第五九話「こぼれゆくもの」その2
牢獄の広さは六畳一間程度だろうか。四方の壁は積み上げた石のまま。秋も深まっており地下は肌寒い。身震いが止まらないが、もちろんそれは寒さのためではなかった。出入口は分厚い木の戸で、閂がかかっていて押しても引いてもびくともしない。日はとっくに暮れているだろうが、元々ここには窓がない。戸に小さな覗き窓があり、そこから入ってくるわずかな灯りが唯一の光源だ。室内は真っ暗闇に近くほとんど何も見えないが、どの道何もないので特に問題はなかった――この事態そのものはともかくとして。
「何かの誤解か間違いです! 僕は拘束されるようなことは何もしていません! 女王陛下に取次ぎを! それかアルデイリムさんに!」
七斗は外に向かって大声で呼びかけをするが返答は何もない。心が折れそうになるが今一度声を出そうと息を吸い込んだとき、
「うるさいぞ、騒ぐだけ無駄だ」
隣の牢獄からそんな声が聞こえてくる。その声は七斗もよく知ったものだった。
「グリーカス殿下?」
「良い夜だな、『導く者』」
グリーカスは皮肉げにそんな挨拶をした。
「殿下、一体何が起こっているんですか? どうして僕達はこんなところに」
「お前も知っているだろう。将軍リギンが蜂起を企んでいたことを」
当たり前のようにそう言われて七斗は絶句する。
「王への謀反に関与が疑われたのなら誰であろうと拘束くらいはするだろうさ」
「知りません知りません知りません! そんな話!」
七斗は力の限り否定し、力を使い果たしたように崩れ落ちる。
「公爵グラースタが女王陛下を退位させようとしているのは聞きました……でもそれは公然の秘密みたいなもので」
「以前とは状況が違うだろうが」
グリーカスの声は七斗の迂闊さを嘲るかのようだった。
「俺とレアルトラ、どちらも王でなく、どちらが王となるか判らないときならあいつの即位に反対しても問題はなかっただろうさ。だが今はあいつが王だ。それを引きずり降ろそうとするならそれは謀反としか言いようがないだろう。将軍が協力するならそれは明確な反乱・反逆だ」
「でもまさか、あの公爵がそんな短絡的な行動に」
「いや、公爵は関わってない。せいぜい知らないふりをしていたくらいだ」
「反乱なんて……」
事態がそこまで切迫していながらそれに全く気付かなかった自分の迂闊さに、七斗は自分を呪いたくなる。また、反乱への関与を疑われたことに、疑われても仕方ない過去の自分の行動に、死にたいほどの後悔に囚われた。
「僕達は……どうなるんですか。まさか処刑……」
「さあな」
グリーカスのその短い一言には、それまでにはない深刻な響きがあった。
「明日になればアルデイリムが動いてくれると思うんだが」
七斗の瞳が希望に輝いた。この事態をアルデイリムが知りさえすれば、きっと釈放に動いてくれる。遅くとも夜が明ければ、明日になれば彼の知るところとなるだろう。今夜一晩、それまで我慢すればいいだけだ。
――だが、この一夜がどれほど長いものとなるか、七斗はすぐに思い知らされることとなる。
地下に足音が響いた。数は複数、何かの道具を携えているのか、金属同士がぶつかる音が鳴っている。重い足音は七斗の牢獄の前を通り過ぎ、その隣で止まった。そして扉が開く、軋んだ音。
「なんだお前等……まさか、おい、やめろ」
何が起こっているのか判らない。聞こえるのはグリーカスの声と、誰かが暴れようとする音。それを取り抑えようとする音。
「待て! 待て! 誤解だ! アルデイリムに、ジェイラナッハに聞けば判る! 俺はあいつのために」
絶叫が地下全体に響き渡った。七斗の心臓は氷の剣で貫かれたかのようだ。
「待て! 待て! 知っていることは全部話す! 俺がリギンの誘いに乗ったのは不穏分子を釣り上げるためで」
再びの絶叫、そして悲鳴。絶叫と悲鳴が何度かくり返され、それに嗚咽が続いた。
