第二話「王女レアルトラ」
今、七斗とレアルトラは大広間の近くに設置された茶室にいる。
――茶室である。広さは四畳半で畳風のマットが敷かれ、壁は障子風の格子模様。床の間には竹の花瓶が置かれ、中央には囲炉裏があり、そこでは鉄瓶が火にかけられている。まるで西洋人がうろ覚えの知識と手元にある建材だけで茶室を再現しようとし、努力はしたけど微妙な結果になってしまったかのようだ。
レアルトラは杓子でお湯をくみ、茶筅で抹茶をとき、茶碗を七斗へと差し出した。
「どうぞ楽になさってくださいね?」
「はあ、どうも……」
気さくな口調でそう言うレアルトラ。あるいは七斗が緊張していると勘違いしているのかもしれないが、七斗は面食らっているだけである。白いドレスの、西洋人らしきレアルトラが正座して、色々と間違っている茶室でお茶を立てている……シュールとしか言いようのない状況だ。七斗はとりあえず抹茶をすすって喉を潤した。
「うん、おいしい」
「いえ、お粗末様です」
物珍しげに周囲を見回す七斗の様子に、レアルトラは小さく笑った。
「他の国の……いえ、他の世界の方には珍しく見えるかもしれませんわね」
「いえ、珍しいというか、元いた場所によく似ているのが奇妙に思えて」
七斗の回答にレアルトラは目を丸くした。
「まあ、ナナト様は先代のマゴロク様と同じ国から来られたのでしょうか」
「先代?」
七斗の問いにレアルトラは「はい」と応える。
「先代の『導く者』マゴロク様は様々な知識や文化をわたし達に伝えてくださいました。この茶の湯もマゴロク様が伝えた文化の一つです」
「そうか、そりゃそうだ、僕が最初じゃないんだ……その『導く者』ってこれまで何人くらい――いや、そもそも僕を喚び出して何をさせるつもりなんですか? 今この国は一体どうなって……」
レアルトラは無言のまま手を七斗へと向けて七斗を制する。七斗は口からあふれ出た疑問の数々を一旦呑み込んだ。二呼吸ばかり置いて、
「時間は充分にあります、ナナト様が納得されるまでいくらでも疑問にお答えしますわ。……ですが、まずはわたしの方から順番に説明した方がよろしいかと思います」
レアルトラの示したその方針に、七斗の方も異存はなかった。
「昔々の大昔、今から二五〇〇年前。この大陸には人間は一人もいませんでした」
レアルトラの口調は小さな子供に絵本を読み聞かせるときのものとなった。さらにレアルトラは事前に用意していた紙芝居を七斗に向けて演じている。
「あの……」
躊躇いがちな七斗の呼びかけにレアルトラは「はい、何でしょう?」とにっこり応える。
「……いえ、何でもありません。続けてください」
突っ込みの衝動を抑え込んだ七斗は素直にレアルトラの昔話に耳を傾けることとした。レアルトラの優しく涼やかな声が心地よく耳に響く。
「この大陸にいるのは地水火風の精霊だけでした。精霊達はここにいるのが自分達だけで心細く寂しくなったので、他の世界に声をかけたのです。
『この大陸に来てくれる人はいませんか?』
『わたし達の友達になってくれる人はいませんか?』
――その声を聞き届けたのが始祖セゼールでした。彼女は心優しい人だったので、精霊の声に応えてこの大陸にやってきたのです」
紙芝居の中では一人の女性が大地の真ん中に立っている様子が描かれていた。
「始祖セゼールがやってきて精霊は寂しくなくなりました。精霊達は始祖セゼールと一緒に毎日楽しく暮らしました。ですが、その一方セゼールは寂しくなったのです。
『良人となってくれる人がほしい、子供を産みたい、家族がほしい』
――と。精霊達はセゼールの願いを叶えました。セゼールをこの大陸に招いたのと同じように、魔法を使って他の世界からフィンタンという男の人を喚び寄せたのです」
レアルトラは、女性の隣りに一人の男が立っている絵を提示した。絵は切り替わり、今度は女性と男、そして四人の子供が描かれている。
「セゼールとフィンタンは結婚し、四人の息子を儲けました。さらには召使いになる人を他の世界からたくさん喚び寄せます。森を切り拓いて畑を作る人も喚び寄せます。そうして集まった人々は村を作り、町を作り、やがては国を作ります。そして始祖セゼールはその国の女王様となりました」
