。
パタパタと歩く音がして僕のほうに近づいてくる。
シャッという音。
いきなり辺りが真っ白になった。
そして僕は現実に戻った。
僕は、この病院のベッドの上でずっと生きてきた。
…というより生かされてきた。
僕の命は、器械と僕の身体を繋いでいる管。
通学途中に交通事故に遭い生きてるのか死んでるのかわからないまま2年もこのベッドの上にいる。
僕はまだ中学に入ったばかりだった。
ずっとずっと夢の中にいたかった。
また1人ぼっちに戻ってしまった。
誰か僕を助けて!
声にならない僕の声は、叫ぶこともできず行き場を失ったまま…また新しい一つの傷になった。
夢から醒めた僕は空虚の中にいた。
あのままずっと夢の中にいれたらよかったのに…。
この2年間、動くことはできないけど意識はあった。
それに時々、幽体離脱をしていろんな場所に行くことができる。
最初は、動けないストレス解消にいいと思ってたけどそれはそのうち虚しさに変わった。
事故の直後は、家族もクラスの友達もみんなが悲しみ早く僕の意識が戻るようにと祈ってくれた。
でも半年を過ぎる頃には家族以外がお見舞いにきてくれることはなくなった。
学校を覗いてみてもみんな楽しそうで僕のことはすっかり忘れてしまっているようだった。
家では、お母さんがフルタイムで仕事に出るようになった。
加害者側から毎月支払われるお金は、僕の命を維持するには充分ではなかった。
1年経ったくらいに主治医の先生から話しがあった。
もう意識を取り戻す可能性はかなり低いということ。
万が一、意識を取り戻すことができても身体にかなりの損傷がありもう二度と自力で動くことはできないということ。
今の状態をこの先も続けるには経済的にかなりの負担になる為、装置を外す選択肢もあるということ。
僕の事故は、生きていたことが奇跡なくらいの大きな事故だったらしい。
お母さんは泣いた。何日も泣き続けた。
僕が生きていたことに感謝をし必ず僕の目がまた開くことを信じて…それだけを信じて一年間、頑張ってきたお母さん。
あまりに残酷な宣告だった。
僕は、泣いているお母さんの肩に手をやろうとしたけどその手は肩をすり抜けて触れることはできなかった。
僕も泣いた。
いっそ死んでしまえばよかった!
なんで僕は、こんな身体で生きてるんだ!
お母さん…お母さん、ごめんなさい。
そしてもう僕を…自由にして…。
限界を通り越した状況はお父さんに辛い決断をさせた。
装置を外す。
こんな形で生きることをこの子は望んではいないだろうと…。
ゆっくり休ませてあげようと…。
お父さんとお母さんの言い争いは毎日続き、疲れ果てた二人は別れを決めた。
僕が事故に遭う前は、ほんとに仲のよい両親だった。
なかなか子宝に恵まれず歳をとってやっと授かったのが僕だった。
兄弟がいなかった分、両親の全ての愛情をいっぱいに受けて大切に育てられた。
二人にとってほんとに宝物だったんだろう。
僕は、お父さんの決断を酷いとは思わない。
お母さんは、それでも親なのかと責めたけどお父さんは何も言わず泣いていた。
その決断がどれほど辛いものだったのか僕はその涙で感じた。
お父さんは自分を責めるように…僕に詫びるように…辛さを噛みしめるように泣いていたから…。
それから1人になったお母さんは、朝も昼も夜も僕の為に働いた。
そんな目まぐるしい状況の中でもお母さんは時間を作って必ず毎日会いにきて仕事の愚痴や1日あったことを僕の頬を撫でながら話した。
最近では、病院にくる回数も減ってきたので僕が会いに行った。
家に帰るとすぐに疲れて眠るお母さんのその寝顔は、元気な頃の面影はなくたくさんの白髪と目の下の隈が痛々しかった。
よほど疲れてるんだろう。
僕は、自分の身体を離れることをやめた。
もう何も見たくないし聞きたくなかった。
この部屋には、1日に何回か様子を見にくる先生と看護師さん以外は誰もくることはなかった。
僕は、孤独の中にいた。
孤独の中で自分で自分を傷つけていた。
痛みに慣れた心は、動かない身体と同じように麻痺している。
僕は、もう一度君に会いたいと思った。
穏やかで心安らぐあの場所にもう一度行きたいと心から願った。
強く願い…そして心の目を閉じた。
しばらくして目を開けるとあの薄暗くまっすぐのびる道の上に立っていた。
僕は街灯のほのかな灯りに向かって歩く。
