第三五話「ガランラハンの戦い」
この回から本格的にR15の本領発揮です。閲覧は自己責任でお願いします。
ときは始祖暦二五〇二年サヴァンの月(第一月)中旬。場所はカアーナ=マートから一五〇マイル北のガランラハンという町、その近くの平原。
レアルトラの率いるコナハト軍はガランラハンの平原でムーマ軍と対陣していた。コナハト軍は総勢一〇万。その後背にもう一〇万の集団が存在しているが、それはモイ=トゥラに移住しようとしている非武装の民間人である。
それに対するムーマ軍は二〇万、当然ながら足手まといの民間人など引き連れていない。千を超える魔道兵を始めとし、騎兵部隊、ゴーレム部隊、火砲部隊等、コナハト軍にはろくにない装備も充実している。兵数の差は一目瞭然、戦力の差も歴然だった。
七斗が今いる場所はコナハト軍の本陣で、七斗の隣にはレアルトラが座っている。周囲にいるのはジェイラナッハを始めとする将軍達。そして視線の先に存在するのはムーマ軍だ。広大な盆地を挟み、数キロメートル先に蠢く二〇万もの人の群れ。その全てが武装した敵兵であり、七斗達へと殺意の刃を向けているのだ。七斗は今すぐこの場から逃げ出したくて仕方なかった。まるで自分一人にだけ邪悪魔法が使われているかのようだ。
「お、王女様……」
「ナナト様、どうか落ち着いてください」
レアルトラの口調はまるで自分に言い聞かせているかのようだった。
「わたしは信じています。『導く者』の加護を。ナナト様がもたらしてくれたオルゴールの力を」
大丈夫なはずです、という言葉を七斗は口の中だけで呟いた。昨日のうちにアルデイリムと魔道兵がオルゴールの故障の有無と効果範囲を何度も何度も確認している。オルゴールを装備した特務部隊はガランラハンの平原を包囲するように配置されており、命令が下されれば即座に敵軍全ての魔法を封じ込める手筈となっていた。
「オルゴールが期待通りに動いてくれるとして……二倍の敵にどういう作戦を」
「作戦などありません」
レアルトラがそう答え、七斗は思わず「え」とレアルトラの横顔を凝視した。感情の全く読めない、その横顔を。
「作戦など必要ありません。ムーマ軍と正面から戦い、蹴散らすまで」
七斗は「そうですか……」としか言えない。七斗の胃は穴が空くかと思うほどの痛みを訴えていた。
――数日前にレアルトラがジェイラナッハに同じ質問をしたのだが、ジェイラナッハの答えは「作戦など立てようがありませぬ」という、身も蓋もない代物だった。
「精密で技巧に富んだ作戦でムーマ軍を翻弄し、倍の敵を封殺する――仮にそのような作戦を誰かが思いついたとして、今の我が軍がそれを実行できましょうか? 今の我が軍の練度をご覧ください。寄せ集めの、女子供や年寄りも大勢混じった、今の我が軍の有様を。正直申しまして、前進と後退の合図を判らせるのが精一杯かと……」
「それではどのようにムーマと戦うつもりなのですか」
「作戦など必要ありませぬ」
とジェイラナッハは拳を握りしめた。
「オルゴールが予定通りに働くことを信じ、全軍でただ前へと突撃するのみ……!」
もしオルゴールが敵に対して効果を発揮しないなら、コナハト軍は春に溶け残った雪のようにムーマ軍に踏みにじられて、全ては終わりとなるだろう。レアルトラはそれを理解し、それでも「判りました」と頷いた。ジェイラナッハの判断と方針を是とし、「導く者」の加護に全てを懸けたのだ。
早朝から両軍が集結を開始し、太陽がそれなりの高さとなる頃にようやくそれが終わった。時刻は午前一〇時頃だろうか。
「姫様、そろそろよろしきかと」
「はい。では合図を」
レアルトラの命令を受けてアルデイリムがオルゴールのスイッチを入れ、ボタンの一つを連打した。それは指揮官用の特製オルゴールであり、モールス式の簡易通信機が組み込まれている。通信を受け取ったのはガランラハンの平原を包囲している各オルゴール部隊である。
「隊長、合図です!」
「よし、オルゴールを起動しろ」
六台のオルゴールがほぼ同時に起動。音もなく起動したそれは先進波の受信を開始する。
