第一話「『導く者』ナナト」
水木七斗は二一年の人生の中で、最大の生命の危機に直面していた。
「……ここどこ? これは何?」
今彼がいる場所は戦場であり、目の前で起こっているのは戦争そのものだった。血のように赤い夕陽が地平線に没する直前。大きな岩が無数に転がり、背の高い草が生い茂る野原の中。何十人もの兵士が矢を番え、火縄銃を撃ち放っている。そして同時に雨霰とばかりに矢や銃弾を撃ち込まれていた。
弾幕の彼我には圧倒的な、絶望的なまでの物量差があり、一方的に不利なのは今七斗がいる陣営の方だった。その差は一〇倍に達するかもしれず、今また七斗の目の前で一人の兵士が銃弾に倒れている。
「troid ar ais!」
「Níl aon bullet!」
「Neamh-inbhuanaithe!」
飛び交う怒声は意味どころかどこの国の言葉なのかも判らない。だが彼等が今まさに追い詰められているのは翻訳されなくても容易く理解できることだった。
「……えっと」
だが七斗は理解できないでいる――目の前の現実の全てを。その兵士達が使っている武器が自動小銃であったり、彼等の防具が迷彩服であったりしたなら、あるいは七斗も「ここが戦場だ」という現実を受け入れられたかもしれない。だがその兵士達が手にしているのは弓矢や火縄銃、または鉄の長剣で、彼等の防具は中世ヨーロッパ風のチェーンメイルや鉄の鎧、もしくは木製の盾である。
敵側の様子はここからではよく見えない――いや、一つだけはっきり見えるものがあった。中世ヨーロッパ風の全身鎧を身にした、身長が三メートルを超える巨人である。その巨人は矢や火縄銃の銃弾をものともせず、ゆっくりとこちらに向かって歩いている。
「映画の撮影現場に紛れ込んだとか……?」
そう考える七斗の目の前で兵士の一人が矢で顔面を射抜かれ、肝を潰すような絶叫を上げていた。充満する硝煙が目を刺し、漂う血臭が鼻を突く。七斗の五感はこれが現実だと何よりも雄弁に物語っていた。
「Teacht thar anseo!」
突然兵士の一人が七斗の手を強く引いた。七斗はその兵士に引きずられるままに歩いていく。ほんの数十メートル歩いて到着した先には大きな川があり、そこには小さな船が用意されていた。一〇人も乗れば満員のその船には何人かの屈強な護衛と将軍風の武人が、そして貴人と見られる一人の女性が乗っていた。
歳の頃はおそらく二〇歳の手前。女性としては背が高く、スリムな体格だ。肌は新雪よりも白く、長く真っ直ぐな髪は夜よりも黒い。その辺のモデルなど足下にも及ばない美人である上に、漆黒の髪と純白の肌のコントラストが鮮烈な印象を与えている。七斗はリアル、モニターの中を問わず、これほどまでの美人をこれまで見たことがなかった。
「Faigh ar long go luath」
兵士に突き飛ばされるように七斗は乗船、それと同時に船は岸辺を離れた。敵に包囲されている兵士のほとんどはその場に残されたままである。彼等は一斉に雄叫びを上げ、より一層激しく敵への抵抗を続けた。
「あの、あの人達は……」
思わず七斗が女性に問いかけるが、女性は悲しげに目を伏せるだけだ。それで七斗は理解できてしまった――あの場に残された兵士達は七斗やこの女性を守るため、ただそれだけのために絶望的な抵抗を続けているのだと。
「Faoi ionsaí!」
女性が鋭い声を発し、それに即応して護衛が周囲を警戒をした。弓を引き絞るように護衛の敵意と緊張が極限に達している。
「敵の攻撃が迫っているのか?」
七斗もまた見様見真似で周囲を警戒。いつでも動けるように体勢を整えた、そのとき。
「――あああぅぁぅあああぇぁぇあ!!!」
獣じみた絶叫が轟く。七斗はそれが自分の口から発されたものだとは理解していなかった。脳の中で理性と本能が完全に分離していて、身体を支配しているのは本能の方だ。本能が何らかの理由でパニックに陥り、七斗は周囲の制止を振り切って船から飛び出し、川へと飛び込んだ。理性は脳の片隅で唖然としながらその状況をただ見つめるだけである。
