第四八話「若き国王達」その1
月は変わって、始祖暦二五〇二年ジェイルー=フォーワルの月(第一二月)、その上旬。場所はコナハト王都クルアハン。ムーマ人と鉄杖党の支配から解き放たれたクルアハンの町は、以前とは様相が一変していた。
商人が物を売り、兵士が闊歩し、女達が談笑し、子供達が走り回り……町を行き交うコナハト人は明るく堂々とし、その笑顔は希望に満ち溢れている。以前はそこら中にいた物乞いや行き倒れは、今では見つけるのも難しかった。
露店の商人と客が何やら揉めていて、それが喧嘩に至っている。周りの者はそれを止めずに、逆にはやし立てるばかりだ。見回りの兵士や官憲はやってくる気配もない。人々は溢れんばかりのエネルギーを持て余しているかのようだった。
「しかし、変われば変わるものだな」
一人の男が興味深げに町の様子を見て回っている。ブラウンの髪の色はその男がウラド人であることを示していた。彼の横に並ぶのは腹心兼護衛の青年だ。
「この町に来るのは初めてのはずでは?」
カールジャスのその指摘にウラド王太子シュクリスは素知らぬ顔だった。二人は「ウラド商人の護衛の傭兵」といった風を装い、お忍びで町を視察しているところである。
道端のあちこちでは農夫と見られる男がござを敷いて物売りをしているが、並んでいる売り物は壺やら外套やら豪華な椅子やら、非常に脈絡のないラインナップだ。どう見てもそれらはムーマ人からの略奪品だった。思いがけない掘り出し物がその辺に乱雑に積まれたりしていて、カールジャスは内心で仰け反っている。
にわか商人の中には皿いっぱいに金片や銀片を入れて売っている者も――いや、それはただの金銀の破片ではない、金歯や銀歯だ。それを理解したカールジャスの肌が粟立った。それらの歯は根本が血で汚れたものも多く……一体どうやってそれだけの数を集めたのか、想像しただけで血の気が引く思いだった。
「どうです、旦那。安くしておきますぜ?」
とにやりと笑うにわか商人。シュクリスは「まだ今度に」とさらりと躱した。
――なお、道端で叩き売りされているムーマ人からの略奪品は、全体から見ればごく一部に過ぎない。略奪品の大部分はコナハト軍の手によりムーマ系を含む各商会へと売却されている。ほぼ捨て値で買い取られたそれらの略奪品は、その本来の価値は天文学的なものであり、そこから得られる利益は各商会がコナハト軍の兵站維持のために背負った赤字を帳消しにしてなお余りあるだろう。
モイ=トゥラからはムーマ人と鉄杖党が一掃されたが、クルアハンの町からムーマ人が一人もいなくなったわけではない。むしろムーマ人の姿が頻繁に目に止まるくらいである。ただしそれは「奴隷となったムーマ人」だった。
ボロ服を着たムーマ人の集団が必死に荷車を押している。石材が山積みとなった荷車は相当の重さがありそうで、実際ムーマ人の集団が力尽き、足を止めている。すると監視役のコナハト人兵士がやってきて彼等に鞭を打ち、彼等を足蹴にし、先に進むよう怒鳴り散らしていた。奴隷達は力を振り絞って仕事を再開している。石材の運搬には牛馬も使われていたが、牛馬の方がムーマ人の奴隷よりも何倍も大切に扱われているようだった。
町の一角には娼館が並んでいて、そこにいる娼婦も全員ムーマ人である。一年前と何も変わらないかのように美しく着飾った彼女達――だがその額には「d」という文字が焼き付けられている。烙印を押され、同時に断種処置も受けている彼女達の目は死んだ魚ほどにも生気がなく……彼女達の身体は生きていても、その心は既に死者のそれだった。
町を一回りしたシュクリスとカールジャスはクルアハンの中心へと向かうが、そこに近付くほどにムーマ人の奴隷の姿が増えるように思われた。そこにはブレス城があり、再建中のクルアハン城があり、何万というムーマ人奴隷が働いている。ムーマ人奴隷はブレス城を解体し、その建材をクルアハン城に運び込んでいるようだった。ブレス城は既に往時の壮麗な姿を失い、寒々しい様子となっている。だがクルアハン城が完成するのはまだまだ先のことだろう。