「あれ?」
最初に異常を察知したのはムーマ軍の魔道兵、そのうちの通信魔法を使う兵士だ。
「故障したのか? こんなときに」
通信魔法が突然使えなくなり、その魔道兵は舌打ちする。彼はそれを通信機の故障によるものと判断していた。彼は上官にそのことを報告する。その上官が将軍に報告し、
「通信魔法が全く使えない? どういうことだそれは!」
部下の会話を耳に挟んだ将軍ゲアルヘームは怒鳴り散らした。
「まったく、我が軍が水ネズミ共を蹴散らし、コナハトを滅ぼすその有様を本国に逐一報告してやろうと思っておったのに」
不機嫌となったゲアルヘームに参謀の一人が「コナハト軍が前進を開始しました」と報告する。ゲアルヘームは八つ当たりするように命じた。
「こちらも前進だ、水ネズミ共を皆殺しにしろ!」
ゲアルヘームは命令を下し……彼にとって戦いはもう終わったも同然だった。コナハトは兵数でも装備でも劣る上に神威魔法に対抗する手段を持っていない。ムーマが負ける理由は何もないのだから。ゲアルヘームは人生の絶頂にあり――すぐ一歩先が奈落まで続く断崖だとは想像もしていなかった。
「……何だ? 何を騒いでいる?」
部下の動きが何やら慌ただしい。伝令がひっきりなしに出入りし、参謀が右往左往している。将軍が動揺を怒鳴り声で隠している。混乱は一秒ごとに加速しているかのようだった。
「魔法が……通信魔法だけでなく発光魔法も使えません」
「進軍の命令を下すことができません!」
「ゴーレムが全く動きません!」
「敵が、敵が目の前に!」
ゲアルヘームには何が起こっているのか理解できない。だが彼には部下の混乱を収拾する責務があった。彼は力強く命令する。
「何を騒いでいる! 魔道兵部隊に神威魔法を使用させろ!」
「し、神威魔法も使えません……」
その端的な報告にムーマ軍本陣は時間が止まったかのように静まり返った。
「ば……ば……馬鹿なことを言うな!」
ゲアルヘームは聞き苦しい声で怒鳴ることくらいしかできない。
「魔法が使えなくなっているだと?! そんな馬鹿なことが起きるはずがない!」
ゲアルヘームがいくら現実を否認しようと、現実の方は彼を逃しはしなかった。本陣の外から声が聞こえてくる。一〇万の敵兵が声を揃えて進軍している。それがもう目と鼻の先まで迫っている。
「『導く者』の加護ぞあり!!」
「『導く者』の加護ぞあり!!」
「『導く者』の加護ぞあり!!!」
一〇万の兵がそれを唱和している。一人一人が喉も裂けよとばかりに絶叫し、それが一〇万重なり、連なっているのだ。一〇万の声は地響きとなって大地を揺るがし、怒濤となってムーマ軍に襲いかかった。
「『導く者』の加護ぞあり!!」
「『導く者』の加護ぞあり!!」
「『導く者』の加護ぞあり!!!」
声を揃えたコナハト兵が突撃してくる。恐怖は盲信で抑え込まれ、その背中は狂気で後押しされ、その足はますます回転を速めている。それを迎撃するはずのムーマ兵は動揺する一方だった。
「前進するのか、後退するのか?! どっちなんだ!」
「動かなくていいのか?! 指示を!」
「何故命令が何もないんだ!」
「どうして神威魔法の援護がない?!」
前線で各部隊を預かる部隊長は上からの指示が何も降りてこず、どうしていいか判らないでいる。そうやって時間を無駄にしているうちについにコナハト兵とムーマ兵が激突し――いや、それは激突などではなかった。戦いなどではなかった。ムーマ兵は逃げ出す一方なのだから。ほんの数合も交えないうちにムーマ兵は後退する。後退が動揺を呼び、動揺が後退を促進する。ムーマ軍はまるでドミノ倒しのように総崩れとなった。
――彼はブライスという名のモイ=トゥラの貧農出身で、ムーマ軍に属していた兵士の一人だった。貧農の四男だったブライスは食うために他に手段がなく、ムーマ軍の兵士となったのだ。コナハトと戦い、同胞と血を流し合うことに抵抗がないわけではなかったが、彼は「それもコナハトに生まれた運命だ」と受け入れ、諦めていた。幸いと言っていいのかどうかはともかく、これまで何度も戦場に出たが手柄を得るような機会に恵まれたことは一度もない。ただ、槍を持って味方の兵の後ろを付いて歩いていただけである。
