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水の国へ愛をこめて  作者: 亜蒼行
紅蓮篇
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第四二話「ブレス城の最後」




 始祖暦二五〇二年フェアブラの月(第四月)が中旬に入る頃、一人のコナハト商人がクルアハンを訪れた。背は低く、身体は骸骨のように痩せ細っている。年齢は五〇過ぎだが、一見でそれが判る者はほとんどいないだろう。深く刻み込まれた皺は彼の見た目の年齢を軽く一〇歳上方修正させている。よほど苦労をしたのか、常に渋面を作っていて、それが素顔になってしまったかのようだった。

 彼の名はシーナハ。彼が扱ってきたのはコナハトが有する唯一の売れる商品――つまり、人間。特に女を他国に売って財を成してきた人間である。要するに奴隷商人であり、女衒だ。

 シーナハがクルアハンにやってきたのはレアルトラに呼び出されたからだった。クルアハン郊外のレアルトラの行宮、そこに到着した彼は近衛兵に両脇を挟まれ、連行されるように行宮内を案内された。だがシーナハには逃げる気などない。ここまで来て逃げるくらいなら召喚の時点で姿をくらませているだろう。


「一体どういうつもりなのか見当も付かんが……あるいは儂のこれまでの商売について罪を鳴らすつもりなのか」


 シーナハは隠し持っている毒薬を握りしめた。


「儂をムーマ人と同じように処刑するつもりならこれを呑むまで。その上で王家や武家が儂からどれだけの金を搾り取ってきたか、それを恥知らず共に教えてやる」


 シーナハは内心でレアルトラに対する闘志をかき立てていた。そしてシーナハが玉座の間に到着する。左右に近衛兵を従え、玉座に着席するレアルトラに対し、シーナハはまずは床に平伏した。シーナハは商人らしい卑屈な挨拶をする。


「王女殿下にはご機嫌麗しく……私めのような下賤な商人に一体どのような御用がおありなのでしょうか?」


「顔を上げてください、シーナハ。今日あなたに来てもらったのは他でもありません。あなたの力をお借りするためです」


 シーナハはぽかんとして「私めの?」と問い返し、レアルトラが頷いた。


「処断するために私めをここに呼んだわけでは……」 


 その確認にレアルトラは深いため息をついた。


「確かにあなたの商売は褒められたものではありませんが……コナハトがそれで食いつないできたこともまた事実、それはこのわたし自身も例外ではありません。それを忘れてあなた一人に罪を着せるような恥知らずと、わたしのことを見ていたのでしょうか?」


「いえ、まさか!」


 とシーナハは床に額を擦りつけ、レアルトラは「まあ、よろしいでしょう」と寛容な姿勢を見せた。


「それで、私めは何をすれば?」


「これまであなたや他の商人が各国に売りさばいたコナハト人、特に女を我が国に取り戻します」


 シーナハは「それは……」とだけ言ってしばし絶句した。ある程度の時間を置いてシーナハが確認する。


「……例えばウラドの娼館で春をひさいでいるコナハト女。彼女達は娼館にとっては大切な商売道具です。これをどうやって取り戻すおつもりですか? 金で買い戻すのですか? それとも力尽くで」


「これと交換で、と考えているのですが、どうでしょうか?」


 レアルトラの合図で近衛兵が機敏に動き出した。衝立をどかし、扉を開け放ってシーナハに外を見せる。行宮の中庭にいたのは、鎖でつながれた何十人もの女――全員若く、見栄えは良さそうだ。だが揃って身にしているのはズタ袋と大差ないボロ服で、泥に汚れ、憔悴しきっている。何より彼女達の額には焼き印が押されていた。刻み込まれているのは「d」という文字――「奴隷(daor)」の頭文字だ。

 ふむ、と抜け目ない商人の目となってそのムーマ人の奴隷を値踏みするシーナハ。レアルトラもまたやり手の商人のような笑顔を見せた。


「ここにあるのはクルアハンとその周辺から調達した、特に高く売れそうな者達です。交換用の奴隷は百万でも二百万でも用意させます。数が足りなければムーマ本国からも調達しますわ」