絵の中では女王となったセゼールを大勢の人々が崇めていた。
「女王セゼールが統治する平和で豊かな時代が長く続きましたが、やがてはそれも終わります。年老いたセゼールが病気になり、国を治められなくなりました。セゼールに代わって誰がこの国を統治するのか――セゼールの四人の息子達はそれぞれ『自分がこの国を支配する』と言い出し、諍いを始めたのです」
四人の男が何かを言い争っている絵。その次の絵には、武装した多数の兵士が進軍する様子が描かれていた。
「やがて四人の王子はそれぞれ軍を率い、戦うようになりました。王子達は元からいた人達を兵士にするだけでなく、精霊に命じて他の世界からたくさんの兵士を喚び寄せます。兵士だけでなく、火を吐く竜、一つ目の巨人、動く巨大な石像なども喚び寄せられ、無理矢理戦わされました」
竜や巨人が血を流して戦っている。そしてその足下には無数の兵士が、その死体が……。
「たくさんの人が兵士として召喚されましたが、それでもこの大陸が空になるかと思うくらいにたくさんの人々が死んでいきました。ついに我慢できなくなったセゼールは召喚魔法に必要な祭具を自分の手で壊してしまいます。セゼールは召喚魔法を使えないようにしたのです」
絵の中では砕かれた何かの破片を前に、四人の男達が何やら嘆いていた。
「兵士や竜を他の世界から喚び寄せることができなくなり、四人の王子達は戦いをやめ、大陸を四つの国に分けることになりました。セゼールの四人の息子達は今に続く四つの王国を作り出し、四つの王家の始祖となりました」
円に近い形の大陸に×状に線を引いて、四人の男が大陸を四分割している。四人の男はそれぞれの態度で「この土地は俺のものだ」とアピールしていた。
「やがてセゼールが天に召されるときとなりました。セゼールは四人の息子達が反省しているのを見て、四人に召喚魔法を使うことを少しだけ許しました。
『召喚は百年に一度だけ。その国が本当に必要としている人物を一人だけ喚んでいい』
――こうして四つの王家は順番に百年に一度、『導く者』を召喚するようになったのです」
なるほど、と七斗は内心で頷いた。
「『導く者』の一人は様々な新しい魔法を伝えました。また一人は医療技術を伝え、たくさんの人々を病から救います。また一人は航海技術を伝え、以前よりも交易が盛んに行われるようになりました。歴代の『導く者』が伝えた数々の知識や技術は、今のわたし達の生活に欠かせないものとなっているのです……」
ご静聴ありがとうございました、とレアルトラが一礼。七斗は軽く拍手をした。
「これはあくまで子供向けのおとぎ話です。史実とは違っているところもありますが……一度にまとめてたくさんの説明をしても頭に入らないでしょうから、今の時点ではこれで概要だけ判っていただければ、と思ったのですが」
「お気遣いありがとうございます、とても判りやすかったです。細かいところは追々教えてもらえればいいかと思います」
やや不安そうなレアルトラに七斗がそう言い、レアルトラは安堵の様子を見せた。
今のおとぎ話を聞いてまず七斗が抱いたのは、
「始祖セゼールは本当に自分の意志でこの世界にやってきたのか?」
という疑問だった。
もしかしたらセゼールは元いた世界では魔法の研究者で、魔法の事故や失敗で間違えてこの世界にやってきたのかもしれない。あるいは、セゼールは元いた世界から追放されてこの世界にやってきた可能性だって考えられる。が、二五〇〇年も前の歴史上の疑問点を追求するのはもっと余裕ができてからでいいだろう。
不意に、茶室の戸がノックされた。
「姫様、お食事をお持ちいたしました」
「はい、ありがとうございます」
現れたのはお膳を用意した侍女である。ヴィクトリアンメイドっぽい装いの彼女はそれをレアルトラと七斗の前へと置き、
「それではどうぞ、ごゆっくり」
と一礼して去っていく。レアルトラは微笑みながら七斗へと食事を勧めた。
