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水の国へ愛をこめて  作者: 亜蒼行
紅蓮篇
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第三八話「クルアハンへの帰還」その1



 時は始祖暦二五〇二年、ナ=ノラグの月(第二月)に入ったばかりの頃。ゲアルヘームがクルアハンに帰還し、すぐに逃げ出し、それを追うようにしてイフラーンがクルアハンを通過し、ブレス城が将軍ドフトの手によって封鎖されたのはサヴァンの月(第一月)の下旬であり、それから何日かしか過ぎていない。

 一人の少女が船の甲板から、遠ざかる南の大地を見つめている。物憂げな様子の少女に、その父親が声をかけた。


「スィールシャ」


 そう呼ばれた少女は振り返ることなく水平線の彼方にある大地を見つめ続けていた。


「お父様……あの町の人達はどうなるのでしょう。あの町に残してきたメイド達、その家族……学園の友達に、その家族。そして何万というクルアハンの市民は……」


 愛娘の問いに父親――インティーヴァスは首を振って嘆息した。コナハト軍の接近を知ったクルアハン市民のうち、大多数は逃げるかどうか迷った挙げ句に結果として留まることを選び、その一方逃げ出すことを選択した者も(相対的には圧倒的少数派だがその絶対数は)少なくはなかった。インティーヴァスはその少数派の中の一人である。


「知らないわけではあるまい、我々ムーマ人がコナハト人に対して何をしてきたかを。百年分のそれをまとめてやり返される……つまりはそういうことだ」


「でも、それを主導してきたのは鉄杖党の一部の強硬派――」


 スィールシャの反論をインティーヴァスは「それは違う」と強く否定した。


「確かに主導したのは一部の強硬派だが、大多数がそれを容認し、黙認したのだ。コナハト人を踏みにじり、搾取をし、そこから莫大な利益を得てきたのだ。それに反対してきたのは王子エイリ=アマフなどの、それこそごく一部の者だけだ。我々穏健派と呼ばれる勢力がどれほど弱小で、コナハト系農民のためにちょっとした意見を通すにも私や王子が一体どれだけ苦労をしてきたことか……お前もずっと見てきただろう」


「ですが……ですが、それがわたし達の背負うべき罪だとしても、わたし達は全てを失わなければならないのでしょうか?」


 インティーヴァスはその問いに答えず、ただ重いため息をつくばかりである。


「せめて……せめてブレスの死後すぐに施政方針を改め、モイ=トゥラに対する搾取や抑圧を止めていれば、コナハトが『導く者』を召喚しようとモイ=トゥラの半分は確保できたかもしれないのに……」


 インティーヴァスは無念そうに首を振り……少しの時間を経て顔を上げた。その目には決意の光が灯っている。


「モイ=トゥラの確保はもう断念しなければならない。モイ=トゥラを放棄し、全てのムーマ人を本国に引き揚げさせ、本国の防御を固める。その上でコナハトと交渉して和平を結ぶのだ」


 インティーヴァスはずっと考えていたこの先のムーマのあり方を初めて示した。スィールシャは戸惑っている。


「ですが、モイ=トゥラに在住しているムーマ人は何百万にもなります。土地や屋敷や、財産を有している者も少なくないでしょう。それを全て捨てさせるのですか?」


「いくらしがみついていてもコナハト人に何もかもを奪われるだけだ、財産どころか生命すらも。ガランラハンでムーマ人がどんな目に遭ったか、お前も聞いているだろう」


 スィールシャは沈黙によりそれを肯定した。インティーヴァスは自分に言い聞かせるように語る。


「ガランラハンだけで終わるはずがない。コナハトがモイ=トゥラ全土で何度でも同じことをくり返すつもりなのは間違いない。死にたくなければ――『死んだ方がマシ』という目に遭いたくなければ本国まで逃げるしかないのだ。たとえ財産を全て捨てることになっても、身体一つになっても」