七斗の身体は未だ恐慌状態のままで、水の中でありながらただ無意味に手足を振り回している。七斗の身体が水に沈み、大量の水が胃と肺に流れ込んだ。死の危機に直面し、ようやく理性が身体の制御を取り戻す。七斗は手足から力を抜いて水の流れに身を任せた。七斗の胴を何者かが抱きかかえる。何者かがそのまま川を泳いでゆく。それが船に乗っていた護衛の一人だと理解したのは、七斗が岸辺に引きずり上げられてからだった。
「ナナト様、どうかわたし達の国を救ってください!」
七斗の顔の前で、
身長が二〇センチメートルに満たない女の子が宙に浮きながら、
指を組んで七斗に懇願している。
「えっと……」
七斗はどこから突っ込めばいいのか途方に暮れながらもまずその少女に確認した。
「その、君は、何?」
「えーっとですね、わたしは言ってみれば召喚魔法の精霊的な何かです」
人間に換算すれば多分中学生くらいの年頃になるだろう。ストレートの黒髪はまるで日本人形のようだがその顔立ちは西洋的だし、服装も妖精を想起させる幻想的なものである。それに何より、その少女の背中には蜻蛉のような透き通った羽根が生えていて、それで羽ばたきすることで彼女は宙に浮いていた。その姿や有様は「精霊です」と断言されれば「そうですか」と納得できるものだった。それ故に、
「『的な何か』って何なんだよ……」
と七斗は突っ込まずにはいられない。だがその精霊(?)は「そんなことはどうでもいいんです」と七斗の疑問を流してしまった。
「わたし達の国は今破滅の淵に立たされています。この絶望的な状況から抜け出すにはナナト様の力が必要なんです! どうかわたし達の国に来てください!」
「いや、そんなこと言われても……」
と七斗は当惑するが、彼女はそれを無視して畳みかける。
「わたし達にできることなら何でもします! 金銀財宝は思いのまま……って言っても国民は困窮していて宮廷は万年赤字で、まずそれを立て直すところからお願いしないといけないんですが」
「いやその」
「地位や名誉であればすぐにでもいくらでも報いられます! 王国宰相でも大将軍でも、どんな地位もお望みのままに!」
「あの、ちょっと待ってよ」
「国中から可愛い女の子をかき集めて、ナナト様のためにハーレムだって作っちゃいます! 何人でも何十人でも、あらゆる美女美少女がナナト様に尽くして捧げて奉仕して!」
「ちょっと待って!」
七斗は彼女の目の前で両掌を打ち合わせる。猫だましにびっくりしたのか、精霊の少女は目を丸くし、息が止まったような顔をした。
「あの……」
七斗はやや気まずそうな顔をして確認する。
「誰か別の人と勘違いしてない?」
「そんなことはありません」
彼女は打てば響くように間髪入れずに即答した。
「でも僕はただの高卒の工員で、その工場もクビになったけど……愚図とかのろまとか要領が悪いとか言われることはあっても、君の国を救うような力も知識も、何も……」
「そんなことはありません」
精霊の少女は静かに、だが力強く断言した。
「ナナト様は運命が見定めた、水の国の『導く者』。ナナト様にはわたし達の国を救える力がある――そうでなければわたし達が今こうして出会えることもありません」
精霊の少女は透き通った微笑みを七斗へと向ける。七斗の心は大きく揺れ動いた。
「いやでもまさか……本当に?」
揺れ動きはしたが、
「いやいやいや、そんなのあり得ないから。僕はただのボンクラの凡人で、君の国を救うなんてきっと無理だよ」
結局常識が打ち勝ってしまう。精霊の少女は空中でずっこけていた。
「地位や名誉では足りませんか?! 富貴を約束……富はいきなりは難しいですけど、でもいずれ必ず富でも報いますから!」
彼女は必死になって七斗に食い下がっている。
「あ、そうだ。お姫さまなんかどうですか? 大陸一の美姫と謳われている水の国のお姫さまがお嫁さんになってくれますよ!」
七斗の眉がぴくりと動く。精霊の少女は「ここが攻め所だ」と判断したようである。
「大陸一の美人で家事万能でやりくり上手! 貧しいときも苦しいときもひもじいときも、ナナト様を良人として立てて尽くして捧げます!」
