第三七話「罪と罰と報復と」
暦は少しだけ遡り、始祖暦二五〇二年サヴァンの月(第一月)の中旬から下旬。コナハト軍がガランラハンの戦いでムーマ軍を撃破し、進軍を再開してから何日か経った頃。
「ナナト様、わたしにお話があるとお伺いしましたが」
「は、はい」
場所はクルアハンへと向かう道中の、小さな砦。つい最近までムーマ軍が使用していたその砦をコナハト軍は路傍の石を拾うように接収し、その夜レアルトラはその砦で一夜を過ごすこととなった。砦の中に入るのはレアルトラと七斗、その近衛くらいで、三〇万の兵卒のほとんどは野営である。
そしてその夜、砦の中の作戦会議室らしき部屋。七斗は人払いをお願いした上で、レアルトラと二人だけで対峙していた。
「……」
無言となったレアルトラはいつものように淑やかに微笑んでいる――だが七斗からすればその笑顔は、腹を空かせた人食い虎が牙を剥いているようにしか見えなかった。どこからともなくパイプオルガンの荘厳な演奏が鳴り響き、「滅びこそ我が喜び、死にゆく者こそ美しい」とか言い出しそうだったが……それらは全て気のせいなのだろう、多分。
レアルトラは無言のまま七斗が話を切り出すのを待っている。沈黙は優に五分を超えていたが、
「……あ、あのですね」
意を決した七斗がようやく口を開いた。
「王女様は、この軍はどこまで行くんでしょうか?」
あまりにも自明なことを訊ねられたレアルトラは一瞬意表を突かれたが、それを表には出さなかった。
「今はひとまずクルアハンを目指しておりますわ」
「クルアハンを攻略したなら、その次は?」
「わたしはクルアハンに腰を据えて……大将軍ジェイラナッハを総大将として全軍を北上させるつもりですわ。そうしてモイ=トゥラの全てを奪還します」
「その後は?」
その問いにレアルトラはにっこりと笑い、
「――もちろんムーマへ」
唇を噛み締めた七斗が小さく震える一方、レアルトラは一際にこやかに笑っている。
「王女様は……ムーマ人をどうするおつもりなんですか?」
「もちろん皆殺しです」
レアルトラは何の躊躇いもなく即答する。七斗が何かを怒鳴ろうとしたが、それは音にはならなかった。白くなるほど握りしめた拳が膝の上で震えている。レアルトラは仮面のような笑みを示し続けるだけである。
「そんなの……そんなの間違ってる!」
七斗の内側で渦を巻いていた思いは言葉となり、奔流となって口からあふれ出た。
「僕はこの国の生まれじゃなくて、所詮部外者で、王女様やこの国の人達が味わった、家族を奪われた痛みも、飢えの苦しみも、踏みにじられた屈辱も、万分の一も判りません。例えば雪イナゴをばらまかれたことに皆が怒っていることはもちろん知ってますけど、その怒りを本当の意味で共有することは僕にはできないです。
でも! 報復の対象は直接手を下した人達と命令した人達に向けるべきであって、無関係な人達に向けるのは間違ってないですか?! ムーマに住んでいる普通のムーマ人は、そのほとんどはただの庶民でしょう? 日々、自分が生きるだけで精一杯の……その人達がコナハトに何かしたんですか?」
「例えばそうですね……」
とレアルトラは小首を傾げた。
「ムーマでの農民の租税負担は普通四割、多くて五割だそうです。農民だけでなくムーマは全体的に租税が非常に安いことで知られていますわ。それにパンの価格も大陸で一番低く抑えられています。その理由は、ナナト様もお判りになるでしょう?」
「それだけモイ=トゥラを搾取していたから……」
七斗の回答にレアルトラが頷く。
「ムーマでは庶民や貧民でも安いパンで腹を膨らませている一方、モイ=トゥラの農民は収穫の九割を小作料として奪われ、草の根や松の皮をかじって飢えをしのいでいます。凶作のときも小作料は全く減免されず、豊作のときは価格調整のために米や麦が焼き払われ……」
レアルトラは少しの間目を瞑った。再び目を開いたとき、その顔からは笑みが消えていた。真顔のレアルトラが真っ直ぐに七斗を見つめている。
「――ムーマ人を生かしておく理由が何かあるのですか?」