シュクリスとカールジャスがクルアハン城正門から足を踏み入れ――カールジャスは凍り付いたように足を止めた。正門から城内へと続く石畳……いや、それはただの石畳ではない、墓石だ。ムーマ人の名前が刻まれた墓石が石畳の代わりに地面に敷き詰められている。墓石の道が城内まで延々と続いている。
これまでモイ=トゥラで没したムーマ人は無数にいるだろうがその墓に墓石を立ててもらえるのは一部の裕福な者だけだ。クルアハンにある全てのムーマ人の墓からある限りの墓石を集めても、この長い道全てを舗装するのは無理だろう。モイ=トゥラ中のムーマ人の墓を破壊し、墓石をわざわざクルアハンまで運ばせ、ここに集めたのではないだろうか。コナハト人を苛政で苦しめながら何の報いも受けないまま死んだムーマ人を、永遠に踏みにじり続けるために。
レアルトラの憎悪の深さを思い知らされ、カールジャスは足だけでなく心も凍り付かせている。だがシュクリスは何の憚りも遠慮もなく墓石の道の上をずかずかと歩いていく。いっそ感心するほどの無神経さだった。
「何をしている。行くぞ」
先行するシュクリスが振り返って声をかける。カールジャスは唾を飲み込み、シュクリスの後を追った――墓石を踏まないように道の端を歩きながら。
……それからしばらくの後。シュクリスはメイドの一人に案内されて王城内を歩いていた。向かう先には小さな宮殿がある……宮殿と言うよりはコテージと呼ぶべき程度の建物だったが。周囲には巨大な宮殿がいくつも並ぶが、どれもまだ再建中だ。全ての建物が完成するには一〇年は必要かもしれなかった。そのコテージはブレス城から移設したもので、数少ない完成した建物の一つであり――そここそが今のコナハト王宮だった。
シュクリスはそのコナハト王宮に足を踏み入れる。そしてすぐに通り抜けた。抜けた先には中庭があり、春の花々が咲き誇り、テーブルと椅子が置かれ、そこには既に三人の人間が席に着いていて……
「ようこそおいでくださいましたわ、王太子シュクリス」
レアルトラが立ち上がり、笑顔でシュクリスを歓迎する。他の二人も同時に立ち上がった。うち一人は三十代の、長身の、短い髭の伊達男――ミデの公爵グラースタだ。
「壮健そうで何よりです、王太子シュクリス」
「久しいな、グラースタ」
シュクリスはグラースタに気安い挨拶をした。そして最後の一人は知らない顔で、シュクリスは一瞬だけ首を傾げた。レアルトラより年下に見える、背の低い、黒髪の、奇妙な色の肌の少年――
「『導く者』か」
シュクリスはすぐにその正体に思い当たった。「導く者」ナナトは「初めまして」と頭を下げる。「導く者」は硬い顔だが単に緊張しているだけで、別にシュクリスに悪意や敵意があるわけでもないようだった。
「どうぞおかけください」
レアルトラに促されてシュクリスが席に着き、行儀悪く足を組む。レアルトラ達三人も再び席に着いた。そこにメイドの一人がお茶を運んできて、四人が無言のままひとまずはお茶を楽しむ……ただ、「導く者」は一人だけ居心地が悪そうな様子で身じろぎしていて、メイドに何やら注意されていた。
「――まずはこの度の戦勝、お祝い申し上げる。王女殿下」
シュクリスが不意にそう言い、レアルトラが「ありがとうございます」とその言祝ぎを受けた。
「いや、いつまでも王女ではないか。いつ即位するのだ?」
「はい。次の新年に合わせて正式に」
グラースタの歯軋りの音は誰の耳にも届かなかった。シュクリスは「それは重畳」と頷いている。
「即位式典には出席できんが祝いの品を届けさせよう」
「この世で二番目に気高く尊く賢く美しい王太子シュクリスには感謝の言葉もありませんわ」
そうレアルトラがたおやかに微笑むとシュクリスは大笑いをした。
