第四四話「モイ=トゥラ奪還」その2
一方、大陸北部のベン=バルベン。時は始祖暦二五〇二年バルティナの月(第七月)、この地にゲアルヘームが逃げ込んでから既に四ヶ月が経過している。
ベン=バルベンの町の外では新兵に対する訓練が施されている。町の大通りを行進するのは何千もの兵士だ。町を闊歩する兵の姿に、ある市民は不安そうな目を、ある市民は不満そうな目を向けている。
町の中心のベン=バルベン城。城内のさらに中心のその一室では、ゲアルヘームが昼食の時間を過ごしているところだった。巨大なテーブルに山海の珍味が並べられている。ゲアルヘームはそれに少しずつ手をつけ、美酒で喉を潤し、満腹となる。テーブルの上の料理は大半が残され、それはゴミとして処分されていた。
執務室に戻ったゲアルヘームが仕事に取りかかる。財務官の一人が彼の前へと進み出た。
「兵に俸給を支払う予算が足りません。これ対し、他の削れる予算を削って……」
その報告を、ゲアルヘームは拳を机に叩き付けて遮った。
「この戦いを何だと思っているのだ! 我々は死力を尽くし、祖国ムーマを水ネズミ共から守らねばならんのだぞ! 俸給など支払う必要があるか!」
財務官は「で、ですが」と抗弁した。
「兵士の多くは他に仕事を持っていた、普通の市民です。それを無理矢理集めたのですから、せめて俸給くらい支払わなければ家族を養うことも」
「家族がいるなら支え合えばいい、それこそがムーマ人のあるべき姿だ!」
その財務官はなおも翻意を求めるが、ゲアルヘームの意志が変わることはなかった。
「財源が足りないなら増税すればいい。それでも足りなければ商人から調達せよ」
ゲアルヘームはそう命じて財務官を執務室から追い出してしまう。その後も何人かの官僚がゲアルヘームに報告し、命令を受けるが、ゲアルヘームは一事が万事この調子だった。
その後、夕方と言うにはかなり早い時間。ゲアルヘームは早々に執務を終えてしまう。城内の私室へと戻ってきた彼の下に、この町で雇った家令が接近してきた。
「旦那様、今日はどの者になさいますか」
「うむ、そうだな」
と少し悩むゲアルヘーム。家令の背後には何人もの若く美しい女が並んでいる。
――ゲアルヘームの振る舞いはまるで王様のようであり、ベン=バルベンはゲアルヘームの王国であるかのようだった。四ヶ月前、ベン=バルベンまで逃れたゲアルヘームは「モイ=トゥラ駐留軍総司令官」という役職を使ってまずベン=バルベンのムーマ軍を掌握した。確かにその役職は地位の高さではムーマ軍全体の中でも五指に入るが、その権限はこの町に及ぶものではない――そのはずである。だがゲアルヘームはごく当たり前のようにベン=バルベンのムーマ軍に命令を下し、命令を受けた側は首を傾げながらもそれに従った。最初のうちは疑問に思っていたことでも連日続けばそれが当たり前となる。ゲアルヘームはそうした錯覚や思い込みを利用するだけでなく、人脈や甘言や脅迫を縦横に駆使し、本来自分のものではない権力を手中に収めたのだ。これ以降、ベン=バルベンのムーマ軍は「ゲアルヘーム軍」の通称で呼ばれるようになる。
さらにゲアルヘームは「今は非常時である、コナハト軍の侵攻に備えなければならない」と軍指揮権だけでなくベン=バルベンの行政権も奪取。敵対者は武力をもって沈黙させた。ベン=バルベンの支配者となったゲアルヘームは軍を整えてコナハト軍に備える一方、贅沢三昧、放蕩三昧の毎日を送り、心ある人々の眉を顰めさせている。
これに対し、ムーマ本国が何もしなかったわけではない。
「何をしているのだ、あの男は!」