「子供は……なるべくたくさんほしいと思うんだけど」
精霊の少女は「はい! わたしもそう思います!」と表情を輝かせた。
「ナナト様が望むなら十人でも二十人でも赤ちゃん産んじゃいますよ! 赤ちゃんの泣き声を水の国中に響き渡らせちゃいましょう!」
七斗の心は大きく揺れ動いていた。先ほどの比ではないくらいの、船だったなら転覆しているほどの揺れようだ。七斗の口からは「行こう」という言葉が舌先まで出かかっていた。
「……いや、やっぱり行くとは言えないかな……」
だが、結局は常識と躊躇いが勝利してしまう。精霊の少女は墜落しそうになっていた。
「もう! 何でもするって言ってるのに! どうしたらわたし達の国に来てくれるんですか?!」
「仮に行くのはいいとしても、こっちに戻ってこられるの?」
七斗の問いに彼女はごまかすように目を逸らす。七斗は安堵したようなため息をついた。
「それじゃ行くのはとても無理だよ。そっちに行ったきりもう戻れないなんて」
「確かに召喚魔法はこちらに喚び寄せるだけの一方通行で、元いた場所に戻す方法はありませんけど……」
説得の失敗を目前にした精霊の少女は涙のたまった瞳を下へと向けている。
「そんなにこの世界から、今の場所から離れたくないんですか? 大切な家族や恋人がいるとか、大事な役割があるとか」
半泣きになった彼女が愚痴をこぼすようにそう言った、その瞬間――
「……っ」
精霊の少女が息を呑んだ。七斗のまとう空気が一変している。顔を伏せた七斗が折れそうなくらいに強く歯を食いしばっている。今、七斗の脳内では走馬燈が怒濤のような勢いで展開されていた。
――小学生のときに両親が事故死し、親戚からは厄介者扱いされ続け、お情けで高校にだけは進学させてもらい。
――手に職を付けて一年でも早く独立するため進学先は工業高校の電気科。でも特別優等生だったわけでなく、選り好みできる立場でもなく。卒業後の就職先は場末の町工場、その設備課。
――仕事はきつく、休日は少なく労働時間は長く、給料は安く、残業代は創業以来ただの一度も一円たりとも払われたことがないという超絶ブラック企業。
――職場の同僚はヤンキー上がりばかりでオタク気質な七斗とは全くそりが合わず、七斗は職場で孤立し、いいようにこき使われ。
――そんな中でも事務課の可愛い女子社員に淡い恋心を抱いて、決死の覚悟でデートに誘ったところ見事に玉砕。手ひどくこっぴどく、完膚無きまでに断固として拒絶され……確かにテンパったあまりいきなり結婚話まで持ち出したらドン引きされるのは当然だとは思うけれど。
――さらにそのことを同僚に知られ、散々馬鹿にされ、からかわれ、嘲笑され。
――逆上した七斗が殴りかかったけど多勢に無勢だったこともありあっさり返り討ちになり。
――経緯を無視して七斗が先に暴力に及んだこと、ただそれだけを問題にされてその工場をクビになり、住んでいた社員寮も追い出され。
――行くあてもなく頼れる人もおらず金もなく、河川敷で座り込んで流れる川面を眺めているうちに日が暮れてしまい……
「こんな世界に未練なんかあるかー!!」
魂からの絶叫が轟く。精霊の少女は太陽のように光り輝く笑顔を見せた。
「それじゃナナト様」
「連れていけ僕を! 君達の国に!」
精霊の少女は七斗の周囲を飛び回って喜びを表現した。
「それじゃ行きますね! わたし達の国に!」
次の瞬間、突然地面がなくなったような浮遊感が七斗の身体を包み、
「え」
高いところから落下している感覚が――
「ちょちょちょちょっと待って、落ちる落ちる落ち……」
七斗は冷たい地面の上に寝転がっている自分を発見した。濡れた土が七斗の頬を汚している。
「……夢?」
「Nó woke suas」
七斗の目の前には剣を手に提げた、野性味溢れた男が一人。時刻は夜で、周囲は木々に覆われた山の中である。
「……ああ、そうか。船から落ちた僕をこの人が助けてくれたんだっけ」
七斗を救出したのは船に乗っていた護衛の一人で、狼のように精悍な戦士である。
「それでこの人と一緒に逃げて……」
