月とジレンマ
ーーー中学に入ってすぐ、携帯を買ってもらった。すぐに両親と、5つ上の姉のアドレスと番号を登録した。三人分の名前が埋まった画面を見て物足りなさを感じたのを覚えている。
向かいの部屋のカーテンが風でぶわぁ、と舞っているのを見て、窓が開いているのを確認すると、幼馴染みの名を叫んだ。
「やたろーーー!!」
風の強い日で、道路を挟んだ正面の家の庭から桜の花びらがちろちろと飛んでくる。桜の花びらに目を奪われていると、あいつが顔を出した。
「良晴?なに?」
「そっち行く!」
昔からたったそれだけで通じた。弥太郎はカーテンをジャッと開けて、ベッドの横に構えた。おれは携帯を手に、足をかけた窓枠を力いっぱい蹴りだし、向かいの部屋に飛び込んだ。勢いがつきすぎても、クッションを盾に弥太郎が受け止めてくれるのがお決まりだった。
「どしたの?」
「携帯買った!」
弥太郎はその言葉は理解したが、自分の部屋に幼馴染みが飛び込んでくる理由とは結びつかなかったようで目が点になっていた。
「お前のアドレス、登録するから!家族の次は弥太郎しかいないだろ」
そう言って弥太郎の名前を4番目に登録した。携帯を替えてもずっとそれだけは変えなかった。
*
空がすっかり黒く染められ、月の光だけが辺りを包んでいた。今夜は風があって涼しい。23時の世界は静寂に包まれていたけど、そんなのはどうでもよかった。
充電のきれそうな携帯で電話をかけた。かけた先はすぐそこ。あまりに静かで向こうのコール音が耳に届いてくる。
『…もしもし?』
「良晴」
『…?なに…』
半分寝ぼけた声が機械越しに…いや、ちょっとだけ窓の向こうから聞こえるんだけど。昔に戻ったような、明るい声で一言残しておれは電話を切った。
「そっち行く!」
*
その一言に反射的に体が動いた。とはいえ今の今まで寝ていたので動きは鈍く、窓を全開に開けることしかできなかったが、十分だったようだ。部屋の窓から弥太郎が飛び込んできた。カーテンに視界を奪われながらもうまくベッドに着地し、それを見てあ然とするおれを見てにんまりと微笑んだ。
へへへと得意気に笑うと、そのままベッドにもぞもぞと潜り込んできた。
「…えーっと、なに、今日は…」
「ここで寝ていい?」
星の欠片を拾い集めたようなきらきらした瞳で言うものだから、断る術がわからない。…断る理由もないのだが。
「いいよ。でも朝どうすんの?」
「母さん起こしに来る前にまた向こうに飛び移るから大丈夫」
「ムササビかお前は…」
少しだけ体を避けると、シングルベッドでもなんとか二人入れそうだった。半袖短パンのムササビが横にころんと転がるので、おれももう一度横になった。
月の光が少し窓からもれて、弥太郎の背中をほんのりと照らしていた。
「良晴はどの学部行くつもり?」
月の光を浴びた弥太郎の黒髪が光っていてきれいだと思った。
「生物学部」
「やっぱりね」
「まあ他のことあんまり興味無いしなぁ。就職先がどうなるのか不安だけど」
「うーん、ちゃんと考えてて偉いなぁ良晴」
「考えてるってほどでもないだろ?」
弥太郎がクスクス笑うと髪がさらりと揺れて、つい見とれてしまう。
「…良晴?」
そのまま弥太郎の髪に顔を寄せた。
「いー匂いする」
「シャンプー?」
「弥太郎の匂いもちょっとする」
ふわふわ揺れるクセ毛が愛おしくて、優しく撫でるとまたシャンプーの匂いが香ってきた。
「弥太郎、やっぱ背伸びたよな」
「そう?あ、でも4月に166になってた。良晴は?」
「あー…17…4センチ?8センチ差か」
「昔よりはだいぶ縮まったよなぁ。おれ全然伸びなかったもん」
昔の弥太郎は本当にちっちゃくて、多分20センチ以上は差が開いていたと思う。人一倍跳ね回っていたからあまり身長差は気にならなかったけれど。
「あとちゃんと帰って調べたけどな、やっぱり大学同じとこ行くよ。楽しそう」
その言葉に嬉しさがこみ上げて、またぐしゃぐしゃと頭を撫でると、弥太郎は顔一面に満悦らしい笑みを浮かべた。こういう時猫みたいに笑うんだなと気が抜けた。その安心感からか、急に瞼が重くなってきた。
「…弥太郎」
「なに?」
「何かすげー眠い…」
「別に寝ていいよ、良晴。何にもしないって」
冗談交じりにケラケラと笑った。
「別にそんなこと心配してるわけじゃ…」
言い終わる前に弥太郎がぎゅっと手を繋ぎ、おれの横顔を撫でる。
「おやすみ、良晴」
その手がまた温かくて、おれは静かに深い眠りについた。
*
「…わ、もう寝た」
良晴のゆっくりと上下する肩を眺めていたら、本当にここ数日の出来事が夢なんじゃないかと思えてくる。部屋は湖の底のように静かで、良晴の寝息と時計の音だけがひっそりと聞こえる。小さい頃はよく一緒に寝たりもしたけど、今は違う。隣の温もりが飛び上がりたいほど嬉しくて、でも不安で、まだ眠れそうにない。
そうして良晴の手をもう一度強く握った。おれの手をいつも温かいって言う良晴の手は、反対に夏でもひんやりしてる。この冷たい手をいつまでも離したくないと思うたびに、この切なくて楽しい恋の行く末が不安になる。
良晴はいつまでおれのこと好きでいてくれるんだろう。
そんなジレンマを笑う月から逃げるように、おれも目を閉じた。
読んでいただきありがとうございます。
身長差8センチを生かしていきたいです。