その中でも宰相バイル=エアガルはゲアルヘームに対する怒りを最も募らせていた一人だった。
「総司令官でありながらガランラハンで真っ先に逃げ出し、その後もコナハト軍から逃げ続けてモイ=トゥラの指揮系統を滅茶苦茶にし、ベン=バルベンに逃げ込んで彼の地でほしいがままに、まるで国王のように振る舞うとは……! どれ一つとっても死を免れることはできんぞ!」
バイル=エアガルはゲアルヘームの召喚を命じる。だが、
「現在、リーグ山脈をコナハト軍が占拠しており、王都への帰還は不可能。ご容赦あれ」
ゲアルヘームはそれを口実に王都への帰還を拒絶した。バイル=エアガルがゲアルヘームの全権限停止と身柄の拘束をベン=バルベンの鉄杖党評議会に命令しても、他ならぬゲアルヘームの手によって握り潰されるだけ。王都から使者を派遣しようとしてもリーグ山脈のコナハト軍に行く手を阻まれ、ベン=バルベンへと入ることは叶わない。
「くそっ、あの連中はゲアルヘームを守っているのかっ」
バイル=エアガルの罵声はリーグ山脈のコナハト軍へも向けられた。リーグ山脈にイフラーンの率いるコナハト軍が拠点を置いたのも四ヶ月前。イフラーン軍はモイ=トゥラやムーマ本国からコナハト人を集め、その兵数は今や一〇万に届こうとしている。その兵数でイフラーンがしているのは、ムーマの西側とベン=バルベンの分断だった。ムーマの西側からベン=バルベンに入ろうとするムーマ人は見つけ次第捕まえ、串刺しに処している。イフラーンは港を占拠し水軍を整備し、陸路だけでなく海路も封鎖しているが、やはり陸路ほどには完璧な封鎖とはならなかった。
イフラーン軍は一〇万人分の兵糧を近場から調達していた――要するに略奪である。リーグ山脈の西の麓の村や町は一つ一つ順番に略奪の対象となった。ムーマ人の決死の抵抗もイフラーン軍からすれば蟷螂の斧でしかない。食糧や金品は根こそぎ奪われ、逃げ遅れたムーマ人は殺されるか奴隷となるかの二者択一。無数の村や町が焦土と化し、何十万という難民が発生した。
国土のど真ん中に入り込んで動こうとしないイフラーン軍はバイル=エアガルにとって目障りどころの話ではなかった。腹に銃剣を突き刺されたようなものである。
「いつまで水ネズミ共を野放しにしている! イフラーン軍を叩き潰せ!」
バイル=エアガルは当然軍にそれを命じるのだが、事はそう簡単には運ばなかった。イフラーン軍は確かに脅威だが、ジェイラナッハ率いるコナハト軍四〇万がムーマ本国に日一日と接近しているのだ。ムーマはその両者に備えなければならないのだが……これまでムーマ軍の末端で戦ってきたコナハト人が、一人残らず敵に回っている。ムーマ軍はまず兵士を集めるところから始めなければならなかった。
ムーマ人の難民はリーグ山脈だけから発生しているわけではない。その何倍もの数の難民が南から、モイ=トゥラから流れ込んでいた。モイ=トゥラを侵攻するコナハト軍の暴虐は止まるところを知らず、モイ=トゥラ駐留軍も各個撃破され、次々と殲滅されている。何とか生き残っているムーマ軍も、市民より先に本国を目指して逃げ続けているような有様だ。モイ=トゥラの維持はもう不可能――今さらながら、ようやく全てのムーマ人がそれを理解し、モイ=トゥラを逃げ出し本国へと向かっている。難民の数は合計で百万を優に超え、まだまだ増え続けていた。難民の流入は際限も終わりもないかのようだった。
ムーマの人口は五三〇〇万――だがそれはモイ=トゥラに住む四〇〇〇万のコナハト系を含めてのことであり、既に過去の話だった。モイ=トゥラを除くムーマ本国の人口は一千万でしかなく、そこに百万を超える難民が流れ込んでいるのだ。ムーマがいくら豊かな国であろうとそれだけの難民を受け入れられはずもなく、ムーマ本国の社会は止めようもない速度で破綻へと向かっていた。