――今、彼の命数は尽きようとしていた。ムーマ軍は総崩れとなり、壊乱状態となっている。誰も彼もが北に向かって必死に逃げていて、ブライスもまたその中の一人だった。その彼等をコナハト軍が追いかけている。刀を振り回し、槍をかざして追いかけてくる。
「くそっ、くそっ、何でこんなことに……!」
必死に逃げるブライスだが、運悪く石か何かにつまづいて転んでしまった。味方は彼が逃げ遅れたことにも気付かない。あっと言う間にその背中が遠ざかってしまう。そして同じ時間のうちにコナハト軍の刃がブライスの背中を捉えようとしていた。
「……!」
ブライスは何も考えていなかった。持っていた槍を捨てて両手を高々と挙げ、
「『導く者』の加護ぞあり!!」
力の限りその一言を唱える。涙が溢れる目を固く瞑り、両手を挙げたまま、
「『導く者』の加護ぞあり『導く者』の加護ぞあり『導く者』の加護ぞあり!」
ひたすらそれを唱え続けた。彼を殺そうとしていたコナハト兵が剣を引くが、ブライスはそのことにも気がつかずにそれを唱え続けている。コナハト兵の一人が彼の背中を強く叩き、ようやくブライスは目を開く。周囲の状況が目に入ったようだった。
「行くぞ」
頼もしげににやりと笑い、走り出すのは背中を叩いたコナハト兵のようだった。ブライスの目からはまた涙が溢れる――だがそれは全く違う理由によるものだった。
「『導く者』の加護ぞあり!!」
ブライスは槍を拾い上げて走り出す。北へと向かって、コナハト兵の一人として、コナハト軍の一員として。
ムーマ軍の数が急速に減じている。血は大して流れていないのに、ムーマ軍の総数が二〇万から一九万、一八万と減少しているのだ。ムーマ軍は刻一刻と千、万という兵を失っている。その兵がどこに行ったかは問うまでもない。コナハト軍に合流しているのだ。
つい先ほどまでムーマ軍としてコナハト軍に対峙していた兵士が数分後にはコナハト軍の一員としてムーマ軍に刃を向けている。脱走とコナハト軍への合流は兵士単位だけでなく部隊単位でも起こっていた。
「お前達、何を勝手なことを――」
それを見咎めたムーマ人の百人隊長は背中を剣で一突きされて永遠に沈黙した。多数のムーマ人が敵との戦いでなく味方の裏切りにより死んでいった。
今や脱走と裏切りはムーマ軍全体に広がっていた。二〇万のムーマ軍のうちムーマ人は五千ほどで、残りは全てコナハト系の農民だ。コナハト系の一兵卒にコナハト軍と死力を尽くして戦う義理などあるはずもなく、戦況が不利になれば我先に逃げ出すに決まっている。ましてや、「導く者」の生存とその力を今まさに見せつけられているのだ。許されるなら誰だってコナハト軍に寝返ろうとするだろうし、手土産代わりと今までの恨みを晴らすためにムーマ人の上官を殺そうとするのも理の当然だった。
今、ここにムーマ人の軍人でファーガスという男がいる。彼は今回の戦場で百人隊長として二〇〇人弱の兵士を率いていた……だが、今の彼には部下は同じムーマ人の二人しかいない。彼が率いるはずの二〇〇人は敵であり、彼等は敵中に孤立していた。
ファーガスとその部下二人の前に二〇〇人の兵士がいるが、その全員がコナハト系である。彼等は今、ちらちらと後ろを振り向いて意味深な視線をファーガス達に送っている。兵士達の目には明確に殺意の灯火が宿っていた。
「……」
ファーガスには何もできない。今できるのは威厳を保ち、兵士に隙を見せないことくらいである。隙を見せたなら彼等は一瞬でファーガス達を串刺しにしてしまうだろう。
「……どうして……どうしてこんなことに」
ファーガスの胸中では後悔が黒い渦を巻いている。彼はこれまでくり返し戦場に出、手柄首を挙げてきた歴戦の勇者である。手柄首の中にはコナハトの有名な戦士も混じっている(もっとも、彼はその戦士を多数の味方に包囲させて弓で散々手傷を負わせた上で討ち取っただけなのだが)。
