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水の国へ愛をこめて  作者: 亜蒼行
豊穣篇
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第六一話「ベン=バルベンの戦い」




 エーブレアンの月(第六月)の月末、王都クルアハンではジェイラナッハの国葬が行われている頃。将軍コールバ率いるコナハト軍はバレンという町までやってきていた。仮の王都ベン=バルベンまではあと七日という距離である。筆舌に尽くしがたい艱難辛苦と、数え切れないほどの犠牲を重ね、それでもようやく目的地にたどり着こうとしている。が、そうでありながらコールバとその将兵は、未だ東ムーマを漂流している気分を味わっていた。


「一体、俺達はどうなるんだ?」


 軍内のあちこちで、そんなささやきが何万回もくり返される。


「ベン=バルベンを攻略して東ムーマの国王をぶっ殺せばこの戦争は終わりだろう? それで俺達も国に帰れるはずだ」


「でも、俺達の将軍様はコナハトに帰るつもりがあるのか?」


「あの大将軍ジェイラナッハが粛清されるなんて……」


「将軍コールバが見逃してもらえると思うか? ここまで負け戦を重ねて、無駄に犠牲を払って」


「将軍は帰国せずにここで自立するつもりだって聞いたぞ」


「俺達はどうなるんだよ? それに付き合わなきゃならないのか?」


 兵の誰もが抱くその疑問に答える者はいなかった。あるいはコールバすら、その答えを持ち合わせていなかったかもしれない。


「帰国すれば親父のように殺される。それが判っていて誰が帰るものか!」


 確固としてあるのは「むざむざと殺されはしない」という決意のみ。それ以外は、身も蓋もない言い方をすれば「途方に暮れている」ところだった。

 そんなコールバのところにやってきたのがラギンの王太后ゲアラハである。コールバはゲアラハを大いに歓迎した。正確には彼女の有する二万の兵と潤沢な兵糧を、だが。


「なんと無様な……誇り高いコナハト軍がこの体たらくとは」


 が、ゲアラハは開口一番にコールバを面罵する。


「あのジェイラナッハの息子が率いていながら何たるざまです。大将軍の名を貶めて恥ずかしくはないのですか」


 公衆の面前で罵倒されたコールバの顔は、血の気が引きすぎて紙のように白くなっている。我知らずのうちに腰の剣に手がかかるが、剣を抜かなかったのはゲアラハに同行する将軍達も完全武装していたからだった。ここでゲアラハを斬り捨ててラギン軍と決別し、戦いになったとしても相手は二万、鎧袖一触にできる戦力差だ。が、この場の斬り合い・殺し合いでコールバが生き残れるかはまた別の話だった。


「あと七日も進軍すればベン=バルベンでしょう。あなた達はこんなところに留まり、何をしているのですか」


「兵糧を集めています。七日分の兵糧が集まり次第進軍を再開するつもりです」


 そう答えたのはコールバの幕僚の一人だ。話が実務に移動してコールバは激発する機会を逸してしまった。彫像のように固まった彼の眼前で、ゲアラハの主導で軍議が進められていく。


「兵糧はどの程度集まったのですか?」


「まだ二日分程度しか……」


「それは何人の兵に対しての分ですか」


「我が軍の九万人分です」


 コールバ軍は最初一〇万でコナハトを進発し、その後フェアラグ軍五万が合流してその総兵数は一五万。が、ムーマ軍との戦闘や脱走や脱落によりこの時点で九万にまで減少していた。

 ゲアラハはコールバやその幕僚の愚鈍さ加減に頭痛を覚えたような顔となり、大きくため息をついた。そして、


「進軍を再開します。今日、今すぐに」


「し、しかし兵糧が」


「仮にこの町で二日使って、必要な兵糧が集められるのですか」


 その問いに幕僚は沈黙する。


「兵糧が集まらず、今ある分を食いつぶして終わりとなるだけでしょう。ベン=バルベンは目前なのに先に進めず、ここで立ち枯れとなるつもりですか。それなら今、ある分だけで動くべきです」


「しかし、二日分しかなければ結局は」


「ベン=バルベンまでは五日で行きます。それに我が軍からも兵糧は提供します」


 途轍もない強行軍となるが、確かに他に方法はなかった。が、


「しかしそれでも、最大で四万しか……」


「仕方ありません」


 五万のコナハト兵を切り捨てることを、ゲアラハはそのたったの一言だけで片付けてしまう。だが他に方法がなく、そうしなければ九万全部がこの町で朽ち果てるだけなのはコールバにもその幕僚にも嫌と言うほど判っている。