「よせよせ、コナハトの王女よ。そのような蝶々しい世辞、まともな神経で聞けるものではない」
「確かにその通りですわ。ましてや自分で自分のことをそのように誉めそやすなど、頭がおかしいとしか思えません」
「あははは! 確かにそうだ、そんな奴がいるなら顔を見てみたいものだ!」
しばらくの間、「あははは!」というシュクリスと「おほほほ」というレアルトラの、空々しい笑いが響いた。
「――ですがコナハトは決して独力でムーマに勝利したわけではありません。わたしはほんの一時でもそれを忘れたことはありませんわ」
感無量といった面持ちでそう述べるレアルトラに対し、シュクリスは「ほう」と応えて続きを促した。
「もしナナト様に召喚に応じていただけなければ、今年滅亡していたのはコナハトの方だったのは間違いありません。わたし達がオルゴールを手にしたとしても、ミデの全面協力がなければオルゴールを必要台数用意することができず、ムーマに勝利することも叶わなかったでしょう。それにラギン、そしてウラド――コナハトはこれらの国々の支援と助力があって始めて勝利を掴むことができたのです」
「コナハトはミデにとっても祖国、全面協力は当然のこと。感謝されることではありません」
グラースタの謙遜した物言いが白々しく響く。レアルトラは「その気持ちは嬉しく思います」と、さらっと聞き流した。
「いや、殊勝なことだな、王女よ。ドウーラガルも『協力した甲斐があった』と本望に思うだろう」
シュクリスの言葉にレアルトラは「そうでしょうか?」と呟くように言い、「どういう意味だ?」とシュクリスが問い返した。
「ウラドの宰相ドウーラガルはムーマの勢力を多少なりとも削るためにコナハトへの助力を許可したのでしょう。ですがコナハトがここまで一方的に勝利を収めるとは考えていなかったのではないでしょうか」
シュクリスはにやりと笑い、その推測を否定しなかった。
「ムーマの勢力は削ったが、コナハトがそのままその立場に取って代わっている――おそらく宰相ドウーラガルにとっては大幅な計算違いでしょう」
「確かにその通りだ。宰相は心労で骸骨みたいに痩せてしまったぞ」
シュクリスは自分の冗談に自分で笑った――なおこれはドウーラガルの主観においては冗談でも何でもなく、事実そのままである。客観的には相変わらず自力では身動きできないくらいの肥満体なのだが。
「その上コナハトはムーマに対して暴虐の限りを尽くしたからな。頼りのゴーレム部隊は今や木偶の坊と変わりない。今のコナハトと戦う事態など、宰相にとっては悪夢そのものだろう」
シュクリスは他人事のように楽しげに言い、グラースタは呆れたような目を彼へと向けた。レアルトラはやや不服そうに頬を膨らませる。
「わたし達はムーマにされたことをそのままやり返しただけです」
グラースタは「それにしてもやり過ぎだろう」と思っているがこの場は沈黙を守ることとした。守らなかったのは七斗である。
「ムーマはこれほど大規模な断種政策は採ってないんじゃ……」
躊躇いながらも異議を唱える七斗にレアルトラは即座に反論した。
「彼等は我が国で雪イナゴをばらまき、コナハト人を根絶やしにしようとしましたわ」
レアルトラが仮面のような笑顔で七斗に向き直る。七斗は松明を近付けられたように身を縮めた。
「それでもわたしは報復の範囲を鉄杖党とその協力者に限定しているのです。ナナト様はわたしの自制が足りないとおっしゃりますか?」
「いえ、その」と怯えながら、それでも七斗は何か言いたそうにする。そこに、
「客の前だ、二人ともそのくらいにしておけ」
と仲裁に入ったのはシュクリスだった。グラースタは「その客であるあなたがそれを言いますか」と突っ込みたいのを我慢している。
「失礼をいたしましたわ」
とレアルトラは笑顔で取りつくろい、七斗もまたこの場は引き下がった。