「今回の戦いだって以前と同じではなかったのか。神威魔法でコナハトを壊乱させて逃げ惑う敵を討ち取るだけではなかったのか。一体何が起こっている。どうしてこんなことに……」
ファーガスは脂汗を流し、逃げ出す隙をひたすらに窺っていた。だが二〇〇の人間の四〇〇の目がファーガスを縛り付けている。ファーガスは身動き一つ取ることができない。ただこうしていても破局はいずれやってくる。そうなる前に動くべきなのに、動いた途端に全てが終わるのが目に見えているため動くことができないでいる。
だが、破局の訪れは時間の問題でしかなかったのだ。今、ファーガスの目の前で演じられているのがそれだった。
「助けて、助けて」
一人のムーマ人が血まみれになって転がり出てくる。それを追っているのはコナハト系の兵士達だ。ファーガス達の、その部下の兵士達の目の前で、コナハト系兵士が集団で上官であるムーマ軍人を殺そうとしているのだ。
「お、お前達! こんなことをしてただで済むと……」
声を震わせてそのムーマ軍人が兵士を脅そうとするが、兵士達は嗤うだけである。
「ただで済まないならどうなるんだ? 神威魔法を使うか? 使ってみろよ」
「俺達には『導く者』がいるんだ。魔法が使えない貴様等に何ができるか、やって見せろよ!」
兵士の一人が槍をそのムーマ軍人の太腿に突き刺す。噴水のように血が吹き出、そのムーマ人は情けない悲鳴を上げ、兵士達はゲラゲラと笑った。兵士の一人はそのムーマ軍人の耳を下から上へと力任せに引っ張り、耳を引きちぎった。別の一人は剣を使って鼻をそぎ落とした。
それらの行為が今、ファーガスの目の前で展開されている。ファーガスの部下達がその光景を目の当たりにしている。ファーガスの全身は凍り付いた。喉が渇き、声が枯れる。全身から汗が流れ、心臓は破れんばかりに早鐘を打った。
止めろ、と言うべきだった。自分の兵士に命じてその暴虐を止めさせるべきだった。ほんの一時間前ならそれが当然だったのに、今はそれができない。だって……兵士達が後ろを振り返ってファーガスを見ている。ファーガスを見て、笑っている。何もできないファーガスを見て。
「ひっ……ひっ……!」
今さらながらファーガスは逃げ出そうとした。兵士達に背を向け、彼は走り出そうとする。だが足はまるで泥濘に取られたかのように思うように前に進まない。それはほんの一、二秒の時間のロスだったが、彼の命運を尽きさせるにはそれで充分だった。
兵士の一人が踏み込んで剣を一閃、ファーガスのアキレス腱が断ち切られる。
「あがががが!」
足を抱えてうずくまるファーガス。気がつけば彼は兵士達に包囲されていた。彼の部下だったコナハト系の兵士達に。
「どこに行かれるのですか? 隊長殿」
「我々を置いて行かないでくださいよ、隊長殿」
兵士達は一様に薄笑いを浮かべて馬鹿丁寧な口調でそう言う。ファーガスはもう何も考えられなかった。痴呆のように「助けて、助けて」とくり返すことしかできないでいる。
「ご安心ください、隊長殿。殺しはしませんよ――簡単には」
兵士達は笑っていた。狂喜を無理に抑え込むかのように笑っていた。百年分の艱難辛苦と屈辱、搾取と抑圧――その全ての恨みをようやく晴らす機会を得、彼等は笑っている。
「あ、あ、あ……」
ファーガスは自分が小便を漏らしていることにも気付いていなかった。いっそ狂気に陥ることができたなら――ファーガスはそう願う。あいにくそれは叶えられなかったが。
ムーマ軍は最早内部から崩壊し、すでに軍隊の体を成していなかった。コナハト系兵士の反乱は全軍・全部隊に及んでいる。本陣のゲアルヘームは何ら有効な手を打てず、ただ時間を無駄にするだけだ。
「おのれ……おのれ……水ネズミ共め……」
コナハトをこの手で滅ぼし、ムーマの歴史に不朽の名を残し、その先は王国宰相となり……彼が思い描いていた極彩色の予定表は今やただの妄想と化している。それどころかこのままでは自らの生命すら危うかった。
「将軍! どうか指示を、指揮を!」
参謀が、部下の将軍達がゲアルヘームに全軍の指揮を求めている。
「とにかく味方をここに集結させるのだ、集まって防御を固める!」
