九話 太陽と月の女神、それぞれの戦場
”
興奮しきったアリウスは、タカトを半ば強制的に錬金工房へと拉致、もとい任意同行していた。
タカトが有無を言わさず連れていかれたものだから、フィルメリアとシャリエも彼についていくように工房へと訪れている。グレオノとレミドナは明日の作戦のための前準備を始めるため、先に別れていた。
軽く肩をすくめながら、フィルメリアはアリウスに言葉をかけた。
「お兄様、私も明日の作戦の準備をしなければならないので忙しいのですが」
「タカト君とシャリエ君がいるならお前は戻ってくれても構わないぞ! にも関わらずついてきたというのは、お前が私の世界的発見に興味を示しているということ! ……と、言いたいが、お前が興味を示し出したのは別のことかな? はははっ!」
フィルメリアの胸の内を見透かしたように、タカトに視線を送ってアリウスは声高に笑った。
これ以上突っ込まれたくなかったのか、フィルメリアはむうっと押し黙って視線をタカトから逸らした。そんな彼女の反応に一番驚いているのはシャリエだ。
当人のタカトは微塵も気付くことなく、錬金工房を楽しげにジロジロと眺めては目を輝かせていた。永森タカト、鎧機オタクの本領発揮である。
アリウスが三人を案内した場所は、先日トンボ型の残骸を置いていた場所。
木製の机の上に置かれていた、トンボ型の元となる昆虫ザージエスサテラが入った瓶。それを手に持ち、アリウスは怪しく笑って三人に説明を始めた。
「さて、これから三人には歴史的瞬間に立ち会ってもらうことになる。私の理論が正しければ、神々の奇跡を再現できるはずだ。そのとき私は身を以って情報を与えてくれたドルグオンに心から感謝することになるだろう。タカト君の血を舐め、ドルグオンの体に進化をもたらした姿を見たからこそ、私は答えを得ることができたのだからな」
「神々の奇跡、ですか?」
「ああ、そうだシャリエ君。タカト君、それで君の血液を少しばかりもらえるかな?」
机の引き出しから注射器を取り出し、アリウスはタカトに採血をお願いした。
注射器に少しばかり怯んだものの、一度オーケーを出した手前断れるはずもない。覚悟を決めて腕を差し出したタカトに、アリウスは手慣れた作業で血を少しばかり抜き取った。
注射器に入った深紅の液体をうっとりと眺めながら、アリウスはタカトに礼を言う。
「それで、タカトの血で何を行いますの?」
「ふふ、とっても楽しく素晴らしいことさ」
そう言って、アリウスはテキパキと準備を進めた。
机の上にある試験管や管を次々と繋げ、密封された場所にザージエスサテラをビンから移した。中に睡眠ガスでも満たされるのか、やがてザージエスサテラはゆっくりと地に落ちた。死んではいないらしい。
これで準備は整ったとばかりに、アリウスは紫色の液体がたまっているビンに引き出しから取り出した宝石を迷わず投入した。その光景を見て、フィルメリアは驚いて訊ねかけた。
「お兄様、それはレドナ水晶じゃないの? あまりに稀少価値が高くて、市場にもあまり出回ってない宝石だと言うのに……」
「はははっ! 我が研究のためには多少の出費もやむをえまい! おかげで父から私へ遺産は絶対に残さんと怒鳴られてしまった!」
「フィルメリア様が驚くほどに高価なものなのか……?」
「これ一つで常人なら十世代分は一生面白おかしく遊んで暮らせるくらいかしら」
「えええ……」
そんな価値のあるものを訳の分からない液体に迷うことなく溶かし込んだアリウスをタカトは怪訝な表情で見つめてしまう。
やがて準備が整ったらしく、宝石を投入した液体にアリウスは先ほどタカトの採血を行った注射器を挿して吸い取り液体と血液を混合させた。