ベンチの上にある横向きになった瓶の中で君はまた膝を抱えて丸くなっていた。
僕が近づくと君はゆっくり立ち上がって瓶の中から出てきて言った。
「もう行かなきゃ…」
「えっ?どこへ?」
僕はいきなりの君の言葉に驚いて慌てて聞いた。
君はその言葉に答えることなく話し続ける。
「僕と君は今、同じ場所にいる。僕は病気で君は事故で…。人間は、最後に選ぶことができるんだよ。」
「なにを?」
「人は魂が肉体を離れる時にそのまま終わるのかまだ続けるのかを選ぶことができるんだ。」
「えっ?じゃ〜なんで僕は事故で死ななかったの?なんで2年もこんな辛い思いをしなきゃいけなかったの?僕は、選んだわけじゃない!」
「違うよ。君が決めたことだよ。人は自分の運命を決めてから生まれてくるんだ。それでも強い思いがあれば変えることはできる。それは簡単ではないけど…。みんな自分の決めた運命を生きてるんだ。」
「そんな…僕は、なんでこんなに寂しい人生を生きることを決めたの?なんで…。」
僕は君の言葉を理解できず混乱した。
「僕たちは、何かを学ぶ為に生まれてくる。その課題や事の重さはそれぞれ違う。魂の修行の旅を終えてクリアになった時やっともとある場所に還る。」
「なんで君は、そんなに知ってるの?もしかして神様なの?」
「僕が神様なら辛くて泣いたりなんかしないよ。」
そう言って笑った君の笑顔は、なんだか大人びて見えた。
どうしても君の言葉を何一つ理解することができなかった。
「じゃ〜なんでそんなにいろんなことを知ってるの?」
「人は自分の決めた課題を終えた時に死を迎える。その時、全てを知るんだよ。自分が生まれてきた意味を…。」
「僕は何も知らない!君の言ってることがわからない!」
「ここにいる君と僕は、魂の齢が違うからだよ。僕は、この場所に何度も来てる。今、こうして話してるように僕も教えてもらってきたんだよ。」
僕はなぜか寂しい気持ちになった。
「君は、これからどこへ行くの?」
「僕は、もう一度自分の身体に戻るよ。ほんとならここで終わることになってたんだけどね。」
また戻る?君の言葉にびっくりして聞いた。
「初めて会った時、君は泣いていた。すごく辛くて悲しい思いをしてたんでしょ?なんでそんな思いをするのにまた戻るというの?」
君は少し笑った。
「そうだね。病に冒された身体は苦しい。6歳の幼い僕には耐えきれないほど…。でも、まだ終われない。あと1つだけ残ってるみたいだ。」
やっぱりわからない…
僕は、言葉を失って黙ってしまった。
そんな僕の心を見透かしたように君は言った。
「君にも、そのうちわかるから無理にわかろうとしなくていいんだよ。今から君は自分の歩いてきた道を振り返るんだ。それを見て決めればいい。」
僕は、頭を振って叫んだ。
「見たくない!見なくても僕の答えは決まってる!短い人生なのに悲しいことばかりだった。早く終わってしまいたい!」
「人の人生には、幸せな時と悲しい時が半分ずつあるみたいだ。ただ思い方は人それぞれ違う。自分がどう感じるかで幸せのほうが多くなることもある。」
僕は、どうしても見たくなくて叫んだ。
「いやだ!見たくない!」
君は、そう言う僕に近づいてきてベンチに乗せてる僕の手に自分の手を当てた。
「大丈夫だよ。君が落ち着くまで僕は、ここにいよう。」
なぜだろう。
やっぱり君の手は、あの時と同じ優しくて温かい。
心が落ち着いてくる。
そして安らいだ僕は、ゆっくり目を閉じて深呼吸をしてから自分の歩いてきた道を振り返った。
真っ暗な道は急に明るくなって…僕は、大きく息を吸って力いっぱい泣いた。
僕は、自分がこの世に誕生した瞬間からを見ていた。
お母さんは、産んだばかりの僕を胸に抱いて泣きながら笑ってた。
その傍らでお父さんも頷きながら泣いていた。
二人とも、とても嬉しそうで幸せいっぱいの空気が流れてる。
僕の誕生を泣いて喜んだ両親。
僕は、この二人に望まれ生まれてきて心からの祝福を受けた。
初めて笑った時、初めて自分の力で立った時…初めて一歩を踏み出した時、僕の成長は二人の喜びになった。
でも、物心ついた頃からは人見知りが強く幼稚園に入ってからも1人で遊ぶ僕を心配していた。
小学校の6年間は、あまり笑わないしゃべらない僕を心配しながらも見守ってくれていた。
誰もが当たり前にできる笑うことさえ難しく思う僕に、お母さんは笑顔の大切さを教えてくれた。
