第五〇話「『働き者』のアスリン」
アスリンは温かな微睡みの中にいた。
(ああ、もう朝か……今日は肌寒いわね。朝食のミルクはちょっと熱めにして、パンにはたっぷりとベリーのジャムを。お腹と二の腕の贅肉が少し気になるけど、午後は乗馬で身体を動かすことにしましょう。午前中のうちに課題を全部片付けて、空いた時間は何をしましょうか……ピアノ、ダンス、絵画……わたしはどれもあまり得意じゃなくて、他の子と比べられるとちょっと恥ずかしい。先生が次に来られるのはまだ先なんだから、少しは練習しておかないと。
料理は得意な方……だと思うんだけど、食べてもらう機会がないのは残念ね。お父様はいつも美味しいって言ってくれるけど何を作ってもそういうだけだからちょっと信用できない。ああ、でもしばらく料理をしていないから今日はそれをしてもいいかも。砂糖をたっぷりと使ったふかふかのケーキ、熱々のクリームシチュー、それとも血の滴るようなステーキ。どうしよう、なんだかすごくお腹が空いてきちゃった。お腹と背中がくっつきそう。こんなにお腹が空いているんだからお腹まわりのことなんか気にしなくていいかもしれない。
とにかくお腹が空いたわ。それに肌寒い……寒い、凍えそう。暖炉に火を入れて、布団を一枚増やして……寒い、寒い。お腹が空いた……)
アスリンはそこで目を覚まし――泣きたいほどの後悔に襲われた。目など覚まさなければよかったのに。あのままずっと、死ぬまで夢の中でたゆたっていればよかったのに、と。
アスリンが今いるのは、屋敷の自室のベッドの中、羽根布団の中ではなかった。農場の牛舎の中、十数頭の牛が寝起きする場所の一角に三段ベッドが二列設置されていて、その一つがアスリンの寝床だった。絹のシーツ、綿のタオルケット、羽根布団など望むべくもなく、藁を編んだ莚を身体に巻き、それが布団の代わりである。同時にそれは蚤の寝床でもあり、巣窟であり、アスリンの全身もまた同様だった。
全身を蚤に喰われた当初は気が狂いそうなほどに痒かったが、今ではほとんど何も感じない。いっそ一切合切全てのことに何も感じなくなり、人形のようになってしまえばいいのに、と心底思う。同胞の中にはそうなってしまった者も少なくないらしいが、あいにくとアスリンは未だ人間らしい感情や感覚を残していた。
アガードという田舎町の、ある農場の一角に建つ牛舎、それが彼女の住居だった。牛の啼き声が響き、獣臭と糞の悪臭が充満している。今、その出入口が開かれ、一人の女が入ってきた。
「朝だ! 起きな、『働き者』ども!」
その怒鳴り声にアスリンは転がり落ちるようにベッドから飛び出す。それは同じベッドで横になっていた他の者達も同じである。この牛舎に住んでいるのはアスリンの他に五人、全員アスリンと近い年代の少女だった。
日が昇るよりも早く起こされ、それと同時に仕事が始まる。アスリンが主に担当しているのは牛舎の清掃だ。牛の寝床の藁や糞をまとめて掃き出し、桶に入れて肥溜めまで運搬する。複数の牛舎をアスリン一人で清掃しなければならず、朝から晩までほとんど休みなく必死に働いてそれで何とか終わるかどうか、という作業量だった。
朝から降っていた小雨は雪となっている。身にしているのはボロ切れ同然の麻の服一枚だが、寒さを感じる暇もない。アスリンが牛糞の入った桶を懸命に運んでいるが、ぬかるみに足を取られて転んでしまう。牛糞は地面へとぶち撒けられた。数瞬呆然とするアスリンだが、
「何してるんだい! 『働き者』のくせに!」
即座にフアハという監督役の女に蹴倒される。アスリンは顔から地面に突っ込み、全身は泥と牛糞に汚れた。
「早く片付けな!」
アスリンは素手で牛糞をすくって桶に入れ直す。汚い、という感覚は残っているが、今はそれを考えないようにした。
そうやって、汗と藁と泥と牛糞にまみれて必死に働き、今日一日が終わっていく。それがここ二年半のアスリンの毎日なのだが、この日はちょっとした事件があった。
