第二〇話「グラン奮闘」
「四精霊の大陸」と呼ばれるその世界の、四つの国のうちの一つ・水の国コナハト。その東の国境に位置するミデ公爵領。ミデは峻険な山の中腹にある狭い町で、公爵邸は階段状に山を削ってその上に積み重ねるように建てられている。その中層階が賓客用スペースで、現在は七斗が占有する研究室だった。
「用意はいいですか」
「はい、いつでも」
今、七斗の横にはある機械が台の上に設置されている。縦横は半メートル程、奥行きは一メートル程の木箱だが側面にはいくつものスイッチやダイヤル、メーターが取り付けられている。そして正面に貼り付けられた、蜘蛛の巣状に組まれた針金。一見したなら発明されてまだ間もない時期のラジオのように見えるかもしれない。だがそのように感じるのはこの世界では七斗一人だけだろう。この世界の人間にとっては全く意味不明の代物でしかない――だがこれは大陸の歴史を塗り変える、時代を画する発明品であり、現在のコナハトにとっては最重要の軍事機密だった。
七斗達は防諜のためにこの機械を「オルゴール」のコードネームで呼んでいる。元の世界でオルゴールの原型となった自動演奏機械が発明されたのは一七世紀頃だが、この世界でもすでに自動演奏機械が発明されていてある程度の進化を遂げている。だがそれは「オルゴール」と聞いたときに一般に想起されるような、ゼンマイでシリンダーを回す小型のものではない。家具のように大きな据え置き型が、ゼンマイの代わりに魔晶石を使って動くものが主流である。七斗の開発している通称「オルゴール」はこの世界の本物の「オルゴール」と形状や使用部品もある程度似ており、コードネームとしては悪くない選定だった。
「それじゃ行きます」
七斗が「オルゴール」のスイッチを入れて……何も起こらない。それは音楽を奏でるわけでもない。雑音や光を発するわけでもない。だが、オルゴールの正面に立っているアルデイリムは脂汗を流していた。
「……使えません」
「それじゃ一旦切りますね」
七斗がオルゴールのスイッチを切り、アルデイリムは汗を拭う。
「効き目はどうでしたか?」
「ええ、違いがあるようには感じられませんでした」
アルデイリムの返答に七斗は「そうでしたか」とだけ応え、しばし考え込んだ。
「外側はこれ以上簡素化するのは難しいとして……あとはどの基盤を使うかだけなんだけど」
「簡単な調整をした魔晶石を一三個組み合わせた基盤を使うか、それとも高度な調整をした魔晶石二個だけの基盤を使うか」
「悩ましいですね」
七斗とアルデイリムは揃って腕を組み「うーん」と唸った。
「戦場で使う以上どうやったってある程度は乱暴に扱われることになるだろうし、壊れにくさ、耐久性を考えると二個だけの方が望ましいと思うんだけど」
「ええ。ですがこれだけ複雑な調整を魔晶石に施すのはほとんど例がありません。腕のいい職人が多数必要となりますし、時間も要します。一三個の方なら専門職人でなくても、手先の器用な魔道兵を仕込めば作らせることもできるでしょう」
「そうか、それなら現地で故障したときもその場で直せるかも」
七斗は「それじゃ一三個の方で量産を進めましょうか」と話をまとめ、アルデイリムもそれを是とする。ムーマの邪悪魔法に対抗する七斗の発明品、通称「オルゴール」。その量産に向けた準備がようやく整おうとしていた。ときは始祖暦二五〇一年エーブレアンの月(第六月)。七斗がこの世界にやってきてから間もなく一年半。七斗が公的には死亡し、ミデの虜囚となってから一年。七斗が「オルゴール」を発明してから一〇ヶ月。レアルトラがムーマの王子グランと結婚してから九ヶ月。
……レアルトラの懐妊が公表されてから半年のことだった。
「世界はいつだって『こんなはずじゃない』ことばっかりだ」
という名台詞を彼が知るはずもないが、今のグランがこの言葉を聞いたなら心の底から全面同意しただろう。一年弱の結婚生活は「こんなはずじゃない」ことの連続で……それに伴う苦々しさと忌々しさだけで彩られていた。