「……頼む、助けて……知っていることは全部話す……俺はレアルトラの反対派を集めるための誘蛾灯として、あいつのために……ジェイラナッハに聞けば判る……」
何が起こっているのか判らない。判るのはグリーカスが拷問を受けていることだけだ。だが何故拷問を受けているのかが判らない。拷問係はグリーカスの供述に全く耳を貸さずに、黙々と拷問を続けている。まるで、痛めつけること自体が目的であるかのようだ。
七斗は耳をふさぎ、身体を丸めることしかできなかった。それでもグリーカスの悲鳴は七斗の鼓膜を突き破らんとする。拷問の光景を目の当たりにせず、音に聞くことしかできなかったのが幸か不幸かは判らなかった。嫌な想像が膨らんでいき、七斗の肺腑をかき回す。敗戦を目前としたムーマの王族は最悪の場合に自死を選ぶために毒を常に携行していたというが、自分もそうするべきだったかもしれない――そんなことすら脳裏をよぎった。
一体どのくらいの時間の時間が経ったのか。やがてグリーカスの声はほとんど聞こえなくなり、水っぽい何かをかき回す音、水を含んだ何かを叩く音ばかりが聞こえてくる。七斗にできるのは少しでも早く時間が過ぎ去って朝が来ることを祈るだけだ。だが七斗は知らない――今がようやく日付の変わる時間帯であることを。
七斗はそれからのさらに何時間かを、自分が拷問を受けているかような思いをして過ごすこととなる。
いつの間にか音が聞こえなくなっていた。七斗の精根は尽き、精神的には気絶する寸前だったが、それでも倒れることも眠ることもできなかった。まるで麻薬を使われたかのように思考が巡らず、感覚だけが冴えている。その聴覚が、音を捉えた。二つの足音が接近している。走るのに近い速度で、二人とも体重は軽い方だ。その足音の一つが七斗の牢の前で止まった。鍵が解かれる音と、閂が外される音。心を凍らせた七斗はそれをまるで自分とは無関係のもののように感じている。そして軋んだ音を立てて戸が開き、
「ナナトさん、ご無事でしたか!」
飛び込むように入ってきたのはアルデイリムだ。七斗の心が一瞬で氷解した。
「あ……あ、あ」
安堵が極まって声が出ない。身体がまともに動かない。這いずるようにアルデイリムの足元に寄った七斗はその足にすがり、涙と嗚咽をこぼした。
「ありが……ありが……」
「もう大丈夫ですから」
困ったようにアルデイリムがなだめ、七斗の精神が多少なりとも復調するのにかなりの時間が必要だった。
何とか自分の足で立ち上がった七斗が歩いて牢獄を出――即座にその身も心も凍り付いた。そこにいたのがレアルトラだったからだ。
どこに逃げるか? 牢獄の中? いや、上を目指すべき――いや、逃げてもかえって立場が悪くなるだけだ。ここは土下座してでも許しを請うて、言い訳をするべき――七斗の思考が高速回転する。すぐにでも土下座をするべきだが、身体は委縮して脳の言うことを聞こうとしなかった。
一方のレアルトラだが、怯えた七斗に実は結構傷付いている。彼女は七斗から視線を外してもう一つの牢獄を見据えた。開けなさい、という静かな命令にその牢獄が内側から開けられる。レアルトラは音もなくその中へと足を踏み入れ、
「――」
息を呑んだ彼女の時間が、止まったかのようだ。それと同時に周囲の時間もまた止まった。その場の全員が息を呑むようにして、次の彼女の言葉を待っている。
「……だれが……だれがここまでやれと」
レアルトラの声が震えるのは怒りと、それ以外のあらゆる激情のためだった。七斗の位置からは牢内の惨状はよく見えなかったが――見たくもなかったが――床一面が血の海となっているのは判る。
「れ……れあ……」
「兄さん!」
床に倒れたグリーカスの声にレアルトラがその側に駆け寄った。服が血で汚れるのも構わずにひざまずいてその口に耳を寄せる。
「兄さん、兄さん!」
