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水の国へ愛をこめて  作者: 亜蒼行
凍土篇
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第一三話「囚われの七斗」その2

「身体は問題なさそうだね」


「これが問題ないように見えるのか、あなたには」


 ときはその月の月末。場所は王都カアーナ=マートの公爵家邸宅、その中の公爵グラースタの執務室。七斗はそこで公爵グラースタと対面していた。七斗は車椅子に座り、その側には侍女服のファルが侍っている。車椅子はこの世界では(ないわけではないが)まだ一般的でなく、七斗が簡単な設計図を描いて公爵に依頼して作らせたものだった。


「旅をする分には問題なさそうだ、と言っているのだよ」


「旅?」


「ああ。ミデに戻って一日でも早く君の研究を形にする必要がある」


 七斗は頭の中で地図を広げた。ミデはコナハト北部、ウラドと国境を接する場所である。王都からの距離は一千キロメートルにもなるだろう。


「船を使えば多少は時間を短縮できるがそれでも一月は必要だ。君の怪我が治るのを待って一月もの時間を無為にしてしまったからね。できるだけ早く王都を出発したい」


 七斗がこうやって公爵グラースタと対面するのもかなりの久しぶり――脊椎が損傷していてもう二度と歩けないという事実が判明してからは初めてである。このため七斗の内側からグラースタに対する憤りが改めてわき起こってきた。


「お断りだ、僕を王女様のところに戻せ」


 グラースタは何を言われたのか理解できないかのように首を傾げる。


「今、何と?」


「コナハトのため、王女様のためならいくらでも研究をしてやるさ。でもどうして僕がお前の野心のために研究をしなけりゃいけない」


「私もまたコナハトを救うために働いているのだよ?」


 七斗は唾棄する素振りをした。


「仮にそうだったとしてもお前の得になることをやるのは死んでもごめんだ」


 グラースタは子供のわがままに直面したかのように肩をすくめた。


「君にそこまで恨まれる覚えはないのだが……?」


「誰のせいで……!!」


 七斗はそれだけを叫んで絶句する。怨嗟の言葉が腹の底から際限なくあふれ出て、口の中で渋滞を起こしているかのようだ。言いたいことがありすぎるためそのどれも声にならなかった。


「誰のせいでこんな身体に……!」


 七斗が折れんばかりに歯を軋ませる。それでようやくグラースタは七斗の恨みの理由を理解したようだった。だが――それでもグラースタは当惑したような笑みを浮かべている。


「確かにそんな身体になってしまったのは哀れだし、怒るのは当然だが……私にその怒りを向けるのは筋違いだろう」


 憤怒のメーターが一周回ってゼロ位置に戻ったかのように、七斗は無表情となる。グラースタはそんな七斗の心情を一切斟酌せずに続けた。


「君がそんな身体になってしまったのはファルが失敗したからだ。そうだろう? ファル」


「はい、その通りです」


 ファルはまるでロボットのように、打てば響くがごとくに返答した。


「命令したのはお前だろうが……!」


「ああ、その通りだ。だが実行し、失敗したのは私ではなくファルだ。君の身体の障害について、その責任はファルが負う」


 七斗は唖然としながらグラースタを見つめた。


(こいつ……単に言い逃れでそう言ってるんじゃない。本気でそう思ってる)


 思考回路が常人のそれとは違っているとしか思えない。たとえ何万言費やしたところでグラースタは自分の責任を認めはしないだろう。

 やり場のない憤怒が腑を焦がし、七斗が呻いた。そんな七斗を見てグラースタは、


「ふむ……その足を治すことは不可能だが、元凶に責任を取らせれば少しは君の心も慰められるだろうか」


 グラースタは執務机から短剣を取り出しそれをファルに手渡した。


「『導く者』を不具にしたその罪を負い、自裁せよ」


「判りました」


 ファルは何の躊躇いもなくその短剣で自らの喉を裂こうとし、


「やめろ!!」


 七斗は力の限り叫んでいた。


「やめろ! やめろ! やめろ! 死ぬな!」


 短剣の刃はファルの喉を切り裂く寸前で留まっていたが、やがてそれは喉元から外される。ファルは困ったような目をグラースタに向け、グラースタは失笑しながら七斗に問うた。