「大したものはありませんが、どうぞお食べください」
「ありがとうございます」
用意されているのは米のご飯とみそ汁、それに葉野菜の漬物とアジか何かの焼き魚だった。
「それじゃいただきます」
「はい、召し上がってください」
七斗が勢いよくそれを食い、レアルトラもまた箸を器用に使ってそれを食べている。
(正直言ってそこまでおいしくないけど)
米は甘みが足りず、奇妙な風味に違和感を覚える。みそ汁は恐ろしく塩辛い上に嫌な臭みがあり、漬け物もまた塩分過多だった。が、芋虫を生きたまま食べて飢えをしのいでいた逃亡中を思えばこの日本的で人間的な食事に文句があろうはずもない。
一方のレアルトラは――涙を流していた。
「あ、あの」
と焦る七斗と、そっと涙を拭うレアルトラ。
「ごめんなさい。稗や粟ではない、お米のご飯があまりに美味しくて、つい」
レアルトラは涙と一緒に米の飯を存分に噛み締め、味わっている。七斗は呆然としながらその様子を眺めていた。
(仮にも一国のお姫さまがそんな食生活なのか? 一体どんだけ貧乏なんだよ、水の国)
……そして昼食が終わり、七斗達は城塞中央の大広間に移動。そこでレアルトラによるこの世界の説明・第二部が始まることとなる。
「それでは次に、こちらをご覧ください」
とレアルトラが取り出したのは大きな地図だ。大きな丸に小さな丸をくっつけたような形の大陸が紙面いっぱいに描かれており、数え切れないほどの山や川や湖が入り江が細かく描き込まれている。太い線で記されているのは国境線だろうか。
「これがこの世界……」
その地図が元の世界と違っているのは、南が上に位置していることだ。向かって右が西・左が東・下が北となっている。気候は南の方が寒冷で、北の方が温暖とのこと。
「ここってやっぱり南半球……」
季節が逆転していることなどからあるいはそうでないかと疑っていたが、どうやらそれが事実であるらしい。
「この大陸の名前は何て言うんですか?」
「わたし達はただ単に『大陸』と呼んでいますが、他の世界から来られた方々は『四精霊の大陸』と呼んでおりますわ」
四精霊の大陸――七斗はその名を舌の上で転がした。
「この大陸には四つの国があるんですよね」
「はい。
東にあるのが土の国・ウラド。
北にあるのが火の国・ラギン。
西にあるのが風の国・ムーマ。
そして南にあるのがわたし達の水の国・コナハトですわ」
とレアルトラは誇らしげに胸を張る。……が、地図上の南の国は西の国に圧迫されて南に追いやられているようにしか見えなかった。西の国が大陸の半分を領有し、残りを三ヶ国で分け合っているような状態だ。だが最南に位置し、気候が寒冷な南の国は一番割を食っているものと思われた。
「あの、西の国と比べると小さいですよね。何か理由が――」
何かが軋む音が聞こえた。見ると、レアルトラが激しい感情を抑え込むように歯を食いしばっている。一〇を数えるほどの時間を経て、レアルトラは気持ちを落ち着かせるように深く呼吸した。
「……失礼をいたしました」
七斗は「いえ」とだけしか言えない。レアルトラは冷静な口調を保つよう努めた。
「大陸全体の人口は八千万とされていますが、そのうちの半数がこの地に住んでいると言われておりますわ。――モイ=トゥラ。先代『導く者』のマゴロク様が切り拓いた土地です」
とレアルトラが指し示したのは西の国南部、西の国の国土の大部分。南の国のすぐ下に接する土地である。
「建国から二四〇〇年間、このモイ=トゥラはずっとコナハトの土地でした。『水の国』の名そのままに、モイ=トゥラはその土地の大半が川や湖、湿地や沼地です。わたし達は、コナハトの民は主に漁業を営み、水の恵みで生計を立ててきたのです。
その頃のコナハトは農業に向いた土地が非常に少なく、国も民も到底裕福とは言えない状況でした。当時のコナハト王はきっと『農業をもっと盛んにして国を豊かにしたい』と願っていたに違いありません。その願いを叶えるために召喚されたのが先代『導く者』・マゴロク様……ちょうど四〇〇年前のことです」