七斗は息が詰まりそうだった。「ないです」と答えてしまってこの場から逃げ出してしまおうか、という誘惑に駆られる。ふと、レアルトラが優しい微笑みを見せた。
「ナナト様? ナナト様ご自身もムーマに殺されそうになったのは一度や二度ではないでしょう? 一時はそのために足すら奪われたではありませんか。進んでムーマに復讐する理由はあっても、それを止める義理はないのではありませんか?」
七斗は大きく目を見開き、やがてゆっくりとため息をついた。
「犯した罪に対しては相応の罰を受けてほしいと思います。でも――無関係の人間に罰を与えようとは思いません」
レアルトラを真っ直ぐに見据えた七斗が直言する。レアルトラは見下ろすような目で七斗を射貫いており、一方七斗はそれを正面から受け止めながらレアルトラを見つめ返していた。息も止めるほどに全身の力を両眼に込めて、レアルトラの発する重圧に抗っている。
空気が凝固し、音が封じられたかのようだった。沈黙が長く続いている。七斗は窒息しそうな息苦しさにひたすら耐え続けた。不意にレアルトラが微笑み、
「――ナナト様の言われることはごもっともだと思いますわ」
その圧力が和らぐ。七斗は大急ぎで酸素を貪った。肺に大量の酸素を送り込んでようやく人心地つき、それからレアルトラに精神的に向き直る。
「えっと、それじゃ……」
「わたしの剣はあくまで断罪のために振るわれるもの。無関係な人間にそれを向けることはありませんわ」
レアルトラが朗らかに微笑みながら断言し……七斗は胡乱な目を彼女へと向けていた。
「罪を犯した者というのは、まずは鉄杖党の幹部……」
「鉄杖党とその家族、全員です」
レアルトラの断言はわずかたりとも議論や異論の余地のないものだった。
「それに党員でなくとも、ムーマ人でなくとも鉄杖党に協力してきた者。コナハト人を踏みにじり、そこから利益を得てきた者――それらの全員に、わたしは犯した罪に相応しい罰を与えます」
七斗は難しい顔となった。挙げられた条件は一見レアルトラが七斗に配慮し、復讐の範囲をかなり限定したように思えるが、決してそうではない。ムーマ人の誰が「鉄杖党に協力してきた者」で、誰がそうでないかはレアルトラのさじ加減一つである。その気になればムーマ人全てを「鉄杖党の協力者」として皆殺しにすることだってできるだろう。……だが、
「ありがとうございます」
七斗は深々と頭を下げた。色々と疑問や不満、不安はあるものの、現時点でこれ以上の妥協を引き出すのは無理と判断したのだ。
「お疲れのところを時間を取らせてしまって、申し訳ありません」
「いえ、とんでもない。ナナト様はコナハトの救世主。ナナト様に対して閉ざす扉をわたしは持っておりませんわ」
「またこういう機会を作っていただけると嬉しいです」
その要求にレアルトラは「ええ、いつでも大歓迎ですわ」とにっこりと微笑んだ。
……気力と体力を使い果たした七斗がふらふらになりながらその作戦会議室から退出する。その背中をレアルトラは冷めた目で見つめていた。七斗が退出して一〇を数える間もなくドアがノックされる。
「姫様、入りますぞ」
「はい。入ってください」
レアルトラが室内へと招き入れたのは、まず将軍ジェイラナッハ。そしてその巨体に隠れるようにしていたアルデイリムである。二人はレアルトラから数メートル離れた場所でかかとを揃えて背筋を伸ばした。
「二人とも、ナナト様のお話は聞いていましたね?」
レアルトラの確認に二人が頷く。
「あなたはどう判断しますか? アルデイリム」
――オルゴールを必要台数量産するため、レアルトラはアルデイリムにあらゆる権限を委任。アルデイリムも全身全霊を費やしてその期待に応えてきた。その結果としてレアルトラの信認を受けたアルデイリムはやがて全軍の兵站も任されるようになり、今では内政に関するあらゆる仕事を押し付けられている。
「一〇年後には王国宰相」
と目される、今やレアルトラの第一の寵臣だった……本人としては慣れない仕事を必死に片付けてきただけであり、不相応な今の立場には居心地の悪さしか感じていないのだが。