最後の牛舎の清掃を終えたアスリンと、牛舎に戻る牛の群れが入れ違いとなる。アスリンは牛舎の内側で止まって牛の列が途切れるのを待った。疲労困憊の少女が何も考えず牛舎の壁に寄りかかろうとし、だがそこにあったのは立て掛けられていた木材であり。
倒れた木材が牛の顔をしたたかに叩き、その牛が怒声を上げた。牧童の少女達が止める間もなくその牛がどこかへと走っていく。何人かの少女がそれを必死に追いかけ、アスリンはただ呆然と見ていただけだった。
……事態が一応の収拾を見たのは、その日の深夜だった。その牛は牧場の外まで逃げていったためムーマ人の牧童にはそれを追うことは許されず、代わりにコナハト人の監督役が馬を駆って牛を追い、何とか連れ戻すことができたのだ。もちろん、ムーマ人がコナハト人の手を煩わせるなど、許されるはずもない不始末である。
「牛の面倒一つまともに見られないのかい! 『働き者』のくせに!」
雪がちらつく寒空の中、五人の少女が裸にされて鞭打たれている。何人かの監督役が交替で乗馬鞭を振り下ろし、少女達の身体には何条ものあざが作られた。鞭が振るわれるたびに何度でもくり返される決まり文句が「『働き者』のくせに」。そしてこの決まり文句を生み出した――そのきっかけとなった少女は、その光景にただ震えるだけである。牛を逃した当の本人なのに、アスリンだけは制裁を免れている。
コナハト人達による処罰は長い時間続き、終わる頃には日付が変わっていた。監督役は笑い合いながら去っていき、残されたのは倒れ伏す五人の少女、それにアスリンだ。
「大丈夫?」
アスリンが少女の一人を助けおこうとするが、その手は打ち払われた。聞こえよがしに舌打ちをする彼女は自力で立ち上がり、「大丈夫?」と仲間に声をかける。五人の少女が互いに助け合いながら立ち上がり牛舎へと向かい、アスリンはその後ろについていく。彼女達が時折、憎悪に満ちた目をアスリンへと向け、アスリンは逃げるように目を伏せた。
脱柵騒ぎの余波で、また制裁の一環で夕食は抜きとなり、アスリン達はすきっ腹を抱えて莚の寝床へと潜り込んだ。夕食が出たとしても残飯混じりのシチューや薄い薄い麦粥がせいぜいなのだが、そんな食べ物でもあるとないとでは大違いだ。この二年半、満足な量の食べ物を食べる機会など絶無であり、彼女達は常に飢餓に瀕している。そして実際、栄養失調と病気、それに私刑により同僚が次々と死んでいった。そのたびに牧童が補充され、二年半前から変わらずここにいるのはもうアスリン一人である。
「……どうしてこんなことに」
ベッドの中で誰かが呟く。それに応えるように、
「おなか空いた……」
「さむい……」
そんな呟きが聞こえる。
「かえりたい……」
少女達のその会話は、
「……しにたい」
その一言で締めくくられる。複数の嗚咽が漏れ聞こえた。アスリンもまた涙を流すが、声は出さないように我慢する。彼女が泣いても他の者を不快にさせるだけであり、泣き言を言っても返ってくるのは舌打ちだけだからだ。
――彼女達はモイ=トゥラ在住ムーマ人の子弟であり、ムーマ人はモイ=トゥラ四千万のコナハト人の上に君臨する絶対の支配者だった……二年前までは。モイ=トゥラ全土をコナハトが奪還して約二年。ムーマ人の運命は天国から地獄へと変転しており、彼女達もまた例外ではなかった。
ムーマ人は断種処置の上奴隷とさせられ、農作業を始めとするあらゆる重労働に酷使されている。牛馬のごとく、などという生易しいものではない。コナハト人にとって牛馬は貴重な財産だがムーマ人の価値など消耗品以下だ。酷使し、搾取し、ボロ雑巾のようになるまで働かせ、働けなくなったらゴミとして処分する。この二年間で何万というムーマ人がそうやって、飢えと寒さと過労の中で死んでいった……かつてのコナハト人がそうだったように。
コナハト人からしてみれば、今のムーマ人の境遇はこの百年間ムーマ人がコナハト人に強いてきたことに過ぎない。それをそのままやり返しているだけなのだ、と。アスリンもそれは判っている。嫌と言うほど、骨身に染みて理解している。
「わたしが物知らずで、どうしようもない愚か者だったんです。だからもう許してください」
