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水の国へ愛をこめて  作者: 亜蒼行
烈風篇
31/69

第三〇話「王妃ゲアラハ」その2

 それから少しの――多少の、それなりの時間を置いて。

 ゲアラハの涙は未だ止まっていなかったが、大分落ち着いた様子である。オノールが予備のハンカチを使ってゲアラハの涙をその手で拭おうとするが、ゲアラハはそのハンカチをひったくって自分で涙を拭いていた。


「……つまりは『導く者』は死んでいなかったということか?」


 ブライムの確認にジェイラナッハは「は」と頷く。


「ムーマの襲撃を受けて死んだふりをしていたと」


「襲撃は実際にあったことで、『導く者』は何日も生死の境を彷徨いました。ようやく助かったそのときには、『導く者』は両足の動かぬ身体となっておったのです」


 まあ、とゲアラハは痛ましげな顔をし、オノールは深々と頷いている。


「なるほど、そんな危険な状態だったのならいっそ死んだことにしてムーマの目をごまかした方が確かに賢明だ」


 我が意を得たり、とばかりにジェイラナッハは大きく頷いた。……本当のところはジェイラナッハもまた公爵グラースタのその策略に騙された側であり、オノールに褒められてもあまり嬉しくはなかった。「何日も生死の境を彷徨い」云々も又聞きした話でしかない。


「ムーマの監視の目から逃れた『導く者』は研究を進め、ムーマを打倒するための切り札を作り上げました。それがこのオルゴールです」


 ジェイラナッハが誇らしげにオルゴールを指し示し、ゲアラハ達は興味深げにその機械を見回している。


「今は効果の範囲を最小まで絞っておりますが、その気になればこれ一台で数マイル四方の魔法を封じ込めることができます」


「これが一台あればムーマの腐れ魔道士どもも……ウラドのゴーレムには?」


「もちろん同様に」


 その回答にブライムは「おお」と感嘆した。続いてゲアラハが確認する。


「コナハトは、レアルトラは今、これを必要台数用意するのに総力を挙げているのですね」


「まさしく」


 とジェイラナッハは大きく頷いた。そしてその両眼に意志の力が込められる。


「――ですが、オルゴールの構造は複雑で魔晶石を始めとする高価な部品を数多く必要とします。どんなに急いでも、腕のいい職人一人が一月かけて一台作れるかどうか……」


 それを聞いたブライムが腕を組み、難しい顔で唸り出した。


「モイ=トゥラ奪還のためにコナハトは、女子供年寄りだろうと動ける人間を根こそぎ動員してモイ=トゥラに侵攻するつもりだろう? モイ=トゥラのコナハト人に決起を促すつもりだろう?」


 ジェイラナッハは無言のまま頷く。


「戦場は一つや二つでなく、あの広大なモイ=トゥラ全域に広がることになる。この機械が本当のオルゴールのように複雑で精密なら故障もするだろう。それも考えると……五〇〇……いや、最低でも一〇〇〇台はないことには」


 まさしく、と言いながらもジェイラナッハは内心で舌を巻いていた。ブライムの提示した戦略や計算は全てジェイラナッハ達が立てた計画をそのままなぞったかのようだった。


「なるほど、そのために必要とする資金が一〇〇万リブラですか」


「確かにムーマは我が国にとっても最大の脅威だ。それを取り除く好機なのは判るが、それにしても一〇〇万リブラは……」


 とオノールは多量の汗を拭っている。ゲアラハは、


「早く金を出せ、そこでジャンプしてみろ」


 と言わんばかりの目をオノールに向け、オノールはますます汗を絞り出した。だがオノールにも国王としての責任感はあり、そう簡単に「はい」とは言えないでいる。その上ジェイラナッハが、


「――ラギンに対する支援の要求がもう一つ」


 と言い出してしまう。支援の話が振り出しに戻りかねない話のもっていき方に、ゲアラハは思わず舌打ちをした。


「その内容は?」


 ジェイラナッハは「は」と頷き――何呼吸かを置いて。


「我が国はオルゴールを作るための職人を大量に必要としております。魔晶石細工だけとは限りませぬ。ラギンの職人を一人でも多くコナハトにお送りいただきたい――人数は四〇〇人」


