第一関門
わたしが5歳の時、弟ができた。
一人はとっても元気な男の子。良晴と名付けられた。美晴ちゃんにそっくりねとお母さんは嬉しそうに抱いていた。
少ししてからもう一人弟ができた。
とっても小さな男の子。弥太郎と名付けられた。隣の家に住むお母さんの友達の子で、未熟児として産まれてきた。
一度に二人の弟ができたわたしはとても嬉しかった。やんちゃな良晴と大人しいやたちゃんという対照的な二人を相手に、毎日奮闘した。一緒に遊んだし、ご飯も食べたし、寝かしつけてあげたしお風呂にも入った。
ぐんぐん成長していく二人に驚いていると、あなたも同じだったのよとお母さんに笑われた。
「お姉ちゃん」
二人揃ってそう呼んでくれた。
「美晴」「美晴ちゃん」
いわゆる思春期というものに入る時期から、二人はお姉ちゃんとは呼ばなくなった。どんどん大きくなっていく二人との距離も、だんだん広がっていっているような気がした。
二人が付き合ってるとか、さらに置いていかれてるような気がした。
*
突然やたちゃんはガッとグラスを力強く握ると、氷も溶けて薄まってしまったであろうコーヒーを一気に飲み干した。わたしはその姿にただ目を丸くするばかりだった。ごくんと大きく喉を鳴らしてグラスを置くと、一度も使われなかったストローだけが気まずそうにささっている。
「おれは…」
冷えてるんだか温くなってるんだかわからないアイスコーヒーで喉を潤すと、やたちゃんが力強い声を発した。
「おれは、良晴と別れる気はない」
その目には確かな光が宿っていた。
「反対されたって邪魔されたって絶対に嫌だ」
嫌なんて子供っぽい言葉を、やたちゃんは真剣に使った。この言葉を、気持ちを汲めないほどわたしだって馬鹿じゃない。少しだけ目を伏せると、自然にその言葉は出てきた。
「そう、わかった」
「……………え、え、それだけ?」
「やたちゃん争い事は好きじゃないけど、根は頑固だからね。譲らないでしょう?おねーさんは何でも知ってるのだー」
完全にやたちゃんは拍子抜けしているようだった。でも、仕方がない。おねーさんだって、人の気持ちには勝てないんだから。
「今回はやたちゃんの勝ちよ。第一関門『お姉ちゃん』突破ってことで」
「え…えーーー!?」
まあ本当のお姉ちゃんじゃないけどね、とおどけておいたが、やたちゃんは話の展開に完全についていけていない様子だった。
「そんな簡単に認めちゃうもんなの?さっきまで色々忠告してくれたじゃん!」
「忠告したけどやたちゃんが揺るがなかったんだからわたしが食い下がるしかないでしょー?」
「それはそうだけど…」
優しいやたちゃんは納得がいかないようなので、力いっぱい頭を撫でた。昔はよくこうして二人の頭を撫でてケンカを仲裁したりした。その昔がどれくらい前かは忘れてしまったけれど、やたちゃんの髪は相変わらずふわりとわたしの手を包み込んでくれた。
「可愛い弟達が決めたことなら仕方ないでしょ。もうお姉ちゃんが必要な歳でもないしね」
やたちゃんはまだわたしより少し背は低いけど、昔よりは確実に大きくなっていた。嬉しくなってまたわしゃわしゃと撫でた。
「他の人には黙っといてあげる。わたしからは絶対に言わないから」
「あ、ありがと…」
無抵抗に頭を撫で回されるやたちゃんはやっぱりまだ混乱していた。
「あはは、納得いかない?」
「そりゃあね…」
「悪いことじゃないんだから、わたしの気が変わらないうちに受け取っておけばいいのに」
やたちゃんの頭から手を離した。絹のような感触が手に残る。
「美晴ちゃんが我慢して飲み込んだのなら、それはそれでおれ嫌なんだけど」
その言葉に思わず吹き出した。
「甘いなぁ、甘すぎるよやたちゃん。生クリームにメープルシロップとチョコソースをかけたくらい甘い。優しいのはいいけど、やたちゃんが大事にすべきは他にいるでしょ?」
自分でもワケの分からない例えにピンと来ず、やたちゃんはまた首を傾げかけていた。