「難民から兵を集めよ! あの連中をコナハトと戦わせるのだ!」
バイル=エアガルのその命令は即座に実行に移された。「兵数の不足と難民問題の両方を解決する、一石二鳥の名案」とバイル=エアガルは自賛する――誰でも思いつくことだし、他に選択の余地があるわけでもないのだが。
そうやって難民から集めた兵は一〇万に達した。彼等は総じて「コナハトへの復讐」に燃え、戦意も高いのだが、コナハト軍と戦うにはまだまだ不足である。ムーマ軍は兵士を集めるのにあらゆる手段を講じた。町には兵士を募集する公告が貼り出され、ムーマ中の町や村に人口に応じた兵士の供出が命じられる。それで何とか申し訳程度の頭数だけは揃いつつあった……だが今モイ=トゥラを蹂躙しているコナハト軍と比べれば何分の一でしかない。さらに言えば、
「……俺、戦争なんて一度もやったことがないのに」
「俺だってそうだよ。戦場に出たことがある奴なんて、この中にいるのか?」
「大体、何で俺達が鉄杖党の奴等のために生命を懸けて戦わなくちゃいけないんだよ」
「あの連中がモイ=トゥラで贅沢をしてコナハト人の恨みを買っただけだろ。俺達には何の関係もないじゃないか」
「コナハト軍は鉄杖党以外には何もしないって言ってるぜ」
「でも鉄杖党のために戦うやつは鉄杖党と同じと見なす、殺すか奴隷にするって」
「……冗談じゃないぞ」
集められたムーマ兵は新兵ばかり、その戦意は総じて非常に低かった。彼等は寄ると触ると「いつ、どこで、どうやって脱走するか」その相談ばかりしている。モイ=トゥラの難民から募られた兵士とムーマ本国で集められた兵士との間には埋めようもない溝が横たわり、それは広がりこそすれわずかも狭まりはしなかった。
自軍のこの惨状はムーマ軍幹部も、バイル=エアガルもある程度は把握している。彼等はその対策に頭を痛めているが、効果的な解決策が出てくるはずもなかった。
「……どうするのだ、一体。このままコナハト軍を迎え撃つのか」
バイル=エアガルの問いに将軍達は途方に暮れたような顔を突き合わせる。バイル=エアガルは苛立ちのあまり机を蹴り倒したい衝動に駆られたが何とかそれを我慢した。かなりの時間を経て、ようやく将軍の一人が提案する。
「……ともかく、我が軍だけでは数が足りません。ゲアルヘーム軍を動かす必要があります」
「あの男をか?」
バイル=エアガルの確認にその将軍が頷いた。
「ゲアルヘームはかなり強引なやり方をしていますが既に数万の兵を集めているそうです。彼の軍を動かし、少なくともイフラーン軍くらいは相手をしてもらわなければ」
確かにそうだ、とその場の面々が頷く。だがバイル=エアガルは渋い顔だった。
「だが、ガランラハンでもモイ=トゥラでもあの男は大口を叩いて実際には真っ先に逃げ出すだけだった。あの男が役に立つのか?」
「役に立たせなければなりません、あんな男でも」
その将軍は力強く進言する。
「我が国は存亡の危機にあります。使えるものは何であろうと使わねばこの危機を切り抜けることはできないでしょう」
それでも渋るバイル=エアガルだが、他に良策があるわけではない。結局その進言を容れ、ゲアルヘーム軍に祖国防衛の一翼を担わせることとなった。
「ゲアルヘームにベン=バルベンのムーマ軍の総指揮を委ねる。ベン=バルベンのムーマ軍はリーグ山脈を不法占拠するコナハト軍を排除し、王都軍に合流せよ」
通信魔法によりその命令を受けたゲアルヘームは、