グランは良人として、誠意をもって妻たるレアルトラを愛するつもりでいたのだが、レアルトラはグランの愛など必要としていなかったらしい。多少なりとも新婚らしい素振りをしていたのは最初の二ヶ月だけで、懐妊が発覚した途端レアルトラはグランに顔すら見せなくなった。さらにレアルトラはグランをクルアハン城の後宮から追い出してしまう。
「どういうつもりだ! これが王女の良人に対するコナハトの扱いなのか?!」
さすがにグランも猛抗議するが、その矢面に立ったジェイラナッハは中途半端な笑みを浮かべているだけだ。子供の駄々に困っているだけのようなその態度にグランは苛立ちを募らせた。
「まことに申し訳なきこと。ですが姫様は悪阻がひどく、今は精神的に非常に不安定となっております故。どうか今は姫様のお心の安らぎを慮ってはいただけませぬか」
「それならなおさらだ。僕は王女の良人で、彼女が安らぎを得られるよう力を尽くす義務がある。僕は王女のところに行く」
だがジェイラナッハは失笑を寸前で堪えながら「殿下はお若い」と首を振るだけだ。
「僕を侮辱するつもりか」
とグランは気色ばみ、ジェイラナッハは「いえいえ滅相もございませぬ」と大げさに首を振った。
「しかし殿下、この老いぼれは家内と六人ばかり子を成しましたが、悪阻は人を変えるものですぞ? 家内は野菊のように可憐な乙女でして、それがしは『結婚してくれなきゃ切腹する』と猛アタックの末に何とか家内の心を射止めたのですわ。ですが家内が最初の子を孕んだときは本当に本当に大変でしてなー、あの手弱き乙女が見る影もなく鬼女のように」
グランはそのままジェイラナッハの昔話に延々とひたすらに付き合わされた。グランが話を打ち切ろうとしても、
「殿下はお若い、この老いぼれの経験を糧とするべきときですぞ?」
とジェイラナッハは昔話を、細君とののろけ話をそのまま続けるのだ。さらにその細君が病死するくだりでは感極まったジェイラナッハがグランに抱きついて号泣し、グランの顔は涙と鼻水でずぶ濡れとなった。
……結局、グランではジェイラナッハをわずかたりとも動かすことはできなかった。ジェイラナッハはコナハト武士の典型のような男で特別交渉上手というわけではなく、人生の大部分を戦場で過ごしてきた人物だ。が、それでも国王の右腕として、事実上の宰相として国政を担ってきた期間はグランの人生の倍に及ぶ。今のグランはジェイラナッハから見れば赤子と何も変わりなかった。
グランはジェイラナッハから何一つ引き出せない一方、ジェイラナッハからの要求は全て呑まされた。グランはレアルトラの顔一つ見ることがかなわず、言付け一つ伝えることができない。後宮から追い出されたグランは家臣共々王城内の迎賓館への移動を余儀なくされた。
「コナハトの王城などムーマの方々からすればあばら屋も同然でしょうが、それでもこちらなら多少はマシでしょう」
とジェイラナッハはもっともらしいことを言っていたが、グランからすればこの選択にもコナハト側の底意地を感じずにはいられない。
「結局、彼等は僕のことをコナハトの人間になったと思っていないのだ。王女の良人として認めていないのだ」
グランは口惜しさとともにその事実を噛み締めていた。
実際、コナハトの首脳陣はグランのことを「お客様」と見なしている。
「王子に何かあればムーマが戦争の口実にしかねません。王子には最大の敬意と細心の注意を払ってお仕えしなさい」
グランを「家族」として迎え入れるべきレアルトラからしてグランを「賓客」としか見ていないのだから、下がそれに倣うのは当然だった。
「あれを人間と思うから腹立たしいのです。あれは金貨だと思っていればあれの振る舞いも笑って受け流せるようになります」
とレアルトラは大臣の一人に語っている。グランの存在はレアルトラにとってはストレス源でしかなく、「賓客」と見なすことで何とかそれに耐えていたのだ。妊娠が確定した途端グランとの接触を一切断ったのも、レアルトラの精神衛生を最優先としたため――逆に言えばレアルトラの精神がそれだけ均衡を崩していたということでもある。
母体と胎児に過度のストレスを与えないよう、レアルトラは現在全ての政務から手を離している。産休中のレアルトラの代理としてグランに朝議への参加が要請され、グランは喜び勇んでそれを承諾した。
