第一九話「王子グラン」その2
それから一〇日ばかりが過ぎたイウールの月の下旬、ある吉日。レアルトラとグランの結婚式が慎ましく執り行われようとしていた。式場はカアーナ=マートの王城、その中にある水の精霊の聖堂である。
新郎も新婦もそろって厳かな表情と厳粛な空気を漂わせており、一般的な結婚式につきものの浮ついた雰囲気は皆無である。それは王族同士の婚姻に相応しいかもしれなかった……ただ同時に二人の前途を祝福する気配も全く感じられなかったが。それはコナハト側だけではない。ムーマ側も全く同じである。
精霊の前で婚姻の誓いをするために新郎と新婦が聖堂へと向かおうとする直前、結婚式の一番重要な箇所を目前に控えたそのとき。
「このような粗末で貧相な結婚式など、やらない方がマシというものです」
雑言を吐き捨てるのはグランの侍女の一人で、名をサラフと言った。彼女はコナハトに対する敵意や軽侮が特に強く、グランも扱いに困っている。
「サラフ、式の前だぞ」
とさすがにグランも不快感を強くしてサラフを諫めるが、彼女はそれで止まらなかった。
「なぜ王子はこのような仕打ちを我慢するのですか! あなたはムーマの王子なのですよ?! あなたはムーマを代表してここに来ているのに!」
どうやらサラフは相当に憤懣を溜め込んでいたようで、ここに来てそれが一気に爆発したらしい。グランは「今すぐにサラフの口を塞がなければ」と思いはしたが、その方法は思い浮かばなかった。
「王子グランに対するこのような扱い、ムーマに宣戦をしているも同じです!」
「王子グランは今日よりコナハトの人間となるのです」
レアルトラがたおやかに微笑みながらサラフの前に立った。
「王子にはコナハトの流儀を受け入れていただかなければなりません」
レアルトラは氷でできた微笑みの仮面をかぶってサラフに相対している。だがその仮面の内側では炎のような憤怒が渦を巻いていた。
「コナハトの流儀?! この理不尽な仕打ちが?」
「もし王子グランの待遇が理不尽であるのなら、それはコナハトの現実自体が理不尽なのです。その原因がどこにあるのか、あなた方が一番よく判っていることでしょう?」
レアルトラは本来沈黙するべきことまで口にしているが、それを強いたのはサラフである。グランは「サラフ、もう止めろ」と強く制止する。だがその危機感はサラフには伝わらなかった。サラフは嘲笑に口を歪めて、
「そんなの、あなた達の国が弱かっただけで、あなた達の国王が間抜けだっただけのことでしょう」
その場の誰もが空気に亀裂が入った音を耳にした。だがサラフだけはそれに気がついていない。いっそ驚異的と言うべき鈍感さで虎の尾を踏みにじり続けている。
「野原で氷づけになって死ぬような間抜けですもの、戦争に勝てなくて当たり前――」
「その者を拘束しなさい」
レアルトラが静かに命令し、儀杖兵が音速よりも速く反応した。二人の兵士に背後から腕を掴まれ、前へと押され、サラフはその場に膝を突く姿勢となる。それでようやくサラフは口を閉ざした……口の形は未だ嘲笑のそれだったが。
サラフがようやく黙ったことにグランは露骨に安堵した。
(他国の国王をここまで馬鹿にしてはサラフもただでは済まない。牢獄にぶち込まれるのは確実だけど、僕が頭を下げて何とか本国への強制送還あたりで決着させれば……)
グランはこの問題をどう解決するかについて考えを巡らせている。その考えがまとまる間もなく――レアルトラは自らの手でけりをつけた。
「ぎゃゃゃあああっっっ!!!」
魂消るような絶叫にグランの全身が凍り付く。レアルトラは衛兵から借りた剣をサラフの腹へと突き刺していた。儀杖兵は鉄鎖よりも強固にサラフを拘束しているが、それでも痛みのあまりサラフは身体を左右によじっている。このため傷口が大きく開き、レアルトラがサラフの腹から剣を抜いた途端、傷口からは大量の血がほとばしった。鮮血がレアルトラの白い結婚装束を真紅に染め上げていく。
「いたいいたいいたいいたいいたいいたい」
サラフの腹からは何メートルもの腸がはみ出している。静まり返るその場所で聞こえているのはサラフの泣きわめく声だけだ。声を出しているのはサラフ一人だけ、動いているのはサラフの腹から流れる血だけ。まるで時間そのものが凍ったかのようにグランには感じられる――だがそう感じているのはグラン一人だった。