これまで何度、何人のコナハト人に、そう言って土下座して謝ったか判らない。だがコナハト人の反応は大体同じだった。
「わたしもそうやって、小作料の減免を必死にお願いしたさ。あんた等の返答はこれだったけど!」
そう言ってフアハはアスリンの頭部を力任せに踏み付ける。鼻と前歯が折れ、流れる血は泥に染み込んだ。
「おい、殺すなよ」
監督役の同僚が制止し、その女は「判ってるよ」とアスリンを無理やり立たせる。
「さあ、ちゃんと働いてくださいよ? お嬢様。あんたがわたし達のことを『怠け者』と呼んだんだろう? あんたはわたし達が及びもつかないくらいの『働き者』なんだろう?」
強引に起こされたアスリンの口と鼻からは血が、目からは涙が流れている。それでも許しを請うようなアスリンの目と、ギラギラと輝くフアハの目が期せずして向き合った。彼女の顔が歪んで見えるのは涙のためではなかった。それは歓喜の表情だ。ムーマ人の苦悶こそが彼女達の無上の悦びであり、中でもアスリンは特別なのだから。
他のムーマ人はどれだけ死のうと誰も気にしないが、アスリンだけは死なないようフアハを始めとするコナハト人が気を配っている。殴る蹴る程度の制裁はされるがそれ以上のことはされないし、病気になれば休ませてもらえる(その代わりにひどい制裁を受けるのは周囲の少女達だし、仕事を受け持つことになるのもまた同様なのだが)。そもそも断種処置も、死の危険が非常に高いため彼女だけは免除なのだ。
が、だからと言ってアスリンが楽な立場かと言えば決してそんなことはない。
「こいつが逃げたり死んだりしたら、その責任はお前等に取ってもらうよ。……楽に死ねるとは思わないことだね」
アスリンと寝食を共にする五人は、言わばアスリンの監視役だった。アスリンに何かあった場合、彼女達五人がその生命をもって償うことになる。単に殺されるだけならまだいい、苦痛なく死ねるのならむしろ望むところである。だがコナハト人がムーマ人に、そんな慈悲を与えるわけがない。
コナハト人がガランラハンで何をしたか、彼女達もよく知っている。王太子バイル=エアガルとその重臣に何をしたか、彼女達もよく知っている。バイル=エアガル等は未だ生きていて、王都クルアハンの一角で見世物として一般公開されていると聞く。何より、彼女達もまた断種処置を受けた身である。
こうして、アスリンは五人の少女達から一挙手一投足を監視されることとなった。同情など欠片もない、深い憎悪と敵意の目をもって。担当は一番汚く重労働のもので、助け合う仲間もいない。四千万のコナハト人の中で百万のムーマ人が孤立しているが、アスリンはさらにその中で一人だった。
「『働き者』のアスリン」
アガード周辺だけでなく、モイ=トゥラの広い範囲で少女はその名で呼ばれている。コナハト人からは嘲笑を、同じムーマ人からは怨嗟を込めて――
「鉄杖党のご令嬢がコナハト人のことを『怠け者』と罵った」
それは一五〇万のムーマ人が死ぬか奴隷にさせられ、一五〇万のムーマ人が住処を追われて難民となった、酸鼻を極めたモイ=トゥラ奪還戦役の中のほんの些末なエピソードに過ぎない。にもかかわらずそれはモイ=トゥラ中に広く知れ渡った。それがモイ=トゥラ在住ムーマ人の姿勢を示す、端的で象徴的なエピソードだったからだろう。
奴隷となったムーマ人は最初から過酷を極めた状態に置かれていたわけだが、このエピソードを聞いたコナハト人はムーマ人を許す理由がさらになくなった。
「何を怠けていやがる! お前等は『働き者』なんだろうが!」
奴隷の監督役はそう言ってムーマ人奴隷をさらに酷使した。わたしがそう言ったわけじゃない、という抗弁も無意味である。コナハト人のどのような哀願にも懇願にも、以前のムーマ人は一切耳を貸さなかったのだから。
ムーマ人奴隷はありとあらゆる重労働に従事させられた。酷使や制裁、虐待は手段ではなく、それ自体が目的だった。この過酷な環境の中で、ムーマ人奴隷は恐ろしいほどの勢いで数を減じていく。
この事態を憂慮し、ムーマ人に同情する人間がコナハトの中で絶無というわけではない。