「謹んで拝命する。ベン=バルベンのゲアルヘーム軍は王太子殿下の先陣となって水ネズミ共を撃滅しましょう」
と返信し、バイル=エアガルを安堵させた。……だが、ゲアルヘームがしたのはそれだけである。兵には動員を掛け、いつでも動かせる状態にしているが、それも全軍ではなく一部だけ。さらにその一部も町に止まったままで動こうとしない。
「将軍、王都からの命令は……」
と不安げな部下に訊ねられてもゲアルヘームは悠然としたままだった。
「水ネズミ共など恐るるに足らん……だがとにかく奴等は数が多い。今の兵数でリーグ山脈に攻め込んでも勝てるとは限らん。今は必勝を期するまで忍耐するべきなのだ」
ゲアルヘームは王都に対しては「兵を動員した、間もなく移動を開始する」等と適当なことを言ってごまかし、実際には軍の温存に努めていた。ゲアルヘームのこの動きの鈍さはバイル=エアガルをさらに苛立たせる――だが彼にはそれ以上何もできない。
また、敵前逃亡したゲアルヘームを宰相バイル=エアガルが結果として許した、その事実はある副次的効果を全軍にもたらしていた。
「何故我が息子だけが処罰されなければならない! ゲアルヘームは許されているではないか!」
王都の憲兵総局には鉄杖党の有力幹部が大勢押しかけている。当局の担当官はその対応に頭を抱えていた。
ゲアルヘームの敵前逃亡以降、それを見習ったモイ=トゥラ駐留軍幹部の多くがもっともらしい理由をでっち上げてムーマ本国へと逃げ戻っていた。激怒したバイル=エアガルが憲兵に命じて彼等を拘留させていたのだが……その連中の縁者が身内の釈放を求めているのだ。
「ゲアルヘームは許されているではないか」
彼等はそう口を揃え、当局は何も言い返せない。報告を受けたバイル=エアガルも頭痛を禁じ得なかった。だが、ゲアルヘームを許してその下の軍幹部を許さないのは確かに筋が通らない。迷い、悩んだバイル=エアガルは一つの理屈をひねり出す。
「……ゲアルヘームを許したのは対コナハト戦の最前線に立たせるためだ。お前達もそれに倣うというのなら釈放を認めるもやぶさかではない」
こうして、敵前逃亡した多数の軍幹部が現場に復帰した。モイ=トゥラにいた頃と比較すれば階級はかなり下がり、配属先は最前線、それも実戦部隊の指揮官だ。それでも「牢獄よりはマシ」とほとんどの者が判断したのだが……受け入れる側の方はそうもいかなかった。
「何であんな連中を……」
この連中に指揮されるのは多くの場合、非党員の普通の市民・庶民だ。彼等一般の兵は自分を指揮するのがどんな連中なのかを知っている。この連中がモイ=トゥラでこれまでコナハト人に対して何をしてきたのかを知っている。戦争の原因が誰にあるのかを知っている。戦争が始まったときにこの連中がどうしたのかを知っている。どうしてこの連中がここにいるのかを知っている。
「これはあれだ、俺達も隊長様を見習えばいいってことだろう」
一般の兵はそう冗談を言って笑い合う――それは嘲笑と呼ばれる嗤いであり、彼等の逃げる決意はより一層確固たるものとなっていた。
モイ=トゥラを進軍するコナハト軍は四〇万。リーグ山脈を占拠するイフラーン軍の一〇万と合わせれば総数は五〇万を超え、その上各地の反乱軍や義勇軍を吸収し、その数は増え続けている。これに対してムーマ軍の総数は、ベン=バルベンのゲアルヘーム軍を含めても二四万程度でしかない。挙げ句にその多くは実戦経験のない素人の兵士であり、とどめにそれを指揮するのは敵前逃亡に対する懲罰で前線に送られた指揮官なのである。