目も、耳も、もう機能していない。完膚なきまでに破壊されて、とっくにその機能を失っている。肌も、まともに残っている箇所がわずかたりとも存在しなかった。その下の神経もあるいは焼け、あるいは裂かれ、意味をなくしている。脳も心臓も、間もなく動きを止めようとしていた。
グリーカスはすぐそばにレアルトラがいることを理解してしなかった。もう痛みを感じることもない。自分がなぜ、どうしてこうなかったのかも思い出せない。判るのは自分が間もなく死ぬことだけだが、それは避けなければならなかった――なぜなら、
「あいつは馬鹿だから……俺がいないと……」
それを最後の言葉として、彼は永遠の眠りに就いた。
「にいさん……」
レアルトラがグリーカスの手を取るが、小指の先に至るまで全ての骨を折られたそれは、まるで海月のようだった。
一体どのくらいどのくらいの時間そうしていたのか。
「――ナハル」
不意にレアルトラがその名を呼ぶ。
「はい、ここに」
その返答は即座に、七斗の後ろから発せられた。慌てて振り返った七斗はそこに非常に小柄な男の姿を見出し、「いつの間に」と驚く。
「王兄グリーカスを拘束し、拷問してでも謀反の詳細を吐かせよ――あなたにそう命じたのはわたしです」
「はい」
「兄は拷問に耐えたのですか?」
いえ、まさか――ナハルは苦笑するように首を横に振る。
「そもそも謀反の詳細については私が王兄殿下より報告を受けております!」
耐えきれなくなったアルデイリムが叫ぶようにそう言う。
「女王陛下への謀反を企てるならグリーカス殿下の協力は必要不可欠です。殿下は彼等に協力するそぶりをして情報を引き出し、それを全て私に報告していました! ずっと前から! 先王陛下の崩御からずっと、殿下はそうやって女王陛下に密かに協力してきたのです!」
「そんな、そんなことわたしは」
「拷問中もそれをずっと訴えていました」
七斗が静かに補足する。
「アルデイリムに聞けば判る、ジェイラナッハに確認してくれ、と。ずっとそれを……」
「ナハル、あなたはそれを確認しようとしなかったのですか」
刃よりも鋭いレアルトラの視線にナハルは小さく肩をすくめる。
「いえ、必要ありませんので。書記官アルデイリムの受けた報告は私も全て目を通しております」
その言葉にナハルを除く全員が硬直した。レアルトラがそれを確認したのはかなりの時間を置いてからだ。
「つまり、最初から知っていたと……?」
はい、と彼は全く当たり前に頷く。レアルトラはそのまま絶句し、その代わりにアルデイリムが彼を詰問した。
「それならどうしてこんな拷問を、一体何の目的で」
「言うまでもありません。ウラド系に対する警告です――女王陛下に逆らえば王兄であろうとこうなる、と」
アルデイリムもまた言葉をなくし、その代わりのように七斗が問う。
「たった、それだけのためのことに……?」
「そもそもこの方はもう不要でした」
ナハルは無造作にそう言い捨てた。
「女王陛下と王位を争っているときであれば、この方の働きも有用でした。ですが今は存在自体が平地に乱を起こすようなもの。陛下の王権を盤石とするためにも、この方をどこかで処分する必要がありました。今回その機会を得、警告を兼ねて最大限に活用したわけです」
自分の策謀を誇るかのように語るナハルだが、それに向けるレアルトラの視線は冬の吹雪よりも寒々しかった。
「誰がそんなことをしろと命じましたか」
「確かにこれは私の独断、陛下に対する反逆にも等しい行為。その責を免れようとは思いません」
ナハルはそう言い、牢獄の中心まで足を踏み入れた。その周囲には、今まで路傍の石と化していた四人ほどの拷問係がいる。ナハルが視線で彼等に命じ――鋭い刃がナハルの首を描き切った。
「――!」
