第二九話「王妃ゲアラハ」その1
ジェイラナッハはラギンに向かっていた。
コナハトから見ればラギンは大陸の反対側だ。二つの国の間にはムーマが、モイ=トゥラが横たわっている。コナハトからラギンに行くには外洋を大回りするか、ウラドを経由するか、あるいはモイ=トゥラを縦断するしかない。ジェイラナッハが選んだのは最も早くラギンへと行ける道――外洋を大回りする経路である。
王都カアーナ=マートを出立したジェイラナッハは陸路でグーン=ナ=ンガルへと向かい、そこから船で大陸の反対側を目指した。ジェイラナッハは水軍の中で最も頼りになる提督クロガンを自らの足として選び、クロガンはジェイラナッハの期待に全力で応えた。難破の危険を顧みず昼夜を問わずに東の海を突き進み、万里の波濤を越えること約半月。ジェイラナッハはラギン王都ルスカへと入港する。ときに始祖暦二五〇一年ルーナサの月(第一〇月)の中旬になろうとする頃である。
ジェイラナッハがルスカの王城へと入城する頃にはすでに夕陽が没していた。ジェイラナッハはその夜はそのまま迎賓館に案内され、貴人との面会もないまま一夜を過ごすこととなる。ジェイラナッハは早々に就寝し、爆睡し、ひとまずは旅の疲れを癒すことに専念した。
そしてその翌朝。
迎賓館で朝食を終えたジェイラナッハの下に来客があった。ジェイラナッハは大広間でそれらの賓客と応対する。
「久しいですね、ジェイラナッハ。三〇年ぶりになりますか」
「ま、まさか姫様……」
姫様はおやめなさい、と笑うのはラギン王妃のゲアラハだった。ゲアラハはコナハト国王グリアンの妹であり、ラギンに嫁ぐまではジェイラナッハとも兄妹のように親しくしていた仲である。大陸の反対側に嫁いだゲアラハに帰国の機会があるはずもなく、今回の再会は実に三〇年ぶりのことだった。
「おおおっっ、姫さまっっっ」
感激のあまりジェイラナッハは滂沱のごとく涙を流し、そんなジェイラナッハをゲアラハは懐かしく、微笑ましく眺めている。……同行していたラギン国王とその息子は唖然とするばかりだったが。
それから少しばかりの時間を経て。大広間のソファにはジェイラナッハが身を沈めている。その背後ではクロガンが直立不動で屹立していた。ジェイラナッハの前には黒壇のテーブルがあり、それを挟んで向かっているのはラギン国王と王妃、そして王太子だ。
王妃ゲアラハの容貌はレアルトラと非常によく似ていて、違うのは年齢くらいのものだった。レアルトラに三〇年の歳月を加算すればそれはそのままゲアラハとなるだろう。その肌は雪の女王のように白く、その髪は夜の女王のように漆黒だ。
それとは対照的なのがラギン国王オノールだった。小麦色に焼けた肌と赤色の髪はラギン人共通の特徴であり、オノールも例外ではない。オノールは身長が低く、横に太い体格だ。汗っかきのようでずっと手放さないハンカチで始終汗を拭っている。人が良く温厚そうに見える分、国王としての威厳とは無縁の人物だった。
そしてその国王オノールとまた対照的なのが王太子ブライムだ。年齢は二〇代の後半、身長はジェイラナッハより少し低いくらいで、つまりはかなりの長身。無駄なく鍛えられた分厚い筋肉が鎧のように全身を覆っている。狼のように精悍で獰猛な顔立ちで、頬の刀傷がその印象を強調していた。大きな刀傷が口の左端から始まり、頬を横断してもみあげの側にまで至っている。まるで口の大きさが普通の何倍もあるかのように見え、それが異相・凶相を際立たせているのだ。
(ふむ、これが「狂戦士」ブライム……なるほど、なかなかの武者ぶりよ)
ジェイラナッハは興味深げにブライムを見つめ、ブライムは愛嬌のある笑みでその視線を受け止めた。ブライムは普段は父親と変わらないくらいに穏やかで温厚だが、一度戦場に立てば恐れを知らず被害を顧みず暴れ狂って戦う「狂戦士」として、その名を大陸に轟かせている。
「ここでの会談は非公式のもの、あくまで旧交を温めるために歓談するだけ。交渉じみたやりとりがあったとしても、それは本交渉を円滑にするためのただの相互理解と打ち合わせだと、そのように理解しなさい」