「『導く者』ナナトが王女殿下やコナハト軍に不利益な行動をする可能性は、まずあり得ないと思っています」
レアルトラの問いにアルデイリムはまずそれを断言した。
「王子ティティム、王子グロールと、『導く者』の手元には王女殿下排除の大義名分となれる手札がありますが、それを実行する武力がありません。武力を集めようとする気配すらありません」
不意にアルデイリムが苦笑し、堅苦しい態度を崩した。
「ナナトさんが仕事のこと以外で武家の方と話しているのを私は見たことがありませんよ? 普段しゃべる相手は侍女を除けば魔道士や職人に限られていますし……多分、人付き合いそのものがあまり好きではないのだと思います」
「まあ、本の虫の魔道士の中にはそういう者もおらぬではない」
とジェイラナッハが言い、アルデイリムが小さく肩をすくめた。アルデイリム自身がどちらかと言えば「そういう者」であり、だからこそ七斗のこともよく理解できるのだ。
「わたしもナナト様は技術の普及にしか興味のない、『導く者』の典型と思っていたのですが……」
とレアルトラはジェイラナッハに視線を向ける。目で促されたジェイラナッハは「それがしもそのように見ております」とレアルトラに同意した。そして「ですが」と続ける。
「それでも『間違いは間違いだ』と思ったことを言わないではいられぬのでしょう。女子供のように見えて、なかなかの硬骨の持ち主かと」
うむうむ、と頷くジェイラナッハに対し、レアルトラは少し傷付いたような顔をした。
「将軍はわたしが間違っていると?」
「他国の者であれば、百人が百人『間違っておる』と断言しましょうなあ」
ジェイラナッハは他人事のように言い、可笑しそうに笑った。そこにアルデイリムが、
「ラギンやウラドの『良識がある』とされる者達は、多分『導く者』ナナトと同じことを言うのでしょう」
と補足をし、レアルトラは「なるほど」と頷いた。
「ナナト様のお言葉に、ラギンやウラドの中立派の反応を見ればよろしいと……」
「今の姫様にコナハトとは違う立場からの、違う視線を示してくださる。『導く者』の直言は何よりも貴重ですぞ?」
ジェイラナッハの小言にレアルトラは「判っています」とちょっと煩わしそうだった。
「節度を守っていただけるのであれば、わたしがナナト様を掣肘することはありません。耳の痛い諫言であっても拝聴いたします」
ジェイラナッハ達に対してレアルトラは明言した……「ですが」と続けて、
「わたしがその忠告を容れるかどうかは別の話です」
とも断言。ジェイラナッハとアルデイリムは無言のまま深く頷き賛意を示した。
始祖暦二五〇二年サヴァンの月の下旬。三〇万の軍勢を率いたレアルトラはクルアハンを目指して北上を続けていた。今、コナハト軍はキルキアランという港町までやってきている。先行させたイフラーンがクルアハンを通過した頃である。
キルキアランにいたムーマ人は全員逃げ出し、レアルトラはこの町を無血開城した。コナハト系市民の熱狂的な歓迎を受けながらレアルトラはキルキアランに入城する。レアルトラはこの町に特に用事はなく、補給が済めばすぐに出立の予定だった。が、予定外の会見が一件舞い込んでくる。
キルキアランの港に程近い、とあるムーマ人商会の館。その町で最も大きく豪華なその建物で、レアルトラは客人と会見する。
「王女殿下にはご機嫌麗しく。このたびのガランラハンでのコナハト軍の戦勝、まずはお喜び申し上げます」
レアルトラの前で這いつくばり、精一杯の笑顔を作っているのはムーマ商人のサンタッハである。レアルトラは胸を張って、
「ええ、ありがとうございます」
とその言祝ぎを受け入れた。上座で椅子に座っているレアルトラと、その前で平伏しているサンタッハ。サンタッハを囲むように立っているのは近衛兵であり、彼等は一様にサンタッハに、ムーマ人に対する殺意を溢れさせていた。レアルトラが「そのムーマ人を八つ裂きにしろ」と命令を下すのを今か今かと待ち侘びている。サンタッハは全力の笑顔で媚びを売っているが、作りすぎた笑顔は苦痛に歪んでいるのと区別が付かなかった。