逃避行を開始した時分には太陽はとっくに沈んでおり、空は分厚い雲に覆われていた。星どころか月がどこに出ているのかも判らない。七斗達が進んだのは山の獣道で、墨のような暗闇の中だった。遠方には松明の明かりが行列を作っているのが見えており、それが敵の追っ手であることはその戦士に確認するまでもなかった。
そして一〇分も歩かないところで七斗の体力が尽きた。濡れた服を着たままでは急激に体力を消耗することは、七斗も知識としては知っている。だがそれがこれほどまでとは思ってもいなかったのだ。
その戦士は七斗に肩を貸し、担ぎ上げるようにして歩いていく。そしてもう一〇分ほど歩いたところでちょっとした洞窟を見つけた。二つの巨岩が互いに支え合って下に空洞を作っていて、巨岩の上に土が積もっているような状態だ。洞窟と言うよりは岩の隙間だが、七斗とその戦士がその中に入れるくらいの大きさはあった。二人はそこで一時の休息を取ったのだ。
そして休憩が終わり、逃避行を再開する。七斗の行く方向は一寸先も判らない暗闇で、それはまるで七斗のこの先を暗示しているかのように思われた。
……逃避行は苦難苦行と艱難辛苦と危機一髪、そして犠牲の連続だった。
「確かにこの国に連れていけって言ったのは僕だけど、こんなことになるなんて一言も説明がなかったじゃないか」
七斗はそう愚痴らずにはいられない。夜通し歩き続けた七斗とその戦士――マドラという名前らしい――は二〇人ほどの味方の一団と合流する。味方が増えれば足手まといを連れているマドラの負担は減りはする。が、それと同時に敵に見つかる危険が高まることでもあった。
敵に追いつかれたときは味方の半分を囮にして七斗とマドラ達は先に逃げた。味方の中で一番若く小柄な者と七斗は服装を交換する。その少年が七斗のふりをし、護衛を引き連れて盛大に逃げ出すことで敵の目を引きつけ、その隙に七斗とマドラはこっそり逃げるのだ。それでも追いついてきた敵に対しては味方の半分が足止めとなって七斗とマドラは先に逃げ、それを何度かくり返し、その日のうちに七斗の護衛はマドラ一人となった。
敵の中には身長が三メートルを超える、あるいは五メートルに達する全身鎧の巨人が混じっていた。おそらくは魔法で使役される動く石像、ゴーレムの類だろう。動きは非常にゆっくりしていて攻撃手段も持っていない様子だ。が、それに対しては矢も火縄銃も効果がない。敵はそのゴーレムを動く盾として利用しているのだ。味方にはこれへの対抗手段がないらしく、敵がゴーレムを先頭に突撃してくるといいように蹴散らされてしまっていた。
また、杖を振るって火炎の弾や真空の刃を飛ばしてくる敵兵も中にはいたが……これはそこまで脅威ではなかった。人数は少ないし、多少殺傷力が高かろうと七斗にとっての脅威の度合いは普通の弓矢や火縄銃と特別変わらない。そんな魔術が使えるのはどうやら隊長クラスだけのようだが、それよりも問題は彼等が通信機と見られる道具で連絡を取り合っていることだ。
今また敵の一部隊が七斗達を発見。隊長と見られる兵士が部下の兵士に背負わせた通信機でどこかに連絡を取ろうとしているところである。
「fáviti!」
悪態をつきながらマドラが突撃。竜巻のように剣を振るい、五人はいたその部隊をあっと言う間に全滅させてしまっていた。七斗はおそるおそる転がる死体へと近付く。七斗はこの世界の技術水準を確認するためその通信機を分析しようとした。
「え……何だこれ」
「fara snemma」
マドラに急かされ、七斗は名残惜しげにその通信機から離れる。一目しただけで何が判るはずもなく、判ったことはそれが科学ではなく魔術の産物だということだけだった。
訳も判らず逃げ回るだけだが、それでも状況から見えてくることがある。敵の方が数が多い。敵の方が装備が整っている(兵卒には大きな差は見られないが、隊長クラスの者には歴然とした差があった)。敵の方が組織立って行動している。味方は南に向かって逃げていて、それを敵が追い立てている。
「……水の国の軍隊が敵国に入り込んで、敵に一方的に叩き潰されて、散り散りになって逃げ出して、ってところなのかな」