「確かに、採算やら市場価値やらを度外視し、とにかくコナハト女を取り返すことだけを考えるなら交換用の奴隷はどれだけ用意しても多すぎることはないでしょう」


 それでは、と顔を輝かせるレアルトラに対し、シーナハは満腔の敬意をもって礼を取った。


「私めは四〇年近くをコナハト女を他国に売って飯を食ってきました。自分の人生に悔いがあるわけではありませんが……それでも、積み重ねた罪の万分の一でも償えるなら、私めは残された時間の全てをこの事業に懸けましょう」


「よろしくお願いします。わたしも支援は惜しみません」


 レアルトラとシーナハの視線が握手のように固く結び合う。苦界に墜ちた同胞を救い出さんとする、それは非常に尊く、美しい光景だった――コナハト女の代わりに地獄に墜ちるムーマ人の少女達を視界から外しさえすれば。だが今、その少女達に同情し、彼女達の境遇に思いを至らせる人間はただの一人もいない。


「他に方法はないだろうし、仕方ないかな」


 七斗ですらその一言で片付け、反対しなかったのだ。仮に七斗が反対し、もしレアルトラがそれを受け入れたなら、その少女達は拷問の上で殺されるだけである。たとえ奴隷に堕とされようとムーマ人の少女達が殺されずに済み、その上多くのコナハト女が苦界から救われるのなら、七斗にとってそれは損のない取引だった。

 奴隷の交換はシーナハだけではなく多数の奴隷商人が参加し、コナハトの一大国家事業として推進されることとなる。ウラドやラギンに売られたコナハト女やコナハト人の奴隷――百年分のその総数はおそらく一千万を超えるだろうが、もちろんそのほとんどは既に死んでいる。また、今生きているコナハト人の娼婦や奴隷のうちでも帰国を望まなかった者の数はそれなりの多数に上った。

 身請けをしてもらい今は温かな家庭を築いているコナハト女、主人に認められてそれなりの立場を手にした元奴隷、奴隷の身分を抜け出して社会的成功を収めた者――そういう者もいないわけではないが、これらはほんの数えるほどである。大多数は貧しい奴隷や娼婦に過ぎないが――


「今楽な生活をしているわけじゃないが、それでもコナハトにいたときよりはずっとマシなんだ。今さらあの国に戻してやると言われても……」


「わたしはずっとこの町で暮らしてきたんだ。もう鍬の持ち方なんて忘れたよ」


「たとえ娼婦でもこの町なら華やかに、着飾って生きていられる。コナハトに戻って土を耕して、草を取って、肥やしに塗れて生きるなんて……」


 彼等は「今より良くなるかもしれない」と希望を抱くより「今より悪くなるかもしれない」ことを怖れ、帰国よりも今の場所で生きることを選んだのだ。レアルトラも、そんな者達まで無理に帰国させようとはしなかった。大多数の者は鉄杖党が、ムーマ人が一掃されたモイ=トゥラに帰ることを望んだのだから。

 ウラドやラギンで存命中のコナハト女やコナハト人の奴隷、そのうち帰国を望まない者を除く、最後の一人が帰ってくるまでこの事業は続けられた。この事業が完遂されるまで必要だったのは一〇年単位の時間と、何十万というムーマ人の奴隷だった。










 一方同時期のクルアハン中心、ブレス城。城内のムーマ人は籠城戦の最後の段階を迎えようとしていた。


「……ねえ、お船はいつ来るの?」


 腕の中の幼い子供の問いに母親が微笑みながら「もうすぐよ」と答える。子供は「そっか」と笑い……そのまま息を引き取った。涙の涸れ果てた母親はもう嘆く力も残っていない。


「死んだようだな。ではその子は埋葬するぞ」


 周囲の何人かの男が、その子が死ぬのを待っていたかのように母親の腕の中から子供の遺体を取り上げる。「待って」と母親が男達の足に取りすがるが、男達はそれを足蹴にするようにして母親を振り払った。

 ……数時間後、男達はブレス城の中庭に掘られた穴に何かを埋めていた。それは子供の遺体――その残骸である。頭部、骨、内臓の一部等、食えない部位だけが埋められているのだ。さらには夜になると何人かの女達がその墓穴を掘り起こし、残された部位を食い漁っていた。その女達の中には子供の母親も含まれている。まさしく「この世の地獄」としか言いようのない光景であり、その様子を窺うロルカンは目を背けていた。