中学に上がって初めて家に友達を連れてきた日はお母さんの歓迎ぶりはすごかった。
お父さんが帰ってきてすぐに僕が初めて友達を連れてきたこと、その友達がとてもいい子だったことを嬉しくて仕方ない様子で報告していた。
それから安定した日々が続き毎日を笑顔で過ごした。
誰もが普通にある日常の中で、僕たち家族にも変わらない明日が当たり前にくるものだと思っていた。
そして運命のあの日…僕は、事故の瞬間に目を逸らせた。
会社で事故の連絡を受けたお父さんは警察や病院への対応に慌ただしく動き、お母さんは確認の為にすぐ病院に向かった。
お母さんは、震えの止まらない自分の身体を抑えるように強くひじを抱いていた。
僕の姿は、悲惨なものだった。
朝、お弁当を受け取り元気にいってきますと家を出た息子とは思えない変わり果てた姿にお母さんは悲鳴のような声で泣き叫んでその場に崩れた。
そして気を失ってしまった。
後から駆けつけたお父さんは、僕を見て言葉を失くした。
しばらく呆然と立ち尽くしていたけどギュッと拳を強く握りしめ歯を食いしばった。
目にいっぱい涙を溜めて大きな声で、事故を起こした運転手に会わせろとそばにいた主治医の先生に食ってかかった。
「お父さん落ち着いて下さい!」
先生の静止を振りほどきすぐにまた警察署に向かった。
そこでも震える声で誰に言うでもなく泣きながら叫んだ。
「俺の息子を…大事な息子をあんな身体にした奴をここに連れてこい!俺が同じ目に遭わせてやる!殺してやる!」
「お父さん!事故を起こした運転手は今、取り調べを受けてます。きちんと調べてまたお話しさせていただきますから…。」
そう言いながら数人の警察官が慌てて出てきてお父さんを静止した。
「見たか?あんたら見たか?俺の息子を!お願いだ!助けてくれ!誰か助けてくれ!あれじゃもう助からない!」
普段、物静かで穏やかなお父さんがそんな風にとり乱して泣くのを初めて見た。
僕は、幸せだったんだ。
こんなにも愛されて護られて…僕は、独りじゃなかった。
その後はベッドの上の2年間。
苦しんだのは僕だけじゃなかった。
僕の意識が必ず戻ることを信じて毎日祈る…思いのすべてがそれだけになったお母さん。
代われるものなら代わってやりたい…無念の思いの中、毎日の仕事に追われたお父さん。
それぞれの思いを抱えたまま生きる意味を無くして生きていた。
そして僕の家からすべての笑顔が消えた。
僕は真っ暗な道を歩いてきたらしく、いつの間にか目の前に見慣れた街灯が見えてきた。
僕がベンチまで行くと君は待ってくれていた。
「なんだか不思議な気持ちだよ。その時に見えてなかったものがあんなにたくさんあったなんて…。」
僕は、そう言いながら君の横に座った。
「そうだね。人の思いなんて目に見えないものだからね。」
「僕は、ずっと独りだと思ってきたけどこんなに深い愛に護られていたことを初めて知ったよ。家族の愛なんて当たり前のものだと思ってたから…。」
「当たり前のものなんて何もないのにね。」
「ねぇ…僕が、事故で短い生涯を終えると自分で決めたのだとしたら僕の両親は大切な子供を失う運命を決めたんだよね?」
「そういうことになるね。前世でそれに関わる課題を残してきたんだろう。」
ふと僕は思った。
「じゃ〜…自殺するとどうなるの?楽になれるのかな?」
「一瞬、苦しみから解放されるけどみんなここへきて後悔してるみたいだ。」
「なんで?楽になれたのに…。」
「自分で一度決めたノルマはクリアしなければ終われないんだ。だからここへきて乗り越えられなかったことを後悔する。」
「生まれ変わってもまた同じ苦しみを繰り返すの?」
「そうだよ。クリアできるまでね。」
「それはそれで苦しいだろうね。」
「自殺は楽になる手段ではないってことだよ。」
「僕は、何度も死にたいと願った。死ぬことよりつらいこんな運命が待ってるとも知らずに…。」
「でも君は、ちゃんと乗り越えた。先の未来なんて誰も予想できないから限りある命を…当たり前じゃない毎日を大切に生きて行かなきゃいけない。」
「お母さんは、僕がいなくなってもちゃんと乗り越えていけるだろうか…。こんな思いを繰り返してほしくない。」
君は、少し黙って僕に聞いた。
「お母さんのとこに戻りたい?」
僕は、頭を横に振った。