「つまりは、だ。ムーマに対する暴虐はあくまで報復、仮にコナハトがウラドと戦うことになったとしてもあのような真似をするつもりはないと」
「ええ、もちろんです」
シュクリスの確認に対し、レアルトラは明確に断言した。
「わたし達はムーマとは違います。仮にウラドと戦うことになったとしても、コナハトは古式と伝統に則って戦うことを約束しましょう」
「そうか、それを聞けば宰相も安心するだろう」
とシュクリスは言う。もしドウーラガルがこの場にいたなら「安心などできるかっ!」と絶叫したのは間違いないが。
「……ですが、我が国の存亡の危機に際してウラドには惜しみない助力をいただきましたわ。言わばウラドはわたし達にとって恩人、そのウラドと争いたいとは決して思っておりません。わたしがウラドとの間に求めるものは平和と友好です」
「俺は王女の真意を疑わんよ。だがあの宰相はどうしようもない小心者でな」
とシュクリスは肩をすくめる。
「あの小雀に鳳凰の志を理解させるのは骨が折れるだろう」
「確かに、言葉だけで理解を得ようとしても難しいでしょう」
レアルトラは後ろを振り向いてその場に控えていたメイドに視線で指示を出す。応援でこの場のメイドをやっているフリーニャが音もなくレアルトラに接近、用意していた何かを手渡した。
レアルトラは卓上にそれを広げる。それは大陸地図、その一部である。地図に記されているのは旧コナハト――昨年までのコナハトの領土、大陸南部の狭い範囲だ。
「剣には剣、パンにはパンと言います」
レアルトラが口にしたのはこの世界の慣用句である。
「剣を振るってきたムーマにはわたし達も剣で立ち向かいました。パンを施してくれたウラドに対しては、わたし達もパンで報いたいと思っています」
「ほう。そのパンとは?」
興味深げなシュクリスの問いに、レアルトラは地図上のある線を指でなぞって見せる。そこは旧コナハトの北を流れるコリブ川だ。
「このコリブ川をコナハトとウラドの国境としたいと思います」
レアルトラが何気なく言い放ったその言葉の意味を、シュクリスとグラースタが理解するのに幾何かの時間を必要とし――後頭部を不意打ちで殴られたようなものだった。しかも巨大なハンマーで。
「お……王女殿下、何を……」
我知らずのうちに腰を浮かしたグラースタがレアルトラを凝視する。まるでそうすればレアルトラの思惑を理解できるかのように……だが仮面のようなその表情からはどんな考えも読み取ることができない。グラースタは思考を巡らせようとするが衝撃は脳の歯車を外してしまったかのようで、回路は空回りするばかりだった。
「ムーマにブレスが現れるまでは、このコリブ川が両国の国境線でしたわ。その状態に戻すことを提案しているのです」
「あの、王女様。それって要するにミデがウラドに帰属することを認めるって……?」
もしコリブ川が国境線となるなら、その北側に位置するミデはウラド領内に取り込まれることとなる。七斗がおずおずとそれを確認しようとし、レアルトラは「はい、その通りですわ」とあっさり認めた。
「ああ、それはいいことですね。あの子も、アン=アロールも喜ぶと思います」
事の重大さを全く理解していない七斗の言葉にグラースタは切れそうになったが、寸前でそれを押し止める。シュクリスは全力で大笑いした。
「そうかそうか! ミデをウラドに! 確かにそれならあの男も王女の真意を疑うまい!」
「み、ミデにとってウラドへの帰属は長年の宿願……」
グラースタは激情に声を震わせながらそれを述べる。
「それを平和裏に実現できるのであれば、これ以上望むことは何もありません……」
グラースタの態度は感動のあまり言葉もないように見えないことなかった――望まぬことを強要され、怒りを必死に堪えているようにも思えたが。
「ですがその場合、ミデ公爵家が有しているコナハトの王位継承権は?」
