青嵐
1学期最終日。久しぶりの雨で空は重たいねずみ色をしていて、連日太陽に熱し続けられていたアスファルトを冷ましていく。買い忘れがないかとスーパーのビニール袋の中を確認すると、ガサ、と味気ない乾いた音がした。傘に弾かれて音楽のように響く水の音が心地よく、雨の日も悪くないなと思った。でもこの雨も今日限りで、また明日から猛暑が続くらしい。
明日から、夏休みが始まる。
玄関の扉を開けようとした、ちょうどその時だった。
「あっ、やたちゃーん」
声の方へ振り向くと、Tシャツにショートパンツというシンプルな服に身を包んだ美晴ちゃんがいた。小さい頃は良晴とよく三人で遊んだ仲だ。女の子らしい無邪気な笑顔は変わっていないけど、今はそこに大人っぽさも加わっているように見える。
「美晴ちゃん、久しぶり」
久しぶりという言葉には少し罪悪感があった。本当は最近良晴の部屋で会ったーー正確には遭遇してしまったーーから。
「良晴はいっしょじゃないの?」
植木に囲まれた柵越しに問いかけられる。
「何か補習申し込んでたみたいで」
「ふーん、あの愚弟も真面目にやってるのねぇ」
「やだなぁ、良晴は真面目でしょ?美晴ちゃんこそどこ行くの?」
開きかけた黄色い傘を持っているあたり、どこかに行こうとしている事くらいすぐに検討がついた。
「んー、ちょっと出かけようかと思ってたんだけど…」
美晴ちゃんはじっと落ちてきそうな暗い空を眺めていたが、すぐにぱっと顔色を変えてパチンと傘を閉じた。
「ねぇ、やたちゃんちょっとうちに来ない?それ置いてきてさ」
それというのはこの買い物袋のことだと思うが、何故おれが美晴ちゃんに呼ばれるのか状況が飲み込めなかった。
「え、なん…」
「ね、ね、いいでしょ?少しだけ。この雨だから出かける気も削がれちゃったわ」
強引に約束を取り決めると、美晴ちゃんは家の中に入っていってしまった。こういうところは良晴と似ていないと思う。
あまり顔を合わせたくはなかったけど、断る理由もないし、断ったら逆に不自然だと思った。この間おれが部屋にいたこともバレてはいないようだったが、不安は残る。
「大丈夫かな…」
なんだか雲行きが怪しい気がした。
「美晴ちゃんー?お邪魔しまーす」
いつも通りインターホンは鳴らさずにドアノブを回した。真っ直ぐリビングに向かうと、美晴ちゃんがテキパキとダイニングテーブルにアイスコーヒーを用意し、おれに座るように促した。
「ーーーで、おれ何されるの?」
動揺を悟られないように、冗談めいた口調で聞いたが、美晴ちゃんはニコニコと腰掛けてこちらを見てくる。
「やたちゃん、大学行くことにしたんだ?」
「ああ、うん、一応ね。高卒じゃ就職も大変だろうし」
「ああもう、やたちゃんがこんなに立派になって…」
美晴ちゃんは親戚のおばちゃんみたいにやたらと老けたリアクションをとった。美晴ちゃんと話すことはいつもなら一向に構わないのだが、おれは出来ればこの空間から早く出たかった。何の話かは分からなかったけど、早く本題に入って欲しいとそわそわしているおれのことを察したのか、美晴ちゃんが再度口を開いた。
「あー、えっとじゃあ単刀直入に言おうかな」
美晴ちゃんはニコニコと両手で頬杖をつき、天使のような笑顔で悪魔のような一言を放った。
「良晴と別れてくれる?」
窓の外の雨音に消されることもなく、その言葉はしっかりと耳に届いていた。でもしばらく何も言えず、ただ口を開けていることしかできなかった。呼吸も心臓も、もしかして時間も止まってるんじゃないかと思うくらい、その言葉に凍りつかされた。
「やたちゃん?」
はっ、と美晴ちゃんの声にまた世界が動き出した。何か答えなきゃと思ったが、何も出てこない。ちらりと見ると、美晴ちゃんは笑顔を崩さないままおれの答えを待っていた。
「な、なんで…気づいてたの…?」
どうして、いつ、気づいたのか。一番最初にそれが気になった。
「ああ、やだ本当に?当てちゃったぁ」
…………
……………!?!?
「ごめんねぇやたちゃん、鎌かけちゃった♡」
………!?!?