「お、お、お、王女、このような……」
「何か問題ありまして?」
レアルトラは小首を傾げ、いつものように柔らかに微笑む――血に染まったドレスのまま、血の滴った剣を手に提げたまま。
「このような、このような……」
「我が国の国王をここまで侮辱したのですから無礼打ちにされて当然でしょう。それともムーマでは違うのですか?」
グランは数瞬言葉に詰まった。確かにそれも間違いではないが、ムーマなら、平常ならいきなり斬り捨てられはしない。ここがムーマでサラフが国王ディーンハルジャスを侮辱したなら、サラフは牢獄にぶち込まれた上で鞭打ちの刑に処される、辺りが順当ではないだろうか。
「しかし、サラフはムーマの女官としてここに……」
「それならばこの者の発言はムーマの意志として理解して構わないのですね? ムーマはコナハトに宣戦していると受け止めて構わないのですね?」
今度こそグランは沈黙を余儀なくされた。自分が言葉を一つ間違えるだけでムーマとコナハトが戦争に至るかもしれないのだ。元々コナハトとの和平を希求していたグランにそれが耐えられるはずもなかった。
「我が国はムーマとの間の長く悲惨な戦いの歴史に終止符を打ち、両国間に永遠の平和を築きたいと願っていたのですが……」
レアルトラがわざとらしく泣き真似をし、次いで涙を拭って真っ直ぐにグランを見つめる。
「ムーマが我が国を侮辱し、戦争を挑んでくるなら是非もありません。我が国の総力を挙げて受けて立とうではありませんか」
レアルトラは静かに、だが力強く宣言した。誰かコナハトの人間で王女を止める者はいないのか、と狼狽えたグランが周囲を見回す。だがそんな人間は一人もいない。全員が期待を込めてレアルトラを見つめている。進軍開始の合図を今か今かと待っている――
「ま……待ってくれ。あの者の、サラフの発言はムーマとは無関係だ」
グランはすがるようにレアルトラに言い訳をする。レアルトラは「それで?」と続きを促した。
「王女が下した処罰は正当なものだと……僕が認める」
絞り出すように告げられたその宣言にレアルトラはしばし考え、
「ご理解いただけたことは幸いですわ」
とにっこり笑った。
「それでは王子グラン、式を始めましょう」
レアルトラの言葉にグランは戸惑う。グランは「いや、しかし……」とレアルトラの姿を指差した。だが、
「何も問題ありませんわ」
とレアルトラは血染めのドレスのまま微笑んでみせる。グランはがっくりと肩を落とし……この一時で一気に憔悴したかのように思われた。
こうしてレアルトラとグランは挙式を終え、正式な夫婦となった。この顛末は通信魔法によりその日のうちに大陸中の国々の知ることとなる。
この事件はまずコナハト国内で庶民の間に広がり、庶民はこの話題で持ちきりとなった。
「『導く者』をむざむざと殺されたときは怒りもしたし、絶望もしたけど……」
「王女様も結構やるじゃないか」
「ああ、ムーマに一泡吹かせてやったんだ。さすが王女様だ!」
「導く者」を殺されたことで地の底に落ち込んだレアルトラの評判は今回の一件で持ち直しつつあった。それは庶民の間だけでなく武家の間でも同じである。ムーマを相手に一歩も引かなかったことがレアルトラ再評価の理由となった。
七斗もまたこの事件で溜飲を下げた一人である。
「とりあえず元気そうでよかったよ」
レアルトラが過酷な、屈辱的な状況にあっても未だ誇り高くあることに七斗は胸をなで下ろしている――もし七斗が惨劇の現場を目の当たりにしたならそこまで暢気にしていられなかっただろうが。
一方、
「一体何をしているのか……」
と頭痛を堪えているのは公爵グラースタである。
「この結婚はムーマの油断を誘うためのものだろう。ムーマを警戒させてどうするのだ」
とグラースタは苦々しい思いを禁じ得なかった。その理由の中にレアルトラの評判が持ち直していることがあることに、グラースタ自身も気がついていない。
さらに一方、大陸の反対側。火の国ラギン。