「ムーマ人の全員がそう言ったわけでも、そう思っていたわけでもないだろう。コナハトはブレスやかつてのムーマと同じになるべきじゃない」
「導く者」ナナトがムーマ人に同情的であり、彼等の処遇改善を常々訴えているのは広く知られた事実である。ただ絶無ではないが、このような主張を公言できるのは七斗一人であり、事実上絶無と同じだった。
そして七斗の発言をよくよく見れば、アスリン自身のことは弁護も擁護もしていないのだ。アスリンの無思慮な発言は、七斗ですら見捨てる他ないレベルのものだったのである。
――ときに、始祖暦二五〇五年サヴァンの月(第一月)。七斗が「導く者」として「四精霊の大陸」に召喚されてから五年。コナハトがムーマを撃滅し、レアルトラがコナハトの女王に即位してから二年が経過している。そして、ファルが産んだ七斗の子供は一歳半になろうとしていた。
「サラちゃん、良い子ねー」
「サラ、こっちだよ」
その子の名はサラ。ファルによく似た……と言うよりはクローンかと思うくらいに母親そっくりな、可愛い女の子だ。ファルは自分の子供をどう扱っていいのか未だ戸惑っているような様子だが、その代わり七斗とフリーニャは目に入れても痛くないほどの可愛がりようだ。
ただ、客観的に見てサラは変な子供だった。ほとんど笑うことがないし、一切しゃべらないのだ。一見知能や情緒に問題があるのかと思いそうだが、必ずしもそうではないらしい。
「ん、そっちに行くのか?」
「はい、持ちました」
「サラちゃん、こっちよ」
七斗に抱っこされていたサラがファルの方に手を伸ばし、ファルが七斗からサラを受け取る。次にファルの胸の中からフリーニャの腕の中へとサラが移動し、さらに七斗の下へと移動する。そうやって延々とぐるぐると回り続けるのがサラのお気に入りの遊びだった。七斗もフリーニャも相好を崩してそれに付き合っている。
「ほら、ティティムも」
と七斗からサラを受け渡されるティティム。三歳半の幼児に一歳半の乳児を抱っこさせるのは危険なので、床に座ったティティムの足に間にサラを座らせる格好だ。その微笑ましい光景に七斗は深い満足を覚えている。
ティティムはコナハト女王レアルトラとムーマ王子グランの間の子供であり、将来はコナハトの王位を継ぐ存在であり、今はムーマの国王という立場だった。が、ムーマの血を濃く引くティティムは母親から疎んじられ、放棄されたその養育は七斗が受け持っている。
三歳半でありながらティティムは自分のその複雑な立場を理解しているかのように、彼は自己主張というものを全くしない子供だった。情緒という面ではサラよりもティティムの方がよほど心配なことが多い。
「サラがティティムの支えになってくれればいいんだけど」
この二人の子供を将来結婚させることは、コナハトにとっては、レアルトラとっては既定路線だった。七斗も概ねは異存はない。ティティム自身は無理でもその子供なら。ムーマの血が薄まり、「導く者」の血を受け継ぐその子供なら、コナハトの国王としても受け入れられることだろう……
だが、その未来予想図が本当に現実となるのか、ここに来て不透明となっている。
「ナナト様、王城より陛下がお呼びになっておられるとの連絡がありました」
「判った」
メイドの伝言に七斗が立ち上がる。そして名残惜しそうにサラを抱っこし――サラも父親の突然の外出に不満そうだったがそれを振り切り、七斗は馬車で王城へと向かった。
約半時間後、クルアハン城内。二年経ってもクルアハン城は再建途上であり、レアルトラが執務に使っているのも二年前と変わらずその中の小さなコテージだった。
「お休みのところをお呼び立てして申し訳ありません」
「いえ、お構いなく」
レアルトラは今年で二二歳。その美しさにはますます磨きがかかり、国王としての威風もいや増すばかりだ。が、その顔はにこやかな笑みよりも疲れたため息をつくことの方が圧倒的に多かった。
「ん、ようやく来たのか、『導く者』。待ちくたびれたぞ」
そう言ってソファから身を起こしたのは、長身の伊達男。ウラド国王シュクリスである。七斗は意外そうな顔をレアルトラへと向けた。
