眼鏡の奥に映る(家のある)風景
去年の春頃に書いたモノです。
何を思って、こんな事を書いたのかは多分、良い出会いがあったのかもしれません。
今日は新しい眼鏡を買いに、とある眼鏡屋へ行った。
大きなビル。高級感溢れる綺麗な内層。奥へ行けば行く程、高価な眼鏡の列。
初めはネットの噂で、“お手頃な値段で買える”、“お店の人の対応が凄く良い”という評判から、数々あるお店の中、そのお店へ立ち寄る事にした。
……
大きな窓ガラスから覗かせる、高級感溢れる内層。
選ぶ場所を間違えたかと思い、引き下がろうか悩んだが、眼鏡も壊れていて、今のままでは不自由だ。
取敢えず、見るだけ見てみようか……。
何か聞いてみようか、お店に並べられた眼鏡の列から、お手頃な価格の眼鏡を見てみようかの前に、お店の人は直ぐに掛け付けてくれた。
「いらっしゃいませ。本日は如何されましたか?」
落ち着いてて、そのお店の内層に恥じない、丁寧な対応。
(私はあまり記憶力は良い方では無いので、実際の言葉は違うかもしれないが……)
私はその対応に、心奪われるかのように。いや、支配されるかのように。
……どちらも同じ様なものだろうか。
朧げな世界から、お店の人の話に意識を集中させた。
あまりに高い為、別のお店で買おうか迷った挙句、お店の人の対応が良かったので、この店で買う事に決めた。……勿論、商売する為、お店の好感度を上げる為に、お店の人は丁寧な対応をしたと分かっているのだが。
さて、今回のお話の重要なところは、此処では無い。
視力検査でヒントを得たのと、その前に寄った職場で(他のお店に無く、返本処理で片付けられると思い)買って、数々の本の中で一冊気になるタイトルからふと思い浮かんだ短いお話を、これから綴ろう。
※ ※ ※
何も鮮明に見えない、全てが朧げに映る世界 ―― 眼鏡を掛けていなければ。
しかし、置いてあるモノの大体の位置は何となくでも分かっているので、何も恐れる事無く、自然に歩く。
何か特別な事がある訳でも無いその日、長い事掛け続けていた眼鏡を壊してしまった。
私はあまり物を大事にする事が出来ない為、最近では何か気になる物があっても、見るだけの気持ちで抑えている。其処から何か自分で作り出して、出来たモノを自分のモノにしていく様な生活を送る。
何かの音を聞いて、それを元に作り出す事もあるが。
目が見えないと、やはり不自由だ。
書いてあるモノ、描いてあるモノ、絵や文字は見えないと、辛い……。
私にとって、目に映る物が全てなのだから、と言っても良いくらいだ。眼鏡が壊れてしまうと、受ける衝撃は大きい。
目に不自由な障害者は、他の五感を頼りに生活をしている。
その人の気持ちが何となく分かった様な感覚を覚えると、その人と同じ様に過ごさないといけなくなるのだろうか、そう考えてしまう。
しかし、完全にモノが見えない訳でなく、何となくモノの位置が掴めそうで掴めない、朧げな世界が目に映っている。
そんな時、眼鏡に頼って視力を矯正すれば、(眼鏡を掛けていない)普通の人と変わりなく、過ごす事が出来る。
今日の世界では眼鏡を、何かの作業に集中する時に。或いは、お洒落として掛ける人が居る。
何かの作業に集中したりする人の中では、色々な世界が見え過ぎて違和感と恐怖を感じ、普段は掛けていないと述べる人が居る。
お洒落として掛けている人は、服の胸辺りのトンネル縁に引っ掛けたり、御凸へ上げたりして、眼鏡本来の用途を捨てて着飾っている。
お洒落の為だけに着飾っているその人は、自分がカッコいいと思っているのだろうか。
ある人は、そんな人をダサいと述べている。私も声を大にして言えないが、そう思う。
しかし、人それぞれなので、私がこんな事で彼是を云う事では無いと思う。先に述べた様に、人それぞれの好みを批判するのは、その人の個性を殺す事になるから。
またしかし、何か偉業を起こした人が、お洒落に着飾ったりしても、ダサいと感じない事がある。
これは、その人の偉業を知っているからこそ、そんな風に思うのだろうか。よく分からない。
……そんな他愛の無い話は置いておこう。
先ずは、世界が鮮明に見えないと、何も始まらない。
眼鏡屋へ行って、新しい眼鏡を買おう。
※ ※ ※
壊れてしまった黒縁眼鏡は、レンズが割れている訳でも、取れてしまった訳でも無く、レンズ枠と耳に掛かる部分の枠を繋げる蝶番が外れている状態だ。
