第八話「一歩前進」その1
月は変わって、始祖暦二五〇〇年エアナルの月(第三月)。コナハトが短い夏を迎えようとしている頃。
王都カアーナ=マートの中心の、王城の中のさらにその中心。王宮の中のある一角。その部屋は小中学校の教室一つ分くらいの大きさであり、そこに今一〇人程度の人間が集まっていた。七斗はその顔ぶれを確認する。まず王女レアルトラ、ミデ公爵グラースタ、将軍イフラーン。この辺は七斗もよく知っている顔である。
レアルトラの側には身長が二メートル近い大男が立っている。年齢はもう六〇を過ぎているが、実際より多少若く見えた。髭を胸に届くまで伸ばし放題にしている男である。彼の名もまた七斗の頭に叩き込まれていた。大将軍ジェイラナッハ――前の国王の腹心にして今はレアルトラの後見人だ。最初ジェイラナッハと対面したとき、彼は七斗に抱きつきながら号泣した。顔と言わず頭と言わず鼻水をなすりつけられ、七斗は大いに閉口したものである。
一方、レアルトラと向かい合わせに一人の若い男性が席に着いている。年齢は二〇代半ばでレアルトラと七斗を除けばこの中で一番若い。常に軽薄で皮肉な薄笑いを浮かべていて、その態度に七斗が好感を持つのは困難だった。この男の横には公爵グラースタが控えていて、その様子はレアルトラとジェイラナッハの組み合わせとまるで鏡合わせである。
七斗はその青年のことをよく話に聞いているし、顔を合わせたのもこれが初めてではない――王子グリーカス。前の国王の長男でレアルトラの兄に当たる人物だ。
グラースタとグリーカスを見ていて気がついたことがある。グラースタの髪は明るいブラウンで、グリーカスの髪は濃い焦げ茶色だ。一方コナハトの面々は、レアルトラの漆黒の黒髪を始めとして全員黒か、それが脱色した色だった。
「そう言えば黒以外の髪の色って、この人達以外は見たことないよな」
と今さらながら七斗は思い当たっている。グリーカスの母親は前の国王グリアンの側室で、彼女はミデの縁者だったと聞いている。グリーカスの髪の色は彼とミデとのつながりを表しているように思われた。
「それでは朝議を始めましょうぞ。まずは雪イナゴの被害状況について報告を――」
七斗の目の前で始まったのはコナハトの朝議――元の世界の日本で言うなら総理大臣の主宰する閣議であり、大臣が集まって国の舵取りを議論する最高意思決定機関だ。ここに集まっているのはコナハトの大臣または将軍ばかりであり、七斗は自分の存在が場違いであると思わずにはいられなかった。
もっともそう感じているのは七斗一人であり、重要度で言うなら今のコナハトに七斗以上の人間がいるはずもない。仮にこの朝議の面々が「七斗とレアルトラ、どちらか一人しかその生命を助けられない状況」に陥ったとするなら、レアルトラも含めた全員がためらうことなく七斗の生命を選ぶだろう。レアルトラの代わりはいないわけではないが、七斗の代わりはこの大陸のどこにもいないのだから。
「……やはり収穫は絶望的か」
「このままでは今年の冬も餓死者が……」
「ムーマ軍が移動を開始しているとの情報が……」
深刻で重要な議論が七斗の前で交わされている……が、七斗には話を聞いていて肌で感じられること以外はろくに判らない。飛び交う地名も人名もほとんど把握していないのがその理由の一つである。
時間を持て余す七斗を放置し、大臣や将軍は事態を少しでも改善するための議論を続けている。だがコナハトの置かれた過酷な状況を思えば妙案がすぐに出てくるはずもない。やがて議論は行き詰まり、重苦しいため息を最後に沈黙が議場を覆った。
「――ところで『導く者』よ」
「は、はい?」
七斗のことを呼んで沈黙を破ったのはグリーカスである。
「『導く者』はこの事態を打開する妙案は持たないのかな? お前はコナハトを救うために召喚されたのだろう?」
「あの、その、今は鋭意研究中でして……」
「研究中とはどういうことだ?」
グリーカスの七斗に対する追求は、
「そこまでにしてください、兄上」
レアルトラによって止められた。
「ナナト様が召喚されてからようやく二ヶ月。そのうちの半分近くはムーマ軍に追われて逃げ回っていたのです。一朝一夕でこの国の状況が変わるわけもないでしょう」
「そんな暢気なことを言っている場合じゃないだろう。『導く者』には危機感が足りない、この国がどれだけ切羽詰まっているか、理解が足りない――俺はそう言いたいんだ」
レアルトラは反論の言葉に詰まっている――グリーカスの指摘に、全面的ではないにしろ共感するところがあるということだ。レアルトラですらそうなのだから、他の面々はなおさらだろう。
(そんなこと言ったって……)
七斗は内心で憮然とした。危機感や理解が足りない点は確かに否定できないが、来訪してようやく二ヶ月の異国人であるならそれもやむを得ないことではないのか?