「そうしろ」


 この軍議でのコールバの発言はその一つだけだった。


 そして、四万のコナハト軍と二万のラギン軍がバレンを進発する。


「この町とその周辺で必要な兵糧を集めた上で進軍を再開し、ベン=バルベンで合流せよ」


 五万のコナハト将兵にはそう言い残しているが、単に切り捨てたられただけなのは誰の目にも自明だった。五万のコナハト兵は食い物を求めてバレンとその周辺に散り、それがどんどんと細分化していき、水が大地に吸収されるように消えていく。彼等がどうなったのかはほとんど記録が残っていないが、飢えや病、ムーマの義勇兵との戦いに倒れていったものと考えられた。だがそれは少し先の話である。今は四万のコナハト軍と二万のラギン軍、コールバとゲアラハの話を続けよう。











 バルティナの月(第七月)の初旬、コールバ軍とゲアラハ軍はベン=バルベンに到着した。九万の中から抽出した四万だけあり、七日分の距離を五日で駆け抜けるという強行軍にもよく耐え、戦意も横溢だ。兵糧が底を突いている、という事情もあり、彼等は即座にベン=バルベンに取り掛かった。

 ベン=バルベンは南は山岳、西は川という天然の防壁に守られ、北と東には人工の城砦が築かれている。このうち正門と言うべき北は、


「邪悪魔法か」


 ムーマ軍が城壁に陣取り、専用オルゴールと邪悪魔法を展開してコナハト軍を待ち構えている。一方東の城壁は防御が手薄のように思われた。


「どう考えても何かの罠です。わざわざ自分からかかりに行く必要はありません」


 ゲアラハはそう言ってムーマ軍と正面からぶつかることを選んだが、コールバの考えはまた違っていた。


「王太后の考えすぎだ。そもそもムーマ軍の兵数などたかが知れている、奴等には北と東、二方向を同時に守れる余裕がないのだ」


 もっともコールバは直接ゲアラハに反論したわけではない。「東を攻略する」と幕僚を通じて一方的に通告しただけである。ゲアラハはそれに対して何も言わず、ただ全軍に待機を命じた。ムーマ軍とラギン軍が火花を散らして対峙する。

 一方、コールバ軍は東の城門をほとんど素通りしたところである。


「やはり罠ではないか?」


 と不安を抱く者は少なくなかったがその声はコールバによって押し潰された。


「食糧だ! 食糧を探せ!」


 町の中へと侵入したコナハト軍は四方に散って略奪に勤しんだ。町は完全な無人だがそれを不審に思う者は少ない。コールバは王城へと向かうがそこもまた無人だ。兵卒だけでなくコールバもまた、兵を直接指揮して略奪に夢中となった。その中で、


「誰だ? 火をつけた奴は」


 町中で煙が上がっている。コナハト兵の誰かが故意か間違いかで火事を起こしたものと思い、最初は気にも留めなかった。が、煙は複数個所で立ち昇り、それが次第に増えていく。どんどんと広がっていく。特に東側は平民・貧民の家が密集しており、今や火の海だ。


「まさか……奴等、自分達の王都を」


 正気か、とコールバは愕然とする。火の手は広がる一方で、コナハト兵は逃げ惑うばかりだ。コールバ自身もこのままでは火に焼かれるだけであり、我先にと逃げ出した。だが南は険しい山岳、西は川、東は火の海。逃げる先は北しかなく、そこにはムーマ軍が待ち構えている。さらには強力な邪悪魔法付きだ。炎と邪悪魔法の挟み撃ちとなったコナハト軍は見る間に数を減らしていく。


「……ムーマを見くびるつもりはありませんでしたが」


 ここまでやるとは見抜けなかった、とゲアラハはため息をついた。仮であろうと王都をエサにして敵軍を引きつけ、王都ごと焼き払うなど、正気で考えられることではない。肉を切らせて骨を切る、どころではなく、肉を切るために首を差し出すようなものではないか。かつてのコナハトでもそこまでやりはしなかった。

