第一一話「『導く者』の死」その2
未明の王都カアーナ=マート。就寝中のレアルトラの下へと侍女が凶報を携えてやってきた。七斗が川に落ちて行方不明になったという事実が通信魔法によりレアルトラへと報告されたのだ。レアルトラは短くない時間呼吸することを忘れた。心臓には太い針が貫通し、鼓動を止めてしまったかのようだ。
「……ともかく全軍で捜索を。何としてもナナト様を見つけるのです」
声は震えていたが何とかそれを命令。止まっていた心臓の鼓動もようやく動き出した気がする。
「こんな……こんなところでナナト様が死ぬわけがありませんわ。召喚直後もこんなことはありました。ナナト様はムーマ軍の追跡だって振り切って我が国に逃げ込んだではありませんか」
エアドーハスは四千の兵全員を七斗の捜索に当たらせた。ムーマの魔道兵の決死部隊がコナハト軍に邪悪魔法による攻撃を仕掛け、コナハト軍はその混乱からようやく脱したばかりである。時刻は深夜、月明かりしかない状況での行方不明者の捜索は無謀に等しく、兵の練度が全く足りないこともあって多数の二次遭難が発生した。死者も一人ならず出ているのだが、エアドーハスにとっては些細なことである。奇襲を仕掛けてきたムーマの魔道兵部隊のうち何人かを殺し、何人かを逃がしたという報告も受けたが、それだって二の次三の次の話だった。
夜が明け、エアドーハスはコルーニー山中を通り抜けて山の麓におり、本陣をそこに設置する。いや、本陣と言うよりは七斗捜索隊現地本部だ。川の下流を中心に範囲は広げられ、近隣から軍民問わず多数の応援をかき集め、文字通り草の根を分けるような捜索が続けられる。それでも七斗の行方は杳として知れなかった。
二日経って何の進展もなく、業を煮やしたレアルトラが現地にジェイラナッハを派遣した。「導く者」が行方不明となった事実はムーマ軍も掴んでいるようで、目的を達したことを知ったムーマ軍はすでに撤退を開始したという。「王都はひとまず安全」と判断したレアルトラは七斗の捜索を他の全てに優先させた。エアドーハスは軍民合わせて一万以上の人間を動員し、捜索の指揮を続けている最中である。
「……大丈夫、『導く者』は必ず見つかります。ナナト様は必ず生きています。『導く者』がコナハトを救うことは確定した運命なのです」
レアルトラは自分自身にそう言い聞かせた。あふれ出そうになる不安と恐怖に無理矢理蓋をして必死に圧し殺す。……だが、不安とは別の感情がレアルトラの胸中を浸食しつつあった。まるで黒い黴が広がるように、心が少しずつ、いつの間にか腐食していく。
(……もし『導く者』が亡くなられていたら)
それは諦念と呼ばれる感情だ。七斗の生存に希望をつなぐ一方、レアルトラの無意識は最悪の事態を受け入れる準備を密かに進めていた。
そしてさらに二日後。カアーナ=マートのレアルトラの下に、コルーニーの捜索本部にようやく到着したジェイラナッハから第一報が届けられた。
「――コルーニー川下流で男の溺死体を発見」
「――遺体は損傷が激しく、『導く者』ナナトとは断定できない。ただ背格好はよく似ている」
「――着ている服は『導く者』ナナトが着ていたものである」
「――将軍エアドーハスは切腹にて自裁」
それが七斗であるとジェイラナッハは結論を出したわけではない。だがこのまま七斗が発見されなければ「これが『導く者』の遺体だ」と決定されるだろう。そしてこのままそうなるのだと、レアルトラには判ってしまった。
レアルトラは一人王城を抜け出し、カアーナ=マートの郊外へと向かった。
カアーナ=マート郊外の荒野、その中のとある小高い丘。見渡す光景は荒涼としているが、今のレアルトラの心境ほどではなかった。丘の頂上には人の背丈ほどの岩が安置されている。一〇年前、ちょうどこの場所で前の国王グリアンが亡くなったのだ。国王の墳墓は別の場所にあり、その岩は要するに目印だ。別の場所から移動してきてここに設置したのである。
「父上の偉大さを世に示すために最低でも一〇ヤードはある彫像をここに建てたかったのですが……」
国庫が逼迫しているためそんなことに使う予算はない。「導く者」が召喚され、ムーマとの戦争に勝利し、モイ=トゥラを奪還できたなら、好きなだけ巨大な彫像を建てることもできるだろうと、我慢していたのだ。
「ですが、それももう見果てぬ夢となりました。父上に、この百年王家に身命を捧げてきた何百万という兵士達に、ムーマの暴虐に耐えてきた何千万という民に、一体どのように謝ればいいのでしょう」
もちろんそんなもの、謝りようがない。何をどうしようとレアルトラの失策は決して取り返しがつかない。百回くり返し死んだところで彼等の気が済むはずもないだろう。
「それでも……わたしはこれ以外にこの過ちを償う方法を知りません」
レアルトラは用意していた短剣を取り出した。輝く刀身を見つめながら、喉を突くべきか腹を割くべきか考える。しばし考え「よし、切腹しよう」と決定。短剣を逆手に持った、そのとき、
「こんなところで何をしている? レアルトラ」
レアルトラを呼び捨てにできる者は、生きている人間の中では一人しかいない。レアルトラは怪訝な目をその男へと向けた。
「兄上……どうしてこんなところに」
「お前に用があったんだ」
グリーカスはいつものように軽薄な笑みを浮かべている。自裁の邪魔をされたレアルトラはやや不機嫌となった。