 実際、インティーヴァスは土地や屋敷といった財産の大半をクルアハンに捨て去り、逃げ出したのである。コナハトが「導く者」の生存を明らかにした直後、インティーヴァスは所有資産の多くを現金や証券にし、本国へと移動させていた。それでも現金化できずに捨て置くしかなかった資産は全体の七割以上となるが、無一文の一難民として本国に流れ込むよりはずっとマシだろう。……さらに言えば「たとえ無一文の難民になろうとクルアハンに留まるよりは何百倍もマシだった」と判明するのは少し先の話である。

 スィールシャとインティーヴァスの親子が甲板後方で、クルアハンの方向を見つめながら語り合っている。その商船の船長が二人を意味深げな目で見つめていることに、彼等は最後まで気がつかなかった。


「コナハト軍への協力を条件にムーマ系商会を庇護する」


 レアルトラが公式にそう宣言したのはちょうどこの時期だが、船旅中のインティーヴァスの耳にはそれは入らなかった。さらに、コナハト軍への協力の中に「鉄杖党党員とその家族の捕縛・引き渡し」という条項が入っていることはずっと先まで伏せられたままだったのである。

 その夜、インティーヴァスとスィールシャは客室の一つで就寝中だった。余裕のある船旅なら部屋を父と娘別々で取るところだが、今回は金銭的にも時間的にもそんな暢気なことは言っていられなかった。なおインティーヴァスの妻でありスィールシャの母である女性は何年も前に病死している。

 何かの物音でインティーヴァスは目を覚ました。合い鍵によってドアを開けられたのだと理解する前に、何人もの男が部屋の中へとなだれ込んでくる。


「な、なんだお前達は?!」


 インティーヴァスが抵抗する間もなく両腕両脚を掴まれて身動きを封じられ、さらに縄で身体を縛られて完全に拘束されてしまう。熟睡していたスィールシャを捕縛するのはもっと簡単な話だった。

 インティーヴァス達はそのまま甲板の上へと連れて行かれた。甲板には武装した船員が大勢いて、インティーヴァス一家と同じように縄で拘束された人間が何組かいる。いずれも身なりの良いムーマ人で、インティーヴァス達と同じくクルアハンから逃げてきた者達と思われた。そして同じく夜寝ているところを襲撃され、拘束されて今に至るのだろう。


「これは何の真似だ! 今すぐに解放しろ!」


「私を誰だと思っている! このようなことが許されると思うのか?!」


 男達の抗議に商船の船長は薄笑いを浮かべるだけである。


「皆様、あちらをご覧ください」


 そう言って船長が指差すのは海の上……今、そこには軍船が浮かんでいる。どんどんとこの商船に近付いている。


「あれは皆様をお迎えに来られた、コナハトの水軍でございます」


 戦慄が彼等の時間を止める。約一〇秒を経て再び時間が動き出すと、女達は泣き出し、男達は罵声を上げた。


「この裏切り者! コナハトに同胞を売るのか?!」


「金の亡者め、地獄に堕ちろ!」


 また別の一家は、


「助けてください! お願いです、何でもします!」


「金ならいくらでも出す! だから」


 船長に必死の媚びを売って生き延びようとするが、その船長は苦笑して首を振るだけだった。


「残念ですが、商人は信用第一。お客様のご注文に真摯に応えるのが商人でございます」


 インティーヴァスは沈黙したまま、懸命に活路を探していた。だがコナハトの軍船が接舷するのも間もなくだ。コナハトの軍人が乗り込んできたなら逃げ出せる可能性はさらに下がり、ほぼ絶望的となるだろう。


(可能性は低くともやるなら今のうちに……!)


 意を決したインティーヴァスが行動を開始する。左手の指輪は調整された魔晶石を仕込んだ、護身用の杖だ。インティーヴァスは小さく呪文を唱えて烈風の攻撃魔法を発動させた。


「ぎゃあっ!」「痛え!」


 インティーヴァスの周りに立っていた船員が烈風に切られ、悲鳴を上げる。それと同時に縛っていた縄を切り、インティーヴァスは自らを解放した。一緒に自分の服や皮膚も切れて血が流れ、彼は痛みに顔をしかめる。だがそれも些細なことだった。


「スィールシャ!」


 インティーヴァスは愛娘の肩を掴んで立ち上がらせ、そのまま二人で甲板の上を走り出した。それを船員が追っている。


(このまま甲板を飛び出して海に飛び込めば!)


