第二二話「王子エイリ=アマフ」その2
場所はモイ=トゥラの旧コナハト王都・クルアハン、そのモイ=トゥラ総督府。時間は半月ほど遡る。
「王子グランに第一子がお生まれになったそうですね。おめでとうございます」
「ああ、ありがとう。だがこれで俺もおじさんか」
「お兄様にはすでに何人も甥や姪がいらっしゃるじゃありませんか」
と少女はおかしそうに笑い、その姿にエイリ=アマフは微笑みを見せた。
忙しい職務の合間を縫い、エイリ=アマフは婚約者のスィールシャとお茶を楽しんでいるところだった。スィールシャは綿菓子のように透き通った金髪の、天使のように美しい少女である。その父親は穏健派の重鎮として知られていて、エイリ=アマフにとっては最も重要な同盟者だった。
「お兄様、わたしもう一五歳です。年下の王子グランも結婚しているのですから、そろそろわたし達も……」
やや頬を赤らめたスィールシャがもじもじと恥ずかしそうにそう言うが、エイリ=アマフの方は腰が引けていた。
「確かにそうだな。だが今は仕事が忙しくて……」
「もう、そんなことを言っていたらわたしは行き遅れてしまいます」
とスィールシャは頬を膨らませた。
「『導く者』が失われ、コナハトの王女が王子グランと結婚し、その王子も生まれました。もうコナハトがムーマと敵対する意味はないでしょう。もう戦争なんて起きないのではないですか?」
「ああ、そうだな」
とエイリ=アマフは言いつつも内心はその逆のことを考えていた。
(モイ=トゥラで苛政が続く限りはコナハトが膝を折ることはない。一日でも早くこの苛政を改め、コナハトが戦う理由をなくさなければ……)
「お兄様?」
「ん? ああ、すまない」
自らの思考に没頭していたエイリ=アマフはスィールシャの呼びかけにより現実に戻ってきた。
「ともかく、今は何かとばたばたしていてまとまった時間が取れないんだ」
「もう少しくらいなら待ちますけど……時間は自ら作るものですよ?」
スィールシャのお叱りにエイリ=アマフは身を縮めるばかりだった。
――スィールシャとはごくごく幼い頃からまるで兄弟のように付き合ってきたので、未だに彼女はエイリ=アマフのことを「お兄様」と呼ぶ。善良な人柄と温厚な性格を有する良家の息女であり、エイリ=アマフが彼女との結婚を嫌がる理由は何もなかった……ただ、二十歳を過ぎたばかりの若者としてはこんなにも早く人生の墓場に埋葬されることにわずかばかりの抵抗があるだけである。
今は何かと忙しい、とは結婚を先延ばしするための口実ではあるのだが、決して嘘ではない。実際にエイリ=アマフはうずたかく積み上がる書類の山脈を処理するのに追われる毎日だった。
超高速で書類に目を通し、承認のサインをし、次の書類を受け取り……ひたすらそれがくり返される。機械的に書類の山をさばいていく中で、ある報告書がエイリ=アマフの目に引っかかった。
「運河の通行許可と出国許可? コナハトに出産祝いを下賜するため、御下賜品を積載した使節船団が運河を通行するため……?」
エイリ=アマフは書類を見つめ、考え込んだ。何かが引っかかっているが、それが何か判らない。だが聡明な彼が不審点を発見するのにそれほどの時間は必要なかった。
「……ちょっと待て、この船団はどこから出てきたんだ? 何を載せている? 誰が使節なんだ?」
この船団が本国からやってきたのならもっと早くに報告がされているだろう。書類上この船団はまるでモイ=トゥラの中から湧いて出てきたかのように思われた。
「この船団について調査を。必要なら臨検しろ」
エイリ=アマフは部下にそう命令する。その後は日常の雑務に追われ、そのような命令を下したことは頭の片隅へと追いやられた。
数日後、その使節船団に関する報告が上がってくる。報告書ではなく、子飼いの部下が直接報告へとやってきた。
「臨検を実施しようとしたのですが、拒絶されて実施できませんでした」
「使節の名前は?」
「本国の三等武官のタブシャという者です」
「一度も聞いたことがないぞ、そんな名前!」
とエイリ=アマフは思わず毒づいた。しばしの間口の中で誰かを罵るエイリ=アマフだがすぐに冷静さを取り戻す。
「……あまりに怪しい、あまりに不審だ。本国は何をしようとしている?」
エイリ=アマフの独り言に部下は大きく頷き同意した。