四〇〇年前、と七斗は相槌を打った。
「はい。マゴロク様はわたし達に水稲栽培を伝えましたわ。マゴロク様の指揮の下、当時の国王は水路と貯水池を整備し、沼地を埋め立てて水田と畑を作り出し、稲作と米食の奨励を推し進めました。
――マゴロク様が伝えたお米は本当に素晴らしい食物でしたわ。狭い土地でも大量に収穫できて、連作障害も起こらず、脱穀が簡単で、製粉せずとも美味しく食べることができる。栽培に手間がかかり水を大量に使うという欠点はありますが、前者はともかく後者はモイ=トゥラという土地においては欠点たり得ません。稲作と米食は急速にコナハト全土に広がっていったのです」
箸やお椀といった食器、味噌といった食材も米食と一緒に広まったのだろうと七斗は推測した。レアルトラを始めとするコナハトの人々は揃って白人種に属しているし、服装や建物、武具も西洋風だ。彼等はずっと元の世界のヨーロッパ圏に近い文化を育ててきたが、四〇〇年前そこに食を中心とする日本文化が導入されたのだ。
「条件さえ揃えば米は麦よりずっと生産性の高い穀物だ。パン食が廃れて米食が中心になってしまっても不思議はない。粘度の高い日本米を食べるならスプーンやフォークじゃやっぱり不便で、箸が普及したんだろう」
元の世界でも、たとえば今アフリカで主食の地位にあるのは新大陸生まれのトウモロコシだし、ジャガイモはアイルランドで主食となるほど普及したという史実もある。小麦をイギリスに奪われていたから、という理由もあるものの、優れた作物が主食の地位を奪い取るのは起こり得ないことではないのだ。
「湿地が水田となり、大量の米が収穫されるようになり、漁業だけでは養えなかった多数の人口を養えるようになります。モイ=トゥラの人口は急速に増えていきました。増えた人口を養うためにますます灌漑と開梱が進められ、ますます収穫が増え、ますます人口が増え……三〇〇年を経てモイ=トゥラの多くの土地が水田となり、その人口は四千万を超えます。コナハトは人口・国土・経済力で他の三国を圧倒するようになりました」
大陸全土で人口は八千万。そのうちの四千万がコナハトなら、他の三国全部とコナハト一国が同等ということだ。産業革命以前なら人口の多さとその国の経済力はほぼイコールで結ばれる。経済力でも、他の三国全部が手を結んでようやくコナハト一国と対等となれる――そんな状態だったのだろう。
「風の国・ムーマはモイ=トゥラのすぐ隣にある国です。コナハトの発展に最も圧迫され、危機感を抱いていたのはこの国でした。彼等はおそらく『少ない人口でもコナハトに対抗できるようになりたい』という願いを抱いたのでしょう。……そして一〇〇年前、その望みを叶える『導く者』が召喚されたのです」
レアルトラから説明はなかったが、まず四〇〇年前にコナハトが「導く者」・マゴロクを召喚。その次の三〇〇年前と二〇〇年前に、順番は判らないがウラドとラギンがそれぞれ「導く者」を召喚したのだろう。そして一〇〇年前にムーマの順番が回ってきたのだ。
「ムーマの『導く者』は魔法に関する新技術の数々をもたらしました。ムーマの邪悪魔法にコナハトは対抗する術を持たず、わたし達は連戦連敗を喫します。国土は次々と奪われていき、一〇年を経ずしてモイ=トゥラ全土がムーマに併呑されました。モイ=トゥラは大陸最大の穀倉地帯。それが生み出す富もまた莫大なものです。ムーマが圧倒的な経済力を手にする一方、わたし達は国土も人口も大半を喪ってしまい……コナハトがムーマに対抗することは絶望的に困難となりました」
そうなるだろうな、と七斗は内心で相槌を打った。モイ=トゥラという穀倉地帯を有していたが故にコナハトには他の三国を圧倒する力があったのに、その力の源泉を奪われてしまったのだ。その上それを実現したムーマの技術的優位はそのままなのである。
「わたし達に残されたのは、かつては流刑地だった大陸最南の、この不毛の土地だけ。その地ですらムーマによる蚕食が続き、わたし達は氷の海へと追いやられようとしています。その上ここ二〇年は冷害や蝗害が特にひどく、多くの民が難民となって他国に避難していき……そうでない民は」