「そりゃ良晴のこと大事にしたいけど、それで周りの人の気持ちを無視するってわけにもいかないでしょ?」
「そこはもう、奪ってでも手に入れなきゃ。恋は駆け引きとか言うけど、グズグズしてたら負けるのよ」
偉そうなことを言えるほど恋愛経験が豊富なわけでもないが、やたちゃんは優しいから戯言以上に聞いてくれるだろう。
「そんな無理矢理じゃ、おれ良晴に嫌われちゃうよ」
冗談のように笑ったその瞳は少しだけ揺れていた。心の奥ではそれが現実に成りうるのではと恐れているように。二人のような恋はしたことないけど、きっと自分だったらそう思うんじゃないか、という想像の欠片を繋ぎ合わせただけの脆い根拠だ。
「まあ、それもそうね。あいつもちゃんとしてるしね。変な女に捕まるよりはやたちゃんのほうがよっぽどいいわ」
クスクス笑って付け加えた。
「やたちゃんは大事にしてくれそうだしね」
少し頬を赤く染めながら聞いていたやたちゃんはやっぱりいい子だ。
「本気みたいだからあとはお任せします、ってこと。分かった?」
「…うん、分かった。ありがとう、美晴ちゃん」
頬を緩めた弟の幼馴染みは、昔より大きくなっていた。
「うん、物分りがよくて宜しい!あ、あとわたしが二人のこと内緒にしておいてあげる代わりに、良晴にはわたしにバレたこと内緒ね?」
「え、何でそうなるの!?」
「しばらくは面白そうだから黙って眺めてようかと思って♡良晴に言ったらやたちゃんのお母さんにバラすからね?」
「何その交換条件…全然納得いかないんだけど…」
そうは言いながらも渋々了承してくれた。まぁ長くは黙っていられないだろうから、面白そうなところでちょっかいだそうかな、なんて考えていたら、やたちゃんが大きく息をついて汗を拭った。
「でも本当焦った…美晴ちゃんは、なんかずっと近くにいたから、反対されるような気がすごくしてて…」
「んー、まあ最初に別れてって言ったのもちゃんと本心ではあるのよ。意地悪とかじゃなくて」
やたちゃんは小さく頷きながら聞いていた。
「でもお互い納得しちゃってるなら仕方ないじゃないの。珍しい話でもないしね、同性愛とか」
「珍しくないの?」
やたちゃんは少し興奮気味に返した。
「社会人になってみれば色んな人がいるんだなって思うもんよ。学生のうちの世界なんて狭いんだから。偶然街でそういうカップルに出くわしちゃうこともあるし…あ、駅前にゲイバーとかあるしね」
「うわぁ、全然知らなかった…」
やたちゃんはまさに目からウロコ、といった表情で、同時に安堵の笑みもうっすらと浮かべていた。
「…他にもいるんだね、おれみたいな人」
「ふふ、そうね」
おれみたいな、という言葉は、わたしの弟は含まないためだろうか。
そんなところも甘いし、優しいし、隙があるなぁと可笑しくなった。
時計の針は随分と進んでいた。
「あらら、ごめんね、長々と」
やたちゃんはこのままもげるんじゃないかというくらいぶんぶんと首を振った。
「ありがとう美晴ちゃん」
何度も繰り返したその言葉に見合うだけのことは言えたのだろうか。
玄関まで見送ろうとした時、やたちゃんは足を止めてこちらに向き直った。
「何?まだ何かある?」
「さっき本当のお姉ちゃんじゃないけどって言ったよね?」
自分でも忘れていたくらい小さな呟きを指摘されて、返事に戸惑った。
「そんなこと言わないでよ」
温かく落ち着いた声は、優しくわたしの鼓膜を震わせた。
「おれは15年間ずっと良晴が好きだし、美晴ちゃんはずっとおれ達のお姉ちゃんだよ」
扉を開けると、空の黒さはますます広がっているようだった。
「あらー、雨強くなっちゃってるわね。せっかく明るく話をまとめたとこだったのに」
雨足はさらに強まり、遠くの方は機嫌が悪そうにゴロゴロと雷が鳴っている。
「うん、でも、悪くないかも」
やたちゃんは遠くの光を見て、少し嬉しそうに目を細めた。
読んでいただきありがとうございます。
友人に美晴が好評?だったので、出番いっぱいあげたいです