「それは当然失われます」
グラースタの問いにレアルトラが即答。グラースタは一瞬だけ、七斗でも察知できる怒りの感情を垣間見せた。
「ところで公爵からは王家だけでなく、数多の武家が借金をしています。公爵から金を借りていないコナハトの武家は一つもないかもしれません。それらの借金については全て一本化し、王家の方からまとめて返済するつもりです」
「そうしていただけるのなら私も非常に助かりますが……」
「借金の返済と、ミデのこれまでの貢献に報いるために、コナハト王家からミデに対して年額一〇万リブラの年金を支払います」
思いがけないほどの金額にグラースタは短くない時間言葉を詰まらせた。少しの時間を置いて、グラースタが半ば無意識のうちに確認する。
「……年金を受け取れるのはいかほどの期間……?」
「五〇年でどうでしょうか?」
その回答にグラースタは考え込んだが、それもわずかのことだった。
「ミデはこの一〇〇年コナハトに貢献してきたのですから、年金も一〇〇年支払われるべきでは?」
「コナハトがミデを支配したのは八七年。一三年も余計ですわ」
グラースタの異議にレアルトラが反論し、
「では八七年間で」
とグラースタ。もちろんそれを受け入れるレアルトラではなく――両者は年金の支給期間について丁々発止の交渉を展開。二人は言葉という剣で激しい鍔迫り合いを演じた。
「客の前だぞ、後回しにしたらどうだ」
呆れたようなシュクリスの制止も二人の耳には届かない。レアルトラとグラースタは日が暮れても交渉を続け――
「……それでは年金の支給期間は六九年と八ヶ月一七日。一年未満分の年金については月割・日割で支給ということで」
「……はい、それで異存はありません。それではここに署名を」
交渉が決着したのは夜遅く、深夜に近い時間帯だった。レアルトラもグラースタも体力を使い切った様子だが、交渉の全過程に付き合わされた七斗もまたぶっ倒れる寸前となっていた。なおシュクリスは適当なところで中座し、そのまま姿をくらませている。
……そして数日後、シュクリスとグラースタはそれぞれ帰国の途に着いた。レアルトラと七斗はクルアハンの港に赴き、ウラドとミデの船が出港するのを見送る。二隻の船は見る間に遠ざかり、水平線の彼方へと去っていった。
「……これで東側の国境も安定しますよね」
「ええ、わたしもそれを願って止みません」
七斗の呟きにレアルトラが心から頷く。やがて二人は海に背を向け、クルアハン城へと戻っていった。王城に帰ってきた二人を待っていたのは――
「王女殿下、こちらの書類に裁可を」
「スラの土地所有権について、王女殿下のご判断がいただきたいと」
「コングの裁判の件で将軍からご相談が」
「ラベインに送り込んだ徴税官が不正を行っているという告発が」
処理すべき書類が山塊となり、対応すべき案件が洪水となり、解決するべき問題が土砂崩れとなって押し寄せていた。書類を抱えた文官の長い長い行列は建物の外まで続いている。レアルトラは腕まくりをし、書類の山を崩しにかかった。七斗もまたため息を一つついて黙々と算盤を弾き、その横では力尽きたアルデイリムが机に突っ伏してほんの一時の仮眠を貪っている。
――コナハトがモイ=トゥラを奪還したことによりあらゆる問題が解決し、万事めでたしめでたし、大団円……となったかと言えば決してそうではない。もちろん国の存亡に関わる重大な問題の多くは解消されたが、その代わりに比較的小さい、だがゆるがせにできない問題が旅団規模で押し寄せているのだ。
今のコナハトにとって最大の問題は「人手不足」「人材不足」だった。他のあらゆる問題もつまるところはそこに行き着く。少し考えれば判ることだが――人口がたった三百万のコナハトが四千万のモイ=トゥラを征服したのだ。しかも旧来の支配者であるムーマ人・鉄杖党を一人残らず排除している。……まともな統治が果たして可能だろうか?