「えっ、え、ちょっと待って!じゃあ美晴ちゃん気付いてなか…ったって…」
おれは思わず立ち上がり、文字通り狼狽していた。
「ふふふ、ごめんね♡ああ、でもそう、その反応だとやっぱり付き合ってるとかそういうことでいいのかな」
美晴ちゃんが夏風に誘われたようにふわりと笑うと、カランとコーヒーの氷が溶ける音がした。
「どうしてかっていうと、まぁ女の勘かな。良晴がやたちゃんも同じ大学って話した時に、ああこれは何かあるなぁって。夜中にこっそり見に行ったら二人で寝てるんだもの。さすがにびっくりしたわ」
一息に言葉を連ねて明るく笑う美晴ちゃんとは対照的に、おれは沈みきっていた。掌に冷たい汗がじわりと滲む。
「別れてくれって…」
絞り出すようにその言葉を復唱した。
「そうよ」
美晴ちゃんはまたニッコリと微笑みながらゆっくり頷いた。
「いくら愚弟とはいえ、男と付き合うなんておかしいでしょう?やたちゃんだって普通に女の子と一緒にいた方がいいでしょうに、何でそんな変なことになったの?」
おかしい。変。
「どっちからそういう関係を持ち込んだのか知らないけど、あの愚弟が言い出すことではないと思うのよね」
「そう…だけど」
声を張れなかった。何がおかしいんだ。何が変なんだ。男でもなんでも、好きは好きでいいじゃないかって。言いたいけど言えなかった。美晴ちゃんの言ってる事は正論だって、心の奥で思っていた。良晴は認めてくれたけど、男同士の恋愛なんておかしいって、そんなこと分かってる。分かってるから、ずっと言わなかった。全部しまっておいて、いつか無かったことにしようって。でも…
*
「5組の良晴くん」
「えー誰ぇ?」
「目立つ人じゃないよ。でも何かいいと思うのよねー」
夕暮れ時、教室から聞こえたその声の主は分からなかった。でも心底嫌だと思った。心の奥に眠らせていた思いが、鍵をかけていた言葉が、早く外に出ようと体中を暴れ回った。
いつか良晴だって誰かを好きになるんだ。それは絶対に、おれ以外の誰か。そうあって欲しいという思いと、それがおれであってほしいという願いに板挟みにされてきた。
のたうち回る15年分の気持ちを良晴に告げたのは、その3日後のことだった。
*
ずいぶん長い間ぼうっとしていたようだ。グラスの氷はすっかり溶けて角が丸くなり、呑気にぷかぷか浮いている。
軟禁状態は続いていた。解く方法は2つあることは分かっていたが、自信がなかった。ずっと隠し通すことが不可能なのは明白だったが、美晴ちゃんは分が悪すぎる。
「わたしはね」
そういえば、美晴ちゃんと二人だけで話すなんて事は今まであっただろうか。
「良晴にもやたちゃんにもちゃんと幸せになって欲しいと思ってるんだけど」
ちゃんとした幸せってなんだろう。
「だって冷静に考えてみてよ。二人が好き合って付き合っても、正直うまくいくとは思えない」
さっきまでの柔らかな口調とは一変し、美晴ちゃんは真剣な目でおれのことを射抜いてきた。
「親に反対されるかもしれない。この可能性は高いとわたしは思ってる。説得できたとしても、二人が別れるかもしれない。そうなったら二人の仲がどうなるか。そしてうまく続いたとしても、その先は?」
その先、というのは結婚とかそういうこと?そりゃできないだろうね、と皮肉めいた声が頭の中で響く。
「わたしが色々言うことじゃないけど、どうしたいのか、やたちゃんの為にも決めて欲しい」
他の人が聞いたら、とんでもないお節介だろう。でも美晴ちゃんは違うんだ。良晴にとっても、おれにとってもずっとお姉ちゃんなんだ。だからこそ、言葉の一つ一つに重みを感じた。
良晴と別れるか、否か。
こんなところで選択を迫られるとは思わなかった。
おれは膝の上で組んだ両手に力を入れた。
「おれは…」
美晴ちゃんという名の青い嵐。
大粒の雨がまた窓を叩きつけていた。
読んでいただきありがとうございます。
知らぬ間にブックマークが増えてて大変感謝です。一人一人お礼に行きたいくらいです。
最初は男子高校生2人で、「BLとは何か?」について話し合うという短編を予定していたんですが、弥太郎に良晴を押し倒させてみたらこんなことになりました。
少しでも面白いと思っていただけてたら幸いです。