「何があったんですか?」
はい、とレアルトラはいつものようにため息をつく。
「カラバンで大きな暴動が発生しました。市民が暴徒となって庁舎を襲撃し、代官を殺害したと」
その地名に聞き覚えのない七斗だがその点は大きな問題ではない。
「代官を、ということは……」
「そうだ。殺されたのは俺がウラドから連れてきた連中の一人だ」
とシュクリス。ただその口調に怒りの感情はなく、七斗やレアルトラの反応を興味深げに見守っているような様子である。
「俺には連中に対する責任があると、認めるのを検討することもやぶさかではないとしておこう」
ふざけたその物言いは無責任の極みではないのか、と七斗は思うのだが、仮に面と向かってそう言ったところでこの男は小揺るぎもしないだろう。
「我が妻がどのような裁定を下すのか見定めねばならんのでな」
「その者の妄言は無視してください」
判っています、と七斗。シュクリスがレアルトラを「我が妻」呼ばわりするのを、最初のうちは婉曲に否定したり皮肉で応酬したりしていたのだが、一年以上くり返されため扱いがかなりぞんざいとなっていた。
「何の理由もなく暴動を起こしたわけではないと思います。まずはそれを確認して、代官に問題があったのならそれを明らかにしないと」
「ほう。ならば暴徒は処罰しないと?」
「全くの処罰なしとはいかないでしょうけど、情状酌量の余地があるのなら考慮すべきです」
七斗は気合を入れてシュクリスに対抗しようとする。レアルトラが七斗をこの場に呼んだのはそれが理由なのだから。気怠げなシュクリスと気負い気味の七斗が対峙する中、レアルトラは頭痛のする額を指で押さえている。
――モイ=トゥラを奪還し、レアルトラが国王として即位して二年。コナハトはどうしようもない混沌状態からようやく脱し、一国としての体裁が整いつついるところだった……何とか、かろうじて、一応は。
「人材不足」は二年前から変わらずコナハトにとっての最大の問題なのだが、二年前と比較すればかなりマシにはなっている。その改善に大きく寄与したのはウラドであり、ここにいるシュクリスである。
二年前、何百人というウラド貴族の子弟を伴い、シュクリスはクルアハンの王城へと乗り込んできた。
「俺と手を結べ、コナハトの女王よ。俺達二人でこの大陸全てを支配する。俺とお前の子供がこの大陸で唯一の王冠を戴くのだ」
その求婚の上で「これは持参金代わりだ」と示したのが、引き連れてきたウラド貴族の子弟だったのだ。貴族の血を引き、それなりの教育を受けながらも官職を得られず、無聊をかこっていたウラド貴族の次男坊、三男四男五男六男。彼等はそういった者達だった。
大陸制覇には興味を持てないレアルトラだったが、ウラドで教育を受けた貴族の子弟は喉から手が出るほど欲しい。レアルトラは結局、シュクリスの求婚に対しては返答を保留し、一方持参金だけはちゃっかりと受け取った。彼等はモイ=トゥラ各地に送り込まれ、代官としての任に就いている。
彼等の大多数は「あのまま部屋住みの居候のまま、厄介者扱いのまま無為に歳を取るよりは」と今回の移住を肯定的に受け止め、職務に励行しているわけだが、もちろん全員がそうではない。そもそも彼等の全員が納得ずくでコナハトにやってきたわけでは決してないのだ。人さらいまがいの強引なやり方で連れてこられた者も少なからずおり、不平不満を抱く者もまた同様だった。そんな者が立場や権限を与えられて何をするか? 監視の目が行き届かないのをいいことに汚職や蓄財に精を出すに決まっている。
もっとも、汚職や横領や蓄財はウラド貴族の子弟だけの問題ではない。広大なモイ=トゥラに対して監視の目はあまりに少なく、汚職をしていない代官こそいないのではないかと思われるくらいだった。ただ、ウラド貴族の子弟は新顔であり、元は異国人なのでそれが目立ってしまうだけである。