 ゲアラハの、ムーマに対する憎悪に何ら変化はない。が、一人の武将としては彼等のその覚悟に敬意を払うのもやぶさかではなかった。祖国コナハトの将兵があまりに不甲斐なく、失望を抱かずにはいられず、それと比較してムーマの苛烈さが際立って見える、というのもあるだろう。


「それでもコナハトは友軍、助けないわけにはいかないでしょう」


 ゲアラハは全軍に総攻撃を命令、火縄銃と火砲が轟音を響かせた。火器はラギンのお家芸であり、邪悪魔法に対抗できる数少ない手段でもある。大砲の攻撃を受け、直撃ではなくともムーマの魔導士が動揺する。その一瞬の隙を突いてコールバ軍が突貫、さらにはゲアラハ軍も突撃した。元々魔導士の数が足りずに邪悪魔法の威力が不充分であり、コナハト兵・ラギン兵が勢いに乗ってしまえばその効果はさらに半減だ。


「……ここまでのようだな。残念だ」


 城壁の物見櫓の上で、インティーヴァスは呟くように言う。同席する幕僚が彼に同意した。


「はい。ですがコナハト軍は半分以上削りました。後は国王陛下に託しましょう」


「そうだな。我々は最期の意地を奴等に見せるのみ」


 はい、とその場の全員が頷く。インティーヴァスが無言で手を振り下ろし――次の瞬間、城壁が爆発した。城壁に集積された、ありったけの爆薬が同時に点火されて連鎖爆発する。四方に飛び散った瓦礫は弾丸となってラギン兵を撃ち抜き、崩れた城壁はコナハト兵を圧し潰した。


「ひ、ひぃ……」


 コールバは崩落に巻き込まれはしなかったが爆風によって負傷している。指揮を執るような余裕もなくほうほうの体で何とか城壁の外へと抜け出した。それにコナハト兵が続くがその数は少ない。力尽きた彼等は隊列も組まずにその場に座り込んでいる。ベン=バルベンから逃げ延び、生き残った兵は四万のうち三分の一に満たない。コールバは敗残兵の一人と何ら変わらない姿で、ただ呆然とするだけだった。


「無様なものですね」


 そのコールバに声をかけるのはゲアラハだ。


「それでもあのジェイラナッハの息子ですか」


「うるさい!!」


 コールバのその怒声には全身の力と心底からの殺気が込められていた。


「誰もかれもが二言目には『あのジェイラナッハの息子』と……! 俺は親父じゃない! 親父とは違う人間だ!」


「ええ、その通りです。あなたにジェイラナッハの代わりを期待したわたし達が愚かでした」


 コールバが剣を抜いて振り上げる。彼に、それを振り下ろす意思が本当にあったのかどうかは判らない。一つ言えるのは、ゲアラハの方が果断だったということだ。コールバよりも後に抜かれたゲアラハの剣は、コールバが何をするよりも先にその腹を貫いていた。コールバが断末魔の悲鳴を上げ、噴き出した血はゲアラハを赤く染める。


「その生命をもってジェイラナッハと、コナハトの兵に詫びなさい」


 コールバの腹から内臓がこぼれ落ちており、彼は泣きながらそれを腹に収めようとしている。その光景に凍り付くコナハト軍の幕僚を、ゲアラハは睥睨した。


「軍を再編します。急ぎなさい」


 ゲアラハが当たり前のように命令し、彼等は出来損ないの操り人形のようにそれに従って動き出す。本来コナハト軍がゲアラハの命令を聞く理由は何もないはずだが、この瞬間それができてしまった、と言えるかもれしない。生き残りの一万二千のコナハト兵はゲアラハ軍に吸収され、事実上消滅した。


「それで王太后殿下、我々はこれからどうすれば……」


「将軍イフラーンが東ムーマに侵入しているはず。まずは彼との合流を目指しましょう」


 コナハト軍の生き残りとしてもその方針に異存はなく、彼等はゲアラハに率いられて西進することになる。一方のイフラーン軍もまたコールバ軍と合流するために東へと進軍しているところだった。