もちろんレアルトラもジェイラナッハも、モイ=トゥラをどのように統治するか、常々思案を巡らせてきた。その下の大臣も文官も、具体的な計画をいくつも立案し検討し準備してきたのだ。
「いつか必ずモイ=トゥラを奪還する、これらの計画は間違いなく必要となる」
と、その日がやってくることを信じて。
そして今年、彼等の夢にまで見た日がついに現実のものとなった。だがそれと同時に「モイ=トゥラ統治の現実」にも直面することになったのだ。税が集まらない、誰も税を納めに来ない、集めようにも役人がいない、誰にどれだけ課税していいか判らない、どこの村に何の誰兵衛という者が住んでいるのかも判らない――この、悪夢のような現実に。
ムーマのモイ=トゥラ総督府が所有していた土地台帳・課税台帳はナハルが死力を尽くしたおかげでその大半を確保できたが全てではないし、そもそも書類だけあっても何にもならない。事に当たろうにもまず役人・文官の数が絶対的に足りないのだ。かつての、国も宮廷も困窮を極めていたコナハトが役人の余剰人員を保持するできるはずもなく、文官の数をぎりぎりまで絞っていたところにこの事態である。実務経験を積んだ、あるいは能力の高い文官を急激に増やす、そんなに都合のいい方法があるわけもなく……他国なら貴族階級という文官のプールが存在するが、コナハトにはそれすらもない。
百年前のモイ=トゥラにおいて地方統治の実務を担うのは領主貴族だったが、コナハトの貴族階級はムーマとの戦いによってほぼ絶滅している。貴族階級が再編成されたコナハトの武家は地方統治の他、様々な政治のノウハウをできる限り継承してきたが、失伝してしまったものも少なくない。それに何より、百年という時間は長すぎた。ノウハウの継承と言っても実地を伴わない、畳の上の水練でしかない。それで得られるのは「やってないよりはマシ」という程度の、非常に頼りない文官だけ。さらにはその程度の者ですら今のコナハトでは貴重な即戦力扱いである。彼等は代官として地方に派遣され、今すぐに実務に当たることを余儀なくされていた。
レアルトラもこの非常事態を何とか乗り越えるべく、人材獲得に多くの力を割いている。モイ=トゥラ各地の村長や名主はもちろんのこと、他国から戻ってきた者で商家に勤めていた者、行商程度だろうと自分で商売をしていた者、魔道士だった者、魔道士になれなくとも勉強の経験がある者、あるいは傭兵団を経営していた者まで、とにかく少しでも目端が利きそうなら片っ端から捕まえて有無を言わさず役人に仕立てて、地方に送り込んでいるのだ。こんなやり方で何の問題も起きないはずもなく、当然問題が頻発してむしろ仕事を増やしているのではないかと疑われるくらいなのだが、ともかく今は人手が足りなかった。
「コナハトでは字が読めれば、足し算と引き算ができれば役人になれる」
と他国で揶揄されるようになるのは後のことだが、この時期に限って言えばそれはほとんど誇張のない、事実そのままの言葉だった。メイドでも文字が書けて計算ができれば文官の応援に駆り出されているので、フリーニャがさらにその応援でレアルトラの侍女をやっていたのである。
はっきり言えば、今のコナハトは国家としての体を成していなかった。ようやく取り戻したモイ=トゥラはまるで乾いた砂のようで、少しでも握る手を緩めたなら全ては掌から滑り落ちてしまうだろう。ムーマに圧勝したことでレアルトラのカリスマと指導力が絶頂を極めていて、誰もレアルトラに逆らおうとは思わないので一応国らしく振る舞えるだけである。
「今はともかく内政を固めなければ……ウラドには飴を与えたので当分大人しくしているでしょうし、ミデを構っている余裕もありません」