ラギンとコナハトは昔から同盟関係にあり、同じく同盟しているムーマとウラドに敵対していた。コナハトはラギンとは国境をほとんど接していないため敵対する理由がなく、一方でムーマとウラドとは国境を接しているためにいくつもの係争地を抱えている。ラギンから見てもそれは同じであるため、ほとんど唯一の選択肢としてコナハトはラギンと同盟を結んでいるのだ。そしてムーマ・ウラドの同盟もちょうどその裏返しの関係となっている。
ブレスの登場によりコナハトが大幅に弱体化してもその関係に変化はない。いや、コナハトが完全併呑されればムーマの次の標的がラギンなのは明白であるため、同盟関係は一層強固となっていた。ラギンの大規模な支援はコナハトにとってはミデに次ぐ重要な生命線と言っていい。
コナハトはラギンの友好と支援への応えとして、前の国王グリアンの妹をラギン国王に嫁がせていた。
「……左様ですか」
今、王城のバルコニーで武官から報告を受けているのがその女性。グリアンの妹、ラギン国王の王妃――ゲアラハだ。年齢は五〇の手前だが未だその美しさを保っている。長く黒い髪、雪のように白い肌など、その容姿にはレアルトラに共通するものが多々あった。
武官はガチガチに緊張している。この数ヶ月、コナハトの状況を報告するたびに王妃の機嫌が急降下していくのだ。今回の報告は王妃の機嫌を損ねるものではなかったが、何かの拍子で地雷を踏まないとも限らない……そうなったら生命の危機である。
「コナハトはまだ戦う意志を捨ててはいないようだ。来年の支援は、幾分減ることにはなるだろうが継続したいと思うのだが……」
そう王妃に問いかけるのは国王オノール。赤い髪と浅黒い肌を有する、中年太りの小男だった。
「それは陛下がご判断するべきこと。わたしが差し出口を挟むことではありません」
「そ、そうか」
とオノールはハンカチで汗を拭った。ゲアラハの本心を言うなら、ラギンの支援は喉から手が出るほどほしい。コナハトを支援してくれるなら土下座でも何でも、いくらでもする――だがそうやってラギンよりもコナハトを優先したなら王妃としての地位が危うくなり、対コナハトの支援にも支障を来す結果となる。だからゲアラハはラギンにおける対コナハト政策に口を挟んだことはこれまでただの一度もない……それがどんなに辛くとも、身を切るような思いをしようと。
「しかし、さすがは君の姪と言うべきか。血は争えないな」
そう言って笑うオノールにゲアラハは少し拗ねたような顔をした。
……王妃ゲアラハは女傑として大陸中にその名を轟かせている。事の起こりは三〇年近く前、ゲアラハがラギンに嫁いできたばかりの頃。ラギン王城の侍女の一人がコナハトやゲアラハのことを「物乞い」と嘲笑したのだ。公然と侮辱されたゲアラハはその場で、自らの手でその侍女の首をはねた。
その侍女が有力貴族の出身だったために事態は拡大する。その有力貴族が若き国王に対して謝罪や和解金を求めたのだが、ゲアラハがそれを一蹴。怒った有力貴族は地元に帰って兵を集め出した。その貴族の側は単なる交渉戦術の一環として、威圧として兵を集めていたらしい。だがゲアラハはこれを反乱準備と見なし、自ら兵を率いてその貴族を討伐。その貴族は一族郎党皆殺しの結果となった。
この他、王太子ブライムを身ごもった身体でムーマと戦い、王太子に授乳をしながらムーマとの戦いの指揮を執った等、伝説には事欠かない女性である。レアルトラは一度も会ったことはないがゲアラハのことを父グリアンの次に尊敬し、昔から通信魔法で手紙のやりとりをしてきたのだ。ゲアラハの方も一度も顔を見たことのない姪を気に懸け、可愛がってきた……「導く者」を喪うまでは。
「導く者」が喪われてからは手紙のやりとりは途絶えている。ゲアラハとしてはレアルトラとは絶縁したも同然である。
「『導く者』もなしに、あなたはコナハトをどうやって守っていくつもりなのですか。レアルトラ」
だが気分的には絶縁していようと、ゲアラハがコナハトのことを忘れるはずがない。レアルトラのことが気にならないわけがないのだった。ゲアラハはバルコニーから南の地平線の彼方へと視線を送る。大陸の反対側にある、忘れがたき祖国を見つめていた。
そして一方、大陸の東側。土の国ウラド。