「やれやれですな。『導く者』はこの者をどうしたいのですかな?」


 七斗は忌々しさに唇を噛み締めるが、それでもファルの助命をしたことを間違いだとは思わなかった。


「……僕の介護はこいつでないと困るんだ。他の人間じゃつい遠慮してしまう」


「『導く者』のご随意に」


 グラースタは気取った態度で一礼する。結局いいようにやり込められただけの七斗は舌打ちを連発し……ファルは何を考えているのか全く読めない無表情だった。

 ――ファルの内側でこれまでにない感情がわずかに芽吹いている。だがそのことはファル自身も理解していない。











 「導く者」の死亡が公表され、コナハトという国とその宮廷からは人材流出が続いている。多くの者は移住先にモイ=トゥラを選んでいた。重税や苛政で苦労をするのは目に見えているのだが、食文化や生活文化が共通している点は軽視されなかった。


「今までだって決して楽をしてきたわけじゃないんだ。モイ=トゥラの北の方なら凍死も冷害も心配しなくていい。腹一杯米の飯を食う機会だってあるだろう」


「昔の知り合いが随分前にモイ=トゥラに移住している。少しの間なら住まわせてくれるだろうし、仕事の世話もしてくれるかもしれない」


 彼等はそう語り合ってモイ=トゥラへと向かう。だが身体一つで異境に流れ込んだところでまともな仕事があるはずもない。女であれば身体を売って、それでも糊口をしのぐのが精一杯。男の方は、兵士となる者が少なくなかった。

 ムーマ軍を構成している末端の兵士は、その九分九厘がコナハト人だった。ブレスの時代にコナハトと戦ったムーマ軍はムーマ人だけで構成されていたのだが、それも遠い昔の話である。ムーマの苛政により食い詰めた農民、コナハトを見捨ててモイ=トゥラにやってきた流民――彼等が手っ取り早く飯を食おうと思ったら軍に入るしかない。祖国に、王家に刃を向けることが判っていても、そうしなければ彼等は餓死するだけなのだから。

 つまりは今日のムーマとコナハトの戦争は、言い換えればコナハト人同士の殺し合いだった。下士官より上――百人隊長以上は逆にムーマ人が九分九厘を占めていて、この層が戦死することは非常に希である。コナハトにとっての生き延びるための必死の戦いは、ムーマ人にとってはスポーツ感覚のハンティングでしかないのである。

 コナハトの中でそれなりに腕の立つ戦士は王家に敵対することを是としなかった。そんな彼等の行き着く先は……


「殺せ! 殺せ!」


 百人ほどの観客は目の前の惨劇に夢中になっている。そこは闘技場で、真剣で殺し合っているのは二人ともコナハトの戦士くずれだ。観客はほぼ全員がムーマの鉄杖党党員及びその家族、モイ=トゥラを支配する層である。

 闘技場での試合には通常賭けが伴い、コナハトの人間が見たこともないような大金が飛び交った。もっともそれは鉄杖党の者達にしてみればほんの小遣い銭である。勝った剣奴に与えられるのはその「小遣い銭」のほんのごく一部のおこぼれでしかないのだが、それでもコナハトの人間にとっては割のいい稼ぎだった。

 コナハトを去っていく者が選ぶ移住先は、まずモイ=トゥラ、その次にウラド。ラギンは大陸の反対側となるためそこまで移動しようとする者は大分少なくなる。ミデは一応コナハト国内であるため、国内の貧民が常に大量に流入している。幸いにして今のところ掘るべき鉱山や坑道に事欠くことはなく、公爵グラースタは彼等貧民を鉱山で大量に酷使した。ミデが有する巨万の富はそうやって築かれたものである。

 今また、レアルトラを見捨てた者がミデへの移住を希望しているところだった。コナハト軍や宮廷でそれなりの立場にいた者達がグラースタとの面会に行列を作っている。ミデでの再就職を希望し、グラースタの面接を受けようとしているのだ。もっともその大半は面接にまで至らず追い返されていた。グラースタは今回誰を召し抱えるか既に決めているようだった。


「あの人は……」


 どこかで見たような元コナハト軍人らしき人物に七斗は首を傾げ、その人物は気まずそうに七斗の視線から逃げ出した。それで七斗は思い出す。彼はフリギー遠征軍で七斗の警護をしていた隊長の一人だ。


「そうか、あの中に公爵に協力していた人がいたのか」


 彼が――彼一人とは限らないが――七斗の警護を混乱させたりファルを匿ったりして七斗が暗殺されてもおかしくない状況を作ったのだろう。そしてその成功報酬としてミデへの再就職が最初から約束されていたに違いなかった。