「意識が戻っても僕の身体は修復不可能だ。お母さんのこの先の人生を僕だけの為に生きてほしくない。」
「お母さんは、それでも君が戻ることを願ってると思うよ。」
「うん…わかってる。わかってるけど…これが僕にできる最後の親孝行だと思うんだ。」
「きっと戻ってくると信じてるお母さんにとって君を失うことは耐え難い苦しみになる。」
涙が溢れてきた。
事故の日のようにまたお母さんを苦しめると思うと胸が痛んだ。
出来ることならまだ傍にいたい。
僕の身体が元に戻ってあの頃のように一緒に笑いあえたら…。
君は、そっと僕の指を優しく撫でてくれた。
僕は、大きく息を吸い込むと心がス〜ッと透明になって解き放たれた気がした。
「君にお願いがあるんだ。」
君は、僕を見上げると少し首を傾げて微笑んだ。
僕は目を閉じてまたベッドの上の現実の自分に戻った。
しばらくすると病室に慌ただしく人が出入りし、そのあとすべての音が途絶えた。
一瞬の間をおいてお母さんの泣き声が響いた。
僕の名前を何度も呼びながら…まだ温もりが残っている僕の身体を抱きしめて…。
お母さんは、悲しい泣き声を上げた。
主治医の先生は最期の時間を告げると頭を下げて病室から出て行った。
いつまでも僕から離れようとしないお母さんに看護師さんが声をかける。
「お母さん。そろそろ綺麗にしてあげましょう。着替えはパジャマと洋服どちらにしますか?では身体を拭きますね。」
いつでも元気になって家に帰る為の準備はできていた。
お母さんは成長した僕の身体に合う新しい洋服を用意してくれていた。
1人の看護師さんがお母さんの背中をさすりながら病室を出るように促す。
そしてすれ違いに払拭の為に使われる道具を乗せたワゴンを押しながらもう1人の看護師さんが入ってきた。
毎日、誰ががこうしてこの病院を去って行くのだろう。
看護師さんたちの手際はよく、あっという間に霊安室に運ばれ僕がいた部屋はまた次の誰かを受け入れる準備ができていた。
2年間もここで生きていた僕の形跡などすっかり消えてしまっていた。
最初から誰もそこにいなかったように…。
お母さんは、看護師さんに抱えられるようにして地下にある霊安室への冷たく静かな廊下を歩いていた。
前から点滴をつけた少年が、看護師さんに車椅子を押されてお母さんの近くまでくると言った。
「ちょっと止めて」
車椅子を押していた看護師さんは不思議そうな顔をしてお母さんと少年を交互に見た。
お母さんが少年の横を通り過ぎようとしたその時…
「おばちゃん?」
お母さんは、その声に少し顔を上げて目の前にいるブルーのチェックのパジャマを着た車椅子の少年を見た。
「おばちゃん?あのね…お兄ちゃんがね…ごめんねって伝えてほしいって。親不孝を許してって言ってたよ。」
「お兄ちゃん?」
お母さんの目に涙が溢れてきた。
「うん。元気に笑ってるお母さんが大好きだからいつも笑っててって言ってたよ。いつかまた必ず会えるからってお兄ちゃん笑ってた。」
お母さんは、ブルーのチェックのパジャマを着た少年を優しく抱きしめて何度もありがとうと言いながら泣いた。
それからは僕のそばから離れないお母さんに代わってお葬式の準備や役所への手続きは、すべてお父さんが済ませた。
お悔やみの言葉もお母さんの耳には届いていない様子だった。
そんなお母さんの肩をずっと抱いていたお父さん。
僕は、寄り添い合う二人を見届けて何の迷いもなく飛び立った。
自由になった僕の魂は風になり高く高く…もといた場所へ…戻るべき場所に還って行った。
僕の魂は、今、安らぎの中にいる。
そして回想しながら考える。
何の不自由もなく幸せそうに見える人にも何か抱えてる悩みがある。
逆に貧困な生活の中でも小さな幸せを感じて生きている人もいる。
みんなそれぞれ無意識の中で、自分の決めた課題をクリアする為に悲しみや苦しみと向き合う。
それでも決して独りではない。
痛みや悲しみの中で苦しくて溺れそうになった時は手を伸ばしてみよう。
きっとその手を優しく掴んでくれる誰かがいるから…。
すべての人が見えないものをちゃんと感じれる心であるように願う。
僕があの場所で小さい君から伝わってきた暖かい何かを感じたように…。
君が終わる時、今度は僕が流れて行こう。
疲れた君を癒せる何かを今度は僕が…。
少しずついろんな記憶が薄れる中、君とあの場所だけはそのままに…。