 二人が自由を掴むまであとほんの数メートル――だが運命は二人に対しどこまでも残酷だった。何かにつまずき、スィールシャが悲鳴を上げて倒れ込む。インティーヴァスは急停止した。


「スィールシャ!」


 インティーヴァスは愛娘を助け起こそうとするが、船員が追いつく方が早かった。


「この野郎!」


 無造作に振るわれた船員の剣が、その切っ先がインティーヴァスの顔面をかすめる。大量に流れた血は彼の顔を覆い、彼の視界を遮った。さらに船員が彼を両断せんと迫ってくる。インティーヴァスは後退してそれを避け――彼の腰が甲板の手すりにぶつかり、彼の身体はそれで止まらず、


「――!」


 インティーヴァスは何か言おうとして、それは意味を成さない悲鳴にしかならなかった。インティーヴァスは海の中へと飛び込み……彼の意識は一旦そこで途切れた。


「お父様……」


 スィールシャは改めて船員に拘束され、程なくやってきたコナハト水軍へと引き渡された。少女は自分にどのような未来が待っているのか、全く想像もできないでいる――それは想像すら空恐ろしいことだった。











 ムーマ国内ではゲアルヘームがリーグ山脈を乗り越えてイフラーンの追撃を振り切り、アマドーンはクルアハンから二、三〇〇マイル北を船旅中の頃。始祖暦二五〇二年エアナルの月(第三月)中旬、コナハト軍三〇万はクルアハンに到着した。


「ここがクルアハン……」


「帰ってきたんだ! 俺達は!」


 ブレスの率いるムーマ軍がクルアハンを陥落させたのはちょうど九〇年前。クルアハンがコナハトの王都だった時代を知る者は、当然ながら一人も生き残っていない。だがコナハトの誰もが「帰ってきた」「ようやく帰ってこれた」と語り合い、笑い合っている。ジェイラナッハを筆頭に感涙にむせんでいる者も少なくはなかった。

 カアーナ=マートから進軍してきたコナハト兵と、クルアハンを占拠している義勇軍の兵士がなし崩し的に合流する。両者は屈託なく笑い合い、握手をし、肩を組み合い、抱き合い、互いの涙で濡れていた。その姿にジェイラナッハがより一層、吠えるように号泣している。


「父上……見ていてくださっていますか」


 呟くレアルトラは祈るように目を瞑る。積年の念願だった王都奪還を果たし、レアルトラも感無量の様子である。が、感慨にふける時間もそれほど長くは取れなかった。彼女が処理するべき事案は連結した貨車に山積みとなってやってきているのだから。

 そのうちの最も重要な案件に取り組むためレアルトラはそこを訪れた。場所はクルアハン中心、磨き上げられたような白い城壁が延々と連なっていて、その奥には巨城が屹立していた。塔の高さは二〇〇メートルにも達するかもしれない。単に大きく高い城だというだけではない。建築美学の粋を集め、建築技術の極みに至った、大陸最大の芸術作品――それがブレス城である。

 ブレス城の優美かつ壮麗な姿に賛嘆を禁じ得ないレアルトラだが、


「なるほど」


 とやや不愉快そうに言うだけである。このブレス城が何万というコナハト人の奴隷を磨り潰すように酷使して建てられたものだという事実、巨額の建築費用を捻出するためモイ=トゥラのコナハト人が骨と皮になるまで搾取されたという歴史――レアルトラは新雪のように輝く白い城壁が、コナハト人の赤い血で濡れているのを見つめていた。