「部下には引き続き船団の追跡と調査を命じています」
それでいい、とエイリ=アマフは頷く。今成すべきことは使節船団の目的を知ることだった。
エイリ=アマフの部下――総督府の調査官は仕事熱心で優秀であり、目的を達成するためなら手段を選ばなかった。そうやって彼等は何人ものモイ=トゥラの鉄杖党幹部を粛清してきたのだ。今回も彼等は合法非合法の手段を問わず、使節船団の秘密を探るために打てる全ての手を打った。
それでも使節船団の目的も御下賜品の目録も知ることができないでいる。業を煮やした彼等はモイ=トゥラを跋扈する水賊をそそのかして使節船団を襲わせることまでした。使節船団は予想外の重武装をしていたため水賊はあっさりと撃退されてしまったが、それでもその襲撃は無意味ではなかった。船団の一隻が水賊の船を避けて航行し、浅瀬で座礁してしまったのだ。そして傾いたその船からは――
「い、今何と言った」
己が耳を疑ったエイリ=アマフは思わず部下に問い返した。その部下は冷厳とその報告を自らの上司へと伝える。
「『傾いた船の船倉から、千匹程度の雪イナゴの群れが逃げ出し、飛んでいった』――通信魔法による緊急報告は以上となります」
我知らずのうちに腰を浮かしていたエイリ=アマフは両手を執務机についた状態で、俯いたまま硬直していた。いや、その身体は小さく震えている。
(雪イナゴが何故船倉に――雪イナゴは千匹だけか? その船だけか? もしかしたら全ての船に雪イナゴが……それをどうするつもりだ? コナハトに入り込んでそれをばらまけば、今度こそコナハトは滅亡するかも――それが目的なのか?)
いくら何でもそこまでやるのか、とエイリ=アマフは考えた。自分の考えすぎではないかと。本国もそこまで非人道的な手段を執らないのではないかと。雪イナゴに国境が判るはずもない。コナハトでばらまかれた雪イナゴはモイ=トゥラにも甚大な被害をもたらすだろう。いくら何でも、宰相バイル=エアガルがそれを許すだろうか? 本国の連中はそこまでやるのだろうか?
「……やりかねない。あの連中ならそれをやっても何もおかしくはない」
エイリ=アマフの感情がどれだけそれを否定しようとしても、脳の中の冷静な部分はそう結論づけていた。
エイリ=アマフが力尽きたように椅子に座る。エイリ=アマフはそのまま上を見上げ、天井を仰いだ。
「……どうする? どうすればいい? 何をすればいい?」
モイ=トゥラの農民に深刻な被害をもたらすこのような策動を、モイ=トゥラ総督としては許すわけにはいかなかった。自国民を踏みにじるこのような陰謀を、ムーマの王子として認めるわけにはいかなかった。ムーマの名誉を地に落とすこのような愚行を、一ムーマ人として見逃すわけにはいかなかった。罪もない多数のコナハト人を餓死に追いやるこのような暴挙を、一人の人間として実行させるわけにはいかなかった。だが、
「だが、本国に逆らうことになる。これだけの陰謀を妨害しておいてただで済むはずがない。地位を追われるくらいならともかく投獄や、最悪は処刑も……」
エイリ=アマフは自らの生命を惜しみ、躊躇した。これがもし「母国ムーマや多数のムーマ人を救うため」であるのなら、彼は自分の生命を惜しみなどしない。王族の義務としてどのような危険があろうと果敢に実行するだろう。だが、彼の救いを待っているのは見ず知らずのコナハト人やモイ=トゥラのコナハト系農民だ。彼等のためにエイリ=アマフが危険を冒す必要があるのかどうか、彼には疑問だった。
「だがそれでも……」
と彼の良心は必死に彼に訴えかけている。「彼等を救えるのはお前だけなのだ」と。「屍が広がる死の荒野をまた作り出すのか」と。良心と生存本能の板挟みとなったエイリ=アマフは逃げ道を探した。
「何とか俺の仕業だと判らせずに妨害する方法は……そこらの水賊程度では力が足りない。ならばコナハトの力を借りるのは? コナハトが使節船団の正体に気付けば――」
そこまで考えてエイリ=アマフは想像してしまった。王子誕生祝いの使節船団がコナハトの奥へと入り込み、そこで船倉を開放して無数の雪イナゴの群れを解き放つ、その光景を。
「どう考えても隠しようがないだろう! 隠すつもりがないんだ、本国は最初からコナハトに喧嘩を売るつもりなんだ!」