七斗はマドラ達の置かれた状況をそう推測した。身振り手振りでごく簡単な意思の疎通は可能だが、言葉が通じないためそれ以上のことは望むべくもない。
元の日本では季節は秋の直中だったがこの世界では、木々の青々とした様子から今は春のように思われた。ただし陽気としては元の日本と大差ない。日中もそこまで気温は上がらず、夜ともなればかなり冷え込んだ。そんな中で、しかも野外で、その上深い山の中で、とどめにまともな防寒具が何もない状況で寝起きしなければならず、七斗はマドラと身を寄せ合い、抱き合うようにして暖を取った。男同士で抱き合って眠るなど、これが日本にいるときであれば「死んでもゴメン」と却下するところだ。が、そうしなければ到底眠れない有様ではそんなことは言っていられない。
「この人が同性愛者でなくて本当によかった」
と七斗は胸をなで下ろした。七斗は男としてはかなり身長が低く、二〇歳を過ぎているのに中学生にしか見えないくらいの童顔だ。ある種の同性愛者にとっては垂涎ものであっただろう。
携行食糧がなくなったらマドラは鳥や兎を狩って生のまま食った。火を使うと敵に格好の目印を示すことになるためよほどのことがなければ使えない。七斗もまた生肉を食うことを余儀なくされた。だが鳥や兎の類はかなりマシな食事である。マドラに食事として生きた芋虫を渡されたときは、それを口にするのに一時間以上躊躇してしまった。二回目以降は七斗も慣れて、芋虫だろうと蛙だろうと生食できるようになった。七斗は自分で思っていたよりもずっと適応能力が高いらしい。
敵軍は非常に執念深くマドラや七斗を追跡していた。が、この土地には縦横に水路が走り、そこら中に貯水池が点在し、背の高い草が生い茂り、隠れる場所には事欠かない。味方と合流するよりも二人で逃げた方がむしろ安全な場合が多かった。
「なるほど、『水の国』か」
七斗は小高い丘の上からこの世界を、水路と貯水池に覆われたような大地を見渡していた。夕陽が水面に反射して赤く輝くその光景は、元の世界で――写真やモニターの中で――見たどこの観光地にも負けないくらいの美しさだ。確かにその姿は「水の国」の名に相応しいように思われた。
「……いや、でもここは『水の国』じゃなくて敵国の中なんだろ?」
七斗のその疑問は逃避行を続ける中で少しずつ解かれていった。
あるとき、七斗とマドラは山の中で芝刈りをしていたらしい貧しい農夫に見つかってしまった。
「敵に密告されてしまう……! どうする、この人を殺すのか?」
殺すべきか否か迷う七斗だが、その農夫は二人に気がつかないふりをして立ち去っていった。マドラも密告の恐れを感じていないようだった。
また別の場所でも今度は老婆に見つかってしまうが、
「……」
その老婆は手持ちの食料を七斗達に差し出し、さらに手を合わせて七斗達を拝み出した。マドラは「俺達に任せろ」と言わんばかりの頼もしげな笑みを見せ、差し出された干し魚にかぶりついた。
そんなことが一度や二度でなくくり返され、七斗も理解するようになる。
「多分、ここは元々『水の国』なんだ。それを敵に占領されてるんだ」
マドラ達はこの土地を「水の国」へと取り戻すために戦っているのだろう。この地の住民も、敵を追い出すために密かにマドラ達に協力しているに違いなかった。
「敵から国土を奪還するために魔法を使って『導く者』を召喚した、ってことなのかな。でも何で僕なんだよ。戦争をするのなら自衛官でも召喚すればいいのに」
自衛官のレンジャーなら――いや、そこまで言わずとも、正規の訓練を受けた自衛隊員ならこのサバイバルな逃避行でもマドラの足手まといになることはないだろう。
「……いやいや、そういう問題じゃない。そもそも敵地で『導く者』を召喚する方がおかしいんだ。敵が『導く者』を殺すために必死になるのは当然なんだから、召喚するなら国内の安全な場所で――」
そこまで考えて七斗は「水の国」の現状を察してしまう。
「――国内の安全な場所で召喚するのが当然なんだ。彼等だってできるものならそうしたかったはず、敵地での召喚なんて絶対にやりたくなかったに違いないんだ。でも、そうも言っていられなかった、そうするしかなかったんだろう……霊地だか聖地だか、召喚に最適な場所を敵に占領されてしまっていたから」