 ブレス城の正門前までやってきたレアルトラはそこで部下の将軍と再会する。


「姫様、それ以上は近付かないでください。中から狙撃される恐れがあります」


 将軍ドフトが挨拶よりも何よりも先に注意を促す。レアルトラは「判りました」とドフトの指示に素直に従った。レアルトラとドフト、その護衛は陣幕の中へと移動する。


「籠城しているムーマ軍は攻撃してくるのですか?」


「最初のうちは散発的な攻撃がありましたが、長らくそれも絶えております。ですが念のためです」


 陣幕の中には大きなテーブルが置かれ、その上にはブレス城を中心としたクルアハンの市街地図が広げられている。ドフトは指示棒の先を地図の上へと置いた。


「城内から逃げ出してきた者達を尋問しておりますが、あの中には軍民合わせて八万が籠城しているということです――二ヶ月前は。今はかなり減っているものと思いますが……」


「中の様子は判りますか?」


 ドフトが側に控えていたある男へと視線を送り、その男がレアルトラの前へと進み出た。身長はレアルトラの胸くらいまでしかなく、子供のような体格。半分禿げた頭部とネズミを思わせる顔立ちの、小柄で貧相な中年男である。

 男の名前はナハル。軍を指揮した経験はないが、主に情報収集や秘密工作等で軍に貢献し、キャリアを積んできた人物だ。今回もナハルはイフラーンやドフトに同行してクルアハンまで先行し、種々の工作の手をブレス城内へと伸ばしている。


「内部では長期の籠城を見込んで食糧の消費をできるだけ抑えておりましたが、それももうとうに限界です。少し前に食糧が完全に尽きたという情報を得ております」


「あと一月も封鎖すれば全滅するか」


 ドフトの確認にナハルが頷き、レアルトラは「ではそのように」とにっこり笑った。


「玉砕覚悟の突撃などさせないように、城門は外側から封鎖しなさい。城に火をかけて焼け死ぬことも許しません。援軍が接近している、等の欺瞞情報を流して彼等が最後まで悪あがきするよう仕向けなさい」


 ドフトもナハルも深々と頷き、その命令を了解する。その二人だけではない、コナハト軍の陣中のうち異議を唱える者は誰一人としていなかった。

 ブレス城には七箇所の城門があり、うち一つは海に面した水門であり軍港である。地上にある六箇所の城門、その一箇所につきコナハト軍と義勇軍から三万の兵が動員された。総動員数は二〇万を優に超えている。


「な、なんだ?」


「あいつ等、何をしようとしている?」


 城内のムーマ軍もその動きを把握しているが、その対応は鈍い。空きっ腹でまともに動ける兵がおらず、将も頭が回らず、


「下手にこちらから攻撃して敵が全力でこの城を攻略してきたなら、この城は何日も持たずに陥落するぞ」


 と今さら逡巡し、会議で無意味に時間を浪費しているうちにコナハト軍は作戦のほとんどを終了していた。二〇万近くの兵が土嚢を持って移動し、城門の前に置いていき、ほんの数時間で全ての城門は土嚢に埋もれてしまったのだ。さらにその土嚢がコンクリートによって固められる。ブレス城の完全封鎖が完了するまでわずか半日。これによりムーマ軍が大軍を一気に突出させることはどう足掻いても不可能となった。

 「大軍を短い時間のうちに城外へと展開する」ことはもう不可能だが、城の外へと出ること自体は不可能というわけではない。籠城の先行きを不安視する者、食糧の配給がなくなったことに絶望した者がこっそりと外に逃げ出している――そしてほとんどの場合コナハト軍に見つかり、捕縛され、串刺しの刑に処され、苦しみ抜いて死んでいった。それは女子供や民間人であろうと例外はない。

 そして今また、ムーマ人のある一家がブレス城を逃げ出し、コナハト軍に捕縛されたところだった。良人であり父親である彼の名はロルカンという。まだ若いが参謀としてモイ=トゥラ駐留ムーマ軍の中でそれなりの地位にある彼は打開策を探すために連日ブレス城に関する資料を漁り――密かに設置された秘密の抜け穴のことを知ったのだ。