血と混じり合った液体の入った注射器を手にして、アリウスは口元を歪めて三人にこれからすることを語った。
「全ての準備は終えた。これより諸君は歴史の目撃者になることになる。心の準備はできたかな?」
「お兄様、いい加減何をするのか教えて欲しいのですけれど」
「私が今からすること、それは神々の奇跡の再現――『新たな鎧機の創造』さ」
きっぱりと言い放ち、アリウスは大きなビンの蓋を開け、底で眠るザージエスサテラを優しく手に取った。
そして、その体に迷わず注射器を突き刺し、液体を体内に送り込んだ。
刹那、ザージエスサテラの体に変化が生じた。ザージエスサテラの体が青白い輝きを放ち始めたのだ。
その光景にタカトたちは既知感を覚えた。それはドルグオンが先ほどタカトの血を舐めたときに見せた反応に酷似していた。
光り輝くトンボを手の上から広い床の上へと置き、急いで離れてアリウスは嬉々として語り始めた。
「はははっ! やはり間違いはなかった! かつて神々が鎧機を創るために用いた素材、方法、その全てを再現しようと何度も試みた! しかしいつも最後の一つが埋まらず、何が足りないのかを探していた! その最後の一欠けら、それが『本物』の『神々の血脈』だ!」
「『本物』の『神々の血脈』?」
「我らのように薄まった『神々の血脈』では足りない、届かない! タカト君のようなかつての神々と同じ何一つ混じることのない『異界の血』こそが必要だったのだ! さあ、タカト君、シャリエ君、妹よ! その眼にしかと焼き付けてくれ! これが、歴史の扉を開く瞬間だ!」
アリウスの叫びと共に、室内に眩い光の奔流が溢れ返った。
あまりの眩しさに目を覆い隠すタカトたちだが、やがて光が収まり、目の前に現れた鎧機に驚愕した。
全身を緑に染めた、トンボ型によく似た虫鎧機がそこにあった。だが、全身の形状や武装が大きく異なっている。
トンボ型は下半身がサソリのようになっているが、この虫鎧機にはドルグオンと同じく力強い両足がある。
四枚の羽も細長いものではなく、クロスを描くような重厚な羽が四方へ広がり、その羽部には各三点ずつ有線型砲撃装置がセットされていた。
尾の先端は刺ではなく、長い筒のようになっており、そこから砲撃が行えるのだろうか。右手に大きなサーベル状の剣を持って接近戦も可能としている。
トンボ型と同じ昆虫を元にしながら、トンボ型とは大きく基礎構造の異なる新たな虫鎧機の誕生。驚き過ぎて声を失ったタカトたち。
アリウスは足元に落ちていた腕輪を拾い上げ、自身の右手首に装着しながら、笑みを浮かべてタカトに語るのだ。
「なぜ、神々がこの地より去ったことで鎧機が生み出せなくなったのか、ずっと疑問だった。だが、こうして鎧機の創造方法に辿り着いたことで成程と思い至った。技術が失われたことが理由なんじゃない、『真なる神々の血脈』を失ったこと、それこそが鎧機創造法が歴史に埋もれてしまった理由だよ」
「なるほど……そういうことだったのね。私たちのご先祖様が方法を残さなかったのは」
「意味がないからだ。神々がいなければ、このように生み出すことなどできはしないのだから。しかし、くはっ、くはははっ! はははは! やった、私はとうとうやり遂げてみせた! この虫鎧機は我が歴史的偉業の第一歩となるのだ!」
「それで、お兄様、そのトンボ型は……」
「トンボ型などと呼ぶんじゃない! この虫鎧機は私とタカト君の愛の結晶なのだぞ!」
「お兄様、本気で気持ち悪過ぎです。やめてください」
「名前、そうだな、我が子も同然のこいつに名前をつけてやらねばなるまい! そうだな……ザージエスジェイド! この虫鎧機は今日からザージエスジェイドと呼ぶことに決めた!」