バイル=エアガルもこの無残な有様を何とか打開するべく、少しでも改善するべく、思いつく限りのあらゆる手段を講じていた。
「祖国ムーマは今、滅亡の危機に瀕している! コナハトがムーマを征服すればムーマ人は一人残らず奴隷にさせられるのは疑いない! この危機を救えるのは祖国ムーマを愛する諸君だけなのだ!」
バイル=エアガルは愛国心に訴える檄文を発し、何千という役人に国内のあらゆる場所でそれを読み上げさせ、市民に祖国防衛の協力を求めた。……だが市民・庶民は白けた顔を見せ、肩をすくめてこのように言い捨てるだけだった。
「コナハトが恨んでいるのは鉄杖党だけだろう? 俺達には関係ないじゃないか」
――もしブレスの時代にムーマがこの事態を迎えていたなら、ブレスが祖国防衛への協力を訴えたなら、多数の庶民がコナハトと戦うために立ち上がったことだろう。ブレスの時代のムーマは魔道士なら誰でも鉄杖党に入れたし、魔道士でなくても能力さえあれば出世する機会はいくらでもあったのだから。だがブレスの死後以降、鉄杖党は変質した。ブレスは能力至上主義を掲げてムーマ貴族を国政から排除したのに、その鉄杖党が縁故主義・血統主義に堕してしまい、新たな貴族階級となったのだ。どれだけ力のある魔道士だろうと、どれだけ能力があろうと、鉄杖党員かその家族でなければ出世は叶わず、国政に関わることができない。ムーマの庶民にとってムーマとコナハトとの因縁など自分には全く関係のない、余所の世界の話だった。モイ=トゥラに対する過酷な搾取でムーマの庶民も大きな恩恵を受けてはいたが、彼等にしてみれば、
「確かにおこぼれに与っていたかもしれないけどたかの知れた話し、第一俺達が頼んだわけじゃない」
というところだった。それなのに、
「今は祖国の危機なのだ、一緒に戦おう!」
とその危機の元凶が馴れ馴れしく肩を抱くような真似をしたなら、誰だって白けた顔をするのは当然である。鉄杖党員と非党員、ムーマ本国とモイ=トゥラ――いくつもの区分けで分断されたムーマは結局一つにまとまることのないまま、未曾有の危機を迎えようとしていたのである。
その一方、コナハト軍では、
「ムーマ人を殺すなって、どういうことですか!」
進軍中のコナハト軍の陣地。兵士の何人かが百人隊長に噛みついていて、その隊長は威厳ある態度をもって彼等に答えた。
「姫様が言っておられるのは『罪なきムーマ人には危害を加えるな』ということだ。『導く者』は『罰を与えるのは実行した者と命令した者だけ』と言っておられる」
「そんな……」
兵士達は口惜しさに歯噛みをした。
「俺の母親はちょっとムーマ人に口答えをしただけで鞭打ちにあって、血まみれになって死んでいったのに……」
「俺の弟はムーマ人の家から残飯を盗んだのが見つかって、番犬をけしかけられて噛み殺されたんだ」
兵士達は悔し涙を流している。隊長は「その気持ちはよく判る」とばかりに深々と頷いた。
「お前達の家族を殺した者、その命令をした者、そいつ等を許せとは誰も言っていない。断種の上で奴隷とするよう姫様もご命令を下されている」
「でも、他のムーマ人だって同罪じゃないか!」
「そいつ等だって皆殺しにしてやればいい! どうしてそいつ等を見逃さなきゃ――」
隊長が「愚か者!」と一喝、兵士達は思わず首をすくめた。
「姫様がムーマの占領地に侵入して『導く者』を召喚したとき、率いていた二万の兵が一万になったのだぞ。『導く者』はムーマの刺客に襲われて足を奪われながらも、邪悪魔法を封じる術を作り出してくれたのだ。姫様と『導く者』がおられなければ我等全員、今頃餓え死にしていたのは間違いない。そのお二人にお前達は逆らうのか?」