「見ていろ。王女にもコナハトの者達にも、僕のことを認めさせてやるんだ」
とグランは気合いを入れるのだが、残念ながらその思いは空回りするばかりだった。
「この一年、モイ=トゥラではコナハト系農民がくり返し暴動を起こしている。モイ=トゥラ総督府は暴動の背景にはコナハトの煽動があるのではないかと疑っているのだが――」
その朝議の中でグランは兄のエイリ=アマフから寄せられた苦情について言及するが、
「……」
その瞬間、冷え冷えとした沈黙が玉座の間を包んだ。沈黙の中に込められた憤怒が、殺意が、侮蔑が、グランへとぶつけられる。グランはそれを敏感に感じ取り、冷や汗を流した。
「……ムーマがコナハト系農民への搾取を止めればいいだけの話では?」
ある大臣の発言に対して将軍の一人が反論する。
「ムーマはもう自作農に対する一割の減税を宣言しているぞ」
玉座の間は笑いに包まれた……だがそれは明るい笑いではない。グランに対する嘲笑であり、冷笑である。グランは屈辱に唇を噛み締めたが、
「……確かにぼくは物知らずだった。今度こそモイ=トゥラのコナハト系農民の状況を少しでも改善できるものを獲得しなければならない」
それでもグランは前へと進もうとする。コナハト首脳陣も何割かはグランのその姿勢だけは認め、嘲笑を控えた。
「それでは王子にその折衝をお任せしてもよろしいですかな」
「もちろん僕が本国と交渉に当たる。だが、それをするにしてもコナハト側が交渉に前向きだという根拠がほしい。本国の者が交渉のテーブルに着こうとするだけのものが必要なのだ」
具体的には?という誰かの問いにグランは、
「農民の暴動、これが目に見えて減らなければ……」
「それは順序が逆だろう」
と将軍の一人が怒りを圧し殺した硬い声で指摘した。
「モイ=トゥラの農民達は空きっ腹でろくな武器も持っていない。蜂起すれば十中八九殺されると判っていて、それでも蜂起するのは、そうしなければ飢えて死ぬだけだからだ。他に生きる道がないからだ。暴動を減らしたいのなら総督府が苛政を改めればいい、それだけのことだ」
「兄は……できるだけのことをやっている」
グランは苦しげにそう告げるが、コナハトの面々は失笑するだけだった。
――グランはエイリ=アマフに小作料を減らすよう直言したことがある。モイ=トゥラにいるコナハト系農民が一人残らず小作人であり、自作農に対する減税が何の意味もないという事実を知ってすぐ。グランは通信魔法を使ってエイリ=アマフに対して抗議と、小作料の減免を進言した。エイリ=アマフの回答は即座に返ってくる。
『総督府の役割はモイ=トゥラの監視だ。モイ=トゥラの鉄杖党員が本国に敵対的な派閥を作り、本国に対して反抗しないよう監視するのが俺の第一の仕事なのだ』
かつてブレスはモイ=トゥラの魔道士を糾合し、鉄杖党を立ち上げてムーマ本国と敵対。最終的には武力によって本国を征服した。今ムーマ本国を支配しているのはそのブレスとその側近の末裔達だが、
「モイ=トゥラは遠い。監視の目が届かないことをいいことに彼の地の鉄杖党員は派閥を作って自分達に対抗しようとするのではないか? 彼等が自分達に武力を向けたらどうなる? 自分達もまたかつてのムーマ宮廷と同じ目に遭うのではないか?」
彼等はこのような事態を本気で恐れているのだ。モイ=トゥラの鉄杖党を、魔道士達を本国のくびきにしっかりと抑え込み、決して反抗させないこと。そのために厳重な監視をすること。これこそがモイ=トゥラ総督府の第一の役割であり、他のことは全て片手間仕事と言っていい。
『俺には法を犯した鉄杖党員を処罰する権限があるが、そうでない者には何もできない。モイ=トゥラにおける小作料は違法ではないのだ』
収穫物の八割を超え、ときに九割に達する暴力的な小作料は、鉄杖党員に対する懐柔の手段でもあった。コナハト系農民を徹底的に搾取させて鉄杖党員を肥え太らせることで満足させ、コナハト系農民の敵意に直面させることで本国への軍事的・心情的依存を高める――この政策によりモイ=トゥラの鉄杖党がムーマ本国に対して反乱を起こした、起こそうとした例はほぼ絶無だ。非常識と思えるような搾取にもそれなりに合理的な理由はあるのである。ムーマ人と鉄杖党員にしか意味を持たない合理性ではあるが。