「お兄様、人の話を聞いて下さい」
喜びと興奮のあまりフィルメリアの話を右から左に抜けてしまってるアリウスだった。
だが、彼が歴史に名を残すほどの偉業を達成してしまったのも事実だ。
喜びまわる兄をしばらくは放置する事に決めたフィルメリア。小躍りするアリウスに、ドルグオンを抱きしめたシャリエがふと思った疑問を訊ねかけた。
「あの、アリウス様。その虫鎧機って竜神様みたいに小さくすることって出来るんですか?」
「む……? 休眠化だね。虫鎧機は低位鎧機、本来ならばできないのだが……試してみようか。ザージエスジェイド、休眠化せよ!」
腕輪をかざしてザージエスジェイドに休眠化の指示を出した。
彼の声に応えるように、ザージエスジェイドはその身を光に包ませ、ゆっくりと小型化していく。
そして、大きさにして手のひらサイズのトンボが、アリウスの周囲を楽しげに旋回していた。今日何度目かも分からない驚きを示しながら、フィルメリアが言葉を紡いだ。
「上位鎧機しかできない休眠化をできるだなんて……お兄様は『神々の血脈』が薄れて、私やレミドナのように獣のような意思を持つ上位鎧機には乗れなかった。けれど、この鎧機は己の意思が薄い虫を元としている。つまり、そのザージエスジェイドは虫鎧機でありながら、『神々の血脈』を必要としない上位鎧機ということなのね……なんて出鱈目」
「はっはっは! そういうことだ! 私とタカト君のザージエスジェイドを甘く見てもらっては困るな! このくらい当然だろう」
「でも、アリウスさん、本当に凄いですよ! 鎧機の造り方が分かったってことは、敵がどうやって虫鎧機を量産しているか方法を突き止めたってことなんですから!」
「む……」
タカトの言葉に、アリウスはすぐに言葉を返せず押し黙ってしまう。
なぜそのような反応を示すのか、タカトにはすぐには分からなかった。形こそ異なるが、アリウスはザージエスサテラから虫鎧機を生みだせてみせた。
つまり、この方法こそがトンボ型やカブト虫型を生みだす方法ではないのか。そう考えていたタカトに、フィルメリアが小さく首を横に振ってそれを否定した。
「タカト、この方法では不可能なのよ」
「どうしてだ? この方法なら次々と鎧機を……」
「この方法はあまりにレドナ水晶を使い過ぎる。お兄様、先ほどの大きさのレドナ水晶を用いて、何体分の鎧機となると考えていますか」
「流石に我が妹は気付いたか。そうだな、よくて二機だ。レドナ水晶を溶かしこみ、生み出される液体を抽出するのだが、その表面部の液体はとれて二機分だ」
「例えば虫鎧機を三百機生み出すためのレドナ水晶を集めるとして、予算はどれほどかかりますか?」
「この国の年間予算を遥かに上回るだろうな。果たして何年国が運営出来ることやら」
アリウスの言葉に、タカトはようやく量産不可の言葉の意味を理解した。
それほどまでに稀少な宝石を何百個も用意する事、これはこのリメロア王国ですら容易なことではない。
王国領地内で、国に知られることなくレドナ水晶を集めることは現実的に不可能なのだ。
肩を落とすタカトを元気づけるように、フィルメリアは微笑んで明るく告げた。
「そう落ち込まないの。お兄様とタカトのおかげで、鎧機を造り出す手段があるということが分かっただけでも大きいわ。これでトンボ型の奥に潜むのが、何か目的のある人間だって確信できるもの」
「そうだな。しかし、口惜しいな。あまり認めたくないが……奴が導いていた基礎論理、その全てが当たっていたということか。私が辿り着いた場所、恐らく奴はとうに辿りついているはずだ。やはり、今回の虫鎧機を生みだしているのは……」
「お兄様?」
「いや、何でもない」