ゲアラハの言葉にジェイラナッハは「は」と小さく頭を下げた。
(……つまりはここでの交渉が本当の本交渉。この先の「本交渉」は儀式的なものに過ぎぬということか)
とジェイラナッハは理解した。ただ旧交を温めるだけの歓談に国王と王太子が顔を揃え、人目を忍んでジェイラナッハの下を訪れる必要があるはずもない。
ジェイラナッハもこの程度の機微は理解できるだろうと、ゲアラハは思っている。ここでの交渉を「非公式」とするのはゲアラハの立場を守るためだった。コナハトへの支援が関わる問題でゲアラハが一切の私心なく、ラギンの利益だけを考えて判断し行動する――そんなことができるはずもない。ゲアラハ自身もそれを認めているし、仮にゲアラハが、
「わたしはラギンの利益だけを考えて判断したのだ」
と主張したとしても周囲は、臣下は決してそのように見はしない。
「潰れかけの祖国にラギンの富を注ぎ込んでいる」
「ラギンの民の税をコナハトの貧民を食わせるために使っている」
と、そのように見られるに決まっている。だからゲアラハはコナハトにからむ政策には一切関わらず、口を挟もうとはしなかったのだ――これまでは。
ムーマに「導く者」を殺され、さらに雪イナゴまでばらまかれ、コナハトの滅亡はすでに目前となっている。この中でレアルトラがラギンに対して何を要求しようというのか――それを考えるとゲアラハはもう沈黙のままで、傍観者のままでいられはしなかった。
(この期に及んでどんな支援を要求しようというのでしょうか。もしその要求に何の戦略も展望もなく、ただ無為に滅亡の時期を先送りにするだけのものであれば……最早祖国をあの子に任せておくことはできません)
ゲアラハはコナハトのために第二の祖国ラギンを、子や夫を捨てることすら選択肢に入れていた。
(わたしが帰国し、コナハト最後の王となりましょう。ムーマ人を一人でも多く地獄に道連れにし、コナハトの意地をムーマ人の心胆に刻み込んでやりましょう。レアルトラはラギンに亡命させて、流亡の王朝であろうとコナハトの血を未来につないでくれれば……)
ゲアラハはそこまで思い詰めてこの非公式の交渉に臨んでいるのだ。オノールもブライムもゲアラハのその覚悟までは判るはずもないが、尋常ならざる気配を漂わせていることは容易に判る。一方のジェイラナッハはゲアラハの覚悟を判っているのかいないのか、
「――コナハト摂政レアルトラ殿下はラギンに対し、対ムーマ戦争における共闘を、そのための支援を要請しております」
コナハトの、レアルトラの要求を無造作に無造作に突きつけた。
「……コナハト軍は雪解けと同時にモイ=トゥラへと進軍すると、公言している。コナハトがムーマに仕掛けるのと同時にラギンもムーマを挑発せよ、ということか」
王太子ブライムの確認にジェイラナッハは「挑発ではありませぬ」と首を振った。
「ラギンにもまた総力でムーマに侵攻することを求めております。ムーマを滅ぼし、コナハトとラギン、二つの国でムーマの領土を分割するのです」
ブライムが理解に苦しんでいるような顔となった。それはオノールやゲアラハも同様だ。ジェイラナッハはそれを無視し、黒壇のテーブルに地図を広げた。ジェイラナッハはムーマ国内の(モイ=トゥラを除く本来のムーマ領の)概ね中央に位置する山脈を指でなぞった。
「このリーグ山脈をコナハトとラギン、それぞれの勢力圏の境界線とするのが現実的ではないかと愚考するのですが、如何に?」
「愚考と言うより痴人の妄想でしょう、それは」
呆れ果てた、といった口調でばっさり斬り捨てたのはゲアラハである。オノールとブライムは内心で「言い切ったー!」と絶叫している。
「あなたもあの子も、過酷な現実に心が負けて妄想に逃げ込むようになったのでしょうか」
とゲアラハは深々とため息をついた。一方面罵されたジェイラナッハは、
「確かに、今までのコナハトならムーマに勝つことすら至難。彼の国を滅ぼすことなど夢のまた夢、負け犬が自らを慰めるための妄想に過ぎなかったでしょうな」
「……何か、ムーマに勝つための算段があると?」