「兄には小作料を下げさせるだけの権限がない、それができるのは本国の評議会か、国王だけだ。評議会の穏健派が行動しやすいようにしなければならない。その主張に説得力を持たせられるようにしなければならない。そのために譲るべきところは譲ってほしい」
グランは熱弁を振るうがコナハト側には白けた空気が漂うだけだ。
「王子はこれ以上何を譲れと言われるか」
「モイ=トゥラの民に残っているのは己が生命だけだ。王子は彼等に死ねと言われるか」
グランは「そうではない!」と主張するが、それ以上は何も言えないでいる。グランとコナハト側、両者に不満と怒りが蓄積する中、
「お前達もそのくらいにしておくがいい。王子グランも、よろしいですかな?」
ジェイラナッハが仲裁に乗り出した。不満げながらも口を閉ざした両者を見回し、
「モイ=トゥラの農民が無謀な蜂起をし、ムーマに鎮圧されて殺される事態には姫様も常々心を痛めておりました。それが小作料の減免につながるのであれば、蜂起を控える呼びかけをそれがしが彼等に向けて発するのはいかがかと」
「ああ、それがいいでしょう。お願いします」
ジェイラナッハの提案にグランは露骨に安堵の様子を見せる。自分の努力が一定の成果を獲得したことに満足したようだった。
その後、ジェイラナッハは約束通りにモイ=トゥラの農民宛てに声明を発表した。その内容は要約すれば、
「無計画な蜂起でモイ=トゥラの民が生命を落とすことに姫様は心を痛めている。今は忍従のときであり、自重することを願うものである」
ということだ。
そしてこの声明により暴動が減ったかと言えば、決してそんなことはない。むしろ増えたくらいである。
「まあ、義理は果たしたわい」
ジェイラナッハはこの結果を当然のものとして受け止めている。モイ=トゥラの農民には自重していてほしい、生命を大切にしてほしい、というのはジェイラナッハの掛け値なしの本音である。……ただし、ムーマに対する反攻準備が整うまでの間は、の話だが。
だからそれを公式に呼びかける機会を得て、ムーマに対して貸しも作ったのだからコナハトとしては何も損をしていない。「導く者」をむざむざと殺されたレアルトラやジェイラナッハの指導力が低下していて、モイ=トゥラの農民達が彼の声明にむしろ反発したのも予想できたことだが、それはジェイラナッハが責めを負うべきことではないだろう。声明はグランの要請によって出されたものなのだから。
「さて、王子の要請でこちらは一歩譲ったぞ。どう出る? ムーマよ」
わずかでも小作料が減免される、とはジェイラナッハは欠片も考えていなかった。だが何らかの手を打ってくるだろうとは確信している。ジェイラナッハはムーマの動きを注意深く見つめていた。ムーマ宰相バイル=エアガルがどのような悪辣な手を打つのかを。
ジェイラナッハが約束を守った以上はグランもまた小作料減免のために最大限の努力をする必要があった。だがグランにできることはそれほど多くはない。通信魔法を使って力になってくれる人達に頭を下げることくらいである。
当然ながら、ムーマ本国の反応は芳しくなかった。グランの要請で穏健派の何人かが小作料の減免を主張するが、
「暴動は全く減っていない。ここで小作料を下げたならコナハト系農民に『暴動をすれば小作料が下がる』と思わせてしまう」
このような論理で却下されるばかりだった。
「コナハト側も手をこまねいているだけではないのです。大将軍ジェイラナッハが公式に自重を呼びかけています。彼等は暴動を減らすよう努力しているのです」
グランは自分とコナハトの努力を切々と訴えかけるが、その返答は辛辣なものだった。
「だがその努力は実を結んでいない」
「解決に向けてできるだけの努力している、それすらも認めていただけないのでしょうか?」
「もちろん努力は認めよう。だから君も、小作料減免という結果が出なかったとしても私達ができるだけの努力をしたのだ、と認めるべきだ」