 合流するべき友軍が事実上消滅したと知る由もなく、イフラーンは東進している。イフラーン軍一〇万はリーグ山脈を越えて東ムーマに入ったところだった。

 その国境に近い街道で、イフラーン軍はムーマ軍と対峙した。その街道は、南は山岳、北は湖に挟まれた隘路だ。その隘路の出口を塞ぐようにムーマ軍が陣取っており、その数は一万足らず。だが彼等には専用オルゴールと邪悪魔法があり、イフラーン軍にとっては分厚い城壁がそびえ立っているようなものだった。


「全軍をもってこの隘路に進入すれば身動きが取れなくなる……俺なら後背を突くだろうな」


 後方にあるのは西ムーマ、イフラーン軍と戦う兵を集めるのは簡単な話だ。自分がムーマ人からどれほど恨まれているかに、イフラーンは無自覚ではなかった。

 前後から攻撃されて挟み撃ちとなれば、雪隠詰めとなったコナハト軍は一方的に討ち取られるだけだろう。寡兵のムーマ軍に他の選択肢があるとは思えない。


「二手に分かれるぞ。本隊は俺が率いて前の敵を破る。残りは後背からの奇襲に備えよ」


 本隊は二万五千、率いるのはイフラーン自身だ。戦場は狭く、それ以上の数は遊軍となるだけだった。残りの七万五千は後方で待機である。

 そして、二万五千のコナハト軍と一万弱のムーマ軍が激突する。さらには通常のオルゴールと専用オルゴール、二つの先進波が虚空でぶつかり合った。イフラーン軍は潤沢な火砲を用意しており、それがムーマ軍を削りに削っていく。イフラーンが西ムーマ中を巡り、一軒一軒を家探しするようにしてムーマ人から取り上げ、また彼等を搾油機にかけるようにして徴収した税金で購入し、揃えた武装である。ムーマ軍は必死に抵抗するが長くは持たず、じりじりと後退する。


「将軍、後方からムーマ軍が!」


「そうか、しばらく耐えろ。こちらはもうすぐ片付く」


 後方から奇襲をコナハト軍は万全の態勢で迎え撃ち、小揺るぎもしなかった。むしろ動揺したのは正面のムーマ軍だ。起死回生の奇襲も効果がなかったことを知り、勝ち目がないと理解したためかもしれない。


「今だ、一気に蹴散らせ!」


 勝機を見出したイフラーンが全軍に突撃を命令、怒涛のような勢いでムーマ軍を撃破していく。ムーマ軍は総崩れとなって敗走、イフラーン軍はそれを追った。隘路を抜けた先は広々とした草原であり、


「な?! これは!」


 いや、そこは草原ではない。葦で覆われた湿地だ。まともな足場は曲がりくねった細長い回廊となっており、一見だけで判るものではない。ほとんどのコナハト兵が泥濘に足を取られて身動きが取れなくなった。さらにそこに、四方から邪悪魔法が襲いかかる。コナハト軍は完全に恐慌状態に陥った。そして、踵を返したムーマ軍が突貫してくる。その先頭に立っているのは、


「国王エイリ=アマフ!」


 イフラーンもまた剣を抜いてエイリ=アマフ軍に突撃した。だがそれに続く兵がいない。邪悪魔法の影響下でも戦意を維持できるのは一握りの英雄だけであり――それがイフラーンの敗因となった。


「へ、へいか……」


 近衛兵の、七本もの槍に全身を串刺しにされてようやくイフラーンは足を止める。その心臓が止まったのもそれと同時だった。


「将軍イフラーンは討ち取ったぞ! 後はお前等だけだ!」


 イフラーンが倒れたことにコナハト軍はさらに動揺、ついには後退、潰走した。エイリ=アマフは徹底的にそれを追撃する。

 間の悪いことに、後方の七万五千のコナハト軍が既に隘路に進入していた。奇襲してきたムーマ軍が後退したので本隊を追ってきたためだが、その後退も偽装だったのだ。ムーマ軍は再び後方を遮断し、コナハト軍は前後から挟み撃ちの形となった。それでもイフラーンさえ生きていれば何とか戦えたかもしれないが……











 一〇万のイフラーン軍玉砕と、将軍イフラーン戦死。その悲報に女王レアルトラは言葉を失い、半日以上何の指示も出せなかったと言う。またエイリ=アマフの勝利はモイ=トゥラ全土に瞬く間に広がり、その結果何十万というムーマ人奴隷が一斉に蜂起。ムーマから飛び火した戦火は燎原の火となってモイ=トゥラに広がっていく。







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