「あははは! なるほどな、さすがは王女レアルトラ。あの女傑の血を引くだけのことはある」
臣下から報告を受けているのはウラド王太子シュクリス。二〇代前半の引き締まった身体を有する、美男子と言うべき青年で……今は巨大なベッドに寝転がり、複数の半裸の女から愛撫を受けているところだった。
「報告は以上です」
と一礼して退席しようとするその臣下に、
「ああ待て、カールジャス。俺の名前で王女レアルトラに祝いの品を贈っておけ」
と軽く命令する。
「美術品の類よりも金貨や金塊をそのまま贈ってやれ」
命令を受けたカールジャスという青年は戸惑いを見せた。
「しかしそれは……」
「贈り物とは相手が本当に望むものを贈って然るべきだろう?」
とシュクリスはにやりと笑う。シュクリスがレアルトラに贈ろうとしているのは軍資金そのものであり、それはつまりレアルトラがムーマと戦う意志を捨てていないと判断したということだ。
「ですが、コナハトにはもうムーマと戦う術などありません」
「それはどうかな」
カールジャスが怪訝な顔をするがシュクリスはその疑問に答えない。女の身体に、愛欲に溺れるのに夢中となっていた。
そして最後に大陸西側、風の国ムーマ。
レアルトラの振る舞いはモイ=トゥラでも広く知れ渡り、モイ=トゥラの民を勇気づけた。不穏な空気がモイ=トゥラ全土に漂い、総督であるエイリ=アマフは対応に追われる結果となった。
「何をやっているんだ、グランのやつ」
エイリ=アマフは苦虫を噛み潰している。思わずグランのことを罵り、すぐにその言葉を自分で訂正した。
「……いや、あいつには荷が重かっただけだ。あいつを選んだ本国の連中の失態だ」
と矛先をムーマ本国へと向ける。そのムーマ本国でも、国王ディーンハルジャスの前で何人かの重臣が苦々しい顔を向け合っていた。
「コナハトは未だ自分達の立場を判っていないようだ。全く、度し難いことだ」
「『導く者』を喪ってもなお我々に刃向かい続けるつもりなのか」
「奴等が敗北を認めさえしたなら、モイ=トゥラの締め付けを緩めてやってもよかったのに」
ひとしきりコナハトを、レアルトラを罵り、不意に会話に空白が生まれた。
「……やはり使う必要があるだろう」
空白は宰相バイル=エアガルのそんな言葉で埋められる。
「そうだな、やむを得んだろう」
「全ての責任は未だ敗北を認めないコナハトにある」
「連中の戦う力と意志を根こそぎにしなければ、モイ=トゥラを安定させることができない」
重臣が意志を一つにし、視線を国王ディーンハルジャスへと向ける。玉座のディーンハルジャスは深く重苦しいため息をつき、
「よきに計らうように」
と命令を下した。
モイ=トゥラの中央に広がるリール湖、その湖畔。そこには今、大型船が接岸している。
船の甲板では何人もの男が弓を手に周囲を警戒していた。男達は粗末な身なりの荒くれ者、といった風情でまるで水賊船のようだが……その目つきは単なる水賊ではない。軍人のように規律に満ちた、だが水賊などよりよほど凶悪な男達。
船の中でも歩哨が油断なく歩いている。歩哨の他にいるのは魔道士、あるいは何かの技術者と見られる男達だ。船の中は何かの音で満たされている。低音の、耳障りな何かの音が絶えることなく聞こえ続けていた。
船の奥には船倉に続く戸が床に設置されていて、その戸の前にはやはり歩哨が屹立していた。音はその戸の向こうから聞こえている。動物か何かが唸っているような音が。怪物か何かが喉を鳴らしているような音が。
そして戸の向こうの船倉……そこにあるのは、数え切れないくらいに積み重なる箱だった。一メートル四方くらいの箱が縦横に並び、何段にも積み重なっている。箱は五枚の板で作られていて、残りの一面には金網が張ってあり――その中には虫がいた。
虫がいる。バッタがいる。一つの箱に無数の虫が詰め込まれている。そんな木箱が何十と積み上げられている。白い斑点を胴体に宿した虫が、船倉に充ち満ちている。
そして船は一隻ではなかった。何隻もの同型の船が並んでいる。
船はやがて岸辺を離れ、白い靄の中へと消えていく。その船がどこに向かうのか、何をしようとしているかを知る者はどこにもいなかった――モイ=トゥラの中には。