「そうですか、どのようなご用でしょう。早く済ませてはいただけませんか」
「用件は三つある」
とグリーカスは人差し指を立てた。
「まず一つ。お前のところの魔道士のアルデイリム。あいつをもらおう」
全く予想もしていなかった要求にレアルトラは困惑する。
「兄上、あの者をどうしようと……ナナト様が何をしていたのか、あの者にも全く判らなかったのに」
七斗がどんなに嫌がろうとその研究内容についてちゃんと聞き出しておけば、七斗が何をどのようにしようとしているのかアルデイリムにも理解させるよう要求していれば、あるいは七斗の研究をアルデイリムが引き継ぐこともできたかもしれない。だがそんな後悔も今さらである。
グリーカスはレアルトラの戸惑いを無視し、二つ目の用件を切り出した。
「お前が召喚した『導く者』は偽者だった。三年後か四年後にエイリー=グレーネが本物の『導く者』を召喚する」
エイリー=グレーネは公爵グラースタの長女で、彼等兄妹にとっては従兄妹に当たる人物だ。
「兄上、一体何を……」
レアルトラの困惑は頂点に達した。百年周期を外して「導く者」が召喚された例はなく、百年の間に一人より多い「導く者」が召喚された例もない。もしそれが可能ならコナハトはもっとずっと早くに「導く者」を、一人と言わず何人でも召喚していることだろう。
グリーカスはレアルトラの困惑や混乱に一切構わず、三本の指を立てた掌を突きつけた。
「『導く者』は死んだ。ムーマに対抗する手段はコナハトにはもう残っていない。公爵グラースタに命じてムーマとの和平を仕切り直しする。場合によってはお前の婿としてムーマから王子を招くこともあるだろう。その覚悟をしておけ」
混乱で止まっていた脳の回路が今、徐々に回転速度を上げている。レアルトラは凄まじい勢いで思考を巡らせた。レアルトラが険しい目をグリーカスへと向ける。
「ムーマにわたしを売り渡して媚びを売る一方で、新たに『導く者』を召喚すると?」
「『導く者』が死んだとなれば、自棄になって玉砕目的でムーマに突貫する者も出るだろう。か細くとも希望を与えてできるだけ自殺を防がないとな」
ムーマに対してはそう言い訳し、ひたすら低姿勢に出てムーマの油断を誘い……その上で新たに「導く者」を召喚する? いや、そんなことは不可能だ。だが――召喚する必要がないとしたら? もうすでに、彼の手元に「導く者」がいるとするなら?
「あ、兄上……ナナト様は」
レアルトラは大きく目を見開いた。まるでグリーカスの全てを見破ろうとするかのように。何一つを見逃さないと言うかのように。グリーカスは口を歪め、狂笑に近い笑みを見せた。
「『導く者』はもう死んだんだ、ムーマはきっと油断するだろう。その間に公爵グラースタとミデができる限りの準備をする。準備が整ったならエイリー=グレーネが『導く者』を召喚して、即座にムーマに戦いを挑む! 俺がモイ=トゥラを奪還する! 俺がこの国を救った英雄となるのだ!」
グリーカスはまるで舞台俳優のように高らかに謳い上げる――自分が英雄となるその日のことを。レアルトラは歯を軋ませた。体内に焼けた石が投げ込まれたかのように腑が煮えたぎっている。
「あなたは……」
為政者としてのレアルトラは冷静にグリーカスの策謀の有効性を理解していた。確かに、ムーマの油断を突いて、ムーマに邪魔をさせずにモイ=トゥラ奪還の準備を進めるにはこのやり方がほぼ唯一だろう。だがだからと言って到底納得できるものではない。人を絶望のどん底に突き落として既成事実を作り、事後承諾を強要されるだけであればなおさらだ。
「俺の用件はそれだけだ。これから何かと忙しくなるからな」
グリーカスは言いたいことだけを言い、その場を立ち去っていく。残されたレアルトラは一人、日が暮れるまでその丘の上で種々の思考を巡らせた。だが自分が自裁するためにこの場所にやってきたことはもうすっかり忘れ去っていた。
「ここは……」
七斗はベッドの中で目を覚ました。起き上がろうとするが身体のあちこちが痛み、足が全く動かない。七斗は再び背中を布団へと預けた。
「動かないでください。ひどい怪我だったのですから」
「フリーニャ……?」
ベッドの横に椅子を置いて座っているのはフリーニャ……いや、違う。その表情が違う。その空気が違う。フリーニャにそっくりではあるが別人だ。
「お前は……! 僕は崖から川に落ちて」
ベッドから飛び起きようとするが激痛が走り、七斗は身体を丸めて呻く。偽フリーニャに助けられ、七斗はようやく上半身を起こすことができた。
「お前は誰だ? フリーニャの妹なんだろう? ここはどこだ?」
「はい。お察しの通り、わたしの姉はフリーニャです。わたしはファルと言います」
それを聞きながらも七斗は周囲にざっと視線を走らせる。天蓋付きのベッド、羽毛の布団、豪奢な調度品の数々……いずれもレアルトラの下では目にしなかったものばかりだ。七斗は「もしかしてムーマに拉致されたのか」と顔を青ざめさせた。
ここがどこかをファルにもう一度問う前に、答えの方がその部屋へとやってきた。扉をノックして一人の男がその部屋へと入ってくる。
「失礼するよ。具合はどうかね、『導く者』」
七斗の前に現れたのは、背の高い、短い髭の、三十代の伊達男――公爵グラースタその人だった。