「ここから逃げるしかない。助かるには他に方法がない」


 参謀として職務を全うするなら、ゲリラ部隊をコナハト軍の後方に展開して嫌がらせの攻撃をしたり、あるいは決死部隊を敵陣へと送り込んでレアルトラを暗殺する……等、この抜け穴の使い道は色々と考えられただろう。だがロルカンは自分と家族が生き延びることしか頭になかった。職務のことも、一緒に籠城を続けてきた仲間のことも、軍人として守るべき市民のことも、完全に思慮の外だった。

 そしてその夜、ロルカンは行動を開始する。宿営地を抜け出した彼は、三歳にもならない娘を抱きかかえ、妻の手を引き、暗闇の中を歩いていく。城の片隅にある倉庫に入り、隠し扉を開き、その奥の地下道へと足を踏み入れる。息を殺し、声を殺して歩くこと半時間。ロルカン達はようやく出口へとたどり着いた。


「見ろ、明かりだ、外だ!」


「ええ! 助かったんですね、わたし達」


 ロルカンは妻と笑い合い、地下道から地上へと出る。そこは町外れに建てられた、水の精霊を祀った小さな社、その中だった。ブレスの目に止まらなかったが故に破壊を免れたかのように見えるそれは、このようなときのためにブレスの命令によって設置されたものだった。

 ロルカンは社の中から慎重に左右を窺い、誰もいないことを確認して外へと出る。ロルカンの手招きに応じてその妻と子供が続いて外へと出、三人が早足で歩き出した、その直後。


「はい、ご苦労様。動かないでくださいよ」


 にこやかに彼等に声をかけるのは子供みたいな体格の貧相な中年男――ナハルである。彼の指揮下には十数人ものコナハト兵がいて、ロルカン達を完全包囲していた。兵士は全員槍か剣を構え、ロルカンとその妻子を今にも斬り刻もうとしている。


「大人しくしていた方が身のためですよ? こちらの言うことに従えば、あるいは一家揃って無事にムーマに帰れる……かもしれません」


 ナハルはニコニコ笑いながらそう告げる。到底それを信じられないロルカンだが、抵抗したところで一家全員即座に斬殺されるだけなのは目に見えている。杖を放り捨てて服従の意志を示したロルカンは、ナハルに言われるがままにその後に付いて移動した。











 ロルカンは妻子と引き離され、ナハルによって尋問された。自分一人なら死を覚悟して黙秘もしただろうが、愛する妻と子が人質となっている以上ロルカンには抵抗の手段がない。聞かれないことまで答えてコナハト軍に全面協力する姿勢を見せ、利用価値があることを示し、妻子の助命を哀願するしかない……普通だったらそれで助かる可能性などゼロである。

 だが今、蜘蛛の糸よりか細く頼りなくとも、彼の前に彼と妻子が生き延びるための選択肢が垂らされていた。


「あなたが一ヶ月間こちらの指示で最後まで動くなら、それが終わった後に一家三人を船でムーマ本国まで送り届けて差し上げましょう。それまでは奥さんとお子さんはこちらで預かります。……ああ、ご心配はいりませんよ。牢屋だから快適とはいかんでしょうが、まともな食事を朝夕ちゃんと出しますから。特に危害を加えるようなことはいたしません」


 ニコニコと笑い続けるナハルに対し、ロルカンができるのは項垂れるように頷くことだけだった。

 ……その日の未明、血まみれとなったロルカンがブレス城内へと逃げ込んでくる。兵士に助けられた彼は手当を受け――大きな怪我はしていないことが判明し、その後上官の下へと連れて行かれた。彼の上官と同僚が何人かいてロルカンを取り囲み、ロルカンはその中心で力なく座り込んでいる。