その通信文を受け取ったとき、グランはそれを引きちぎって地面に叩き付けようとした。何枚にもちぎれた紙がふわっと舞って雪のようにゆっくりと地面に降りていく。グランは地団駄を踏むようにその紙を踏みにじった。
「くそっ! くそっ! どいつも、こいつも……!」
グランは散々に本国の面々を罵った。思う存分大声を出して体力を使い、多少なりとも冷静さを取り戻す。
「……やっぱり、頼りになるのは兄上だけか」
グランはエイリ=アマフに協力を要請するが、要請された側の方は苦々しい顔をするばかりだった。
「全くあいつは……だから焦るなと言ったのに」
正直に言って、ここでグランのために、小作料減免のために動いたとしてもエイリ=アマフにはメリットはない。グランに貸しを作ることはできるが、グランはそんなものがなかったとしてもエイリ=アマフのためなら自分にできる最大限のことをするだろうし、その「グランにできる最大限」は範囲が非常に狭かった。
その一方デメリットは山のようにある。運動をし、根回しをし、賄賂を送り、あちこちにこまめに作っていた貸しを消費し……それでも小作料減免自体は実現するとはまず考えられない。だがコナハトに対してグランの面子が立つような、何らかの成果を手にする必要はあった。
「仕方がない、できるだけのことはしよう」
エイリ=アマフとムーマ本国の穏健派との間で通信文が魔法によりに何十回も往復した。穏健派が声を揃え、多額の賄賂を送られた中立派が沈黙を守り、強硬派がそれを却下する。そんなことが飽きることなく何度もくり返されて、ときに始祖暦二五〇一年バルティナの月(第七月)。
風の国ムーマの王都カティル=コン=ロイ。その王城の、玉座の間。そこでは今、玉座に着いた国王と宰相、他にも何人かの重臣が顔を揃えていた。
宰相にして王太子たるバイル=エアガルは二〇代の後半。長身の身体は程よく筋肉で覆われている。その容貌は……美形なのだろう、多分。目鼻立ちや顔の部品一つ一つは間違いなく整っている。だが何故かどこか違和感があり、全体の調和に欠けているように思われた。身体の奥底から尽きぬことのない精力が湧いて出ていて、それを持て余しているかのような印象である。
「先日コナハトの王女が第一子を無事出産したとか」
「はい、男児です。王子グランの子となります。ティティムと名付けられたとのことです」
「それは重畳」
少しの間その場を沈黙が支配した。
第二王子のエイリ=アマフとは違い、バイル=エアガルは対コナハト強硬派の中心人物だった。バイル=エアガルを中心とし、国王の重臣は揃って強硬派である。国王ディーンハルジャスは彼等に頭を押さえられて何一つ自分の思い通りにはできない、ただの傀儡だった。
ブレスの時代からムーマの国政は鉄杖党が壟断し、国王は何の実権も持たない単なる飾りであり……現国王もその例外ではなかった。ではバイル=エアガルが即位したなら権力は国王の元に還ってくる――かと言えばそうとも限らない。政治姿勢も発想も鉄杖党と何一つ変わることなく、どんな鉄杖党員よりも党員らしいバイル=エアガルが即位したところで、それは「鉄杖党員が国王になった」だけのことだ。結局鉄杖党が国政を握り続けることには変わりないのである。
だがバイル=エアガルはその違いを判っておらず、自分が即位すればムーマに確固とした王権を確立できると、少しも疑っていない。
「……コナハト王家にはムーマの血が入った後継者が誕生した。一年延期した甲斐はあったが、もういいだろう」
「それでは予定通りに出産祝いをコナハトに贈るということで、よろしいか?」
宰相とその同志達はそれぞれの方法で全員が同意を示す。一同の視線が国王ディーンハルジャスへと集まった。
「……よきに計らうように」
ディーンハルジャスは疲れたような口調でそれだけを命じる。一同は主君に向かって無言のまま頭を垂れた。形だけの儀礼に、内心の軽侮を込めながら。
……それから数日後、モイ=トゥラのリール湖畔。
湖畔に停泊していた大型船が離岸する。何隻もの船が岸を離れ、湖の中へと進んでいく。それらの船の姿はやがて朝靄の中へと消えていった。