それでも、彼等ウラド出身の代官は今のコナハトになくてはならない屋台骨だった。彼等にそっぽを向かれてはコナハトはあばら家のように倒壊しかねない……が、我が物顔でふるまうウラド人にコナハト人が面白いはずがない(それもウラド側からすればただの被害妄想だと反論するだろうが)。コナハト人側が不満を募らせるのを放置するわけにもいかず、またこれ以上のウラド人の勢力拡大も望ましくはなく、レアルトラは難しい舵取りを迫られていた。
シュクリスはコナハト国内のウラドの権益を擁護する立場だ。シュクリス自身は昼行灯を決め込んでいるが、それでも彼の存在は無視するには大きすぎる。レアルトラは公平・公正という姿勢を崩せず、彼女に代わってコナハトの権益を守るのは七斗の役目だった。
「まずは軍を出して暴動を鎮圧し、首謀者や扇動者を拘束させます」
決然と顔を上げたレアルトラが七斗とシュクリスに己が決断を示す。
「同時に事実関係を確認させて、その上で裁定を下します」
「そうすべきだと思います」
「別に構わんがな」
とシュクリスは肩をすくめ、
「しかしモイ=トゥラの農民は暴れすぎだろう。ムーマ時代のあのおとなしさは何だったのだ?」
シュクリスの皮肉にレアルトラは口をつぐんで論評を避ける。七斗は苦笑未満の中途半端な顔をした。
「ムーマ人の代官を血祭りにしてからまだ二年です。彼等の血はまだ熱いままで、暴力で物事を解決するのが習い癖になっているんだと思います」
その言葉にレアルトラは苦い顔をする。シュクリスや七斗の言う通り、モイ=トゥラでは暴動が頻発していて小規模なものも含めればその報告を聞かない日はないくらいだった。
「一体何が不満だというのですか。年貢すらまともに納めていないのに」
と内心で愚痴をこぼすレアルトラ。「モイ=トゥラを奪還すれば全ての憂いは消えてなくなる」と思っていたのが遠い昔のことのようだ。広大なモイ=トゥラに対して人手が全く足りず、文官も武官も酷使されて倒れる寸前。年貢も税金も集まらず、代官は競争するように不正をし、農民をちょっとしたことで暴動を起こす。
「こんなことなら昔のままの方が……」
内心のそんな言葉をレアルトラは慌てて打ち消した。そして気を取り直し、
「公爵グラースタにこの一件について調査をするように伝えなさい」
文官の一人にそれを命じて、それでレアルトラの中ではこの一件は解決済み同然となった。一方、仕事を押し付けられたグラースタは特に反応を示さなかった。
「……」
彼は自分の執務机で、片付けるより倍の速度で積み上がっていく未処理の書類を山脈を、虚ろな目で眺めている。絶対的・慢性的な睡眠不足で目の下にはクマができ、頬はこけ、髭を整える暇もなく無精ひげが伸び放題。せっかくの伊達男ぶりが台無しだがもうそんなことを気にする余裕もなかった。
「こんなはずでは……」
機械的に書類を処理する一方で頭の中をそんな思いが去来する。本来、ミデはウラドへと帰属し、グラースタもコナハト宰相の地位を失うはずだった。だがグラースタの行政手腕を惜しんだレアルトラがミデの返還を先延ばしにしたのである。表向きは文句を言って年金の増額を約束させたグラースタだが、
「渡りに船だな。これで女王レアルトラさえ殺せばその地位はグリーカスかエイリー=グレーネに転がり込む」
と内心でほくそ笑んだ……その代償がこの惨状なわけだが。
「一体いつまで続くのだ、この修羅場は……まさかこの先もずっとなのか」
レアルトラを暗殺してコナハトの王位を手にしたとして、果たしてそれでこのデスマーチから逃れられるのか。王として一生これを続けていくことになるのなら、それは危険を冒してまで手にするに値するのか……? 深刻で、根本的な疑問がグラースタの脳裏を木霊する。
「もう余計な野望など捨ててミデに引きこもれば、それでウラド貴族として優雅な人生を全うできるのなら――はっ、もしや女王は私にそう思わせることを目論んでこのような仕事量を」
ただの考えすぎである。
「あるいは邪魔な私を過労死させるつもりなのかもしれない。そうはさせるか、この程度の仕事量など……!」
猛然と、鬼気迫る形相で書類の山を崩しにかかるグラースタ。ここで「仕事を放り出す」という選択肢を思いつかないあたり、どれだけ大それた野望を抱こうと彼の本質は「真面目な小心者」なのだろう。