「ナナト様がおられた場所は非常に豊かな国だったと聞いております。そこから召喚されて二ヶ月では、コナハトの国情について実感や理解が足りないのもやむを得ないことではないでしょうか」
「お前は『導く者』を甘やかしすぎなんだ! 鞭を打ってでも『何とかしろ』って急き立てるべきだろうが!」
「それでナナト様がやる気を出してくれるならわたしだっていくらでもそうします!」
いくらでもそうするんだ、と七斗はレアルトラの発言に愕然としている。
「ですがナナト様は鉱山で石を掘り出しているだけの奴隷ではありません! そんなやり方でまともに働いてくれるわけがないでしょう!」
レアルトラとグリーカスはかなり激しい言い争いをした。対立の中心となっているのは七斗のこと、主にその働きぶりである。召喚してたった二ヶ月ではまだ何もできないのは当然だと、誰もがそれは判っている――理屈では。
「『導く者』が召喚されさえすればこの国の全ては救われる」
その期待があまりに大きかったからこそ、実際に召喚されていながら事態が何一つ改善されないことに苛立ちを感じずにはいられないのだろう。
自分が何を主張しようと藪蛇になってしまうだけと、七斗は口を差し挟むことを自重した。それも理由の一つとなり、レアルトラとグリーカスの言い争いは思いがけない長時間に及ぶこととなる。大声を出し過ぎて二人とも声をからし、肩で息をしているくらいだ。
レアルトラのその姿に七斗は目を丸くした。彼女がここまで感情的になっているのを見るのは初めてかもしれない。口論の相手が家族であるため、兄弟であるため遠慮がなくなっているのだろう。
「両殿下とも、そのくらいにしておいてはいかがでしょう」
両者に存分に言うべきことを言わせたと見計らって、ジェイラナッハがようやく仲裁に入った。
「ムーマの『導く者』ブレスが召喚されてからムーマが全軍をもってモイ=トゥラに侵入するまで、五年かかっております。我等もそのくらいは覚悟すべきかと」
ジェイラナッハの発言にレアルトラが大きく頷く。ジェイラナッハに反論したのはグリーカスではなくグラースタだった。
「ですがそれは、邪悪魔法を習得した魔道兵を充分に揃え、邪悪魔法を中心とした戦術を全軍に叩き込んだ時間を含めてのことでしょう。さらにその前段階として邪悪魔法を作り出す時間も必要だったはず」
ムーマの邪悪魔法――すなわち「広域戦術幻惑魔法」は複数の魔法の精密な組み合わせだ。ブレスは元の世界でも魔道士だったのは間違いないが、この世界の魔術の水準は元の世界と比較して果たしてどうだっただろうか? 「導く者」がこの世界にない知識や技術をもたらす者である以上、そこにはかなりの差があったはずだ。そうであるなら、元の世界にあったであろう邪悪魔法をこの世界で再現するにも一苦労はあったに違いない。それなりの時間が必要だったと考えるべきである。
「つまり、のんびりしていては五年などあっと言う間に過ぎてしまうということです」
「もちろんそれは判っています。わたし達にはそんな余裕などない。コナハトの民は今日明日の助けを求めているのです」
忍者になったつもりで気配を殺していた七斗だが、そんなことでレアルトラを始めとする一同が七斗の存在を忘れるはずもない。全員の視線が七斗へと突き刺さり、七斗は思わず身をよじった。
「いえあのその、進展がないわけではなく、鋭意努力はしていますので……」
愛想笑いで何とか場をごまかそうとする七斗に、レアルトラはため息を禁じ得なかった。