ゲアルヘームは一応それらしい指示を出し、参謀や伝令兵はそれを実行するべく即座に動き出した。その場に残っているのはゲアルヘームの腹心の将軍が何人かである。
「……大将軍ゲアルヘーム、最早我が軍に敵の攻勢を支えることは」
腹心の一人が脱出を進言しようとしたとき、ゲアルヘームは手振りでその口を塞いだ。
「判っている、これは容易ならざる事態である!」
ゲアルヘームが力強く言い、腹心達は怪訝な顔をした。
「コナハトの『導く者』が生きており、何らかの方法で我等の魔法を封じている――この情報は何としても本国に伝えなければならぬ。ムーマは今すぐに、総力を挙げてコナハトの脅威に備えなければならぬのだ」
一応相槌を打つ腹心の将軍達。彼等を満足げに見回したゲアルヘームは厳かに宣言した。
「この情報を一刻も早く伝えるために、私は戦線を離脱する。お前達は残った兵をまとめて時間を稼げ」
それだけを言い残したゲアルヘームは身を翻し、風のように速やかに去っていく。将軍達が止める間もない早業で、残された者は唖然とするばかりだった。彼等が再起動を果たすのにそれほどの時間は必要なかったが、
「ど、どうする。どうすればいい」
「どうもこうも……とりあえず命令通りに」
「冗談じゃないぞ、あのクソ野郎! 自分一人だけ逃げやがって!」
事態は悪化する一方だった。最後まで踏み止まるべきゲアルヘームが誰よりも先に逃げ出したのだ。ムーマ軍の士気は地の底へと落ち、無責任と自己保身の空気が広がった。ゲアルヘームの腹心の将軍のうち、一人はゲアルヘームを追って逃げ出し、別の一人は違う方向へと逃げ出した。将軍以下の参謀達も櫛の歯が欠けるように逃げ出している。残った将軍はラグという名の者だけだが、実際のところ彼は他の者より少し要領が悪く、少し逃げ遅れただけである。ラグは要領の良かった他の者よりは多少なりとも責任感を持っていたが、彼とてゲアルヘームのために死ぬのはゴメンだった。
「この会戦はもう終わりだ、残存兵を率いて離脱する。一人でも多くをクルアハンまで逃すことを考えなければ」
ラグは本陣に集まってきたムーマ人を率いて行動を開始した。その数は二千に届かず、まだまだ多数のムーマ人が敵中に取り残されていた。だが彼等を助けることはもう不可能だ。三千のムーマ人が三〇万のコナハト人の手中にある――復讐に胸を焦がすコナハト人の。
ラグは頭を強く振って感傷を振り切った。今や三〇万に膨れあがったコナハト軍から、その魔手から逃れなければならないのだから。同情や感傷に囚われ、ほんのわずかでも判断を誤ったなら、ラグが率いる二千も敵中の三千と同じ運命をたどるだけになるだろう。
「行くぞ!」
ラグと二千の兵は後退を開始した。いや、それは前進である。生き延びるために前へと進むのだ。後方からコナハト軍が追いすがるが、銃を撃ち放って敵を怯ませる。その隙にラグ達は前へと進み、距離を稼ぎ続けた。
「いいぞ、このまま進む!」
二千の兵は全力で走り続けた。コナハト軍は追跡を続けているが距離はどんどんと開いていく。間もなく平原を抜けて森に入ろうとするところである。
「森に入ってしまえば敵は大軍を展開できない、このまま敵の追撃を振り切って……!」
助かる、助かったとラグが確信したその瞬間、ラグの敗北は決定した。森の中から放たれた無数の銃弾がラグと二千の兵へと襲いかかる。先頭を走っていた兵がばたばたと倒れ、ラグ自身も脚を撃ち抜かれて地面に倒れ伏した。
「な、何が……」
首だけを上へと向けたラグの前に、その答えが姿を現す。火縄銃で武装したコナハト兵が、矢を番えたコナハト兵が、槍を構えたコナハト兵がゆっくりと接近してきている。万に達するコナハトの一軍がラグ達を包囲する。さらに背後からもコナハト軍の追撃部隊が急接近している。最早どう考えても逃げようがない。戦意を喪失した兵士達は武器を放り出し、地面にひれ伏して許しを請うている。