なお、レアルトラは兄のグリーカスや従妹のアン=アロールにも半ば無理矢理文官の仕事をやらせている。所帯の小さいコナハト王家を総動員、といった体であり、コナハト王家はいつになく心を一つにしてこの難局に立ち向かっていた、と言ってもいいかもしれなかった……
「まあ、大体予想はついているが」
場所はクルアハン王城の宮殿の一つ。迎賓館として一応の体裁が整えられたそこは、今は実質的にシュクリスの離宮だった。
シュクリスはその迎賓館のベランダで、行儀悪く足をテーブルに投げ出した体勢だ。その彼に腹心のカールジャスがコナハトの動きを報告する。
「横領の事実が明らかとなったので代官一家の生き残りを処刑。その一方で暴動の首謀者もまとめて処刑。喧嘩両成敗というやつです」
「そうするしかないだろうな。俺だってそうする」
ウラド出身の代官と、コナハト農民。どちらか一方に甘い顔をすればもう一方が不満を抱く。両方を許したところで不満は消えず、舐められるだけ。それなら両方を厳罰に処して公平さを前面に出し、一罰百戒を期する――レアルトラの選択はごく真っ当なものだった。
「だが毎回同じような報告ばかりで聞き飽きた。女王は何か変わったことをやろうとはしないのか」
「今のコナハトにそんな余裕があるわけないでしょう」
呆れたような――実際に呆れているのだが――カールジャスの言葉にシュクリスは鼻を鳴らす。
「それでは愛する我がウラドは?」
「特に動きは。宰相も相変わらずです」
――二年前、レアルトラへの求婚を保留とされたシュクリスはウラド王都エヴィン=マハへと戻り、
「国王でなければ婚姻を結ぶに値せん、とコナハトの女王は言っている。即位するぞ」
と父親を退位させ、ウラド国王に即位したのである。反対派の急先鋒になると目された宰相ドウーラガルだが、彼は真っ先にシュクリスに協力。そうなればもう、誰が反対しようと無意味である。
「それじゃ俺は女王の心を掴まねばならんのでな。後は任せた」
即位したシュクリスだが彼は玉座を温める間もなくエヴィン=マハを出立し、コナハトへととんぼ返り。そのままクルアハンに留まって二年近くが経過している。仮にも一国の王が二年近くも自国に戻らず、他国の王城に居候状態――このような事態は二五〇〇年の大陸の歴史の中でも前代未聞……というわけではないが、極めてまれなのは確かだった。まあ、直近ではティティムという同例もあるのだが。
宰相ドウーラガルがこの異常事態を放置しているのは何かの酔狂というわけではなく(シュクリスは酔狂でやっているとしか思えないが)それなりの理由があってのことだった。まず一つは、誰もはばかることなく不在の国王の代理としてふるまえること。もう一つは、
「俺と女王のものを奪おうなどと考えるなよ? 俺はともかく女王は怖いぞ」
もしシュクリスを退位させて別の誰かを即位させたなら、コナハト軍を率いてウラドに侵攻する――シュクリスはそうドウーラガルを脅したのだ。もしレアルトラがこれを聞けば、
「どうしてコナハトがそんな面倒なことを」
と白けた顔をしただろうが、ドウーラガルにはそこまでは判らない。それが判ったとしても、多少なりとも可能性があるのなら宰相の行動を縛るには充分以上だった。
つまらん、と失笑するように言うシュクリス。宰相にくぎを刺して動けないようにしたのはあなたでしょう、とカールジャスは言いたかったが、言ったところで韜晦するだけなのは自明だった。
「ラギンは?」
「こちらも特には」
「細工は流々だが仕上げはまだ先か。ムーマは?」
「国王エイリ=アマフが軍を動かそうとしているようです」
その報告にシュクリスは「ほう」と面白そうに答え、わずかに顔を上げた。
ということで、中途で完結扱いとした本作ですが更新再開です。
ただ新作の準備の方も同時並行で進めたいと思いますので、更新頻度はかなり低いです(目標は月1話以上)。
その点についてはご容赦のほどを、また改めて本作にお付き合いのほどをお願いいたします。