「……ですが、あなたはムーマ人として祖国の軍の敗北に思うところはないのですか?」
レアルトラのその問いは皮肉でも何でもなく、純粋に不思議に思ったことを訊いただけである。サンタッハもそれを皮肉や嫌味とは受け取らなかった。
「正直に申しまして、来るべきものが来ただけと受け止めております」
レアルトラが無言のまま続きを促し、サンタッハは小さく頷く。
「ムーマという国はもう沈没が目に見えたボロ船です。いつまでもそんな船に執着していても意味がありません。沈没に巻き込まれる前に新しい船に乗り換えるのが利口かと」
「船主の方も乗客を選んでいいと思いませんか?」
「私めは誰よりも良い乗客となることを誓いましょう」
レアルトラがサンタッハを見下ろし、サンタッハはその視線を正面から受け止めた。両者の沈黙はかなりの時間続く。
「……当初の予定ではモイ=トゥラのムーマ人は一人残らず皆殺しにするつもりだったのですが、『導く者』に止められました。殺すのは罪ある者だけにするべきと」
レアルトラが独り言のように言い、サンタッハが流れる汗を拭った。
「鉄杖党とその家族は、赤子であろうと一人として生かしてはおきません。鉄杖党に協力し、コナハト人を虐げて利益を得てきた者も皆殺しです。あなたもそうであるというのなら……」
「わっ、私めは」
サンタッハは額を床に擦りつけた。絨毯が大量の汗で濡れている。
「確かに我が商会でもコナハト系の農民に金を貸し、かなり厳しい取り立てもしておりましたが、その利息は常識の範囲内でございます! ラギンやウラドと比較しても特別高利ということはありません!」
「その債務は今すぐに」
「帳消しといたします! 棒引きといたします!」
レアルトラが命令する前にサンタッハがそれを明言。レアルトラは「よろしいでしょう」と一応満足の様子を見せた。
「あなたがウラド王太子シュクリスの依頼で魔晶石をかき集め、我が国に届けてくれたこと、わたしは忘れておりません。わたし達は決して独力でムーマに勝ったのではない……受けた恩義は決して忘れず、必ず返していきます」
賭に勝った、生き長らえた、と知ったサンタッハは全身から力が抜けてクラゲみたいになりそうになった。残った自制心で辛うじて背筋を伸ばしている。
「もったいないお言葉でございます」
「たとえムーマ人であってもコナハトに、我が軍に協力するのであればこれを庇護するのもやぶさかではありません。あなたの知り合いにも伝えなさい」
そう言ってレアルトラはムーマ人商会を庇護する条件を列挙した。その主な項目は以下のようになる。
「一、コナハト人に対する債務の全てを無条件で放棄する。
二、兵站その他の面で、コナハト軍の進軍に協力する。
三、モイ=トゥラにおける物流を維持する。
四、鉄杖党党員とその家族の捕縛に協力する」
サンタッハそれらの条件に何一つ異議や不服を示さなかった。鉄杖党の党員やその家族をコナハトがどうしようとしているのか、それを百も承知していながら協力の意志を見せている。
「わたしはあなた達商人に暴利を貪らせるつもりはありません……ですが、一方的に損を押し付けようと思っているわけでもありません。一時的には持ち出しとなるでしょうが、一、二年の間にそれを補えるように配慮いたしましょう。あなた達もそれを理解し、貪欲さを抑え、ほどほどで満足するよう心がけなさい」
「心得ましてございます」
サンタッハは改めて、絨毯に身体を埋める勢いで平伏した。
……その後、サンタッハがレアルトラの下から生還したというニュースがモイ=トゥラのムーマ人商人の間に知れ渡った。多くの商人がサンタッハを見習ってレアルトラの下を訪れ、いくつかの条件と引き換えにコナハト軍の庇護を受けることとなる。これにより破綻寸前だったコナハト軍の兵站は大いに改善し、進軍を続けられるようになった。
「コナハト軍と、コナハト王国摂政の許可なくしてムーマ系商人及び商会に危害を加えることの一切を禁じます。摂政の発したこの命令に従わない場合、いかなる理由があろうとコナハト軍と王家に対する叛逆行為と見なします」