フィルメリアの問いかけに、アリウスはビン底眼鏡を直しながら笑って誤魔化した。
ただ、その見えない瞳に、タカトはなぜか悲しみを感じた気がした。嬉しさと悲しみが入り混じって、何かを受け入れるような、そんな風に。
夕方から行われた会議で、正式に明日、リャシャ山脈へ鎧機の大部隊を派遣することが決定された。
上位鎧機に加え、王国の所有するヴァリエラド三百機という、国の所有する戦力のほとんどを投入する、まさしく決戦と言ってもいいだろう。
それほどまでに王国は今回のトンボ型襲来事件を危険視しており、一刻も早く民の心から不安を取り除くため本気であるという証明だろう。
明日の朝に全機揃ってリャシャ山脈へ飛び立つことを告げられ、それまでゆっくり体を休めるようにタカトはフィルメリアから告げられた。
だが、彼女の言葉とは裏腹に、タカトの心はなかなか落ち着けずにいた。明日、全てが決まる。明日、想像もつかないほどの戦闘が繰り広げられる。その中に自分がいる、そう考えるだけで緊張してしまう。
ベッドの上に腰を下ろし、言葉数が少なくなるタカト。そんな彼の心はシャリエにも痛い程に伝わる。
心配そうに眺めるシャリエに、タカトは少しばかりわざとらしく無理矢理笑って言葉を紡いだ。
「明日、全てが決まるんだよな……トンボ型を全部叩いて、元凶をぶっ飛ばして、それで終わるはずなんだよな」
「タカト……」
「絶対に負けられないんだ。勝てば、トンボ型を殲滅すれば、もう二度とプフルの街みたいなことは起こらないんだ。俺が頑張れば、勝てば、勝たなきゃ、駄目なんだ」
決戦を前に、タカトは気負い過ぎていた。
負けられない戦い、国の人々の平和、未来を背負った戦い。負ければ全てが終わってしまう、その重圧が容赦なくタカトを締め付けていた。
だが、それも無理もないことだ。タカトはほんの一年前まで、日本で平穏な日々を享受しているただの男子学生だったのだ。
そして、つい数日前までは、シャリエと共に農業に勤しみ戦いなど微塵も知らなかった。その彼の日常が、ここ数日で急変してしまった。
『神々の血脈』を認められ、ドルグオンの契約者となり、鎧機の操縦技術に秀でている。それらの理由がタカトを戦場へと向かわせた。
彼の正義感、大切な人を守りたいという想いによって、これまでは何とか勢いで走り切れた。けれど、これほどまでの大きな戦いを前に、とうとう彼の心に限界が訪れ始めてしまった。
どれだけ鎧機に愛され、卓越した操縦技術を有していても、彼はまだ大人ではない、日本のどこにでもいる少年なのだから。
だが、それでもタカトは必死に自分を繕おうとする。シャリエに心配をかけたくない、その一心で強く振る舞おうとする。
そんな彼に、やがてシャリエは正直な想いを伝えるべく行動に出る。ベッドに腰掛けるタカトを正面から優しく抱きしめたのだ。
驚くタカトに、シャリエはゆっくりと言葉を紡いだ。それは彼女の偽ることのない本音。
「タカト、無理しないでよ……」
「シャリエ……」
「私、一年間ずっとタカトと一緒だったんだよ。毎日ずっとタカトの色んな顔を誰より傍で見てきたんだもん、タカトが凄く無理をしてるってことくらい、分かるよ……お願いタカト、私の前では偽らないで。格好悪くてもいいよ、みっともなくてもいいよ、私はどんなタカトでも大好きだから……だから、胸の中の本当の気持ちを吐きだして欲しい」
シャリエの言葉に、タカトはすぐに言葉を返せない。
彼女がタカトの心を完全に見透かしていたこと、それを踏まえたうえで受け入れると言ってくれたこと。それを受け入れてよいのか。
拳を強く握り締めるタカトをあやすように、シャリエはタカトをさらに抱きしめる。温もりを与えるように、優しく。