レアルトラはそこで言葉を詰まらせた。言葉と一緒に涙があふれ出ようとし、それを塞き止めているが故に言葉が出てこない。レアルトラが説明を再開したのはかなりの時間を置いてからである。
「……今の我が国の人口は三〇〇万。二〇年前の半分になってしまいました」
六〇〇万が三〇〇万――もちろん消えた三〇〇万の全員が死んだわけではない。その多くが他国に移住した難民であるはずだ。……が、何万、あるいは何十万という人間が餓死したこともまたこの国の冷厳たる現実だった。
「このままの状態があと一〇年も続いていたならコナハトという国は大陸から消え去っていたことでしょう。……ですが、今のわたし達には『導く者』が、ナナト様がいます」
レアルトラの表情が豹変した。それはまるで恋する乙女のように幸福そうで、頬は桜色に上気している――そして、その瞳は底なしの穴のように深い漆黒だった。
「――」
声が出ない。身動き一つできない。まるで七斗の全身が鉄鎖で雁字搦めにされているかのよう……いや、実際に見えない鎖が七斗を縛り付けている。
絶対ニ逃サナイ――レアルトラの黒い瞳が百万言よりも雄弁にそう物語っていた。
「この百年、コナハト王家を守るために一体どれほどの血が流されたことでしょう。彼等を見捨てて南の果てまで逃げ出したのに、モイ=トゥラの民は未だコナハト王家を敬慕し、ムーマの目を盗んでわたし達への支援を続けてくれています。一体彼の地の民にどれほどの苦労をかけていることか……。そして王家を見捨てることなく、この流刑地まで付いてきてくれた者達……。わたしはこれまで彼等から何かをしてもらうばかりで、何もしてあげることができなかった」
レアルトラの一言一言が重しとなり、呪縛となって七斗の身体を拘束する。それはまるで呪詛を紡いでいるかのようだ。
「わたしは彼等に報いてあげたい。彼等が流した血と汗と涙は無駄ではなかったのだと、彼等が捧げた生命には意味があったのだと、彼等にそう言ってあげたい。彼等の前でそう胸を張りたいのです」
「で、でも……」
七斗はその一言を発するのに精神力の全てを費やさなければならなかった。
「僕はただのボンクラで、君やこの国を助けられるような力は何も――」
「そんなことはありません」
それは、もしこの場に単に通りすがっただけの人間がいたなら、あるいはその者には穏やかな一言に聞こえたかもしれない。だが七斗には剣で斬りつけられたかのように思われた。
「ナナト様は運命が見定めた、水の国の『導く者』。ナナト様にはコナハトを救える力がある――そうでなければわたし達が今こうして出会えることもありません」
「ああ、うん、そうですね……」
レアルトラの断言に七斗は密かに絶望的な気分となっていた。彼女のその確信は、七斗から見れば信仰……いや、もう盲信の域に達している。レアルトラの立場になってみればそうなっても無理はないだろう。国運を、国の未来を懸けて、多大な犠牲を払ってまで「導く者」を召喚したのに、それがボンクラのスカだったなどと、認められるはずもない。
「確かに元の世界なら君の力になるものが色々あったかもしれないけど……」
「それでしたら、召喚のときにナナト様が持っていたものがありますわ」
レアルトラは鈴を鳴らして侍女を呼んで指示を出す。少しの間を置き、仰々しい護衛を引き連れ、侍女が恭しく何かを持ってきた。
「姫様、こちらでございます」
「はい、ありがとうございます」
侍女が持ってきた荷物に七斗は目を丸くした。使い古された、エナメルのスポーツバッグ――それは確かに七斗が元の世界で持っていた荷物だ。
「これもこっちに来ていたのか……」
住んでいた社員寮を追い出された七斗は着替えや私物を複数のバッグにまとめていた。七斗と一緒にこの世界に召喚されたのはそのうちの一つだけである。
「これには確か……」
七斗はそのバッグを開いて中を確認する。それに入っていたのは……トランジスタ、銅線、はんだ、はんだごて、ニッパー、基盤、PIC、抵抗、電池、発光ダイオード……七斗が趣味にしている電子工作の部品・機材の数々である。