レアルトラは全軍とモイ=トゥラ全土に対してこのような布告をし、ムーマ系商会を保護する姿勢を公然と示した。
「何でムーマ人を守ってやるんだ、おかしいじゃないか」
当然ながら、兵卒の間ではそのような声が無数に上がったが、それは深刻な不満にはならなかった。理由の一つは「借金を棒引きにしない商会は敵」とレアルトラが明確にしているため。次の理由は、
「とにかく鉄杖党、あの連中だ……あいつ等だけは絶対に許さない。あいつ等を全員捕まえるためなら商人くらい見逃してやって構わない」
コナハト系に対する搾取や抑圧は鉄杖党が矢面に立っていて、商人は大して恨みを買っていないため。農民に暴利で金を貸すのもムーマ人の地主(つまりは鉄杖党党員)であり、商人が金を貸す例は少数派なのである。
そして最後の理由が、
「『導く者』があまり酷いことをするな、って王女様を止めて、王女様もそれに逆らえなかったんだと」
「そりゃ『導く者』に言われたんじゃ仕方ないか……」
「所詮は余所の世界の方だからな、俺達の気持ちなんか判らないさ」
七斗がレアルトラを諫め、レアルトラが不承不承それに従った、というストーリーがコナハト軍内に広まっている。兵士の多くは「『導く者』がそう言うのなら仕方ない」と不満を呑み込み、一部の者は「余所者に俺達の苦労の何が判る」と不平をこぼした。レアルトラに向けられるべき兵士達の疑念や不満が、その多くが七斗へと向かっている。
それが、レアルトラが命令し、ジェイラナッハやアルデイリムが企画し、その部下が噂を流す等して誘導した結果だ、ということは言うまでもないだろう。モイ=トゥラを根拠とする数多のムーマ系商会――彼等が全員逃げ出せばモイ=トゥラの物流を維持できず、モイ=トゥラを奪還したとしても四千万のコナハト系市民が飢えに瀕してしまう。いや、それ以前に、ムーマ系商人の協力がなければ兵站を維持できず、レアルトラが率いる三〇万の軍勢はクルアハンを前にして立ち往生しかねなかったのだ。
だから個人的な好悪の感情や復讐心は別にして、レアルトラは否が応でもムーマ系商会を保護しなければならなかった。兵士達がどれだけ不満を募らそうと……だがその不満を七斗が引き受けてくれたのだから、レアルトラとしては言うことはない。七斗にどれだけ感謝してもし足りないくらいである。
その七斗は、
「……あの、王女様」
「はい、何でしょう?」
進軍中の七斗がレアルトラに何か問いたそうにし、結局「何でもありません」と何も言わなかった。七斗はどこか居心地が悪そうにしているが、その理由は自分でも判っていないようだった。
近衛の兵士や、将軍達。彼等が七斗を見る目が以前とは変わっている――それはほんのわずかの変化である。兵士達の間に流れる噂話を聞く機会があれば、あるいは七斗もその理由を理解できただろう。だがレアルトラ以上に十重二十重に護衛に守られた七斗にそんな機会があるはずもなかった。
七斗は兵士や将軍達の不満が自分に向けられていることを結局知ることがなく、微妙な空気の変化も「気のせいだろう」と片付けてしまった。……もし仮に七斗が兵士達の不満について知ったとしたら「余所者なのに好き勝手なことを言ったんだから嫌われても仕方ない」と肩をすくめ、それで話を終わりにしたに違いないが。
兵站を確保したコナハト軍は概ね順調に進軍を続け、始祖暦二五〇二年ナ=ノラグの月(第二月)は過ぎていく。そしてエアナルの月(第三月)に入り、その上旬。レアルトラはかつての王都クルアハンを目前にしていた。
場所はグレンジという、クルアハンの南に位置する港町。クルアハンまではあと何日かで到着するというとき。レアルトラと三〇万のコナハト軍の前にたった一人のムーマ人が立ちはだかった。
「私は鉄杖党カティル=コン=ロイ評議会最高執行委員会常任委員のアマドーンである」
アマドーンは進軍中のコナハト軍に真正面から接近し、堂々と名乗りを上げてレアルトラとの会談を要求したのだ。たまたま最初に応対した隊長格の者が慎重だったためレアルトラの下に報告が上がってきて、面会が実現したのである。もしアマドーンが今少しだけ『運に恵まれていたなら』彼はその場で斬り捨てられて終わっていただろう。