声を出す間もなく、止める間もない。ナハルは首から大量の血を噴き出して崩れ落ちる。さらには拷問係は刃を互いに向け合い、互いに刺し合う。同時に四つの心臓が一突きとされ、瞬く間に四つの死体が追加された。
……七斗達が地上に戻ってきたのはそれからしばらく経ってからである。爽やかな朝日を全身に浴び、七斗は地獄から生還したことをようやく実感した。だが、レアルトラとアルデイリムは未だ地獄の縁を彷徨っている。
「……将軍リギンとその協力者の拘束は」
「昨日のうちにナハルが全て」
「彼等は法に基づいて処断してください」
簡潔に指示を出したレアルトラはわずかな護衛だけを連れて王城を離れた。アルデイリムは事後処理に追われ、自由となった七斗は家族の下に帰ることとなる。
レアルトラが向かったのは王都クルアハンの郊外、ジェイラナッハの邸宅だ。
「アルデイリムやナナト様が嘘を言っているとは思いません。それにナハルも。それでも……」
それでも確認しなければならなかった。アルデイリムよりもずっと前からグリーカスと協力してきたというジェイラナッハの証言が必要だった。たとえそれで、自分の罪をより深く突き付けられることになろうとも。さらなる絶望に落とされようとも。
レアルトラがジェイラナッハの邸宅に到着したのは夕方も近い時刻だった。そこで彼女は、
「何かあったのですか?」
その邸宅の門の前で途方に暮れた様子の何人かの人影を見出した。彼等はジェイラナッハの使用人だ。その中の執事が説明する。
「それが、昨晩旦那様が突然『今夜一晩暇を出す』と言い出しまして。ここを追い出されて一夜を明かしたのですが、中に入ろうとしても閂がかかっていて開けられず」
元はムーマの大貴族の屋敷だったのだろう。塀は高く門は頑丈で、攻城槌でもなければ破れそうにない。門を乗り越えるにも忍び返しがあり、また使用人は全員ジェイラナッハとあまり変わらない年寄りばかりだ。
「近くの村の若いのを呼んで塀を乗り越えさせようとしていたところです」
それなら、とレアルトラが近衛に命じる。一番身の軽い者がするすると塀を登り、忍び返しにも服を引っかけたくらいで怪我もせず、敷地の内側に着地。門は内側から開かれ、レアルトラ達が足を踏み入れた。
「大将軍、どこですか?」
レアルトラが真っ先に向かったのは彼の寝室だ。だがそこには誰もいない。窓が開け放たれていて、その向こうは中庭になっていて――
「――!」
声にならない悲鳴が彼女の喉を貫く。ジェイラナッハはそこにいた。中庭の中央で彼は両膝を突き……切腹をしていた。彼の周囲には円形に血たまりが広がっている。彼は前に突っ伏し、大きな背中の向こうにはみ出した内臓がわずかに覗いている。
崩れ落ちそうになったレアルトラがテーブルに手を突き、座り込みながらテーブルを倒した。そのテーブルの上にあった、一葉の手紙が風で飛ばされる。それを拾い上げたのは近衛の一人だ。
「陛下、これを」
彼はレアルトラ宛のそれを彼女に差し出した。衝撃のあまり思考が停止していた彼女は機械的にそれを広げて――それはジェイラナッハの遺書だ。自分の一門の者が謀反を企てたことに対して一命をもって責任を取る、それが遺書の内容だった。さらには、
『どうか、どうか愚息にだけは陛下のご寛恕を。この老骨を伏して願う次第です』
「ああ! 大将軍!」
心底からの嘆きが悲鳴となってレアルトラの喉を破った。どうしてあんな役立たずのために、あんな謀反人のためにジェイラナッハが死ななければならないのか! あんな連中、どれだけ死のうとどうでもいいではないか! 彼にさえ、ジェイラナッハさえ生きていれば……
だがそれももう、空しい繰り言だ。ジェイラナッハは生きてはいない。事切れて半日以上が経っている。とっくの昔に手遅れだ。
レアルトラは寒さを覚え、震える身体を両腕で抱く。だがその震えは収まろうとしなかった。まるで、真冬の荒野に突然放り出された幼子のように――