七斗がこの世界にやってきたときにその場にいた貴人らしい女性は、多分「水の国」のお姫さまだと思われた。あの女性の何年か昔の姿を想像するとそれは「召喚魔法の精霊的な何か」の少女とぴたりと一致する。
「お姫さまが軍を率いて自ら敵地に乗り込んで、霊地を一時的に奪還して召喚魔法を決行する……どんだけ追い詰められてるんだ、『水の国』」
それがどれだけ無謀な作戦か、どれほどの犠牲を必要とするか、少し考えれば誰だって想像がつくだろう。それでもやらなければならなかった。どんな犠牲を払おうと、何を喪おうと、それでも「水の国」には「導く者」が必要なのだから。
「……いやいやいや、そんなの僕にどうしろって言うんだよ」
「水の国」が「導く者」である七斗にどれだけの期待をかけているのか、どれほどの願いを託しているのか、七斗には想像できてしまう。だが七斗は「自分には彼等を救う力がある」等と自惚れることはできなかった。
「það máltíð」
マドラが捕まえてきた一匹の蛇、それが今日の二人の食事だった。マドラが手早く蛇の皮を剥ぎ、ナイフで胴体を真っ二つにする。投げ渡された尻尾側の方を、七斗は有難く完食した。
「……本当、マドラさんがいなかったら僕なんて何にもできないんだから」
今の七斗は子供と同じだった。元の世界の知識も経験もこの場では何の役にも立たない。マドラが用意した食物を口にし、敵と戦うマドラの背に隠れ、前を進むマドラの背中を必死に追う。マドラがいなければ七斗は二日で死んでいるに違いなかった。
「召喚作戦の指揮を執ったのがお姫さまだから、きっと『水の国』の中でも精鋭部隊を連れてきたんだろう。マドラさんは精鋭中の精鋭、『水の国』でも高名な戦士なんだろうな」
だが、その無双の戦士たるマドラの力量をもってしても、七斗の存在はあまりに重荷だった。マドラが一人で逃げていたならとっくの昔に安全地帯まで逃げ込んでいたのは疑いない。逃避行はすでに一〇日を過ぎているのに、七斗がいるために未だ敵地の直中から抜け出せないでいる。
味方と合流し、その味方を捨て石にして逃げ出し、敵を屠り、敵の服装を奪って敵兵のふりをし、そのために味方に殺されそうになり、味方と合流し、その味方が敵を足止めしているうちに先に逃げ、船を盗み、その船を捨てて山の中に逃げ込み……
二〇日以上にも及ぶ逃避行はようやく終わろうとしていた。着ていた服は泥と垢で真っ黒になり、そこら中破れてボロ雑巾以下の有様だ。七斗の身体も怪我をしていない場所を探す方が難しい。体力も使い果たし、今生きていることが奇蹟に近かった。
目の前にそびえるのはほんの数百メートルの小山で、元の世界なら小学生の遠足に手頃なくらいだろう。だが今の七斗にとってそれはチョモランマよりも高々とそそり立ち、七斗の行く手を阻んでいた。未明から歩き出して半日かかり、七斗達はようやくその山を乗り越える。山頂に立った七斗の眼下に大きく緩やかにカーブを描く川が広がった。川幅はあるいは何百メートルにもなるかもしれず、その川沿いには城を中心とした町が存在していた。
「Ach sin sliabh! Tá mo ár dtír!」
マドラがしきりに目の前の町を指差しており、どうやらそこが目的地のようだった。七斗は最後の力を振り絞って歩き続ける。だがその歩みは、傾斜がかなりきついこともあり、亀のそれよりも遅かった。マドラが敵から奪った槍を杖の代わりにし、何とか倒れないでいるような状態だ。
下りの坂道も大分傾斜が緩くなり、町も目と鼻の先になってきたとき、
「asshole……!」
マドラが七斗を突き飛ばし、七斗が持っていた槍を奪って構えを取る。見ると、何騎かの騎兵が接近していた。
「マドラさん!」
「Téigh amach romhainn!」
マドラが何をしようとしているのかは問うまでもなかった。七斗を逃すための捨て石になろうというのだ――彼がこれまでくり返しそうしてきたように。
「……っ!」