そして今、アマドーンはレアルトラと正面から向かい合っている。レアルトラが上座に座り、その前にアマドーン。他にもジェイラナッハや何人かの将軍が臨席している。アマドーンは完全武装した近衛兵に包囲されていたが、傲然とした態度を崩さなかった。彼は反っくり返って突っ立ったままで、礼を取る素振りも見せない。沈黙したまま、ただ立っているだけのアマドーンにレアルトラは次第に苛立ってきた。本来先に口を開くのは目下の者からであるべきなのだが、時間を惜しんだレアルトラが先に問う。
「……用があるのなら何か言ってみてはどうですか」
「やれやれ、野蛮人の首魁は礼儀も知らんと見える」
アマドーンが軽侮を露骨に示し、近衛兵の顔色が変わった。一方のレアルトラは怒るよりも先に冷静になっている。
「わたしも暇ではありません。不快な用事は速やかに片付けたいのですが」
「まあいい、そちらの流儀に合わせてやろう」
とアマドーンは偉そうに言い、本題を切り出した。
「コナハト軍がブリ=ルリ山脈を越えて我が国に侵入している。一体何の理由があってこんな無法な真似をする。お前達の言い訳を聞かせてもらおうか」
「言い訳は何も」
レアルトラはにっこりと笑った。
「いずれはこの軍もブリ=ルリ山脈を越えます。鉄杖党員を皆殺しにし、ムーマの大地を血と死体で埋め尽くして見せますわ」
「こっ……この狂人が……」
アマドーンは少しの間絶句するが、すぐに戦闘態勢を立て直した。
「要求を言え! 我々にも少しは譲る用意はある! リール湖の東はお前達に返してやる! だから」
「ええ、もちろんわたしも少しは妥協する用意がありますわ」
レアルトラの言葉にアマドーンは露骨に安堵の様子を見せた。だが、レアルトラが列挙したその要求にアマドーンは顔色を変える。
「わたしが要求するのは――鉄杖党の党員とその家族、全員の生命。鉄杖党に協力し、コナハト人を虐げて利益を得てきた者、その全員の生命。モイ=トゥラの全土と、ムーマの半分の領土」
「馬鹿げている!」
アマドーンが吐き捨て、レアルトラは残念そうな素振りをした。
「そうですか……自ら全てを差し出していれば慈悲をもって、苦しめずに死なせてあげたのですが」
「そんな要求に従って我々に何が残るのだ!」
「罪のないムーマ人が生き残りますわ。それ以上何を望むのですか?」
不思議そうにそう言うレアルトラに、アマドーンは「話にならん!」と癇癪を起こした。それを受けてレアルトラは爽やかに笑い、
「では交渉は決裂ということで。わたし達は実力で全てを手にしますわ」
「ま、待て」
とアマドーンがすがるような姿勢を見せる。
「我々には神威魔法があるのだぞ? この百年負け続けだったことを忘れたか?」
「わたし達には『導く者』がおられることをもうお忘れですか?」
「ひ……卑怯だぞ!」
アマドーンの非難にレアルトラは目を丸くした。
「魔法を使えなくするなど、そんな卑怯な真似が許されるのか!」
「……わたし達が『邪悪魔法は卑怯だから使うな』と要求していたなら、あなた達は『なるほど』とそれを受け入れたのですか?」
「そんなわけはないだろう」
アマドーンはそう断言し、何ら恥じなかった。
「そもそもコナハトの方が圧倒的に人口も兵数も多かったのだ。我々が神威魔法を手にしてようやく両国は対等となったのだ」
「それでは昨年、ムーマが我が国で雪イナゴをばらまいたのは?」
「あんなもの、コナハトのでっち上げだ! 一部の者の暴走をことさらに大げさに言い立てているだけだ!」
レアルトラは沈黙した。仮面のような微笑みを浮かべたまま、ただ黙っている。アマドーンを囲む近衛兵は殺意を横溢させていた。「そのムーマ人を串刺しにしろ」という命令を今や遅しと待ちかねている。
「……なるほど、よき勉強となりましたわ」
不意にレアルトラは晴れやかに笑った。
「今後、モイ=トゥラで何が起こってもわたし達はそう言えばいいのですね」