兵士達は気まずげに顔を俯かせている。その中の誰かの「でも……」という呟きが聞こえた。隊長は兵士達へと微笑みを向ける。
「お前達に直接何もしていない、鉄杖党でないムーマ人が這いつくばって許しを請うなら、そいつ等くらいは見逃してやれ、と言っているのだ。もちろん鉄杖党員は誰一人として許さんし、刃向かう者を生かしておく必要もない。立ち塞がる敵は殺すか、捕虜にして奴隷にする」
「わざわざ奴隷にしなくても……全員まとめてぶっ殺してやれば」
兵士の一人の言葉に、その隊長は「考えが浅い」とばかりに酷薄な笑みを見せた。
「所詮死など一瞬の苦しみに過ぎん。生命があるからこそ長く苦しめることができるのだろうが。我々がこの百年味わってきた苦痛……万分の一でも理解してもらわねばな」
隊長の言葉が兵士達の脳に浸透する。兵士達は無言のままだがそこに不満の色はない。彼等は強く頷いてその指針に明確な同意を示していた。
――ムーマやムーマ人が分断や断絶を抱えている一方、コナハトは一つだった。コナハト軍の兵士達は「自分達は同じコナハト人だ」という一体感を共有している。彼等には全員「コナハト人である」という、ただそれだけの理由であらゆる辛酸を味わった過去がある。それはモイ=トゥラに住む者も流刑地まで逃げていった者も等しく変わりはない。ムーマによる苛政と暴虐の百年はコナハトに一種のナショナリズムをもたらしていたのだ。
ムーマ兵が素人ばかりな一方、コナハト兵には戦い慣れた者が大勢いる――大半の者がムーマ軍に属して経験を積んできたという事実は、皮肉という他ないだろう。ムーマ軍の半数には戦意が欠けている一方、コナハト兵は一人残らずムーマへの復讐に燃えている。ムーマ軍は幹部や実戦部隊指揮官の質や規律に不安を抱える一方、コナハト軍の幹部は過酷な戦いを生き延びてきた猛者ばかりだ。それになにより、コナハト軍の方が圧倒的に数が多い。
バイル=エアガルが戦争の先行きを思い煩い、不安や恐怖に押し潰されそうになっている一方、ジェイラナッハは自軍の勝利を揺るぎなく確信していた。それでもジェイラナッハは油断することなく、着実な前進を続けている。
「陛下、姫様……それがしはようやくここまで来ましたぞ」
ジェイラナッハは地平線の果てに見える山々の峰を見つめ、静かに涙を流していた。緑の頂が連なるその山こそブリ=ルリ山脈である。そここそがモイ=トゥラの北限、その先こそがムーマ本国だ。クルアハンを出立して五ヶ月目の、始祖暦二五〇二年メルヒィーヴの月(第八月)、その下旬。コナハト軍はついにモイ=トゥラ全土の奪還を果たした――だがそれはジェイラナッハにとっては通過点でしかない。
ジェイラナッハはブリ=ルリ山脈の北側の麓で全軍を再編成する。四〇万でクルアハンを出立し、北上しながら各地で蜂起した反乱軍・義勇軍を吸入し続けて五ヶ月間。この時点でジェイラナッハの麾下に集結したコナハト軍は総数五〇万を超えていた。そして翌月、始祖暦二五〇二年イウールの月(第九月)、その月初。コナハト軍はブリ=ルリ山脈を踏み越えて、ついにムーマ本国へと侵入した。リーグ山脈に依拠するイフラーンの一〇万と合わせればその総兵数は六〇万。その想像を絶する大軍が南と東からムーマ本国へとなだれ込んだのだ。
さらにはほぼ同時期。コナハト軍とタイミングを合わせたラギン軍が東から、シュネクタ山脈を越えてベン=バルベンへと侵攻を開始。ラギン軍一〇万を率いているのはラギン王太子ブライムであり、さらにはラギン軍は一〇〇台のオルゴールを装備している。
始祖暦二五〇二年イウールの月、ムーマは最期の刻を数えていた。