七斗はマドラの名を呼ぼうとするがそれは音にならなかった。だがマドラは七斗の方を振り返り、不敵な笑みを見せつける。そして敵騎兵へと突撃した。
七斗もそれ以上は振り返らない。マドラや、これまで見捨ててきた全ての戦士を、その挺身を無駄にしない――そのために七斗ができるのは前に進んであの町にいるという味方と合流すること、それだけだ。
七斗は最後の力を振り絞って歩き続ける。足が折れそうに痛んでいて、全身が砕けそうに軋んでいて、心臓は破れそうに早鐘を打っているが、全ては些細な話である。とにかく少しでも早く前へと、先へと進んで、味方のところに――
七斗の足のすぐ横に矢が刺さった。思わず振り返ると、もう目の前に一騎の騎兵が迫っている。七斗は足下の石を拾い上げ、その騎兵の顔面めがけて投げ放った。石は運良く騎兵の鼻に命中し、騎兵は数瞬怯んだ。だが、それだけだ。怒りに燃えた騎兵が剣を振り上げて七斗へと急速接近する。騎兵の剣が七斗の背中を斬り裂こうとした、そのとき。
「!」
稲妻のように飛来した矢が騎兵の眉間に突き刺さる。騎兵はそのまま頭から落馬し、敵からただの背景と化した。七斗は言葉もなくその光景を見つめている。
「Tháinig mé chun cuidiú!」
一〇以上の騎兵が町側から駆けてくる。その半分が七斗の周りを囲み、油断なく弓や剣を構えている。もう半分の騎兵がマドラを助けに行くべく敵へと突撃していった。
「た、助かった……?」
ようやく味方の下にたどり着いたのだ。「水の国」へと入ることができたのだ。それを理解すると同時に七斗は意識を手放してしまう。睡魔が春の日差しのように暖かく七斗の意識を包んでいった。
七斗が「水の国」にたどり着いてから一週間ほどが経過した。
「水の国」の騎兵隊は気絶した七斗と戦死したマドラの遺体を回収し、町へと帰還した。七斗の意識が回復したのは丸一日過ぎてからである。
その町の城で精一杯のもてなしを受けているところに、万に達する一軍が到着する。七斗を自国の首都まで無事に送り届ける、ただそれだけのために用意された、一万もの軍勢だ。
「僕一人のためにどれだけ大げさなことを……」
と七斗は思わずにはいられなかったが、そう思っているのは七斗一人だけのようだった。一万の兵は末端に至るまでほんのわずかの気のゆるみもなく、四方八方を全神経で警戒している。
七斗は一万の軍勢に守られながら街道を移動した。七斗が乗っているのは鉄製の頑丈な馬車で、それを三頭の馬が牽引している。馬車の周囲は何十もの騎兵が固め、さらにその外側を槍を揃えた歩兵が歩いていた。
馬車の中にも屈強な戦士が何人もいて、彼等が七斗を守っている。が、守られる七斗としては息が詰まりそうである。言葉が通じれば、会話ができたなら、あるいはここまで気まずい時間を過ごさずにすんだのかもしれなかった。七斗にできるのは馬車の小さな窓から外の世界を、「水の国」の町並みを眺めることだけだ。
「精霊のあの子も言っていたけど……やっぱり貧乏国なんだな」
小さな窓から得られる情報は限定的だが、それでも庶民の生活の苦しい様子は窺い知ることができた。立ち並ぶ家は平屋の木造ばかり。小さく古く、今にも崩れそうな建物ばかり。石や煉瓦の家はほとんど見当たらない。庶民が着ている服もまた着古された、汚れたものばかり。それに子供にしろ大人にしろ、太った人間を全く見ることができない。道に並ぶ者の誰もが青白く、痩せ細っている。
その全員が地面にひれ伏し、一心に拝んでいた。何を? ――そんなの「導く者」を、七斗を、に決まっている。ボロ服を着た、痩せこけた人々の群れが、街道を通過する七斗に平伏し、七斗を心から拝んでいるのだ。感極まったのか、涙を流している者も少なくなかった。
「導く者」がこの国を、自分達を、この窮状から救ってくれる――彼等は心底それを信じ、毛筋ほどの疑いも持っていない。
「判っていたことだけど……判っていたことだけど……」