 その翌日の軍司令部、ロルカンはつるし上げを食らっていた。


「一体水軍はいつ来るのだ?! もうとっくに来ている頃だろう!」


 城内を統率する将軍ドゥールがロルカンを指弾し、周囲の軍幹部がロルカンに冷え冷えとした目を向けた。ロルカンは「ようやくか。だが面倒だな」という思いをわずかに顔に覗かせた。


「北の方で天候が荒れているのなら一〇日やそこら遅れても不思議はないでしょう」


「本当に水軍は来るのか?! 本当にこの町に向かっているのか!? どうなんだ!」


 ドゥールの詰問にロルカンは困ったような顔をする。


「確かに、何かの都合で救援が中止になることもあるかもしれませんが」


「やはりそうなのだ! 救援など来ないのだ! 本国にそんな余裕があるはずもない!」


 ドゥールは好き勝手に喚いてそのまま床に座り込んだ。


「だから私は言ったのだ、籠城などするべきではないと……最初のうちに打って出るべきだったのだ……」


 ロルカンは「何を今さら」という言葉を呑み込み、代わりのことを提案する。


「それなら、私が城外に偵察に出て情報を集めます」


「何だと……?」


 ドゥールその意味を理解しかねたようにロルカンへと視線を向けた。


「死にに行くつもりか?」


「私が持ってきた情報が不確かだったため将軍は今になって迷っておられる。ならば今度こそ確かな情報を掴んでくる義務が私にはある。そうではないでしょうか」


 ドゥールはロルカンを疑わしげな目でみつめるが、それも長い時間ではなかった。ロルカンがどうなろうとドゥールにとってはどうでもいい話なのだから。


「まあいい、行ってこい」


 投げやりに言うドゥールにロルカンは一礼、その場を立ち去った。

 その夜、ブレス城を抜け出したロルカンはナハルに連れられてレアルトラの下を訪問。レアルトラに直接城内の様子を報告した。食人行為が蔓延しているという話に、


「明日のご飯も美味しく食べられますわ」


 とレアルトラはご満悦の様子である。ロルカンにできるのは忌々しげに舌打ちすることくらいだった。


「……ですが、力のある軍人だけが生き延びている状況は好ましくありませんわ。アルデイリムにも城内の資料を早く使えるようにしてほしいと督促も受けておりますし……」


 とレアルトラは指を顎に当てて小首を傾げる。ブレス城内にはモイ=トゥラ全土の土地台帳や課税台帳が揃っている。ナハルは脅迫や甘言や取引を駆使し、ムーマ人をしてこれらを破棄させないよう最大限の努力を続けていた。

 考え込んでいたレアルトラはある発案を得、花が咲くような笑みを見せた。


「城内に戻ってあと一〇日でムーマの水軍が到着すると言い広めなさい。実際に一〇日後に水軍をブレス城に接岸させますわ」


 レアルトラのその命令を受けてロルカンはブレス城に帰還。ドゥールや軍幹部が揃った場所でそれを報告した。


「あ、あと一〇日……それは本当か」


「はい、間違いなく。コナハト軍中がその噂で持ちきりとなっているようでした」


 声を振るわせるドゥールに対し、ロルカンは力強く頷いた。だが「ただし」と付け加える。


「救援にやってくるのは一〇隻だけということです」


「じゅっ……たった一〇隻だと?」


 誰かの確認にロルカンが「はい」と首肯、ざわめきがその場を包み込んだ。


「現在モイ=トゥラ中でコナハト人の蜂起が発生しており、本国もそれに備えるので精一杯とか。この町に派遣する救援も一〇隻が限度だった、ということだそうです」


「は、話が違うぞ! たった一〇隻で一体何人が脱出できる?!」


 ドゥールが聞き苦しく喚き、ロルカンだけでなく何人もが煩わしげな顔した。


「最大限詰め込んで、せいぜいが二、三千というところか……」


「残りはどうするつもりだ。この城にはまだ何万という民間人が」


「そんなもの、見捨てるしかないだろう」


 ある一人の端的な結論にその場が静まり返る。……だが否定の言葉は誰の口からも出てこなかった。


「……確かに、他に道はない」


「本国は水ネズミ共との戦いに備えなければならない。今は戦える人間が生き残るべきなのだ」


「民間人など、文句だけ達者な只飯喰らいの役立たずではないか」


 彼等はそう言って頷き合う。民間人を見捨てて自分達軍人だけが助かろうとすることに、誰も疑問を抱かない。後ろめたさは感じていても誰もがそれを当然と見なしている。


「ムーマの今後を考えるなら我々軍人が生き延びることこそ合理的な判断なのだ」


 と――それはモイ=トゥラ駐留軍総司令官ゲアルヘームが自己正当化に使った理屈とほぼ同じである。結局それはゲアルヘーム個人の問題ではなく、ムーマ軍全体の体質であり、宿痾だったのだろう。