やがて、タカトはぽつぽつとその本音を零した。一度溢れた感情は止まることなく、どこまでも流れ出て。
「怖いんだ……もし、明日失敗したらって考えると、どうしようもなく不安なんだ。心がどうしようもなく重いんだ」
「うん……」
「守ろうって、決めたんだ。竜神様に認められ、こんな俺でも何かの力になれるならって。戦うって、決めたんだ。もう二度とアンベルさんやラミエラさんのような人を出さないためにも、俺がって。覚悟は決めたはずなのに、それなのに、それなのに! 情けないもう一人の俺が弱音ばかり吐いてくるんだ!」
「うん、うん……」
「逃げてもいいんじゃないかって! こんな怖い目に合う必要はないんじゃないかって! 自分で決めた道なのに、みんなを守るんだって決めたのに、戦うって決めたのは他の誰でもない自分なのに、何で今更そんなこと考えるんだよ! 情けなさ過ぎるだろ! みっともなさ過ぎるだろ! 怖いんだよ! 心がどうしようもなく苦しいんだ!」
溢れだしたタカトの心に秘めた負の想い。その言葉をいったい誰が責められるだろうか。
家族とも友とも別れさせられ、理不尽にこの世界に連れてこられてしまったタカト。彼がこんな弱音を吐くのは、最初に異世界に来て以来だった。
シャリエたちの支えもあり、なんとか立ち直ったタカトだが、この極限の状況がタカトの中のもう一人の弱い自分を大きくさせてしまった。
否、弱い自分などと言うのも酷な話だ。彼の言葉、想いは誰だろうと当然感じるであろう想いなのだから。
けれど、タカトはその気持ちを恥ずべきことだと考えていた。だからこそ、心の奥底に押し込めて一人積もらせてしまった。
彼の吐きだした真実の心を、シャリエは笑わない。馬鹿にもしない。ただ当然のように、優しく受け止める。彼を安心させるように抱きしめて、何度も肯定するように頷いて。
タカトが言葉を吐き出し終え、静寂が支配する室内。けれど、シャリエは何も言わない。責めることも窘めることもなく、ただありのままのタカトを受け入れるだけ。
それがいったいどれだけタカトの心を救っただろうか。弱音を曝け出し、シャリエがそれを受けとめてくれたことが、どんなにタカトの心を楽にしただろうか。
やがて、落ち着きを取り戻したタカトは、シャリエからそっと離れる。優しく微笑みながら、シャリエはタカトに訊ねかけた。
「少しは心、楽になった?」
「……悪い。また情けないところ見せた。シャリエにはこんな姿を見られてばかりだ」
「いいんだよ。それに私はタカトの今の姿、情けないなんて思わないもん。タカトは私たちを守るために戦ってくれてるんだよ。そんなタカトを格好悪いなんて言う人がいたら、私が全力で怒ってあげる。誰かを守るために頑張っている、こんな最高に格好良い人なんて、他にいないよ」
「シャリエ……」
「タカト、私は鎧機を動かせないから、フィルメリア様のように一緒に戦場で戦うことはできない。でも、それでも私はタカトと一緒に戦っていたいと思うよ。どんなタカトでもいい、私はタカトの全てを受け入れるから。タカトが元気になれるなら、タカトが笑顔になれるためならなんだってする……タカトの心を守ること、それが私にできる戦いなんだから」
「……ありがとう、シャリエ」
優しく告げてくれたシャリエに、タカトは心からの感謝を告げた。その心は先ほどまでの重さや苦しさから完全に解放されていた。
そんなタカトに、シャリエは柔らかく微笑むだけ。その笑顔はどこまでも太陽のように温かく、優しい笑顔だった。
室内の灯りが消えた時刻。タカトは一人城のテラスへと足を運んでいた。
眠れない訳ではない。シャリエのおかげで心に抱えていた重さは消えた。ただ、寝る前に風に当たりたかった、それだけだった。