レアルトラはウラドと戦争になった場合に「負けるかもしれない」と怖れていたし、そもそも今のコナハトは戦争などできる状態ではなかった。だからこそウラドにはミデを与え、動く理由をなくしたのだ。
「公爵の様子が少し気がかりですが、あの男が理にも利にも外れた選択をすることはないでしょうし」
完全に警戒を解除したわけではないが、レアルトラはグラースタに対する警戒レベルを数段階落としていた。
「正直言って断腸の思いですが……今のわたし達にとってムーマは荷物でしかありません」
そして、せっかく征服したムーマも今のコナハトでは維持することは叶わなかった。カティル=コン=ロイを陥落させたジェイラナッハにもレアルトラは速やかな帰国を命じている。
『宿願だったモイ=トゥラ奪還もムーマ滅亡も成し遂げられ、最早思い残すことは何もありませぬ。それがしはどこか気候の良いところに小さな荘園をいただき、陛下の菩提を弔って余生を過ごしたいと思っております』
というジェイラナッハの引退の申し出を、レアルトラは〇・一秒で却下した。
『世迷い言を聞いている暇はありません。ムーマの抑えにイフラーンと一〇万を残し、ともかく一日でも早くクルアハンに戻ってくるのです』
ジェイラナッハが代理に指名したアルデイリムはあらゆる仕事を押し付けられて過労死しないのが不思議なくらいの状況だ。ジェイラナッハもそうだがその麾下の将軍達も、今のレアルトラの目には「文官の代わりができる貴重な人材」としか映っていなかった。
通信魔法越しにもレアルトラがテンパっている様子が伝わってきて、ジェイラナッハは密かに冷や汗を流している。
『それではムーマの統治はどのように?』
『ムーマ国王としてティティムを即位させます。それに、ディーヴァスという男がいたでしょう、あの者を王国宰相としなさい』
ディーヴァスはムーマ貴族の生き残りである。百年近く前、ムーマの貴族階級はブレスによって滅ぼされたが、根絶やしとなったわけではない。庶民に混じり、身を潜めるようにしてこの百年生きてきたが、彼等は「自分達が当然持っているべき権利」を取り戻す機会をずっと窺ってたのだ――そしてコナハト軍の襲来こそがそれだった。
ムーマ貴族の生き残り達はコナハト軍の侵攻に合わせて決起。反乱軍を指揮し、鉄杖党員を拘束し、各町や都市を掌握し、コナハト軍に協力を申し出てきた。コナハト軍とジェイラナッハも彼等を便利に使ってきたわけだが、ディーヴァスはそのようなムーマ貴族の代表格である。
「あの男をか……」
とジェイラナッハは渋い顔をする。レアルトラとは違いディーヴァスの実物を知っているジェイラナッハからすれば、彼は到底信用に値しない人物だった。だが能力や貴族としての格からすれば他に適当な者がいないことも確かだし、
「まあええわい。あの男がムーマをどうしようと構いはせんわ」
コナハトに敵対さえしないのならディーヴァスがムーマで何をしようと、ジェイラナッハにとってはどうでもいい話だった。
こうして、ジェイラナッハは五〇万のコナハト軍を率いて帰国の途に着き、戦争は終わり、ムーマはムーマ人の手に戻った――と言えなくもなかった。その実情は、コナハト軍一〇万がムーマ国内に残ったままで、その駐留経費は全てムーマの負担。ブリ=ルリ山脈やリーグ山脈の多くの地域をコナハトに併呑され、主要な港をいくつもコナハトへと割譲されている。
何より、一歳半の国王はレアルトラの手の中だった。レアルトラがクルアハンでティティムの即位を宣言し、ディーヴァス達ティティムの廷臣は空っぽの玉座に向かって忠誠を誓ったのである。その空虚な有様は今のムーマを何よりも端的に象徴するものだった。