思わず立ち上がったエイリ=アマフは八つ当たりで自分の座っていた椅子を蹴倒した。
そんな真似をされてコナハトが怒り狂わないわけがない。万一その怒りを自制できたとしても、雪イナゴの被害が広がれば飢餓に直面することになる。コナハトが生き延びるにはムーマに戦争を仕掛けて土地を奪取するか食糧を略奪するか――それ以外に方法は何もない。そして「導く者」がいない以上コナハトの勝利は百に一つもあり得ない。敗北したコナハトは名実共にムーマの属国となるだろう。ちょうどそこにムーマの血が入った王位継承者がいるのだから。
「――待て、グランはどうなる」
王女レアルトラやコナハトの将軍がどれだけ怒り狂おうと、生まれて間もない王子はさすがに殺さないだろう。だがグランは別だ。グランを生かしておく理由が彼等にあるとは思えない。仮にあったとしても彼等の怒りは損得勘定を上回ることだろう。
「つまりはグランを助けるためならこの陰謀を潰す他ない、ということか」
それでエイリ=アマフの腹は決まった。見ず知らずのコナハト人のために生命は懸けられない。だが可愛がっている弟分のためなら話は別である。
「関所を封鎖しろ、何としても使節船団を止めるんだ」
エイリ=アマフは部下を呼んで命令を下した。
ムーマの使節船団はモイ=トゥラの運河を北上し、ラハラという町に到着した。コナハト領まではあとわずかである。
「私は本国が派遣した使節であり、我々は王命を受けた使節船団だぞ?! 通せないとはどういう料簡だ!」
誕生祝いの使節であるタブシャはラハラ関所の門守に対して怒鳴り散らした。コマーディという名の門守は半泣きになって身を縮めている。
「で、ですがこれは総督府の命令で……」
「私は国王陛下と本国評議会の命を受けてここにいる。貴様は評議会に叛逆するのだな?」
タブシャの背後に立つ護衛は今にも剣を抜こうとしていた。コマーディはラハラ関所の総責任者たる関守であり、その地位は決して低くない。彼の配下には関所と水門を守るための多数の武装した兵がいて、彼等は水賊との戦闘もくり返し経験している。純粋に戦力だけを見るなら彼等は使節船団に対抗できるだけの質と量を有していた。
だが、タブシャやコマーディ達が生きているのはそれほど単純な世界ではない。仮に使節船団の護衛が持っているのが玩具の剣であろうと、その剣には「国王と本国評議会」という威光が宿っている。その力はコーマディとその部下全員を抹殺して余りあるほどだった。
コマーディが肩を落として目を逸らし、タブシャは自分が勝利したことを理解した。
「それでは通らせてもらうぞ」
俯くコマーディの横をタブシャが、その護衛が肩で風を切るように歩いていく。彼等の進行を阻む者は誰一人いなかった。
「くそっ、やはりダメだったか」
コマーディからの通信魔法による連絡を受けてエイリ=アマフは舌打ちを連発した。
「足止めが利かないなら、もう軍船を派遣して直接止めるしかない。軍を動かすしかないのか」
エイリ=アマフはモイ=トゥラにおいて総督という立場にあり、これは建前上モイ=トゥラの中では最高地位ではあるが、現実は必ずしもそうではない。鉄杖党の最高機関として各地区ごとに評議会が設置されていて、モイ=トゥラにもこの土地全体を総括するモイ=トゥラ評議会が存在する。エイリ=アマフの、モイ=トゥラ総督の役割は本国の眼としてモイ=トゥラ評議会を監視することであるが、逆にモイ=トゥラ評議会にもエイリ=アマフを監視監督する権限を有している。さらには両者とはまた別にモイ=トゥラ駐留軍が独自の指揮系統で存在していて、この三者はまるで三すくみのように互いを監視・牽制し合う関係にあった。
一つの組織、一人の人間に権限を集中したならその人間がモイ=トゥラ全土を支配することなる。その人間がかつてのブレスのように本国に対して反旗を翻すのではないか――それを怖れたムーマ本国が意図的にこのような権力分散型の統治機構を作り上げたのだ。つまり、エイリ=アマフには軍に対して「命令」する権限がない。彼にできるのは軍に「要請」することだけである。
「本国の命令もなしにそのようなことはできかねます」
当然ながら断られた。理由もはっきりさせずに「本国が派遣した公式の使節を軍船で足止めしろ」と要求したのだ。承諾される方がむしろおかしい。