「ロルカン、お前が城外にいたとはどういうことか」


「私は……このまま籠城して餓え死にするよりは一縷の可能性に懸けて、妻子を連れて城を抜け出したのです」


 上官である将軍ドゥールの問いに彼は抵抗することなく回答、一同は顔を見合わせた。


「ですがコナハト軍の兵士に簡単に見つかってしまい、奴等は私の目の前で妻と子を剣で串刺しにして、身体を斬り刻んで……!」


 ロルカンは震えながら嗚咽し、吐瀉しそうになった。同情した同僚が彼の背中をさすってくれる。


「それではその血は……そのときの」


 その確認にロルカンが頷く。ロルカンは妻子を抱くように自分の身体を、服を黒く染めている血を抱きしめた。

 ――なおロルカンは嘘を言っていない。「目の前で斬殺されたのが自分の妻と子供ではない」ことを明確にしなかっただけである。ロルカンに臨場感ある芝居をやらせるため、ナハルは彼の目の前であるムーマ人の母親とその子供を剣で斬り刻んで殺したのだ。飛び散った血は彼の服を鮮血に染め、親子の悲鳴は彼の耳にこびりついた。やめてくれ、ゆるしてくれ、とずっと泣き叫んでいたのはまだ年若い父親で、彼もまた籠城の先行きに絶望して逃げ出すことを選んだのだろう。彼はほんの半歩間違えたロルカンの姿であり……あるいはロルカンの未来の可能性だった。


「私は奴等を絶対に許さない……! 私はあの水ネズミ共を皆殺しにするためにここに戻ってきたのです!」


 不意に立ち上がり、決然と宣言するロルカンに対し、将軍ドゥールは戸惑ったような顔をした。


「どういうことだ? 今から全軍で突撃する気か?」


 その問いにロルカンが首を横に振る。


「今ではありません。本国の大規模な反攻作戦が実行されたそうです。それに本国が水軍のありったけをこの町に向かわせたと」


 一同が大きくどよめく。「本当に?!」と色めき立つ者がいる一方、「何かの間違いでは」と疑わしい目を向ける者もいた。


「コナハト軍の高官と見られる者がそう話しているのを耳にしました。コナハト軍もこの町には一部を残して大部分は迎撃に向かわせるそうです」


「なるほど、城を外側から封鎖させたのはそのためか」


 と同僚達が頷き合っている。将軍ドゥールは期待に満ちた目をロルカンへと向けた。


「そ、それで水軍の艦隊はいつこの町に?」


 さすがにそこまでは、と首を振るロルカンに一同は落胆の様子だった。だがすぐに希望と期待に胸を膨らませる。


「昨日今日カティル=コン=ロイ出港したとして、半月もあればこの町に着くんじゃないか?」


「そうだな。長くとも二〇日もあれば……」


「二〇日は長いが、これまで二ヶ月も耐えてきたのだ。もう二〇日くらい何とかなるのではないか?」


 誰かの言葉に全員が頷き合う。ムーマ軍幹部は援軍の到来に希望をつなぎ、籠城継続を決断した。

 夜が明け、ブレス城を包囲していたコナハト軍が移動を開始し、その数が目に見えて減っていく。何万という軍勢が町の外へと移動していく。


「本国の軍が反攻を開始した」


「水軍の援軍がこの町に向かっている」


 これらの情報は半日かからずにブレス城全体に広がり、民間人の子供まで知らない者はいなくなる。そしてムーマ人のほとんどがそれを疑うことなく信じ込んだ。コナハト軍の動きが情報の裏付けとなったことがその理由の一つだが、それより大きいのは彼等がそのニュースを何よりも待ち望んでいたということだった。


「人間は自分が望むことだけを見て、望まないことは見ようとしない」


 これとほぼ同じ警句はこの世界にも存在しており、それは人間が人間である限り変わることのない真実なのだろう。


「今の本国にそんな余裕があるわけがない。何かの間違いか謀略の類を疑うべきだ」


 中にはそのように主張する者達もいたが、それはごく少数だった。彼等は「これ以上籠城を続けても餓え死にするだけだ。体力が残っているうちに脱出するべきだ」と唱え、実際に行動を起こし――コナハト軍に見つかって無残な串刺しとなっていた。結局彼等ムーマ人には救援を信じて籠城を続けるか、分の悪い博打をしてなぶり殺しとなるか、その二つしか選択肢が残っていなかったのである。




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