「……」
七斗はその電子工作機器に視線を落としたまま身動きを止めた。まるで時間が止まったかのようだが、脳内では思考がフル回転している。七斗はかなりの長時間そのまま自分の思考に没頭していた。レアルトラが期待に充ち満ちた瞳を自分に向けていることにも気がついていない。
「もしかしてこれが――」
「これがコナハトを救う鍵となるのでしょうか……?」
レアルトラが声を震わせながらそれを問う。不意を打たれた七斗は思わず「のひりゃっ」と変な声を出した。
「い、いえ、今すぐ何かどうにかできるわけでは――ただ、どういう方向で検討するのかが見えてきただけで」
「もちろんわたしも今日明日にでもこの国を救っていただけるなどと、虫のいいことは考えておりませんわ」
とレアルトラは苦笑した。
「わたし達は百年間、耐えて待ち続けてきたのです。もう四年や五年待つことなど、どうということもありませんわ」
(つまりそれは『長くとも四、五年の間に何とかしろ』と言いたいんですね)
七斗は内心で突っ込みを入れた。
……レアルトラによる説明は早めに切り上げられ、七斗は侍女により客間へと案内された。
「こちらでございます」
「ああ、ありがとう」
七斗はそのままベッドへと倒れ込みたかったが、何人もの侍女が客間の片隅に控えているのを見てそれを我慢した。
「あの……何か?」
「ナナト様、湯浴みの用意ができておりますが、いかがなさいますか?」
と侍女が言うので七斗はありがたく入らせてもらうことにした。七斗は侍女に案内されて脱衣所へと向かう。脱衣所では七斗の服を侍女が脱がせようとするので、
「いや、自分で脱げるから」
とそれを断った。侍女達は残念そうにするが特に抗弁はせず――彼女達は自分の服を脱ぎ出した。
「ななな何を?!」
七斗は慌ててそれを止めようとし、侍女達は不思議そうな顔を七斗へと向けている。
「お背中をお流しいたします」
「そんな必要ないから! 服着てここを出て! 僕が出るまで誰も入らないように!」
七斗は侍女を全員追い出して一人で風呂へと入った。侍女が「やっぱりお背中をお流しします」とか言い出して入ってこないうちに、速攻で身体を洗って暖まる間もなく風呂から出てくる。風呂に入る前よりも疲れたような気がするがともかく入浴を終えて、七斗は侍女を引き連れて客間へと戻ってきた。
「あ゛あ゛~」
侍女が何人も部屋の片隅に控えているのは判っていたがそれでも七斗は耐えきれず、ベッドへとダイブして枕に顔を埋めた。目を瞑ればこのまま熟睡できそうだったが七斗は寸前でそれに耐えて、
「あのー、僕はもうこれで寝るから、君達ももう仕事を終わっていいから」
七斗の言葉に彼女達はわずかに当惑を浮かべて顔を見合わせる。七斗は不思議そうに「どうかした?」と訊ねた。
「わたし達はナナト様の夜伽をするよう姫様から命を受けております」
七斗は「な」と言ったまま絶句し、思わず彼女達を凝視した。彼女達は艶やかな色気を浮かべながらヴィクトリアンメイド風の侍女服を脱ぎ出し、七斗は思わず唾を飲み込む。七斗は健康でごくノーマルな成年男子であり、女性に対する欲望も人並みにはあった。だが、
「そんなのやらなくていいから!! 服を着てここを出て! 朝になるまで誰も入らないように!」
レアルトラという名の巨大な女郎蜘蛛に心身を絡め取られる――それに対する本能的な恐怖が性欲を何倍も上回っていた。侍女をまとめて客間から追い出し、一人となった七斗は改めてベッドへと倒れ込んだ。肉体はともかく精神は疲労困憊の有様である。
「……ともかく、寝よう。もしかしたらこれが全部悪い夢で、目が覚めたら元の世界に戻っているかもしれないし」
そんなわけないじゃないですか、と「召喚魔法の精霊的な何か」の少女が呆れているような気がしたが七斗はそれを無視。睡魔の懐の中でただひたすらに仮初めの安らぎをむさぼった。
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