 一方同時刻、


「たった一〇隻……それでどうやってこの人数を脱出させるんだ?」


 救援艦隊接近の噂は城内の民間人にも広がっている――ブレス城を脱出できるのは今の生き残りの、最大でも一割に満たないという事実と共に。


「軍の連中は、自分達だけ助かろうとするだろうな」


「まさか、そんなはず……」


「総司令官のゲアルヘームが何をしたか、もう忘れたのか?」


 彼等はそう囁き合い、「このままでは自分達は見捨てられる」と確信した。そこから「生き延びるためには限られた席を力尽くでも奪い取るしかない」という判断にはほんの一歩の距離しかなく――そこから「生き延びるには軍と戦うしかない」という結論までは一直線である。

 軍人の方も民間人の不気味な動きを悟って警戒し、両者が緊張する。五日後には緊張が極限に達し、衝突へと至っていた。衝突はあっと言う間に城内全域に拡大し、ムーマ人同士が壮絶な殺し合いを展開した。殺し合ったのは軍人と民間人だけではない。仲の悪い民間人同士が、軍人同士が殺し合い、さらには横暴な上官が部下に殺された。

 今城内で生き残っている人間は、ほとんど全員が最低一度は同胞の肉を口にしている。つまりそれは人殺しに対する忌避感を大幅に低減する結果につながっており……誰もが殺し合いに加わった。殺した相手の肉を喰らった。殺し合いの結果大量に生まれた肉を喰らったのか、肉を喰らうために殺したのか判然としないが――ともかく。生き残った人々は久々に腹を膨らませ、充分な栄養を取ったのである。

 そしてフェアブラの月が下旬に入る頃、ブレス城に救援艦隊が接近する。水門の上に立つ歩哨は艦隊の姿を認め、喜びの声を上げた。生き残った人々が続々とブレス城の水門に集まってくる。その数は四千を超え、五千に達していた。


「そこを退け! 私は将軍だぞ!」


 将軍ドゥールがいち早く船に乗り込むべく集まった兵を退かせようとするが、兵は動こうとしない。


「ここまで来て将軍もクソもあるか!」


 と嘲笑を浴びせるだけである。業を煮やしたドゥールは部下に命じて兵士を排除しようとし、兵士側もそれに反発する。乱闘が始まり、数少ない席を巡って最後の殺し合いが行われた。

 ……そして三、四時間後。四千のムーマ人を無理矢理詰め込んだ救援艦隊が沈没しそうになりながらも出港する。ブレス城の港に残されたのは、血まみれになった死体、それに瀕死の人々、その数は千人以上。


「……わ、私は、将軍……」


 その中には将軍ドゥールが含まれていて、彼の生命はもう間もなく尽きようとしていたが、それ気にする者は一人もいなかった。

 ブレス城を包囲していたコナハト軍が城内に侵入したのはその直後である。城内は死体に満ちあふれ、わずかに生き残った者も負傷者ばかりだ。戦闘など発生しようもなく、コナハト兵は死体の山の中から生き残った者、奴隷にできそうな者を探し出して連行していく。


「まるで落ち穂拾いだな」


 とコナハト兵の一人は苦笑していた。苦笑しながら、辛うじて生き残っていたムーマ人の一人を槍の一突きで刺殺する。そのムーマ人が高齢の上に瀕死であり、奴隷としての価値がないだろうことがその理由だった。

 こうして生き残ったムーマ人のうち約半分はその場でとどめを刺され、もう半分が奴隷として確保される。その二千のムーマ人奴隷の身柄はシーナハを始めとする奴隷商人に委ねられた。

 一方の救援艦隊は洋上を進んでいる。中には立錐の余地もないほどにムーマ人が詰め込まれていた。日本のラッシュアワーの電車を思わせる光景で、座って休むこともできないくらいである。