「将軍ジェイラナッハ、それは無理だ」


 オノールが即答する。思わずゲアラハが「陛下」と抗議しようとし、オノールはそれを手で制した。


「コナハトに四〇〇人もの職人を送るとして、それで一〇〇〇台のオルゴールを作り上げるとして、それが終わったならラギンの職人達はどうなる?」


 オノールの問いにゲアラハは沈黙する。答えないゲアラハに代わってオノールが自ら回答した。


「オルゴールの秘密を守るために殺されるか、殺されないまでも、この先何十年もずっとコナハトに留め置かれることとなるだろう。事実上の永住となるが、コナハトへの永住を希望する職人が……将軍には申し訳ないが、ただの一人でもいるとは思えない」


 ジェイラナッハは無言のままである。オノールの後をブライムが続けた。


「それでも四〇〇人もの職人を用意するなら、彼等を騙すか、剣を突きつけて無理矢理連れていく、でもするしかない。我が国の職人を根こそぎにするようにしてコナハトに送って、それが一人も帰ってこない……さすがにそんなことは認められんだろう、母上」


 ゲアラハは悔しげに唇を噛み締めるが、反論の言葉は一つも出てこないでいる。ゲアラハがレアルトラの立場でもそうするに決まっている。いくらラギンが友好国で同盟国であろうと、オルゴールの作り方を覚えた職人をそのまま帰国させるわけがない。


「『夏になる前に職人の全員を、一人も欠けることなくラギンへとお返しする』――王女レアルトラはそれを約束しております」


 ジェイラナッハが静かに言ったその言葉を、その意味を誰もが理解できなかった。十数回呼吸する時間を置いて、ようやくその宣言の意味が脳裏に浸透し、理解が及ぶようになる。だが理性や常識はその理解を拒絶していた。


「ジェイラナッハ、あなたは何を……」


 呆然としたように問うゲアラハに対し、ジェイラナッハは同じ言葉を何度でもくり返した。


「『できるだけ早く、職人の全員をラギンへとお返しする』、『決して一人も殺さない、コナハトに留め置いたままにはしない』――摂政レアルトラは国王グリアンの名に誓ってそれを約束する、と申しております」


 ジェイラナッハが泰然とそれを告げる一方、レアルトラが本気だと理解したゲアラハは到底悠然としてはいられなかった。


「何を言っているのです、それが何を意味するのか判っているのですか! 百年間待ちに待って、ようやく召喚した『導く者』が伝えた異世界の技術……何もないコナハトの唯一の希望ではないですか! いくら支援の見返りでも、それを他国に供与するなど――」


 そう、それはラギンに対する技術供与に他ならない。帰国した職人達がオルゴールの作り方を覚えていないわけがないのだから。ラギンが彼等にオルゴールを作らせないわけがないのだから。


「一〇〇万リブラの支援をしてくれるならオルゴールの作り方について技術供与する」


 レアルトラは今のコナハトが有する最強の、だがたった一枚しかない切り札を支援の交換条件として切ってきたのだ。

 ジェイラナッハは苦笑しながら手振りでゲアラハを落ち着かせようとする。ゲアラハは不満げな様子だが、一旦口を閉ざした。


「――王妃ゲアラハ、『導く者』がもたらしたこのオルゴール。この機械に何ができるとお思いですか?」


「何が?」


 とゲアラハは戸惑いに首を傾げた。


「それは、魔法を封じ込めることが……」


「はい、その通り――それしかできんのです。これは」


 しばしの間、その部屋の中を沈黙が満たした。


「知っての通り、コナハトの魔道兵部隊は大陸で一番小さく弱く、貧相です。万が一コナハトとラギンが敵対したとして、ラギンが我が国にこのオルゴールを向けたとしても……正直言って我が国は痛くも痒くもありませぬ」


「通信魔法が使えないのは不便だな。だが敵も条件が同じならやりようはあるだろう」


 とブライム。ラギンの強みは火縄銃・大砲等の火砲部隊で、魔道兵は補助的な役割しか果たしていない。「オルゴールを向けられてもラギンの強さは失われない――コナハトと同じように」とブライムは言外に語っていた。