だが、ラグは立ち上がった。傷口から血が吹き出るのも構わず、両脚に力を込めて大地を踏み締める。ラグは前線で、自分の目で見ていたのだ。コナハト軍に掴まったムーマ人がどうなったのかを。どんな目に遭わされたのかを。
「お前達、怯むな! コナハトは捕虜など取らん! このままでは」
ラグは力の限り声を出して周囲を叱咤し――そのラグの口に矢が飛び込んだ。鏃がラグの口の内側から延髄を突き抜けて貫く。一瞬で絶命したラグはそのままゆっくりと倒れた。
「ひいっ、ひぃっ!」
ムーマ人が頭を抱えて悲鳴を上げる。「武器を捨てろ!」というコナハト兵の命令に、彼は反射的に武器を放り捨てていた。前後から万の兵に包囲され、ラグが率いていた二千は武装解除されていく。その様子をイフラーンは冷たい目で見つめていた。
「『コナハトは捕虜など取らん』――確かにその通りだ、ムーマ人。ブレスやお前達と同じようにな」
二〇〇〇年以上の慣習と慣例の積み重ねにより、この世界では「捕虜を殺害しない、虐待を加えない」等の不文律が成立しており、四ヶ国は長らくこの不文律に則って戦争を続けてきた。それを一方的に破ってコナハト軍の捕虜を殺害してきたのはブレスであり、ムーマ軍は今日に至るまでブレスのその方針を守り続けている。
「お前達がやってきたことを、今度はお前達がされる番となったのだ。よもや文句は言わんだろう?」
武装解除したムーマ兵に隊列を作らせ、コナハト軍は三方向からムーマ兵を囲んだ。中央にムーマ兵、その左右と後方にコナハト軍が配置。コナハト軍はムーマ兵を囲んだまま元来た方向へと、南へと移動する。南では三〇万のコナハト軍が、ムーマ兵捕虜の到着を待っていた――近くの林や竹藪を切り出し、何千本もの杭や竹槍を用意して。
目の前の光景は、まさに地獄だった。
時刻は太陽が没する直前の逢魔が時。夕陽が何もかも赤く染めている……大地を、人間を、かつて人間だったものを。
モズの速贄のように杭に突き刺さっているのは人間だった。杭は一本だけではない。視力の及ぶ限り、人間が突き刺さった杭が等間隔で延々と並んでいる。人間は一人残らず全裸で、杭は人間の肛門から突き刺さり、先端は口から突き出ていた。
当然ながら多くの者が息絶えているが、驚くべきことにその状態で生き長らえている者も少なくなかった。だがそれは何の救いにもなっていない。生き延びている者は一様に、涙の流れる目で訴えていた。声にならない声で哀願していた。殺してくれ、殺してくれ、と。だがその願いを叶えようとする者は皆無である。
串刺しになってない者もいるが、その者の高く挙げられた両掌はナイフで貫かれていて、そのナイフは杭に突き刺っている。簡易的な磔であり――その状態で、腹を割かれていた。肋骨から下の腹が扉のように大きく開かれ、内臓が外へと引きずり出されている。何メートルにもなる腸が足下で伸ばされていて、通りすがる者達によって踏みにじられていた。
ある者は、肛門から突き刺さった竹槍の先端が首の横、肩からから飛び出している。さらに二本の竹槍が左右からその身体を貫いていて、その者は竹槍に串刺しになった状態で、身体をねじった奇妙な姿勢のまま絶命していた。
ある者は両手両脚を断ち切られ、まるで芋虫のような身体となっていた。両肩と両脚の傷口――断面は焼け石か何かを押し当てて消毒と止血をしており、今すぐに死ぬことはなさそうだった……本人の切望とは裏腹に。
ある者は両目をえぐり出されていた。ある者は歯の全部と舌を抜かれていた。ある者は全身の皮を剥がされていた。ある者は全身の骨を折られていた。
ある者には腹がはち切れる寸前まで水を飲ませて、二人の兵士がその者の腹の上で飛び跳ねた。その者は血反吐を吐き、のたうち回って苦しんでいる。その様子に周囲の兵士が笑っている。
コナハトの兵士は思いつく限りの暴力と虐待をムーマの軍人に加えていた。無力化が目的ではない。彼等がどんな情報を持とうとどうでもいい。ムーマ人に人間が体感できる最大限の痛みを、苦しみを――コナハト人はただ純粋にそれを思い、それを願い、あらゆる思いつきを試している。一人一人が創意工夫を重ねている。それはまるでアマチュア芸術家集団による前衛芸術活動のようだ。素人が素人なりに工夫した奇怪なオブジェが数え切れないくらいに並んでいる。ただ、そこに使用されている材料は全て生きた人間、または生きていた人間だった。