「……この有様のまま半月も航海するのか?」


「さすがにそれは……」


 等と兵士達が話し合っている。救援艦隊は夜になっても寄港せずに船を走らせており……つまりは船倉のムーマ人達はろくに身動きできず、休むこともままならない状態が続くということだった。季節は夏の直中で、高温が容赦なく彼等の体力を奪っていく。水分の補給もまともにできず、倒れる者が続出した。便所に行くことすら容易ではなく、多くの者が糞尿をその場に垂れ流し、船倉は悪臭で満たされる。


「もう、どこでもいいから陸に揚げてくれ」


「このまま死ぬくらいならコナハト軍に捕まった方がずっといい」


 ほとんどの者の体力が底をついた頃、彼等の願いは叶おうとしていた。ブレス城を出港して丸一日、救援艦隊はとある小さな漁村に入港する。新鮮な水と空気を求め、動けるムーマ人のほとんどが自主的に船を降り――そこで彼等を待っていたのは、二万に達するコナハト軍だった。


「武器を捨てろ! こちらの命令に従え!」


 ムーマ人はその場に崩れ落ちた。戦う前から膝を屈し、立ち上がることもできないでいる。


「は、謀られたのか……」


 コナハト軍は既にモイ=トゥラの多くを手にしている。ムーマ軍船の十やそこらを用意するのは難しくないだろう。艦隊を動かしていたのはコナハトの息のかかった、おそらくムーマ人商人だ。丸一日海を進んだのに、ブレス城の尖塔が未だ遠目に見えている。夜に外洋を大きく一周し、時間だけ潰して元の場所に戻ってきたに違いなかった。

 長い籠城で腹を空かし、わずかに残っていた体力はこの航海で使い果たし、脱水症状で身体はふらふらで……この有様でコナハト軍と戦って勝てるはずもない。彼等は戦意も生きる気力すらも維持することができなかった。

 四千のムーマ人は羊の群れよりも従順にコナハト軍の命令に従い、武装解除されていく。彼等もまた断種の上奴隷として売られていく運命であることは言うまでもないだろう。それがブレス城籠城戦の最後の結末だった。

 そしてその後始末である。


「この度は素晴らしい働きを見せてくれましたわ」


 と上機嫌なレアルトラに対し、ナハルは「もったいないお言葉でございます」と平伏している。一方のロルカンは憮然としたまま突っ立っていた。レアルトラが彼に声をかける。


「あなたの働きも見事でした。七万以上の同胞の殺戮に手を貸した今の気分はいかがですか?」


 いいわけがないだろう、と噛みつきたい気持ちをロルカンは何とか堪える。どんな形であれ、これ以上レアルトラを悦ばせる義理はロルカンにはないのだから。


「……約束は守ってくれるのだろうな」


「ええ、もちろん。わたし達はブレスやムーマとは違います」


 とレアルトラは胸を張った。


「相手がムーマ人であっても一度交わした約束は守ります。あなたを妻子と共に、無事にムーマ本国へと送り届けますわ」


「いや、ムーマではない。私はウラドへと亡命する」


 ロルカンの言葉にレアルトラは仮面のように笑顔を固まらせた。


「どうせお前達はムーマ本国にも侵攻するつもりだろう? ムーマ本国でも鉄杖党員を皆殺しにするつもりなのだろう? そんな場所に戻る意味はない、私は行き先に生命の保証がある場所を選択する」


 レアルトラは仮面のような笑顔のまま、長い時間沈黙していた。ロルカンは冷や汗を流している。やがて、レアルトラが面白くなさそうにため息をついた。


「……よろしいでしょう。その程度の自由は許してさしあげましょう」


 生き延びた、とロルカンが理解し、彼は大きなため息をついた。背を向けて立ち去ろうとするロルカンに、レアルトラが声をかける。


「どこへでもお行きなさい、ムーマ人。同胞七万を殺戮して手にした生命に意味があると思うのなら」


 ロルカンはそれに応えない。ロルカンはそのままレアルトラの前から姿を消していった。

 その後ロルカンとその妻子の身柄はムーマ系商会に託される。そのムーマ系商会の隊商に同行してロルカン一家はウラドに入国、そのままウラドに亡命した。それ以降のロルカン一家の消息は不明である。彼等がその後、幸福で満ち足りた人生を送った、という証拠は何もない。




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