アマドーンが何か言う前に、レアルトラは側に控える侍女の一人に「ところで」と声をかけた。
「この者をどうしたらいいと思いますか?」
その侍女は溢れんばかりの殺意を視線に込めている。
「……そのよく回る舌を抜いたらいいと思います」
それに対し「いや、待て」と手を挙げたのは臨席していた将軍の一人である。
「舌など一枚しかないだろう。歯を全部抜くべきだ」
「骨はもっとたくさんあります。骨を全部折るべきです」
と書記官が意見を具申。さらには近衛兵の一人が、
「両手両脚を切り落としたらいい。あれは面白かった」
と提案した。アマドーンはそのやりとりに目を白黒させている。
「それでは姫様、どれをお選びに?」
ジェイラナッハの確認にレアルトラはその日一番の笑顔で己が選択を示した。
「もちろん、その全てを」
ただ呆然とし、現実を受け入れられない様子のアマドーンを何人かの近衛兵が拘束。アマドーンは、
「わ、私はムーマの評議会最高執行委員会、外交特使だぞ!」
とようやく声を出すが、聞く耳を持つ者は一人もいない。アマドーンはそのまま引きずられてどこかへと消えていく。……その夜、コナハト軍の陣中ではアマドーンの悲鳴や絶叫が一晩中聞こえ続けていたが、レアルトラはそれを子守歌に安らかな眠りに就いていたという。
その後――アマドーンは船でムーマ王都へと帰還する。アマドーンの移送を請け負ったのは、補給物資を売りにコナハト軍の下へとやってきていたムーマ系商会である。
「死なないうちに送り届けてくれ」
というコナハト軍の依頼に、その商人は「畏まりましてございます」と身を震わせながら平伏するばかりだった。その商人も「嫌な仕事はできるだけ早く片付けたい」と思ったのだろう。足の速い船を使い、途中の寄港も必要最低限にし、最速で海を進む。そうしてアマドーンが王都カティル=コン=ロイに到着したのは 始祖暦二五〇二年フェアブラの月(第四月)に入ったばかりの頃だった。
その商人は港にアマドーンを置き去りにするようにして、逃げ出すようにさっさと出港していく。港からの連絡により王城が迎えの者を送り、アマドーンが登城し――
「こ……こんな」
変わり果てたアマドーンの姿を目の当たりにし、王太子にして王国宰相バイル=エアガルはただ立ち尽くした。身体も頭脳も声帯も凍り付いたかのように動かない。まるで自分が氷でできた彫像になってしまったかのようだ。そしてそれはバイル=エアガルだけではない。宮廷の誰も彼もが凍り付いている。まるで雪の魔物が全てを凍らせたかのように――。
アマドーンは生きていた。舌を抜かれ、歯を全部抜かれ、数え切れないくらいに全身の骨を折られ、両手両脚を切り落とされても、まだ生きていた。それらの処置に際し、レアルトラは医者を立ち会わせ、度々止血をさせ、鎮痛剤を処方させ、アマドーンが死なないよう最大限努力させた、その結果である。
「……こんな……こんなことが許されるのか!」
バイル=エアガルは己が恐怖を振り払うために、恐怖を怒りで上書きするために怒号を上げる。だがその声は震え、裏返っていた。
「外交特使にこのような野蛮の極みを……コナハト許すまじ! 凶悪な水ネズミ共に正義の鉄槌を下すのだ! 今すぐに全軍で進軍せよ!」
バイル=エアガルが拳を振り上げ……宮廷は静まり返っていた。彼に追随する者がいない、同調する者がいない。誰もが気まずそうに目を逸らしている。バイル=エアガルの中でやり場のない怒りが渦を巻き、彼は八つ当たりで自分が座っていた椅子を蹴倒した。
――アマドーンの無残な姿はいくつかの事実をムーマへと突き付けていた。一つは、コナハトはムーマと交渉する気が寸毫たりともないこと。一つは、コナハトの憎悪がムーマの想像を絶するほどに深く、烈しいこと。そして最後の一つは、これがレアルトラとコナハト軍の予告であり、通告であるということ。
「――お前達もいずれこうなるのだ」
アマドーンは切り取られた舌で、全ての歯を抜かれた口で、啼くことしかできない喉で、それを何よりも誰よりも雄弁に物語っていた。