オノールの問いにジェイラナッハは無言のまま頷く。疑わしげなゲアラハの「それは?」という問いをジェイラナッハは無視した。
「もちろんその勝ち筋を掴むことは容易ではありませぬが、それが揃えば我が国はムーマに勝てるのです。今我が国は持てる全ての力をそれに注いでおるのです……ラギンにはこれに対する資金の援助を願いたい」
「金額はいかほど?」
「一〇〇万リブラ」
ジェイラナッハの端的な回答にオノール達が沈黙した。ラギン一国の歳入の総額が五〇〇万リブラである。ジェイラナッハはその二割を支援として要求しており――法外以前の、馬鹿らしいとしか言いようのない数字だった。
長い長い沈黙が続き……ゲアラハがゆらりと立ち上がった。ゲアラハは短剣を手にしていて――その柄をジェイラナッハへと向ける。
「もうよろしい、そなたはここで切腹なさい。せめてわたしが介錯いたしましょう」
氷よりも冷ややかなゲアラハの命令を受け――ジェイラナッハは悪戯が成功したかのようににやりと笑った。ジェイラナッハが後ろを振り向いて視線でクロガンに命令し、クロガンが小さく頷く。ジェイラナッハが黒壇のテーブルから地図を取り去るのと同時に、テーブルの上に勢いよく何かが置かれた。縦横五〇センチメートル程度、奥行き一メートル程度の木の箱である。
「ええっと、確か……」
「大将軍、このスイッチです」
「おお、そうか」
何やらごそごそとやっている巨漢の二人に、オノール達は怪訝な顔をした。
「将軍、これは?」
オノールの問いにジェイラナッハは答えない。ジェイラナッハは悪童めいた笑みを浮かべたままゲアラハへと向き直った。
「姫様、この老体は叶うなら姫様の魔法で地獄へと送られとうございます」
「……よろしいでしょう。そこに直りなさい」
怪訝な思いを真剣な顔で覆ったゲアラハがその依頼を承諾する。ジェイラナッハとゲアラハがテーブルから少し離れた場所に移動し、数メートルの距離を置いて対峙した。杖をかざしたゲアラハが精神を集中させて火炎の攻撃魔法を発動しようとし、
「な……」
と驚きに目を見張った。ゲアラハは目を瞑り、全精神力を注ぎ込んで魔法を発動しようとする。ゲアラハの額から汗が噴き出た。
「どうしたのだ? 王妃よ」
「母上、何が起こっているのだ?」
魔法の才能が乏しいオノールとブライムは何が起こっているのか判らず、不思議そうにするだけだ。ずっと目を瞑っていたゲアラハが、やがて刮目した。元々大きい目をこぼれ落ちそうなほどに見開き、小さく震えるその両眼がジェイラナッハの不敵な笑みを捉える。
「ジェイラナッハよ、これは……これは一体何事なのです。どうしてこのように……」
「『導く者』ナナト殿はその機械をオルゴールと呼んでおります」
ゲアラハの身体は短くない時間、呼吸すら忘れ去った。呼吸音すら聞こえない完璧な沈黙が大広間を支配する。
「それがしも原理の説明も受けましたが、何が何やらさっぱりでしたわ。ですが理屈はともかくとして、その機械を使えば魔法を封じ込めることができるのです――この大陸に存在するありとあらゆる魔法を」
「そ、それならばムーマの邪悪魔法も……」
ゲアラハの確認にジェイラナッハが力強く頷く。ゲアラハは腰が抜けたように座り込み、やがて涙を流し出した。ブライムだけではない、オノールにとってもそれは初めて見るゲアラハの涙だった。留めなく流れる涙が絨毯を濡らしていく。
「……父上、母上、兄上……! ようやくこの日が、この日が……! 見ておりますか、兄上……! コナハトはようやくこの日を、この日を迎えたのです……!」
ゲアラハは一生分の涙を振り絞っている。このまま全身の水分を涙として流し去って、それで死んでしまっても何一つ悔いはないように思われた。
「おおっっ、姫さまっっ」
ジェイラナッハはゲアラハの感涙に心から共感し、一緒になって涙を流した。クロガンもまた一同から背を向け、こっそりと涙を拭っている。一方のオノールとブライムは暖かくゲアラハを見守っていた……置き去りにされたような当惑の笑みを半分くらい浮かべながら。