「……こ、こんな」
その光景を目の当たりにした七斗は胃の中のものを吐き出していた。四つん這いとなり、食べたものを全て吐き、胃酸を吐いて、吐くものがなくなっても吐き気は止まらない。涙を流しながら、苦痛に呻きながら嘔吐を続け、激しく咳き込んでいる。咳と一緒に飛び散った赤い飛沫は喉が裂けて流れ出た血だと思われた。
「まあ、ナナト様。大丈夫ですか?」
背後からかけられたレアルトラの声に、七斗は口を拭いながら立ち上がった。
「王女様、これは、これは、こんなの……」
七斗は自分の思いをまともな言葉にできないでいる。レアルトラは首を傾げながらも七斗の言いたいことを推測する。少しの時間を経て、レアルトラは七斗にどのように応えるべきかをまとめたようだった。
「――素晴らしい光景でしょう?」
七斗は最初、聞き間違いだと思った。自分がこの世界の言葉の意味を取り違えたのだと。だがレアルトラはたおやかで美しい微笑みを見せている。両手を広げ、七斗へとこの光景を誇示している。地獄そのもののこの有様を。
「お……王女さま……?」
「ですがナナト様、これはまだほんの始まりに過ぎませんわ。近いうちにモイ=トゥラ中にこんな光景が広がります。たったの何千人でなく、何百万というムーマ人がこうやって、苦しんで、苦しみ抜いて、血だまりの中でのたうち回りながら死んでいくのですわ」
晴れやかに笑うレアルトラはまるで踊るように身を翻した。レアルトラには一片の躊躇も疑問もない。この地獄をモイ=トゥラ中に広げることに。何百万という人間に暴虐の限りを尽くして皆殺しにすることに。
「お、王女さま……」
七斗は言葉もなくただ立ち尽くしている。浮かれたレアルトラが意味もなく二回転、三回転して歩いていく様は、水の妖精が軽やかなスキップを踏んでいるかのようだった。少女が花園で小鳥と戯れているかのようだった。だがこの花園に咲いているのは美しい花々ではなく、死体と、人間の部品と、苦痛に呻く人間らしきものだった。鳥のさえずりの代わりに聞こえてくるのは、殺してくれという哀願の声と、呪ってやるという怨嗟の声だった。
今のこの光景は地獄そのもので、あまりに恐ろしい。だがそれ以上に、レアルトラの有様が恐ろしかった。想像を絶する、その憤怒と憎悪の深さが何よりも戦慄すべきものだった。
「父上、見ていてくださっていますか? レアルトラはムーマ人を一人残らず地獄へと堕とします。どうかわたしを見守っていてください」
レアルトラは聖なる使命感をもって、この地獄を大陸中に広げようとしていた。誰が立ちはだかろうと、どのような困難があろうと、彼女は最後まで進み続けるだろう。ムーマ人の血と肉を泥濘となるまで踏みにじり、そこに何千マイルもの轍を刻み込んで――
復讐に狂奔するコナハト軍を止めるものは何もない。七斗の必死の諫言もレアルトラの心には届かなかった。盤石と思われたレアルトラの七斗への信頼、コナハトとラギンの同盟も揺らいでいく。
殺戮をほしいままにするレアルトラ、それを諫めようとする七斗。レアルトラに接近するウラドの王太子シュリクス、それを危惧する宰相ドウーラガル。暴走するラギンの王妃ゲアラハ、その前に立ちふさがる王太子ブライム。そして自国民を守るために生命を懸けるムーマの王子エイリ=アマフ、私欲のためにその邪魔をする将軍ゲアルヘーム。
コナハト軍は怒濤のごとくモイ=トゥラを侵攻し、ムーマにそれを阻む力はなく――モイ=トゥラ全土は戦火に包まれ、流されるムーマ人の血は大河となった。モイ=トゥラの大地は血と炎で真紅に染まり、紅蓮の地獄と化していく……
「水の国へ愛をこめて・紅蓮篇」近日更新開始(予定)
――ということで、「紅蓮篇」は執筆途中でまだまだ終わりは見えませんが、適当なところで更新していこうと思います。1月末くらいからと考えていますので、今しばらくお待ちください。