「それに、ラギンにムーマと総力で戦ってもらうにはオルゴールを装備せねば話になりますまい。今はムーマに必勝を期することを、彼の国を滅ぼすことを優先すべき、というのが王女レアルトラの判断です」


「確かにそうですが」


 とゲアラハは頷きつつも、百年待ってようやく手にしたコナハトの優位性をあっさりと捨て去ることに抵抗を覚えずにはいられないようだった。そんなゲアラハにジェイラナッハが「心配はご無用ですぞ」と破顔する。


「今はオルゴールを作り上げることに全力を投じておりますが、『導く者』にはコナハトを豊かにするための腹案が、様々な機械や発明品の発案がおありになるとのこと。オルゴールを他国が作れるようになったところで何の影響も心配もない、と太鼓判を押してくれましたわ」


「それは本当ですか?」


 ゲアラハの確認にジェイラナッハは満腔の自信を持って大きく頷く。それは七斗がジェイラナッハやレアルトラの前で示したのと全く同じ態度だった。


「オルゴールは戦争にしか使えません。庶民の生活を豊かにする役には立ちません。モイ=トゥラを奪還して資金的な余裕ができたなら、作りたいものが山ほどあります。無線やスピーカーは戦争にも使えるから大分前から作りかけていますし、ラジオ、電話、発電機、モーター、電灯――一生かけても全部の再現は無理なくらいのアイディアがあります。それらはきっとコナハトを豊かな国にしてくれるはずです」


 七斗が胸を張ってそう保証し、レアルトラはキラキラと輝く瞳で七斗を見つめた。


「この国が……コナハトが大陸のどの国よりも豊かになれるのですね。コナハトの民に健やかな暮らしを送らせることができるのですね」


「ええ。でもそのためにはこの戦争に確実に勝たないと」


「ええ、もちろん。言うまでもないことです」


 ――と、ジェイラナッハは七斗とレアルトラのやりとりをゲアラハ達の前で再現した。


「この戦争に確実に勝つ――まさしくその通りです。これがムーマを滅ぼす、最初で最後の好機……!」


 とゲアラハは拳を握りしめる。彼女は覚悟を決めていた。どれだけの顰蹙を買おうと、この先発言権の一切を失おうと、たとえ離縁されることになろうと、たとえ幽閉されてこの先の一生を暗く狭い部屋で過ごすことになろうと、たとえ暗殺されることになろうと――一〇〇万リブラの資金支援を必ず実現させると。


「親父、元は取れる。俺が取ってやる。だから頼む」


 ブライムが力強くそう請け負う。それだけでゲアラハの瞳からは涙が流れそうになった。オノールの気持ちは支援実行の方に大きく動いていたが、それを決定づけたのは息子の宣言だった。オノールは深く頷き、国王として決断を下す。


「――判った。一〇〇万リブラの資金支援と四〇〇人の職人の支援、ラギンはこれを実行しよう」


 ジェイラナッハとゲアラハは同時に涙を吹き出した。目の堤防が決壊したかのごとく滂沱の涙を流している。


「これで……これでコナハトは救われる! 摂政レアルトラと全てのコナハトの民に代わり、ラギンに感謝を……!」


「ムーマに……ムーマにこの恨みを晴らす日がやってこようとは……! 兄上、どうかご照覧ください……!」


 ジェイラナッハとゲアラハは長い長い時間、飽きることなく涙を流していた。











 始祖暦二五〇一年ルーナサの月(第一〇月)の中旬、コナハトとラギンの間で秘密協定が成立。ラギンがコナハトに対して一〇〇万リブラの資金援助をする一方、コナハトはラギンに対してオルゴール作製の技術供与をすることで合意する。

 この合意に基づいてラギンは国中から職人をかき集める。魔晶石細工を始めとする職人達は二〇人程度を一班として順次コナハトへと向けて船によって送り出された。最後の第二〇班がラギンを発ってコナハトへと向かったのは、メアン=フォーワルの月(第一一月)の中旬になろうとする頃だった。




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