 そして、フリギー遠征の渦中にいた人物がもう一人。


「ナナトさん……よく……よく……」


 アルデイリムはそれ以上を言葉にできなかった。七斗に駆け寄ったアルデイリムは七斗の手を取り、感極まってそれだけをくり返す。一方の七斗は目を丸くするばかりだ。


「アルデイリムさん。どうしてここに」


「ナナトさんが、『導く者』が死んでしまったためこの国の先行きに絶望していたのですが、そこに公爵と王子グリーカスから声をかけられたのです、『ミデに仕えないか』と。今の十倍の俸給を約束してくれたこともあり、つい承諾してしまったのですが、まさかナナトさんがここに……」


 アルデイリムはそう言って眼鏡を外し、たまった涙を拭っていた。

 その後、アルデイリムは改めて公爵グラースタと対面。七斗の研究の補佐することを求められる。アルデイリムは様々な感情を抑え込み、グラースタの依頼を承諾した。

 ――さらにその後、七斗がアルデイリムと二人だけになった機会に、


「王女様から何か指示を受けているわけでは……」


「もちろん王女殿下直々の命を受けてここに来たんですよ」


 アルデイリムはあっさりとネタばらしをした。


「王女殿下の狙いはムーマの目の届かないミデで戦争準備をさせることです。だから今しばらくは大人しく公爵に言われるがままに研究をし、ムーマに勝つための準備を進めましょう。金は全部公爵持ちです、遠慮する必要はありません」


「確かにその通りです」


 と七斗は力強く頷いた。

 そしてさらに、あのときあの場にいて、今回コナハト宮廷を離れて公爵家に勤めに来た者がまた一人。


「な……ナナト様……ナナト様……なんてこと」


 七斗の姿を目の当たりにしたフリーニャはその場に座り込み、泣き崩れた。その横ではファルが狼狽え、そんな二人に七斗が気まずそうな顔をしている。


「フリーニャはお気に入りの侍女だった」


「ファル一人じゃ介護が大変だ」


 と七斗はいろんな理由を付けてフリーニャのヘッドハンティングをグラースタに要求。グラースタも「その程度のことなら」とそれを了解したのだ。


「当代の『導く者』は女に興味がないという噂も聞かれていたが……口の堅いお気に入りがいただけのことか」


 欲望や要求を明確にした七斗の姿勢はグラースタにむしろ安心感を与え、グラースタはフリーニャ獲得のために八方手を回した。それを耳にしたレアルトラが、


「そう言えばフリーニャはナナト様のお気に入りでしたわ。ナナト様がフリーニャのことを要求していると考えるべきでしょう」


「公爵の手元に潜り込ませる手札が一枚増えると思えば……」


 と、フリーニャの移籍を密かに後押ししたのである。

 こうして公爵邸へとやってきたフリーニャだが、そこで予想外にも生き別れの妹と対面。さらにその妹が祖国を裏切り、七斗を不具にしたと知らされたのだ。とどめに自分もその裏切りに荷担していたことまで教えられ――フリーニャ自身は全くあずかり知らない話であり、あくまで結果的に・形上は、ではある。七斗はフリーニャの責任を追及するつもりなど毛頭なかったのだがフリーニャはそうは考えないし、フリーニャ自身もまた自分を許すつもりはなかった。


「一体何をどうすれば償いになるのか見当もつきませんが……どうか、どうか」


 フリーニャは座り込んだ姿勢から土下座に移行、床に額を擦りつけた。


「どうか、どうか妹にだけはナナト様のお慈悲を――わたしが代わりに罪を負います! わたしを処刑してください! だから妹だけは――」


「姉さんが死ぬことなんて。罪を負っているのは全てわたしです」


 ファルは不器用ながらも姉の処刑を回避しようとする。そんな二人の姿に七斗は当惑の笑みを浮かべるばかりであるが、このままではいつまで経っても話が進まない。


「二人ともちゃんと立ってくれ。僕がフリーニャに来てもらったのは処罰を与えるためじゃない。やってもらうことがあるからだ。……結果的にはこれが罰になると思うし」


 フリーニャは手で顔を拭いながらも立ち上がった。車椅子の七斗の前に、フリーニャとファルの双子の姉妹が並んで立ち、七斗の命令を待っている。フリーニャは死にたいほどのショックからまだ立ち直ってないが、それでもそれは七斗の命令より優先していいことではなかった。


「僕はこんな足になってしまった。自分一人じゃ動くこともできず、トイレ一つままならない。この先ずっと誰かに介護をしてもらう必要がある。今まではファル一人だったけど、一人じゃあまりに大変だからフリーニャにもそれを頼みたい」