「ことによっては国王陛下と本国の評議会から叛逆扱いされますよ? 一体いかなる理由で彼の船を足止めするのですか?」
問われたエイリ=アマフは言葉に詰まった。「コナハトに雪イナゴをばらまく」謀略はムーマにとって最高の軍事機密であり、最悪の政治的汚点である。無闇に口外できることではない。だがそれを明らかにしないことには誰を説得することも不可能だろう。
結局、エイリ=アマフは二人を選んでその事実を明らかにした。一人はムーマ駐留軍総司令官・ゲアルヘーム。五〇過ぎのゲアルヘームは見事なカイゼル髭を生やし、歳と役職に相応の威厳を有した人物だ。もう一人は評議会内の穏健派重鎮・インティーヴァス。インティーヴァスはゲアルヘームより若干若く、理知的な印象である。なおインティーヴァスはスィールシャの父親でもあった。
「しかし……まさか本国がそのような……」
インティーヴァスは蒼白な顔で何度も「まさか」をくり返している。エイリ=アマフが報告書を手に理を尽くして説明するが、それでもインティーヴァスは容易に信じようとはしなかった。いや、「信じられない」と言うよりは「信じたくない」がより正確であるだろう。このため想定よりもずっと長い時間を要したものの、何とかインティーヴァスを説得することができた。
「このような暴挙を許すわけにはいかない。将軍ゲアルヘーム、直ちに軍船の派遣を」
エイリ=アマフも頷き、無言のままにインティーヴァスと意志を一つとする。……が、要請されたゲアルヘームは長い時間沈黙を保っていた。
「将軍ゲアルヘーム」
苛立ったインティーヴァスやエイリ=アマフが度々ゲアルヘームの名を呼んでも彼はそれを無視したままだ。たっぷり百を数えるほどの沈黙の後、
「……何か問題があるのですかな?」
エイリ=アマフにはゲアルヘームが何を言っているのか判らなかった。絶句する二人に対し、
「本国の評議会と国王陛下が最善であると判断し実行したことです。我々がこれに異議を唱え、妨害するのは叛逆に準ずる行為では?」
「しかし! この暴挙を許せばコナハトだけでなくモイ=トゥラの農民にも多大な被害が発生する! 何万という農民が餓死し、流民となり、暴徒となって反乱を起こし」
「水ネズミがどれだけ死のうと、一体何の問題が?」
ゲアルヘームが不思議そうに問い、エイリ=アマフは今度こそ完全に絶句した。ゲアルヘームは心からそう思っている。同じ人間であるコナハト人を「水ネズミ」と呼び、彼等がどれだけの飢餓に、災害に苛まれようと何らの痛痒も感じていない。
「し、しかし将軍ゲアルヘーム。またコナハトと戦争になるのだぞ」
インティーヴァスが声を震わせて反論するが、ゲアルヘームは胸を張り、
「よろしいではないですか。今度こそあの国を根こそぎ破壊し、水ネズミどもを皆殺しにし、ムーマに真の平和と繁栄をもたらしましょうぞ」
傲然と言い放つだけだ。エイリ=アマフはそれ以上言葉を重ねる意欲を持たなかった。ゲアルヘームを説得する論理を有さなかった。
(――ダメだ、こいつ。言葉が通じない)
同じ言葉を話しているはずなのに違う世界の言葉を話しているような気がする。同じ国の人間のはずなのに違う世界の人間と相対しているような気がする――いや、違う世界の違う言葉を話す人間の方がまだしも話が通じるに違いなかった。
項垂れるエイリ=アマフとインティーヴァスを放置し、ゲアルヘームは去っていった。残された二人は何とか使節船団を止める方法を検討するが、良い手段が思い浮かぶはずもない。やがて日が暮れて、エイリ=アマフはインティーヴァスと別れてブレス城内の自室へと戻ろうとする。その途中、中庭に面して回廊にて、
「王子エイリ=アマフ」
呼び止められたエイリ=アマフが振り返ると、そこに立っているのは評議会員の一人である。彼は何人もの衛兵を引き連れていた。
「……何か」
「私は本国評議会より糾問使を任じられました。ご同行願えますか」
衛兵がエイリ=アマフを拘束しようとするが、
「自分で歩く」
と彼はそれを振り払った。エイリ=アマフは糾問使と共にブレス城の奥へと歩いていき、消えていった。
――始祖暦二五〇一年バルティナの月の下旬。この日、ムーマ本国評議会はエイリ=アマフのモイ=トゥラ総督としての職務の一切を停止。エイリ=アマフは王都カティル=コン=ロイへの召喚が命じられた。