テラスで風に当たりながら、タカトは空を見上げる。空には月が淡く輝いていて、その輝きに魅せられながらタカトは一人言葉を紡いだ。
「異世界にも太陽や月はあるんだなと昔驚いたことがあったな……今では当たり前に受け入れてしまってるけど」
一年前、この世界にきたことを思い出しながらタカトは過去を振り返る。
理由も分からず異世界に訪れ、そのことに嘆き悲しんだ。けれど、その度この世界で出会った少女に救ってもらった。
なぜ、この世界に自分が呼ばれたのかは今もなお分からない。それでも、タカトの胸にあるのは決意――戦うこと。
数奇な運命を経て、タカトはこの世界で多くの人に触れた。そして、彼の胸の中には失いたくないほどに大切な人々ができた。
だから今は、戦おう。大切な人たちの日常を守るために、ドルグオンと共に。それがきっと自分のやるべきこと、そして何よりも望むことだから。
改めて覚悟を決めたタカト、その表情にもう迷いはない。少年でいながら、その表情は戦う男の貌。
そんなタカトに、背後から透き通るような少女の声がかけられる。
「決戦を前に夜更かしするのは感心しないわよ、タカト」
「……フィルメリア様」
振り返るタカトに、フィルメリアは優しい笑みをみせる。それは見る人に安心を与えるような笑顔だ。
テラスに立つタカトに並ぶようにフィルメリアは佇み、やがてゆっくりと言葉を紡いだ。
「……どうやらもう心の方は大丈夫みたいね。立派に覚悟を決めた男の子の顔になってるわ。シャリエに感謝しないとね」
「え……も、もしかして見てたのか!?」
「こ、故意じゃないわよ? 二人とお話でもしようかと、部屋を訪れたら、その……うん、ごめんなさい」
瞳を逸らしながら結局謝罪するフィルメリア。どうやらシャリエとの一部始終を完全に見られていたらしい。
恥ずかしさのあまり顔を抑えてしまうタカト。そんな彼に、フィルメリアは楽しそうに微笑みながら口を開いた。
「シャリエ、本当に凄い女の子ね。あそこまで言える娘、なかなかいないわよ」
「ああ、本当に……シャリエにはどれだけ感謝してもしきれない」
「タカトの心を守るために戦う……か。同じ女として、尊敬すると同時に少しだけ嫉妬しちゃうわね」
「……フィルメリア様?」
何でもないと笑って首を振るフィルメリア。
そして、そっと閉じていた瞳を開きながら、タカトを真っ直ぐに見つめてフィルメリアは告げた。
「タカト――私が必ずあなたを守るわ。シャリエがあなたの心を守るなら、私はあなたの背中を守る。あなたは絶対に死なせない。何があろうと、決してこの戦いで失わせたりしない」
月明かりに照らされた少女は幻想世界の妖精のように。
魅入るタカトに、フィルメリアは優しげな微笑みを湛えたまま、そっと言葉を続けた。
「明日の戦いが終わった後は、あなたの話が聞きたいわ」
「俺のこと?」
「そう。あなたが元いた異世界のこと、あなた自身の好きなこと、好きな食べ物……なんでもいい。あなたと出会って、戦いばかりでゆっくり話したことなんてなかったから、そんな些細なお話がしてみたいの」
「……そう、だな。もし、無事で帰れたら、沢山の話をするよ。フィルメリア様がもういいって呆れ果てるくらい」
タカトの返答に、フィルメリアは満足そうに微笑み返した。
それから月に雲がかかるまで、二人は言葉を交わさず静かに月を見上げていた。明日の激しい戦いの前夜、嵐の前触れを予感させるような、この平穏を心から感じるように、静かに。
某お菓子の三角形の秘密はいつ教えてもらえるのでしょうか。
ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました。次も頑張ります。