蝶番をよく見ると嵌め込む様に作られていた為、何とか嵌め込む事で自力でも元に戻せるのでは?と無理矢理ながらも繋げると、上手くカチッと嵌ったり、無理に衝撃を与えてしまうとまた外れる様子を見せた。
……やはり眼鏡屋に見て貰う方が良いだろう。
眼鏡屋に着くと、お店の人は好印象を受ける様な態度で接してくれた。
壊れてしまった眼鏡を見て貰い、お店の人に経緯を説明すると、驚いた表情をすると直ぐに笑い、簡単な修理をして貰う。
しかし、これでは大きな衝撃には耐えられず、また壊れるだろう。
やはり、新しく作って貰うしかない。
お店の人に誘導され、お店の入り口前に置かれている、眼鏡の列のある台までゆっくりと歩いた。
台から少し離れた位置で、朧げながらもキラキラとした空間へ四方八方振り返っていると、お店の人が眼鏡を手にしてやって来た。
私の元へ運び出された、茶色の太い枠の眼鏡と、同じ形ではあるが黒の太い枠の眼鏡 ―― もとい黒縁眼鏡。
茶色の方も、茶縁眼鏡と称して良いのではないだろうか。
お店の人は、他の眼鏡達を他の場所から、私の元へ運んで来てくれている。
黒の方は普段使っていたものに近く、耳に掛かる部分の枠の形が違っていなければ、全く同じものに見える。
しかし、レンズは販売用のモノで特に矯正はされていない為、朧げな世界から、遠くにある様に感じる眼鏡を近くまで運んで来て、慎重に手の上で動かし、じっくり見てみる。……壊さない様、慎重に。
お店の人は各々の眼鏡を紹介していたが、朧げな世界から伝わったのは、眼鏡の構造と、色と……デザイン性だろうか。そのぐらいでよく分からない。
お店の人は私の様子を窺い、説明を切りの良いところで中断する。
「試しに掛けてみても構いませんよ」
心の中での自分は、鳩に豆鉄砲な顔をしていた。
お店の人は微笑み、どうぞとしか云わないばかり誘導される様に、私は幾つかの眼鏡を慎重に手に取り、一つ一つ掛けてみた。耳とその周りに当たる感覚が伝わり、お店の人の説明も何となく伝わって来た。
また、お店の人がタブレットのカメラで、私がその眼鏡を掛けてみた写真を撮ってくれて、その状態を見せて貰った。
茶縁眼鏡を掛けている私の写真は、何となく写りが良かった様に感じ、そんな理由で茶縁眼鏡を選ぶ事にした。
その後、いつ振りかの視力検査で視力を測り、レンズを新しく作る事に。
お店の人に誘導されて、大きな装置までゆっくりと歩く。
大きな装置の前には丸椅子があり、其処に腰を掛ける。
少し待っていると、お店の人は大きな装置を動かし始める。
瞳の奥に映るのは、朧げな世界の奥の奥にある、赤い家。
私が今、住んでいる家は特に赤かった訳でも無く、どちらかと云えば、赤茶色い感じだろうか。
また幼き日に住んでいた家は、屋根は黒くて、大きな特徴は特に無かった。
しかし、……何だろうか。この懐かしさは。
視力検査も終わり、また後日に眼鏡が完成次第、受け取る事にして、眼鏡屋を後にした。
※ ※ ※
新しい眼鏡が完成した後日、完成した眼鏡を受け取って掛ける。
作成費用を支払って、少しお店の人と、眼鏡屋の周辺の様子について少しお喋りすると、夕日が完全に沈んでしまう前に眼鏡屋を後にした。
未だ慣れない、新しい眼鏡の世界の中を歩き続ける。
現実と空想は、重ねて見たりはしない。
二つは全く別物だから。その区別がつかなければ、二つの単語は生まれたりしないし。
空想で浮かべるモノが現実に叶う筈が無いからだ。
現実では法則が決まっており、空想では特に何も縛られるモノは無い。
現実は醜くも汚くも、故に美しい。空想で浮かぶモノは、他の何かと重ねたりしなくても充分な美しさを誇る。だから、各々のイメージを若干崩して、重ねる必要性なんて無い。そのままである方が良い。
しかし、重ねてみたくなる様な、お気に入りの風景を見つけた。
あの“空”を見て“想”った事だから、現実と重ねてみたくなる。
水平線へ沈む夕陽の様な色の空が、あらゆるモノの影を作り出して行く風景。
そして、足元の影が幾つか重なって生み出されようとしている闇。
もう直ぐで夜になる。そんな中、見覚えのある風景が、新しい眼鏡の奥に映った。
あれは……
私が住んでいる、いつもの家だ。
……この安心感は、帰る場所だからこそ感じられるものだろうか。
あの場所に辿り着いたら、いつもの本が読めるだろう。
大袈裟かもしれないが、私は何故か自然に思えた。
当たり前の事だけど、如何して今まで感じなかったのだろう。
ああ、色々な世界が見えるのは、何と素晴らしい事か。