 はい、と頷くフリーニャ。……そのまま、妙に間の抜けた時間が流れた。


「あの……ナナト様。それで……」


「それでというのは?」


「いえその、他には何か」


 フリーニャの確認に七斗は首を傾げた。


「『この先ずっと』って言うのは僕が死ぬまでずっと、ってことだ。君達はこの先何十年も、場合によっては一生のほとんどを僕の介護をして過ごすことになる」


 七斗の念押しにフリーニャとファルはそれぞれ「はい」と返答。何の気負いも覚悟も感じられないその応えに七斗は「ちゃんと理解しているのだろうか」と不安になった。

 七斗の念頭にあったのは、元の世界の日本における老人介護の現状であり、


「安月給の上心を病むブラック介護職」


「家族の絆を引き裂く介護地獄」


 等の事例である。もっとも七斗はそれを新聞やネットの記事で知るのみであり、身の回りにそんな例があったわけではない。一方のフリーニャからして見れば、


「貴人の側仕えとなったからには自分の一生だろうと生命だろうと主君に捧げるのは当然のことで、改まって確認されるまでもありません。『一生自分に仕えろ』と命を受けるのはむしろこれ以上ない名誉なのですが……」


 というところだった。さらに言えば、生き別れの妹と再会させてもらい、この先ずっと妹と同じ場所にいられるわけで、フリーニャからすれば七斗にどれだけ感謝をしてもし足りないくらいである。

 さらにさらに言えば、フリーニャ達は飢餓で全滅した貧農の家の出身だ。そんな貧農の娘が貴人の側仕えとなり、この先ずっと、一生食いっぱぐれのない生活を送ることができる――七斗の介護が果たして苦労のうちに入るだろうか? 同じ立場の少女のほとんどは今、モイ=トゥラの売春宿でわずかな小銭と引き換えに我が身を売って辛うじて生きている有様なのに。もし七斗の介護を苦労などと言ったなら彼女達は、


「一日でいいからわたし達と立場を替わってみろ」


 と言うに違いなかった。

 ――お互いに認識のずれ、すれ違いはあったものの、フリーニャはファルとともに七斗の側仕え、介護をすることとなった。そして、七斗がフリーニャを手元に呼んだのは自分の介護をさせるためだけではない。

 ファルが席を外して二人だけになったとき、七斗はフリーニャにそれを命じた。


「フリーニャには何としてもやってもらいたいことがある。君をここに呼んだのは僕の介護をさせるためじゃなく、このためだと言ってもいい」


「判りました。何なりとご命令ください」


 とフリーニャは背筋を伸ばす。七斗が公爵グラースタの暗殺を命じるならフリーニャは生命を落とそうともそれを実行するつもりでいた。


「ファルのことだ。あの子をこちら側に引き込みたい」


 七斗の命令はフリーニャにはいまいち理解できなかった。どういうことでしょう?と問うフリーニャに七斗が説明する。


「ファルは公爵グラースタの洗脳を受けたような状態にある。仮に僕があの子に『ムーマの誰々を暗殺しろ』と命令したとするなら、あの子は生命に換えてでもそれを実行しようとするだろう。でもその命令が『公爵グラースタを暗殺しろ』、だったなら?」


「……公爵グラースタにその事実を報告して指示を仰ぐでしょうね」


 その通りだ、と七斗は深々と頷いた。


「今もあの子は公爵の命令で僕達の監視をしていると思う。僕達はその前提で動かなきゃいけない……でも先々は、戦争準備が整いさえしたなら、僕達はコナハトと王女レアルトラのために動く。そのときにはファルも僕達の側に立ってほしいんだ」


「……あの子に公爵を裏切らせてナナト様のために動くようにする、そのときまでに」


「ああ。それも、最後の瞬間まで公爵にはばれないようにしないといけない」


 さらなる注文にフリーニャは眉を寄せた。


「それは難しいですね」


「難しいのも大変なのも判っている。でもそれができるとするならフリーニャくらいなんだ。頼めるか?」


 フリーニャは深く一呼吸し、


「判りました。お任せください」


 静かに、だが決然と宣言した。

 ――月は変わって、始祖暦二五〇〇年バルティナの月(第七月)。公爵グラースタがミデへと戻るために王都カアーナ=マートを出立する。その一団の中には王子グリーカスが、アルデイリムが、ファルが、フリーニャが加わっている。そして誰より七斗がその中にいた。

 公爵グラースタは大行列を作って王都を去っていく。レアルトラは王城のバルコニーからいつまでもその一隊を見つめていた。




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