彼等の期待があまりに重い。それは物理的重圧となって七斗の心臓を締め付けている。彼等の期待――いや、その願いを、その望みを「期待」などとという軽い言葉で表現するのは適切ではない。それはむしろ「呪い」と言うべき重さと執念で七斗の小さな身体にのしかかっている。もし七斗が彼等を裏切ったならそれは正真正銘の「呪い」となって七斗を跡形も残さずに消し去ってしまうだろう。
そして七斗は、彼等の望みに応えられる自信が全くなかった。
「……逃げたい。今すぐ元の日本に帰りたい」
生きるために芋虫を食い、文字通り泥水だってすすった。今なら生活のために工場の上司や同僚に土下座をするくらい何でもない。馬鹿にされ、嘲笑されるくらいが何だと言うのか。「日本に帰る」という選択肢がもし存在するのなら七斗は迷わずにそれを選ぶことだろう。
だが七斗は覚えている。精霊の少女との会話を。彼女が言っていたことを。
――召喚魔法はこちらに喚び寄せるだけの一方通行で、元いた場所に戻す方法はありません――
「はあー……」
七斗は重苦しいため息をついた。元の世界に戻れずとも、この場から逃げ出すのはどうか? 七斗はほんの数秒でその案を却下した。
「護衛が四六時中そばにいて、寝室どころかトイレにまで付いてくるような状態で、逃げ出す隙なんか一秒だってない。逃げ出したところですぐに掴まるに決まってるし、万一うまく逃げ切ったところで一文無しの上に言葉すら通じないんじゃどうしようもない。どこに逃げればいい? どこで落ち着けばいい? そこでどうやって金を稼いで飯を食えばいい? あれもそれもこれも、何一つ判らないじゃないか」
七斗にできるのは、餓え死にするまでどこか人目の付かない場所でひたすら息を潜めて隠れることくらい――つまりはただの自殺である。結局このまま、状況に流されるまま「導く者」として祭り上げられるしかないわけだ。七斗の口からはため息しか出てこなかった。
……一万の軍勢が数日移動し、比較的大きな町に到着する。七斗はその町を防御する城塞へと案内された。
ただ戦争のためだけに建設された、無骨な石とコンクリートの塊――その建物の中で、唯一多少なりとも装飾を施している中央の大広間。護衛は七斗をそこへと案内し、退席する。その大広間にいるのは七斗一人……いや、そうではない。七斗の目の前に一人の貴人と思しき女性が立っている。
「君は……」
七斗は彼女とは初対面ではなかった。この世界にやってきたときに最初に彼女と会っている。いや、その前に、召喚に際して彼女と言葉を交わしている。
「水の国」のお姫さまである彼女は天女のように音もなく七斗のそばにやってくる。そして優雅に、まるで法王が王様に戴冠させるかのように、七斗の頭部に何かを載せた。金色に輝く髪飾り……のように見える金属製の環だ。
『わたしの言葉が判りますか?』
「えっ、言葉が!」
七斗は驚きに息を呑んだ。彼女は普通にこの国の言葉を話しているだけだが、それと同時に彼女の言葉が日本語となって頭の中に響いている。まるで頭の中に同時通訳者がいるかのようだ。
「ああ、よかったですわ。無事に使えるようですわね」
彼女は華やかな笑顔を輝かせ、七斗は眩しいものを見たかのように目を細めた。
「あの、君は」
彼女はその場に膝を突き、目を伏せ、心臓の前で指を組んだ。それはまさに七斗へと祈りを捧げる姿勢である。七斗は目を丸くし、次いで慌てた。
「あ、あの、一体何を」
「よくぞ……よくぞ来てくださいました、『導く者』」
あふれ出ようとする涙を懸命に堪えながら、余人には想像も付かない激情に声を震わせながら、彼女は七斗にそれを告げた。
「わたしは『水の国』――コナハトの王女・レアルトラです。『導く者』よ、どうか……どうかこの国を、コナハトをお救いください」
本作は全五篇で構成され、最後まで書けば全50万字くらい……もしかしたら60万字くらいになるかもしれません。
このうち第一篇・第二篇まで、24万字弱を書き上げていますのでまずこちらを投下します。年末(12月29日)まで毎日更新の予定です。
それ以降については、ある程度書きためてからの投下になると思いますが、予定は未定です。
本作を楽しんでもらえば嬉しく思います。それではしばしの間、お付き合いください。